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孔子の故郷「曲阜魯国故城」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.75 (読む時間:約3分)

  • 2017.08.08

    優しさ 【上海の街角で 井上邦久】vol33 (読む時間:約3分)

    • 「一つとして同じ場所のない地形に人は住み、独自の文明文化をつくり出す。多くの国がほこりうる『歴史』は、そんな人々の蓄積と時間の成層の賜物であるが、〇〇には歴史を誇れる基礎もなければ、文化を形成する人間の集団もなかった。しかし突然『開国』という変革がもたらされる。時間と文明が〇〇という土地に触れあった瞬間、火花を散らしたのだ。歴史ももたず、誰もがスタート地点にたてる『〇〇』という時空間に住まう人は優しい。強引な手段によって塗り替えられた歴史の記憶がないからだ。」


      冒頭から他著の引用で恐縮ながら、酷暑を言い訳に手抜きをしたと叱責されても、甘んじて受けさせていただきます。さて引用文では「〇〇」と伏字にしましたが、原文には何と書かれているのでしょうと、国語か歴史の試験のように問えば、上海在住の各位は「〇〇は、たぶん上海か横浜だろう」と即答されるでしょう。


      ただ上海には県城もあり歴史が皆無とはいえません。また住まう人が優しいか?については個々の体験や感受性で異なってきます。そして「強引な手段によって塗り替えられた歴史の記憶が無いか?」についても大いに疑問があるので、〇〇は上海ではなく、横浜が正解であろう」と回答される諸賢が多いことでしょう。


      『横浜大桟橋物語』(客船とみなと遺産の会 編:2014年)という本があります。広角度に視点と事例選択を拡げ、バランスの良い丁寧な編集で作りあげた書籍の横浜についての冒頭文からの引用でした。


      横浜の優しさ、ということでは次のコメントも印象的です。
      「基本的に(横浜)ベイスターズファンは優しい、本当に優しいですよ。(中略)あんなひどい状態でも応援し続けてくれるんですから。
      辛抱強いというか、本当に不思議というか・・・好きなんですよね。」
      という月刊ベイスターズファン元編集長の岸野啓行氏の発言を好著『4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ 涙の球団史』(村瀬秀信 双葉社)に見つけたものです。


      実際に美しく便利に整備された横浜の街で接する人たちは、大声で自己主張することも少なく、さりげなく機能やサービスを提供しながら、各自の好みの生活を維持しているように見受けられます。


      ただ、優しいという理由に「強引な手段によって塗り替えられた歴史の記憶がないからだ」と断定されると、そうとばかりは言えないのではないか、と疑義が生まれてきます。先の大戦末期に、強引な手段で(神奈川県警、笹下拘置所などで)個人や中央公論・改造社を抹殺した「横浜事件」を今こそ思い起こすべきではないか、と思うのです。治安維持法の運用強化、言論統制による異議申し立てへの封じ込めが行われ、予見逮捕と拷問による自白強要が続き、体力の限界に至ってから保釈され直後に死亡した人もいます。「横浜事件」のきっかけの一つは、細川嘉六氏の論文完成慰労会が富山県泊温泉で行われ、浴衣姿の編集者らを撮った旅の思い出写真を「党再建の共同謀議」の動かぬ証拠として、神奈川県警が中心となって捜査した事にあります。


      戦後、一部のグループが無罪認定と補償を求めて起こした訴訟も「証拠消滅」を理由に門前払いが続きました。遺族ら支援の会による粘り強い行動により、2009年3月30日になりようやく横浜地裁で「免訴」「実質無罪」の判決が出て、一矢を報いることができました。


      春からの国会で、強引な形で「共謀罪」の法制化が進められた頃、古くから横浜の文化を担う有隣堂や高橋書店を巡り、「横浜事件」に関する本の売れ行きを確認したところ、一冊も置いていないことに愕然としました。書店の人も此方の意図を理解しつつ、版元での絶版が多いことと購入の動きが乏しいことを口にしていました。国会への不満と「横浜事件」が地元でも結びつかないのは、「優しさ」ではなく、「歴史の記憶」がなくなっているということでしょうか?


