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斉の国都「臨淄」を巡る 【青島たより 工藤和直】Vol.73 (読む時間:約6分)

  • 2017.06.21

    山東省淄博市「淄川神社」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.72 (読む時間:約2分半)

  • 2017.06.06

    済南日本領事館跡と済南神社跡を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.71 (読む時間:約6分半)

    • 済南は山東省都で膠済鉄道(青島⇔済南)と津浦鉄道(天津⇔上海)が交わる交通の要衝である。済南市の歴史は長く、黄河文明龍山文化の発祥の地と言われ、域内で多数の新石器時代の遺跡が発掘されている(城子崖遺跡など)。舜王の治世時代(紀元前22世紀ごろ)から既に豊かな土地柄であった。こうした古代の記憶は、舜王にちなんだ地名にしっかりと刻み込まれている(舜井、舜耕路、舜華路、舜耕山など)。商(殷)王朝の時代、現在の済南市章丘市平陵城を本拠地として、譚国が建国された。ちょうど、現在の龍山街道事務局が設置されている場所がその王都跡(城子崖龍山文化遺跡)である。


      西周が建国されると、各地へ国王が封じられ、分封制による間接統治体制が採用された。済南市エリアは斉国の版図下に組み込まれるも、東夷部族の一派であった譚国は、その半属国として引き続き存続した。春秋戦国時代を通じて、封建社会へと大規模な社会構造の変革が進められる。済南市一帯は引き続き、斉国の領土下にあって、濼邑(今の済南市中心部)と呼ばれ、その後に濼邑城は歴下邑城と改称される。


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      春秋戦国時代に幾度も繰り広げられた斉国と晋国との戦争は、主に現在の済南市の南部にある馬鞍山の一帯で行われた。以後、斉国は国防を重視し、 斉の長城を築城することとなる。秦の始皇帝により中原が統一されると、全国に郡県制が導入された。前漢代の初期から歴下邑の一帯は済南と通称されるようになる。かつての古代四大河川(長江、黄河、淮水、済水)の一つである済水(その河川は現存せず、今の黄河の湖底に眠る)の南側に位置したことから、済南と命名された。黄河は東周の都「洛邑」から大梁(開封)を過ぎた辺りより南から済水、漯水、河水の3本に分かれ東北方向の渤海に流れ込む。前漢の時代の大洪水によって済水は現在の黄河の流れになってしまった。細かく言うと、済南市から天津市の間には9本の河があるが、黄河は常に氾濫し、その川筋はその度に変わったというのが正しい表現となろう。春秋時代、黄河は一番北西寄りの天津辺りを河口とし、かつての済水は河南省済源市西北2kmを源流とした。前漢時代、済南郡が新設され済南郡の郡役所は東平陵県城(今の済南市章丘市平陵城)となった。東平陵県城は、古代商王朝の時代に端を発する譚国の王都から続く都市で、すでに一帯の中心拠点として確固たる地域を築いていた。


      清朝も末期に至ると、帝国列強による植民地化が進み、ついに1904年、済南府も開港させられ、 済南は急速に経済発展が進んだ。1911年末には津浦鉄道の黄河大橋が完成し、済南府は南北交通ルートの重要拠点となる。翌1912年に中華民国が成立し、全国的に府制から道制へ改編が進むと、済南府は当初、岱北道に帰属されるも、1914年には済南道と改称された。1928年5月3日、日本軍と国民党軍との間で済南事件が勃発する。日本軍は、蒋介石率いる国民革命軍が張作霖への北伐再開を牽制する為、居留民保護を名目にして出兵(第二次山東出兵)した。1928年(昭和3年)5月3日に済南で市街戦が起こり、8日には日中全面衝突へと発展した。日本軍は多数の中国人を殺傷し、中国国民の対日感情を極度に悪化させることとなった(済南事件)。更にこれに乗じて増派した兵力を山東省から華北全域に展開(第三次山東出兵)させたが、内外の批判を受け翌年には撤兵することとなった。攻城戦の際、日本軍は南門城壁に向けて激しい砲撃を加えた(下写真)。今日でも、この日を記念して、市内では空襲警報のサイレンが鳴らされている。


