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青島日本人学校、「台東・四方・滄口」への拡大 【青島たより 工藤和直】Vol.79 (読む時間:約5分)

    • 大正3年(1914年)以降、青島神社(現在の貯水山児童公園)の麓に多くの日本人が住んだ。その東の台東鎮地区へ工業地帯が拡張するに連れて生徒数が増大、従来からある第一小学・第二小学だけでは収容しきれず、新たな学校の造営が新たな課題となった。青島第三国民学校(通称三小もしくは第三小)は、昭和16年(1941年)に若鶴バラック(ドイツの旧モルトケバラック:簡易兵舎)の位置に新設された在青島日本人児童向けの小学校だった。地図で見ると青島神社の東裏手になる。校舎はその後、青島医学院(現:青島大学医学院)に継承され、現在は当時の講堂だけが残っている。


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      登州路にある青島ビール工場に多くの見学者が訪れている。その登州路を西に行くと、右手に多くの商店街とその奥に多くにアパート住宅が見える。当時はここも青島ビール(大日本麦酒)の工場であった。しばらく歩くと道が北に曲がり盲学校があり、その北に青島大学医学院の門がある(登州路38号)。上の写真右は1941年(昭和16年)当時の第三小の全景である。右下が第二公園(現在は体育場)で南北に松山路が走る。当時の門は現在より北側にあったようだ。そこから入ると、左手にテニスコートや校庭が見えた。その校庭の奥に学生食堂と寮があるが、その間に褐色の古い建屋が垣間見える。それが第三国民学校当時の講堂跡である。現在は使用頻度がほとんどなく、講堂以外で使用されている様だ。正面の東西に長い白い校舎は建て替えられ、教学楼として勉学の場となっている(下写真)。


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      昭和16年(1941年)3月1日、教育審議会の「国民学校、師範学校及幼椎園ニ関スル件」の答申に基づいて小学校令を改正して「国民学校令」を公布し、次いで3月14日、小学校令施行規則を改正して国民学校令施行規則を公布、いずれも同年4月1日から実施することとなった。ただし、改正の義務就学期間の適用については、国民学校令附則第四十六条の規定により、昭和19年度から実施することとなっていた。すなわち国民学校では、「教育の全般にわたって皇国の道を修錬」させることを目指した。なお、「初等普通教育」とは国民学校の内容を示し、「基礎的錬成」とは、教育の方法を示したものである。第三国民学校はちょうど尋常小学校から国民学校に移る昭和16年に新設された小学校であった。


      台東地区の地図を見ると、この場所は若鶴バラック(青島守備軍簡易兵舎)となっている。当時は写真のようなバラック状の兵舎が並び、1914年青島要塞陥落後はドイツ軍兵士捕虜収容所となった。


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      四方(Si Fang)地区は青島ビール工場がある台東工業地区が手狭になったため、青島日本守備隊が大正7年(1918年)から本格的に日本企業向けに、台東鎮北に土地の取得・拡張を開始したことから始まる。まずは台東鎮西側の高台から土砂を青島大港北側の埋め立てに利用して、45万坪の造成地を作った。当時の地図を見ると、内外綿株式会社の右上に、苦力収容所と記載がある。第一次世界大戦時に欧州戦線に多くの中国人を荷夫として送った宿営収容所(逃げ出さないようにする)であった。その後、収容所は日清紡績青島工場となった。中央右に鉄道部四方工場があるが、ここは日本守備隊鉄道部の主力工場であった。大正11年(1922年)には日本人261名、中国人1591名が勤務、鉄道車両の製造・修理ほか鉄工所としても使われ、多くの中国人が機関車の組立技術を学んだ工場でもあった。現在でもこの四方工場は、中車四方車両有限公司として中国鉄道にとって重要な地位を占める会社となっている。


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      内外綿株式会社(内外綿紗廠)は、大正5年(1916年)に日系紡績会社として初めて青島に進出した会社であり、工場敷地は11万坪になる。昭和7年(1932年)には、日本人78名・中国人4050名の記録がある。地図の右下に大日本紡績株式会社(大康紗廠)がある。大正8年(1919年)に設立、工場敷地は9万坪、日本人97名・中国人4000名が働いていた。


      工場敷地の東側が住宅地となり、鉄道部四方工場の横を走る四方大馬路(現在の杭州路)に面して、大正7年(1918年)、四方尋常小学校が青島第一尋常小学校四方分校として設立された。大正12年(1923年)には四方尋常小学校として独立し、1941年には国民学校となった。戦後は、四方工人倶楽部として改装され、現在は写真のように漢庭酒店(閉館)となった(杭州路41号)。ホテルの後ろは駐車場と平安派出所になり、更に後ろは、平安路第二小学校の建屋となっている。当時の校庭は現在の第二小学校校舎にあたる。