      (了)


    2017.07.30

    日中の交流 【上海の街角で 井上邦久】vol32 (読む時間:約5分半)

    • 神奈川大学での学会出席のため、上海から横浜に来られた珈琲好きの先生と休日の午前をご一緒しました。ホテルからほど近い陋居にお越しいただき、濃い目の珈琲を淹れてから、忌憚なく色々な話の花を咲かせました。


      まず、前回3月末の来日土産に頂いた『顔梅華 口述歴史』(上海書店出版社)の御礼と読後感から今回の交流が始まりました。上海市文史研究館口述歴史叢書のシリーズで、著名な国画家というよりも、戦前の「連環画」の売れっ子といった方が通りの良い顔梅華さんが語る自分史を、先生が聴き取り原稿に仕上げた一冊です。顔氏に限らず、口述歴史の難しさは、どうしても主観的な側面が滲み出てくる点ではないか?という点を指摘しました。功成り名を遂げた大家の隠された部分の扱い、有体に言えば、現状に満足されている高名な老人たちにとって、触れて欲しくない側面裏面があっても、それを抉る事を期待するのは難しいでしょうね、という率直な感想を伝えました。ご本人の口述でなければ知りえない事例や人物評などはとても貴重であり、それを丁寧に聞き書きされた労作であることを十二分に理解した上で、書生論を口にさせてもらいました。「ただ、それだけではない」という点を意識しながら口述歴史を読みつつ、第三者が書いた別角度からの評伝等にも触れる姿勢が大切であろうと理解しました。蒋介石の何番目かの夫人、蒋介石が宋美齢と結婚するために正妻の座を失い米国留学に追いやられた陳潔如女史が口述したと言われる記録があります。様々な事情で長く公刊されなかった時期を経て,1992年にようやく台湾で出版された『陳潔如回想録』の例を挙げるまでもなく自叙伝の読み方は難しいものです。


      次に今年2月に勉誠出版から出された『戦時上海のグレーゾーン 溶融する「抵抗」と「協力」』堀井弘一郎・木田隆文(編)が話題になりました。21名の研究者が夫々の専門分野における上海のグレーゾーンについて健筆を振っています。序言で堀井氏は、1937年から1945年の戦時下の上海に於いて、日本軍側の「支配」と中国側の「被支配」があり、被支配側の内部にも「協力」と「抵抗」の異なる立ち位置があり、それもまた一枚岩ではなかったという「グレーゾーン」の定義をしています。関智英氏による「汪兆銘政権の人々」の複雑に絡んだ各グループへの精緻な分析、上井真氏の「劉鴻生の戦時事業展開」では、民族資本家が如何にして人と財の継承に腐心したかの考察、武田泰淳「上海の蛍」を手掛かりにして「中日文化協会上海分会と戦時上海の翻訳事業」について丹念に再確認された木田隆文氏の文章など、それぞれが一冊の本になりうるようなテーマがダイジェストされていました。長い間、赤か白か、紅か青かと二極分化して捉えてきた古い認識の蒙を啓いて貰えました。「政治・経済」、「社会・文化」。「言論・メディア」の三章に仕分けされていますが、239頁という限られた紙幅のなかに、広範なテーマを盛り込むにはかなりの力技が必要だったことでしょう。下世話な表現で恐縮ながら、大阪でのたとえ方で言えば、「てんこ盛りのかやくご飯」をオニギリにしたような印象が少し残りました、と先生に伝えた時、その温顔はそのままに、眼光が鋭くなった気がしました。そして交流とは、同じ平面で対等の立場で行われるのが本来の望ましい形でありながら、この書籍の各文章が研究対象とした時代は一方からの「直流」が大きな電位差で迸る中での「協力」であり「抵抗」であったという域まで想像力を逞しくすべきだと思い至りました。


      先生が上海に戻られた後に、2017年6月25日初版発行と奥付にある『上海の日本人街・虹口 もう一つの長崎』という賑やかな表装の本を偶然見つけました。著者は長崎県立シーボルト大学で教鞭を執り、「新長崎市史」の編纂に参画された横山宏章北九州大学名誉教授でした。長崎と上海を結びつける事例は多くありますが、この本は虹口をもう一つの長崎に位置付けることが主題の様でした。非常に多くの文献や資料を渉猟され、それを丹念に整理されていると感じました。巻末注の項には、珈琲好きの先生による日中交流史の著作からの引用が何回も出てきました。この本文中に、二人の中国人研究者の名前が記されています。一人は「劉建輝は、日本における【魔都】という言葉の使われ方に批判的である」(25頁)、もう一人は「上海における日本人街研究の第一人者である陳祖恩は、長崎人の活躍を次のように結論付けている」(55頁)という紹介に留めています。