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      済南市槐蔭区経三路238号に日本領事館跡がある。済南事件を目の当たりに見た歴史の証人である。済南駅前の経一路を西方向に行き、緯六路から南方向に行き、経三路で右折したすぐ左である。第一次世界大戦終了後に青島の租借権をそのまま引継いた直後の1918年に建設された(左写真)。その後1928年5月の済南事件で焼かれ、1939年に再建された(右写真)。経三路から入った正面には、事務棟として使われた2号楼や山東鉄路の建屋がある。入って左にある二階建ての建屋が領事館の建屋である。正面は大きなプラタナスで覆われている。南面に庭がある。その向こうはタイル張りの噴水があった。領事館時代はここでガーデンパーティーが開かれたかもしれない。更に南方向へ行くと現在は営業をしていない済南飯店がある。解放後、毛沢東をはじめ、劉少奇、宋慶齢など多くの共産党幹部がここに泊まったという。 


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      またこの付近は済南駅前に広がった旧市街地に辺り、古い建物がいくつも見える。教会や郵便局、日本軍駐在司令部(経二路162号)などもあった。経二路276号は緯五路と交差する東南角で現在公安局交通警察支隊となっているが、ここは日本の高島屋百貨店(済南出張店)の跡である。高島屋の海外進出は、1899年(明治32年)フランスリヨンに始まり、中国では1905年(明治38年)に天津事務所、1938年の南京出張店に次いで1941年に済南出張店が開業した。高島屋のHPなど見ると、現在上海地下鉄10号線伊梨路にある店舗を中国一号店と宣伝しているが、戦前中国に進出したことは書かれていない。確かに官需受注による軍の命令下であったかも知れないが、この建物の写真「高島屋」は消せない歴史である。


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      済南神社は市の郊外にある梁家庄(現・英雄山)に創建された。詳細な資料写真は発見できていないが、英雄山路18号済南戦役記念館西門が当時の参道入口で、ここから東にやや登りかけた所にある記念館が本殿跡地になる。1939年(昭和14年)に建設開始され、残された石灯寵等に刻まれた年号から1942年 (昭和17年)7月頃にはかなり完成したが、一時建設が中断され1944年(昭和19年)に再開したが、翌昭和20年終戦で未完のままに終わった。境内地は済南革命烈士陵園となっている。神社の本殿があったと思われる場所には、国共内戦における共産党の勝利を記念した済南戦役記念館が建っている。神社の鳥居、灯龍、石碑などに使用された石材が公園のー画にまとめて置かれていた。鳥居の石柱と思われる二本が無造作に置かれ、その大きさ(約9m)からそれ相等に大きな鳥居であったと予想がつく。石灯籠の残骸から寄贈した人物の氏名が確認できる(残念ながら一部消されかけているが)。一つは、茨城県筑波町「廣瀬森次」であり、もう一つは岡山県「安原順吾」・長野県「山崎武源太」と読めそうである。いずれも昭和17年(1942年)の刻印があった。まるで「兵どもの夢の跡」の墓標である。


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      済南東駅の前に広がる大明湖は、済南城内北半分を占める。現在堀に囲まれた跡に内城があった。済南城城壁は北宋徽宗年間(西暦1101年~1125年)にかけて土城として築城され、明代初期1391年に土城からレンガ積みの周囲12里48丈(約6.1km)、高さ3丈2尺(9.6m)、幅5丈(15m)のほぼ四角状の城壁がある。南門(舜田門もしくは歴山門)は中央にあるが、西門(濼源門)は南寄り、北門(会波門)は東寄り、東門(斉川門)は北寄りとちょっとおかしな位置で、東北と南西に偏った城門構えであった。北門は大明湖の水を排出するために水門(水陸門)になっている。この門だけでは非常に不便でもあったのか、それぞれの門の右手に、便利門があった。四方八卦の思想から、南には巽利門、西には坤順門、北には乾健門、東には艮吉門である。清代中期になると、防御の意味で内城を取巻く外城が作られた。南は経十路、西は緯十二路、北は膠済鉄道、東は歴山路に囲まれた約16km2にわたる地域である。その外城には7つの城門が作られた。東に永靖門、東南に永固門、南に岱安門(圩子門)、東南に永綏門、西北に済安門、東北に海宴門である。その後民国時代に門が4つ増設され、最終的には19の城門があったという。しかし、中華人民共和国成立の翌年1950年に他の都市と同じく城門城壁は切除された。