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      四方地区とほぼ並行して、更に北の滄口(Cang Kou)鎮に日系紡績工場が多く進出した。ひとつが当時日本企業最大の鐘淵紡績(カネボウ)で、国光紡績(昭和18年倉敷紡績と合併)や富士瓦斯紡績(現在の富士紡)などもあった。その規模は鐘紡で25万坪、国光で14万坪、富士坊で13万坪と群を抜く。鐘淵紡績や豊田紡織、その他の日系紡績会社については、その痕跡を調査した結果を別資料(国綿一廠~九廠の歴史)にまとめることにする。


      滄口地区だけでも四方と同じ程度の日本人が居たと思われ、当然小学校が不足した。大正11年(1922年)5月に、滄口尋常高等小学校が設立された(李滄区四流中路113号)。写真のような校舎が正門前にあった。現在は、北楼にあたる校舎が現存し、玄関の門柱は昔のままと思われる。生徒数など詳細は不明だが、当時の四方・滄口工業地帯に日本人が1000名ほど勤務していた事から、500~600名近い児童が居たと予想され、二つの小学校にそれぞれ250~300名ほど在校していたのではないか。現在は貨物駅になっている滄口駅の東方600mに青島第三人民病院があるが、1931年設立の美国(アメリカ)基督教会医院の跡地に建てられた大病院である。


      参考文献:青島物語(続編その18)


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    2017.11.19

    米国から中国へ 【上海の街角で 井上邦久】vol37 (読む時間:約3分半)

  • 2017.11.06

    越王「勾践」が遷都した青島「琅琊台」 【青島たより 工藤和直】Vol.78 (読む時間:約4分)

  • 2017.10.30

    祝賀受賞 【上海の街角で 井上邦久】vol36 (読む時間:約2分半)

    • 9月29日、中日国交正常化45周年の記念日に、東華大学教授の陳祖恩先生ご夫妻は日本駐上海総領事館に招かれ、「両国の相互理解及び友好親善に寄与してその貢献顕著」と記された表彰状を受けられました。この表彰を大きな栄誉とされた陳先生からは「中日民間の友好交流に尽力していく」と決意を届けていただきました。


      陳祖恩先生は、日中交流史を長年にわたり調査研究され、とりわけ日本の幕末、中国の清末からの交流についての書籍出版も多く、交流史跡の調査や学会活動の為に度々来日されています。また陳夫妻は長年に渡り上海歴史散歩の会の顧問として指導引率をされており、身近でその温かく真っ直ぐなお人柄に接した上海在住者も多いことと思います。
      この場を借りて、心よりお祝いを申し上げます。


      古北路のご夫妻御贔屓の「紋兵衛」で偶然にお見掛けし、刊行されたばかりの書籍(高綱博文教授著作の中国語訳)をプレゼントしてもらいました。東京での道案内は、「中国人の来ない面白い場所へ行きたい」という陳夫妻の要望に従って、品川神社から旧東海道品川宿を歩き、そば処「いってつ」で喜んでもらいました。11月の大阪案内では福沢諭吉の生家跡などの福島区近辺を歩いたあとで、「まき埜」のスダチ蕎麦を賞味願うつもりです。蕎麦が取り持つ、蕎麦好き同士のご縁もあり、長いお付き合いと言いますか、蕎麦味噌のように味わい深く実の籠った交流を続けさせていただけたら幸いだと思います。そして、まさに受賞後の陳先生のお言葉の通り「民間交流」に力を尽くしたいものです。


      この時期に「受賞」と言えば、ノーベル賞であります。今年の日本では文学賞の話題が中心となり、情報の洪水状態ですが敢えて若干の屋上屋を重ねさせてもらいます。カズオ・イシグロは長崎生まれの英国人であり、英国人にしか書けないであろう小説『日の名残り』の描写が、アンソニー・ホプキンス主演での映画化の成功とも相まって強く印象に残っています。英国伝統の執事という控えめな職務、その分に徹した、そして分を越ええない男の「思い込み」の強さがほろ苦い味となっていました。


      しかし本欄では『私たちが孤児だったころ』に触れねばなりません。長崎・上海・英国を繋いで、アヘン戦争から上海事変を歴史背景とした長編です。和平賓館北楼でダンスに興じた欧米人が、虹口の方面で交差する日本軍と国民党軍の曳光弾を「見物」する理不尽なシーンをうろ覚えしています。


      10月12日付けの朝日新聞に、下司佳代子記者によるノリッジ発の「イシグロ文学、母校で語る」と題する記事が掲載されています。


      ・・・2000年出版の小説「わたしたちが孤児だったころ」では例外的に、1930年代の上海という舞台設定を先に決めたことも明かした。日本人の祖父が上海で豊田紡織廠(当時)の立ち上げを担ったため「祖父の当時の写真を見てこの時期の中国にとても興味を持った」と説明した。・・・


      祖父の石黒昌明は東亜同文書院の第5期生(1908年卒業)、伊藤忠商事から豊田紡織廠取締役。父の鎮雄は1920年上海生まれ、明治専門学校(現在の九州工業大学)に電気工学を学んだのちに海洋学者として英国へ。母の静子は長崎にて原爆により負傷。以上、長崎・上海との絡みを補足します。