      京都の国際日本文化研究センター(日文研)は今年創設30周年を迎え、磯田道史、呉座勇一ら気鋭の研究者の参画もあって活性化しているとの話を聴きます。6月13日に開催された第311回日文研フォーラム「筆談で見る明治前期の中日文化交流」(発表者:劉雨珍南開大学教授。日文研研究員)のコメンテーターとして登場した、日文研副所長の劉建輝氏はペリー来航時に翻訳官として随行した羅森から始まる日中交流について卓見を淡々と述べながら、一筋縄ではない各時代の日中間の交流の裏面や弱点を抉られていました。


      劉建輝『増補 魔都上海 日本知識人の「近代」体験』(ちくま学芸文庫)は、2000年にこの本が出された時、上海研究に一つの新しい風が吹いてきたと感じた(海野弘)と評された著作です。


      …上海は一九二〇年代にある日本人の「不良」作家によって「魔都」という異名を得た。以後この名は上海というさまざまな「顔」が錯綜する空間をよく表す言葉として、ほとんど陳腐になるまでさまざまな人に引用されてきた。そしてその喚起されたイメージはしばしば上海と関係した人びと、とりわけ日本人の心象風景の一つにさえなったといえる。…上海がはじめてその「魔性」を現出したのは、けっして二十世紀に入ってからではなく、その起源はむしろ遠く十九世紀の七〇年代にまでさかのぼる。…(劉建輝 前掲書165頁)


      上記の横山氏も一部を引用している「魔都」の曖昧なイメージを鋭く劉氏が抉った文章です。


      此処では「魔都」よりも印象に残った、未来に向けての劉氏のメッセージを引用します。…上海、また上海人自身も「過去」と「未来」の間を揺れ続けているが、すでに五万人を超える長期滞在者を擁する日本、また日本人が、「過去」を背負いながらも「未来」へ向けて、いよいよ新たな「伝説」を作り出さなければならない時期に差し掛かっていると言えよう。その作業こそが、いま一度有意義な「他者」として上海と相対するきっかけとなっていくに違いない。…(前掲書292頁)


      珈琲好きの上海の先生からの教えを踏まえて、「他者」として対する時、初めてフラットな交流が始まる、という基本姿勢に立ち返りたいと思います。


      (了)


    2017.07.06

    写真で見る「青島に残る日本の残影」 【青島たより 工藤和直】Vol.74 (読む時間:約2分半)

    • 青島は、当時漁村に過ぎなかった青島村に1897年(明治30年)11月14日、突然ドイツ海軍陸戦隊が上陸占領したことから始まる。青島の歴史は今年で120年になる。青島市の中心にある中山路から北に行くと、日本企業が設立拡張した館陶路金融街(横浜正金銀行や朝鮮銀行、三菱商事や三井物産)がある。現在も金融の中心地であるが、当時から金融センターの役目を持っていた事が理解できる。ただ、今はドイツ風情街と命名され観光化されている事に多少違和感がある。中山路には日本映画を興行していた国際劇場が現存する。


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      ドイツ総監府周辺(太平路の日本総領事館跡)から江蘇路、熱河路から北に貯水山の青島神社跡周辺は、日本人が多く住んだ街であった。青島神社跡は児童公園として整備され、本殿跡は青島電視台となっているが、石段などはそのままである。西本願寺跡は、今では無棣四路小学校となっている。内地への手紙は青島郵便局大和町支店から送ったのであろう。桟橋バス停の対面は青島日報社となっているが、かつては中央飯店(1904年竣工)であった。青島路を越えた所に日本総領事館(徳華銀行)があり、同じ敷地内に膠済鉄道の敷設工事や炭鉱開発を進めた山東鉄路鉱路公司建屋が現存する。


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      日本軍関係施設は、それまであったドイツ建屋を借り受けた(略奪した)形でスタートした。しかし、どの施設にも日本軍が関与した説明書きは見当たらない。今では、憲兵分隊は青島市公安局、憲兵隊総部は宗鑫博物館になっている。その他陸軍倶楽部跡地は青島工人劇場、青島病院の対面の陸軍病院建屋も公安局となっている。