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      参考文献:中国・華北の神社跡地(稲宮康人)


    2017.05.29

    接続性 【上海の街角で 井上邦久】vol31 (読む時間:約5分)

    • 3月下旬、第115回の華人経済・文化研究会で、今年も「中国。この一年」と題する報告をしました。2013年から毎年3月に同じタイトルで定点観測を意識したお話をさせてもらっています。今年は、次の三項目を柱にしました。


        (1) 北京の掏摸(スリ、小盗)が減った
        (2) 「海」への進出が目立った
        (3) 華南の産業構造改革が注目されている


      (1)人民日報以外の多くのメディアに寄稿や出演をしている、著名なジャーナリストの陳言さんから教わった話です。最近の北京では人が外出しなくなった。外出しても現金は少ししか持っていない。だから掏摸の採算性が悪くなり、掏摸の数が減少した、ということです。もちろん陳言さんがデータを公安警察で調べたわけではなく、彼独特の表現方法で、大気汚染・宅配サービスの急成長・モバイル決済の急拡大などを分かりやすく指摘したわけです。
      自動販売機が急拡大していること、自動販売機の盗難が激減していること(モバイル決済のため、販売機の中には現金がない)と同じ理屈です。


      (2)大陸国家であった中国が海洋国家に急激に変貌しています。沿岸警備船舶の増強と人民解放軍における海軍の地位向上(それも従来の北洋艦隊優先から南洋艦隊の重視へ)世界の海運物流市場で圧倒的なシェアを確立し、ギリシャ、パキスタン、スリランカ、ジブチなど世界各地で港湾拠点の確保を推進中。旺盛な魚需要を満たすための遠洋漁業船団の急膨張(魚の消費量も、漁船20万艘も断トツの世界一)。海軍・海運・海外拠点・漁業すべての面での「海」への進出が顕著となった一年でした。


      (3)歴史的にも開明的であり、東南アジアなど海外に開かれた土地柄である華南。海外進出の伝統の担い手である華僑の故郷としての華南。従来から国有企業比率が東北や華北に比べてとても小さい華南。その華南では1992年以降、深圳を中核とする「特区」としての成長と巨大なサプライチェーンの構築が継続されてきたのは周知の通りです。この基盤の上に、活発なR&D投資による新産業の創生気運が党・政府の政策と相まって醸成されてきました。そこへ米国発祥のメイカー・ムーブメントの聖地としての深圳への投資人気が集中し、過剰なまでの期待が寄せられています。


      以上のような切り口で、それぞれの具体的な事例を挙げて、中国各地からの湧水が集まって川になり、その水がナイヤガラのような瀑布ではなく、赤目四十八滝のようなカスケードを形成していることを私見も交えて報告しました。
      恣意的な情報処理や世界的な視野から中国を捉えていない反省が残りました。
      五月になって読んだ新刊に『「接続性」の地政学』パラダ・カンナ(原書房)があります。副題として「グローバリズムの先にある世界」とあります。
      1977年インド生まれで、現在シンガポール国立大学上級研究員の著者は、従来から世界経済フォーラムにおける次世代リーダーの一人と見做されていましたが、CONENECTOGRAPHY Mapping the Future of Global Civilizationと題する原著により、更にその評価を高めているようです。
      日本では、尼丁千鶴子・木村高子両氏の滑らかな翻訳で出版されるや否や、多くの書評に取り上げられ書店に平積みされています。多くの方が既に手に取られていることと思いますが、屋上にミニ鳥居を重ねるような私見と印象を以下にメモします。


      (1)サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』で冷戦後の世界を捉えなおし、長く一つの標準として語られてきた。しかし、その標準だけでは冷戦終結から四半世紀が過ぎた現在の大きな政治的変容や技術的変革を説明できなくなった。パラタ・カンナは「文明」に代わって「接続性」を強調。


      (2)新たな標準はサプライチェーンであり、グローバリゼーションの未来を語るのは「接続性」の度合いである、としている。


      (3)経済が深く相互依存している世界のシステムの内実を解明して、表面的には政治的、軍事的に対峙しているように見える国家間の緊張した外貌とは異なる経済と技術の連携を説明。この点でかなり楽観的な印象が残る。