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      日本人学校は、ドイツが建設した学校を横滑りに学校として使ったことからスタートした。その後、青島中学を含め1917年頃から新校舎ができて来た。どの学校も、創立100周年になる。青島で生まれた日本人は、廣瀬小児科に行くことが多かった(第一小学校の北)。ドイツ総監府徳県路に個人医院(若槻病院)があるが、表札には私人宅としか表示されてない。青島病院は1904年完成した総督府野戦病院からスタートしている。2017年6月にはまだ改装中であった。普済病院は膠州路に面して今も現存するが、1919年に華人用として建てられた病院であった。


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      1912年(大正元年)には、ドイツはルンプラー型軍用飛行機を1機配備していた。この飛行機がドイツ総監府付近を撮影したのが下記の俯瞰写真である。当時の航空写真技術には驚きを隠しえない。現在その写真に見える建物を地上から撮影し併記して見た。多くは外装が補修されてはいるが、骨格は100年前と同じであることに気付く。手前左に隠れてプリンス・ハインリッヒホテル(1)があり、右手に日本総領事館(当時は徳華銀行)(3)が見える。青島路を左右に分断する広西路にドイツ郵便局や官公庁が立ち並ぶ。総監府から右手斜めに領事館街と呼ばれた沂水路があり、青島病院(総督府野戦病院)(11)に繋がる。


      参考文献:青島と山東半島(旅行人ブックス)


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    2017.07.06

    斉の国都「臨淄」を巡る 【青島たより 工藤和直】Vol.73 (読む時間:約6分)

  • 2017.06.21

    山東省淄博市「淄川神社」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.72 (読む時間:約2分半)

  • 2017.06.06

    済南日本領事館跡と済南神社跡を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.71 (読む時間:約6分半)

    • 済南は山東省都で膠済鉄道(青島⇔済南)と津浦鉄道(天津⇔上海)が交わる交通の要衝である。済南市の歴史は長く、黄河文明龍山文化の発祥の地と言われ、域内で多数の新石器時代の遺跡が発掘されている(城子崖遺跡など)。舜王の治世時代(紀元前22世紀ごろ)から既に豊かな土地柄であった。こうした古代の記憶は、舜王にちなんだ地名にしっかりと刻み込まれている(舜井、舜耕路、舜華路、舜耕山など)。商(殷)王朝の時代、現在の済南市章丘市平陵城を本拠地として、譚国が建国された。ちょうど、現在の龍山街道事務局が設置されている場所がその王都跡(城子崖龍山文化遺跡)である。


      西周が建国されると、各地へ国王が封じられ、分封制による間接統治体制が採用された。済南市エリアは斉国の版図下に組み込まれるも、東夷部族の一派であった譚国は、その半属国として引き続き存続した。春秋戦国時代を通じて、封建社会へと大規模な社会構造の変革が進められる。済南市一帯は引き続き、斉国の領土下にあって、濼邑(今の済南市中心部)と呼ばれ、その後に濼邑城は歴下邑城と改称される。


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      春秋戦国時代に幾度も繰り広げられた斉国と晋国との戦争は、主に現在の済南市の南部にある馬鞍山の一帯で行われた。以後、斉国は国防を重視し、 斉の長城を築城することとなる。秦の始皇帝により中原が統一されると、全国に郡県制が導入された。前漢代の初期から歴下邑の一帯は済南と通称されるようになる。かつての古代四大河川(長江、黄河、淮水、済水)の一つである済水(その河川は現存せず、今の黄河の湖底に眠る)の南側に位置したことから、済南と命名された。黄河は東周の都「洛邑」から大梁(開封)を過ぎた辺りより南から済水、漯水、河水の3本に分かれ東北方向の渤海に流れ込む。前漢の時代の大洪水によって済水は現在の黄河の流れになってしまった。細かく言うと、済南市から天津市の間には9本の河があるが、黄河は常に氾濫し、その川筋はその度に変わったというのが正しい表現となろう。春秋時代、黄河は一番北西寄りの天津辺りを河口とし、かつての済水は河南省済源市西北2kmを源流とした。前漢時代、済南郡が新設され済南郡の郡役所は東平陵県城(今の済南市章丘市平陵城)となった。東平陵県城は、古代商王朝の時代に端を発する譚国の王都から続く都市で、すでに一帯の中心拠点として確固たる地域を築いていた。


      清朝も末期に至ると、帝国列強による植民地化が進み、ついに1904年、済南府も開港させられ、 済南は急速に経済発展が進んだ。1911年末には津浦鉄道の黄河大橋が完成し、済南府は南北交通ルートの重要拠点となる。翌1912年に中華民国が成立し、全国的に府制から道制へ改編が進むと、済南府は当初、岱北道に帰属されるも、1914年には済南道と改称された。1928年5月3日、日本軍と国民党軍との間で済南事件が勃発する。日本軍は、蒋介石率いる国民革命軍が張作霖への北伐再開を牽制する為、居留民保護を名目にして出兵(第二次山東出兵)した。1928年(昭和3年)5月3日に済南で市街戦が起こり、8日には日中全面衝突へと発展した。日本軍は多数の中国人を殺傷し、中国国民の対日感情を極度に悪化させることとなった(済南事件)。更にこれに乗じて増派した兵力を山東省から華北全域に展開(第三次山東出兵)させたが、内外の批判を受け翌年には撤兵することとなった。攻城戦の際、日本軍は南門城壁に向けて激しい砲撃を加えた(下写真)。今日でも、この日を記念して、市内では空襲警報のサイレンが鳴らされている。


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      済南市槐蔭区経三路238号に日本領事館跡がある。済南事件を目の当たりに見た歴史の証人である。済南駅前の経一路を西方向に行き、緯六路から南方向に行き、経三路で右折したすぐ左である。第一次世界大戦終了後に青島の租借権をそのまま引継いた直後の1918年に建設された(左写真)。その後1928年5月の済南事件で焼かれ、1939年に再建された(右写真)。経三路から入った正面には、事務棟として使われた2号楼や山東鉄路の建屋がある。入って左にある二階建ての建屋が領事館の建屋である。正面は大きなプラタナスで覆われている。南面に庭がある。その向こうはタイル張りの噴水があった。領事館時代はここでガーデンパーティーが開かれたかもしれない。更に南方向へ行くと現在は営業をしていない済南飯店がある。解放後、毛沢東をはじめ、劉少奇、宋慶齢など多くの共産党幹部がここに泊まったという。 


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      またこの付近は済南駅前に広がった旧市街地に辺り、古い建物がいくつも見える。教会や郵便局、日本軍駐在司令部(経二路162号)などもあった。経二路276号は緯五路と交差する東南角で現在公安局交通警察支隊となっているが、ここは日本の高島屋百貨店(済南出張店)の跡である。高島屋の海外進出は、1899年(明治32年)フランスリヨンに始まり、中国では1905年(明治38年)に天津事務所、1938年の南京出張店に次いで1941年に済南出張店が開業した。高島屋のHPなど見ると、現在上海地下鉄10号線伊梨路にある店舗を中国一号店と宣伝しているが、戦前中国に進出したことは書かれていない。確かに官需受注による軍の命令下であったかも知れないが、この建物の写真「高島屋」は消せない歴史である。


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      済南神社は市の郊外にある梁家庄(現・英雄山)に創建された。詳細な資料写真は発見できていないが、英雄山路18号済南戦役記念館西門が当時の参道入口で、ここから東にやや登りかけた所にある記念館が本殿跡地になる。1939年(昭和14年)に建設開始され、残された石灯寵等に刻まれた年号から1942年 (昭和17年)7月頃にはかなり完成したが、一時建設が中断され1944年(昭和19年)に再開したが、翌昭和20年終戦で未完のままに終わった。境内地は済南革命烈士陵園となっている。神社の本殿があったと思われる場所には、国共内戦における共産党の勝利を記念した済南戦役記念館が建っている。神社の鳥居、灯龍、石碑などに使用された石材が公園のー画にまとめて置かれていた。鳥居の石柱と思われる二本が無造作に置かれ、その大きさ(約9m)からそれ相等に大きな鳥居であったと予想がつく。石灯籠の残骸から寄贈した人物の氏名が確認できる(残念ながら一部消されかけているが)。一つは、茨城県筑波町「廣瀬森次」であり、もう一つは岡山県「安原順吾」・長野県「山崎武源太」と読めそうである。いずれも昭和17年(1942年)の刻印があった。まるで「兵どもの夢の跡」の墓標である。