      (4)この新しい世界を組み立てているのは中国であり、中国は新植民地主義者でなく新たな重商主義者である。経済合理性に合わない「領土」や「扶養家族」を増やす気がないとする。孫文が『三民主義』の中で「中国は列強の植民地ではない。(インドのような)植民地にもしてもらえない半植民地である」と喝破したことを想起し、孫文の曾孫たちがアフリカや南米を植民地にする気がないことに気付く。


      (5)中国の華南地区の「特区」に着目し、華僑の存在に過剰なまでの可能性を期待している。・・・中国が4000万人の華僑の一部に二重国籍を認めれば、それは国内に新たな優秀な人材を呼び込み、高齢化する人口に活気をもたらすきっかけになるだろう・・・(上巻97頁)


      (6)インフラとサプライチェーンについての記述が繰り返してなされている。通関手続きを半減すれば、貿易量は15%、GDPは5%上昇するが、輸入関税撤廃はGDPを1%上昇させるだけとか、中国の可動式の深海用掘削プラットフォームであるHYSY-981は、今日の地政学においては移動可能なサプライチェーンの島であるといった具合。


      (7)「マラッカの罠」回避の為、中国はタイのクラ地峡運河構想、ミャンマーやバングラディッシュの港からの陸路建設、北極海航路開発に熱心。


      グローバルという言葉が日本にもたらされて半世紀以上が過ぎていますが、未だにカタカナ表記のみで、中国語の「全球」のようには、日本語の適訳がありません。それでいながらグローバルという単語が独り歩きして、頻繁に使われています。しかし、グローバルとは何ですか?という質問をすると返答は色々です。その解を探す意味でも、この本はグローバルというものを逆照射しているので、国際化や跨境化(ボーダーレス)とは異なる視点が参考になりました。
      「真水もて熱帯魚飼うセオリスト 己の次に中国を愛して」という岡井隆の有名な短歌にもある通り、中国に対しては好悪両極の評価をしがちな日本人と比べて、インド人は「中国とは文化も価値観も違うけれど、しっかり中国のことを把握する価値はある」という覚めた(醒めた、冷めた)見方ができるようです。世界を実地に歩く著者のカンナ氏もその一人であり、実に多様な中国を歩いて、知って、考えているようです。


      カスケードを発見するだけでなく、全地球的な見地から源流と下流域を分析することが大切であることを学びました。来年3月の定点観測は少しだけ深みのある報告ができるかも知れません。


      (了)


    2017.05.21

    鄭州「商(殷)代遺跡」と「日本領事館跡」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.70 (読む時間:約3分)

  • 2017.04.26

    清明穀雨 【上海の街角で 井上邦久】vol30 (読む時間:約3分半)

    • 国家統計局都市司の縄国慶高級統計師は、2月の消費者物価が前期比で0.2%下落した特徴として、1)2月の全国平均気温が例年に比べて明らかに高く、生鮮野菜の生長に有利となり、市場供給が充足した、2)春節後の需要が弱まり、卵・豚肉・鶏肉価格が下落した、3)春節後の外出・観光人数が減少し、航空券代・旅行社手数料・旅館宿泊代が下落した、点を挙げている。


      日中産学官交流機構第19回中国塾での田中修塾頭による定例経済報告からの抜粋です。暖かい2月、その後の寒い3月を経て清明節の頃からは徐々に天候も安定してきました。二十四節季の清明から穀雨(太陽が黄経30°に達した時とされ、日本中国とも今年は4月20日。昨年の中国では4月19日23時29分だった由)の間は仲春から晩春の季節で、農耕作業が繁忙化するころであります。日本の中国地方の山間に住む母親からも苗代作りのたよりが届きました。気が付けば、一年のほぼ三分の一が経過し、日本では新年度が始まり桜の開花とも相まって、新規の気分が満ちて来ます。


      端午節、七夕節が日本に伝来して色々な変容をしながらも定着していることに比べ、清明節に必須の墓参りの習慣は日本には縁が薄く、沖縄や中華街以外では寡聞にして知りません。