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      済南東駅の前に広がる大明湖は、済南城内北半分を占める。現在堀に囲まれた跡に内城があった。済南城城壁は北宋徽宗年間(西暦1101年~1125年)にかけて土城として築城され、明代初期1391年に土城からレンガ積みの周囲12里48丈(約6.1km)、高さ3丈2尺(9.6m)、幅5丈(15m)のほぼ四角状の城壁がある。南門(舜田門もしくは歴山門)は中央にあるが、西門(濼源門)は南寄り、北門(会波門)は東寄り、東門(斉川門)は北寄りとちょっとおかしな位置で、東北と南西に偏った城門構えであった。北門は大明湖の水を排出するために水門(水陸門)になっている。この門だけでは非常に不便でもあったのか、それぞれの門の右手に、便利門があった。四方八卦の思想から、南には巽利門、西には坤順門、北には乾健門、東には艮吉門である。清代中期になると、防御の意味で内城を取巻く外城が作られた。南は経十路、西は緯十二路、北は膠済鉄道、東は歴山路に囲まれた約16km2にわたる地域である。その外城には7つの城門が作られた。東に永靖門、東南に永固門、南に岱安門(圩子門)、東南に永綏門、西北に済安門、東北に海宴門である。その後民国時代に門が4つ増設され、最終的には19の城門があったという。しかし、中華人民共和国成立の翌年1950年に他の都市と同じく城門城壁は切除された。


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      参考文献:中国・華北の神社跡地(稲宮康人)


    2017.05.29

    接続性 【上海の街角で 井上邦久】vol31 (読む時間:約5分)

    • 3月下旬、第115回の華人経済・文化研究会で、今年も「中国。この一年」と題する報告をしました。2013年から毎年3月に同じタイトルで定点観測を意識したお話をさせてもらっています。今年は、次の三項目を柱にしました。


        (1) 北京の掏摸(スリ、小盗)が減った
        (2) 「海」への進出が目立った
        (3) 華南の産業構造改革が注目されている


      (1)人民日報以外の多くのメディアに寄稿や出演をしている、著名なジャーナリストの陳言さんから教わった話です。最近の北京では人が外出しなくなった。外出しても現金は少ししか持っていない。だから掏摸の採算性が悪くなり、掏摸の数が減少した、ということです。もちろん陳言さんがデータを公安警察で調べたわけではなく、彼独特の表現方法で、大気汚染・宅配サービスの急成長・モバイル決済の急拡大などを分かりやすく指摘したわけです。
      自動販売機が急拡大していること、自動販売機の盗難が激減していること(モバイル決済のため、販売機の中には現金がない)と同じ理屈です。


      (2)大陸国家であった中国が海洋国家に急激に変貌しています。沿岸警備船舶の増強と人民解放軍における海軍の地位向上(それも従来の北洋艦隊優先から南洋艦隊の重視へ)世界の海運物流市場で圧倒的なシェアを確立し、ギリシャ、パキスタン、スリランカ、ジブチなど世界各地で港湾拠点の確保を推進中。旺盛な魚需要を満たすための遠洋漁業船団の急膨張(魚の消費量も、漁船20万艘も断トツの世界一)。海軍・海運・海外拠点・漁業すべての面での「海」への進出が顕著となった一年でした。


      (3)歴史的にも開明的であり、東南アジアなど海外に開かれた土地柄である華南。海外進出の伝統の担い手である華僑の故郷としての華南。従来から国有企業比率が東北や華北に比べてとても小さい華南。その華南では1992年以降、深圳を中核とする「特区」としての成長と巨大なサプライチェーンの構築が継続されてきたのは周知の通りです。この基盤の上に、活発なR&D投資による新産業の創生気運が党・政府の政策と相まって醸成されてきました。そこへ米国発祥のメイカー・ムーブメントの聖地としての深圳への投資人気が集中し、過剰なまでの期待が寄せられています。