       清明時節雨紛紛
       路上行人欲断魂
       借問酒家何処有
       牧童遥指杏花村    杜 牧『清明』


      上海では、清明節に墓参りとともに草餅を食べる習慣も盛んで、福州路などの老舗の「青団」はこの時期の売れ筋です。花より団子、団子より杏花村でお酒をもとめたい向きの言い訳には、杜牧の詩が便利で、『清明』はこの時期に、人口に膾炙されます。
      清明節前後には、上海のスタッフ達に「掃墓(sao 3mu4、墓参り)は何処へ?」と訊ねました。上海旧市内と応える人はほとんど居らず、昆山です、とか黄山ですとかの返事が多かったです。シティボーイやガール達も、多くは何代前かに上海へ移住してきた人たちの子孫であり、先祖の墓は上海以外の各地に所在しています。そしてスタッフ達もこの時期だけは先祖を敬い、自らのルーツを意識するようでした。
      いささか自己満足のきらいはありますが、各地のスタッフ達との交わりのなかで、「你好+1」を心がけていました。「こんにちは」の挨拶だけで終わらせず「+1」の個別の話題を作るようにしていました。色んな話題の中で、快く反応があり印象に残ったのは「子供」と「先祖の出身地」についてでした。


      清明節に里帰りした畏友のC弁護士からお土産に二枚の写真を頂きました。壁に墨書された族規(一族の規則)十項目と家訓十項目の写真には、目指すべき姿勢と避けるべき戒めが並んでいました。一見すると「言うは易く」、実際は「行うは難い」この教えを墨守しているであろうC家一族からは、虎も蠅も出ていないと想像しています。Cさんは久しぶりの故郷で、祖先と「会話」し、一族の規則や家訓をあらためて「勉強」してきたとのことです。
      宮本常一の名著『家郷の訓』を持ち出すまでもなく、日本にも家訓やそれに類するものがありましたし、今でも残っているでしょう。二昔前までの日本のオフィスには、しばしば金融関連商品のセールスの電話が掛かってきました。丁重にお断りする時に「我が家には家訓があって、株も不動産投資もできません」と云うと、若い声で「カクン?」という反応があり、自らの言葉が時代錯誤的な印象を与えていることを感じた記憶があります。そんな時代を経て、今の我々に大切なことは家訓の有無ではなく、Cさんのように祖先と「会話」し、一族の訓えを「勉強」して自らを省みる姿勢なのでしょう。


      清明(きよあき)という名前の伯父(母の兄)は昭和4年生まれ。従弟に電話で4月14日が誕生日であることを再確認して、名前の由来を得心しました。大正モダンボーイ、慶応ボーイの祖父稲次郎が、節季に因んでオーソドックスに命名したことを微笑ましく感じます。そして杜牧の詩を知っていたかどうかは別にして、祖父も伯父も酒が好きであり、強かったことを思い出しました。


      (了)


    2017.04.18

    江沢民も訪れた濮陽市「戚城遺跡」 【青島たより 工藤和直】Vol.69 (読む時間:約3分半)

  • 2017.04.03

    周恩来首相 【上海の街角で 井上邦久】vol29 (読む時間:約4分半)


    •  雪残る湖西湖東の分かれ道(拙)


      雛祭り、中国では第12期全国人民代表大会が開幕しようとするころ、湖西線回りの新快速で敦賀へ。今回は気比神社にも、人道の港ムゼウムにも寄り道せず、福井行きの普通電車に乗り換えました。長年の朋友であるSさんは、一昨年来現場に復帰して企業再建に尽力されています。そのSさんから昨年末に電話を貰いました。支援元から派遣された総責任者のT社長は学生時代に中国に行ったことがあるようだ、もしかして二人は仲間同士ではないかい?といわれるSさんの推測は的中しており、今回の訪問に繋がりました。
      大きな窓越しに雪に覆われた白山山系を目の当たりにできる、地元老舗企業の応接室に封筒を持参しながら現れたのは、40年以上会うことの無かったものの、一目でその人と分かる紛れもないTさんでした。Tさんは封筒から二枚のコピーを取り出し話し始めました。一枚は1971年3月13日に撮影された集合写真のコピー、もう一枚は集合写真と参加者を報道する3月14日付けの「人民日報」一面記事のコピーでした。この二枚のコピーを目にしただけで、ちょうど46年前の3月、残雪が凍っていた北京の人民大会堂に一気にカットバックすることになりました。