      以上のような切り口で、それぞれの具体的な事例を挙げて、中国各地からの湧水が集まって川になり、その水がナイヤガラのような瀑布ではなく、赤目四十八滝のようなカスケードを形成していることを私見も交えて報告しました。
      恣意的な情報処理や世界的な視野から中国を捉えていない反省が残りました。
      五月になって読んだ新刊に『「接続性」の地政学』パラダ・カンナ(原書房)があります。副題として「グローバリズムの先にある世界」とあります。
      1977年インド生まれで、現在シンガポール国立大学上級研究員の著者は、従来から世界経済フォーラムにおける次世代リーダーの一人と見做されていましたが、CONENECTOGRAPHY Mapping the Future of Global Civilizationと題する原著により、更にその評価を高めているようです。
      日本では、尼丁千鶴子・木村高子両氏の滑らかな翻訳で出版されるや否や、多くの書評に取り上げられ書店に平積みされています。多くの方が既に手に取られていることと思いますが、屋上にミニ鳥居を重ねるような私見と印象を以下にメモします。


      (1)サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』で冷戦後の世界を捉えなおし、長く一つの標準として語られてきた。しかし、その標準だけでは冷戦終結から四半世紀が過ぎた現在の大きな政治的変容や技術的変革を説明できなくなった。パラタ・カンナは「文明」に代わって「接続性」を強調。


      (2)新たな標準はサプライチェーンであり、グローバリゼーションの未来を語るのは「接続性」の度合いである、としている。


      (3)経済が深く相互依存している世界のシステムの内実を解明して、表面的には政治的、軍事的に対峙しているように見える国家間の緊張した外貌とは異なる経済と技術の連携を説明。この点でかなり楽観的な印象が残る。


      (4)この新しい世界を組み立てているのは中国であり、中国は新植民地主義者でなく新たな重商主義者である。経済合理性に合わない「領土」や「扶養家族」を増やす気がないとする。孫文が『三民主義』の中で「中国は列強の植民地ではない。(インドのような)植民地にもしてもらえない半植民地である」と喝破したことを想起し、孫文の曾孫たちがアフリカや南米を植民地にする気がないことに気付く。


      (5)中国の華南地区の「特区」に着目し、華僑の存在に過剰なまでの可能性を期待している。・・・中国が4000万人の華僑の一部に二重国籍を認めれば、それは国内に新たな優秀な人材を呼び込み、高齢化する人口に活気をもたらすきっかけになるだろう・・・(上巻97頁)


      (6)インフラとサプライチェーンについての記述が繰り返してなされている。通関手続きを半減すれば、貿易量は15%、GDPは5%上昇するが、輸入関税撤廃はGDPを1%上昇させるだけとか、中国の可動式の深海用掘削プラットフォームであるHYSY-981は、今日の地政学においては移動可能なサプライチェーンの島であるといった具合。


      (7)「マラッカの罠」回避の為、中国はタイのクラ地峡運河構想、ミャンマーやバングラディッシュの港からの陸路建設、北極海航路開発に熱心。


      グローバルという言葉が日本にもたらされて半世紀以上が過ぎていますが、未だにカタカナ表記のみで、中国語の「全球」のようには、日本語の適訳がありません。それでいながらグローバルという単語が独り歩きして、頻繁に使われています。しかし、グローバルとは何ですか?という質問をすると返答は色々です。その解を探す意味でも、この本はグローバルというものを逆照射しているので、国際化や跨境化(ボーダーレス)とは異なる視点が参考になりました。
      「真水もて熱帯魚飼うセオリスト 己の次に中国を愛して」という岡井隆の有名な短歌にもある通り、中国に対しては好悪両極の評価をしがちな日本人と比べて、インド人は「中国とは文化も価値観も違うけれど、しっかり中国のことを把握する価値はある」という覚めた(醒めた、冷めた)見方ができるようです。世界を実地に歩く著者のカンナ氏もその一人であり、実に多様な中国を歩いて、知って、考えているようです。


      カスケードを発見するだけでなく、全地球的な見地から源流と下流域を分析することが大切であることを学びました。来年3月の定点観測は少しだけ深みのある報告ができるかも知れません。


      (了)


    2017.05.21

    鄭州「商(殷)代遺跡」と「日本領事館跡」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.70 (読む時間:約3分)

  • 2017.04.26

    清明穀雨 【上海の街角で 井上邦久】vol30 (読む時間:約3分半)

    • 国家統計局都市司の縄国慶高級統計師は、2月の消費者物価が前期比で0.2%下落した特徴として、1)2月の全国平均気温が例年に比べて明らかに高く、生鮮野菜の生長に有利となり、市場供給が充足した、2)春節後の需要が弱まり、卵・豚肉・鶏肉価格が下落した、3)春節後の外出・観光人数が減少し、航空券代・旅行社手数料・旅館宿泊代が下落した、点を挙げている。


      日中産学官交流機構第19回中国塾での田中修塾頭による定例経済報告からの抜粋です。暖かい2月、その後の寒い3月を経て清明節の頃からは徐々に天候も安定してきました。二十四節季の清明から穀雨(太陽が黄経30°に達した時とされ、日本中国とも今年は4月20日。昨年の中国では4月19日23時29分だった由)の間は仲春から晩春の季節で、農耕作業が繁忙化するころであります。日本の中国地方の山間に住む母親からも苗代作りのたよりが届きました。気が付けば、一年のほぼ三分の一が経過し、日本では新年度が始まり桜の開花とも相まって、新規の気分が満ちて来ます。


      端午節、七夕節が日本に伝来して色々な変容をしながらも定着していることに比べ、清明節に必須の墓参りの習慣は日本には縁が薄く、沖縄や中華街以外では寡聞にして知りません。


       清明時節雨紛紛
       路上行人欲断魂
       借問酒家何処有
       牧童遥指杏花村    杜 牧『清明』


      上海では、清明節に墓参りとともに草餅を食べる習慣も盛んで、福州路などの老舗の「青団」はこの時期の売れ筋です。花より団子、団子より杏花村でお酒をもとめたい向きの言い訳には、杜牧の詩が便利で、『清明』はこの時期に、人口に膾炙されます。
      清明節前後には、上海のスタッフ達に「掃墓(sao 3mu4、墓参り)は何処へ?」と訊ねました。上海旧市内と応える人はほとんど居らず、昆山です、とか黄山ですとかの返事が多かったです。シティボーイやガール達も、多くは何代前かに上海へ移住してきた人たちの子孫であり、先祖の墓は上海以外の各地に所在しています。そしてスタッフ達もこの時期だけは先祖を敬い、自らのルーツを意識するようでした。
      いささか自己満足のきらいはありますが、各地のスタッフ達との交わりのなかで、「你好+1」を心がけていました。「こんにちは」の挨拶だけで終わらせず「+1」の個別の話題を作るようにしていました。色んな話題の中で、快く反応があり印象に残ったのは「子供」と「先祖の出身地」についてでした。


      清明節に里帰りした畏友のC弁護士からお土産に二枚の写真を頂きました。壁に墨書された族規(一族の規則)十項目と家訓十項目の写真には、目指すべき姿勢と避けるべき戒めが並んでいました。一見すると「言うは易く」、実際は「行うは難い」この教えを墨守しているであろうC家一族からは、虎も蠅も出ていないと想像しています。Cさんは久しぶりの故郷で、祖先と「会話」し、一族の規則や家訓をあらためて「勉強」してきたとのことです。
      宮本常一の名著『家郷の訓』を持ち出すまでもなく、日本にも家訓やそれに類するものがありましたし、今でも残っているでしょう。二昔前までの日本のオフィスには、しばしば金融関連商品のセールスの電話が掛かってきました。丁重にお断りする時に「我が家には家訓があって、株も不動産投資もできません」と云うと、若い声で「カクン?」という反応があり、自らの言葉が時代錯誤的な印象を与えていることを感じた記憶があります。そんな時代を経て、今の我々に大切なことは家訓の有無ではなく、Cさんのように祖先と「会話」し、一族の訓えを「勉強」して自らを省みる姿勢なのでしょう。


      清明(きよあき)という名前の伯父(母の兄)は昭和4年生まれ。従弟に電話で4月14日が誕生日であることを再確認して、名前の由来を得心しました。大正モダンボーイ、慶応ボーイの祖父稲次郎が、節季に因んでオーソドックスに命名したことを微笑ましく感じます。そして杜牧の詩を知っていたかどうかは別にして、祖父も伯父も酒が好きであり、強かったことを思い出しました。


      (了)


    2017.04.18
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