      学生が国交回復前の中国に行くには個人旅行は難しく、日中友好協会の推薦支持のある団体に参加する形が多かったと思います。当然ながら公安警察からの圧力や恫喝(ブラックリストに載せるから、まともな就職などは考えないことだ、という担当官の捨て台詞もありました)などの通過儀礼を経たのちに、大阪からわざわざ外務省本省で特別なパスポートを入手して、ようやく香港に飛ぶことができました。香港市街から国境の町の羅湖で出国手続きをして英国軍と中国人民解放軍の厳重な警備のなか、一人一人徒歩で橋を渡って深圳へ。その頃の深圳は、駅前から水田が広がり水牛が働くのどかな農村でした。
      広州、長沙、韶山(毛沢東生家見学)、南昌、上海(馬陸人民公社、工業展覧館など)、南京、天津と汽車移動をしました。上海では、和平賓館の窓から眺める街角に車も人も少なく、時々紅衛兵たちの「游行」(隊列示威行進)が通過する際に賑やかになり、やがて静寂が街をつつんでいました。和平賓館ロビーの本棚には「人民画報」「北京週報」と毛沢東選集(当時は4冊本)だけが無造作に置かれていたと記憶します。
      入境して三週間が過ぎ、北京に入ってからの大学などの見学や現代革命京劇(『紅灯記』『沙家濱』)の観劇にも些か退屈してきた3月13日。中国旅行社の人たちから「今日は一番いい服を着てください」との要請指示がありました。連れて行かれたのが天安門広場の西側の人民大会堂でした。そこで周恩来首相が出迎えてくれるとは30名の団員の誰も予想しておらず、さらに記念の集合写真を撮ってから面談と会食になりました。一国の宰相が異国の学生相手に8時間もの時間を割いてくれたことにも驚きました・・・ここまでのオサライについては、Tさんの記憶や印象もほぼ同じでした。しかし、周恩来首相や陪席した郭沫若氏(人民大会常務委員会副委員長・中日友好協会名誉会長)と会えたことだけで舞い上がることなく、Tさんはとても冷静に面談に参加されていたことが今回の再会で良く分かりました。翌日付けの「人民日報」をしっかり入手して保管されていたことにも敬服しました。
      後からの知識として、1971年3月の周首相は文化大革命の渦中にあり、毛沢東主席と№2の林彪副主席の間で軋轢が増していた時期に当たります(林彪の国外脱出、墜落死事件は同年9月13日とされています)。他方ではソ連の軍事的圧迫への対応策として、米国そして日本との関係改善を水面下で行っていた頃とも考えられます(ニクソン大統領、キッシンジャー長官の訪中は、1972年2月。田中角栄首相、大平外相、二階堂官房長官の訪中は1972年9月)。
      ウィキペディアで「周恩来」の項を引くと、「逸話」の一例として以下の書き込みがあります。
      ・・・1971年関西学生友好訪中団との会見において、こう語っている。
      「日本民族は偉大な民族です。元はインドシナからモスクワ、朝鮮まで
      侵略しましたが、日本は2度、この侵略を撃退しました。(後略)」・・・
      このような周首相の発言も聴いたはずですが、今では忘却のかなたであります。
      周恩来首相の死後、何人かの首相がそれなりの努力を続けてきましたが、その誰もが周首相の影を意識してきた印象があります。昨年来、皇帝と宰相のような力関係が濃厚になってきた当今の首相は、折からの人民大会堂での報告に当たって、周恩来首相が味わった苦汁の再来を、どのように受けとめ呑み込んだことでしょうか。


      30名の団員の内、宝石商から帰農したNさんと日中共同トキ保護活動のため西安に駐在していたMさんに続いて、今回Tさんと連絡がつきました。まずは名刺交換からというサラリーマンの所作も忘れて、二枚のコピーから始まったTさんとの会話は、中国団体旅行については事実確認が大半で、懐古談がほとんどなかったことを心地よく感じました。中国の流れはじっくり眺めて対応することも大切だ、しかし「不易と流行」は峻別して、決して流されてはならない、そして如何に後世にバトンタッチしていくかを考えることが大切だと異口同音に語り続けました。熱冷ましに、かまやつひろし『我が良き友よ』なども唄いました。


      (了)


    2017.03.19

    時間が止まった「濰坊市坊子」日本人居留地 【青島たより 工藤和直】Vol.68 (読む時間:約3分半)

  • 2017.03.16

    青島にあった「ヤマトホテル」 【青島たより 工藤和直】Vol.67 (読む時間:約5分)

  • 2017.03.01
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