      (了)


    2017.10.14

    春秋時代、1500年間さまよった杞憂の国「杞国」 【青島たより 工藤和直】Vol.77 (読む時間:約4分)

  • 2017.10.12

    猶太人 【上海の街角で 井上邦久】vol35 (読む時間:約4分)

    • ボストン郊外にも杉原千畝の顕彰碑があるようだと、茨木市土曜クラブの友人から以下のサイトの連絡(探索指示?)がありました。


      http://hinode.8718.jp/japanese_sugihara_tiune_monument.html


      土曜クラブの8月例会はクラブ会員のF氏が「ユダヤ」について話されることを思い出し、例会に出席できない代わりに顕彰碑を探してみようと動き出しました。居候先の最寄り駅からグリーンラインCという路面電車で終点まで行けば、チェスナットヒル地区だから何とか分かるだろうと、いつものように五感頼みの横着(スマホも機能不全)。電車を降りて一寸迷った後、バス乗り場で学生風の男女にユダヤ教EMTH教会への行き方を訊ねました。幸運なことに男子学生から「15分待てば来る51番のバス。僕たちも教会前の同じ停留所で降りる」と言われました。バスはかなりの速度で20分ほど走った頃に、女子学生の手前からかとても親切な男子学生に声を掛けられ目的地に無事到着。日本風の灯篭が並ぶ一角に顕彰碑が整備されていました。折しもボストンでは、反ナチズム、反白人至上主義の大規模な行動がありましたが此処に限らずユダヤ教会の周辺は静かでした。


      或る日、最寄り駅近くの食堂でブランチを摂っていたら、隣の席に座った初老の紳士が話しかけてきました。CHALPINと名乗り、医学の研究者であり、苗字を聴けば分かる通りロシア系ユダヤ人で1800年代に一族はこの町に移り住み、長くユダヤ人だけの集落で住んでいた、と問わず語りが続きました。苗字を聴いてもユダヤ人と推測できるはずもない東洋人に、何故に自分からユダヤ人と言い出すのかなと訝しく感じました。そして上海へ貴州省から出稼ぎにきた青年が、此方から聴きもしないのに「私は苗族です」と照葉樹林帯地域に住む少数民族の名前を口にしたことを思い出しました。なお、CHALPIN氏の方は隣席の東洋人の苗字を聴いて、「DANIEL INOUYE!」、「日本人!」と喜びました。著名な日系議員の一族に会ったと夢想したかったかも知れません。


      留守宅に土曜クラブでの講演に使われた沢山のユダヤ関連資料を届けて貰いました。その中に、「もう一人 日本のシンドラー」と題する日経新聞記事(1997年4月16日文化欄)のコピーがありました。筆者であるジョン・ステシンガー教授は1941年3月、13歳の時、シベリア鉄道による逃避行中、ドイツ大使館から帰任途中の真鍋良一氏(元東海大学教授)に親切にしてもらった。何とか上海に定住したものの、ドイツからの圧力もあったのか、日本統治者はユダヤ人難民をゲットー(隔離地域)に強制収容した。上海領事として赴任していた真鍋氏に頼ったところ在留延期証明書を毎年発給して貰えてゲットー収容を回避できた。更に真鍋氏は上海交響楽団のユダヤ人メンバーにも演奏が続けられるように手配してくれた。敗戦後ステシンガー青年はハーバード大学に留学してキッシンジャーやブレジンスキーと机を並べ、国際関係論の学者になったが、真鍋氏は漢口領事として中国人捕虜への虐待を止められなかった罪で巣鴨プリズンへ、その後も外交官に戻ることはなかった由。


      上海虹口の猶太記念館に、欧州でユダヤ人難民にビザを発給した中華民国の何鳳山や杉原千畝についての顕彰展示がありましたが、真鍋良一の名前を見かけた記憶はありません。


      NHK・Eテレのテキストがベストセラーとなっています。九月の「100分de名著」(毎月曜日午後10:25~10:50)の『ハンナ・アーレント 全体主義の起原』のテキストとして仲正昌樹金沢大学教授が書き下ろした文章はとても簡潔です。裕福なドイツ系ユダヤ人の家に生まれて、ハイデッカーやヤスパースに師事したハンナ・アーレントの半生の闘いを描いた映画が上映された数年前、一種のブームがおこり本連載でも綴りました。


      http://www.shanghai-leaders.com/column/life-and-culture/inoue/inoue010/


      しかし今回表紙に「考えることをやめるとき凡庸な『悪』に囚われる」と書かれたテキストが売れ、アーレントの著作が平積み販売されているのは映画化された時の知的ブームとは異なるような気がします。 ・・・人々の間に国家への不信、寄る辺ない不安が広がっているのは今の時代も同じではないでしょうか。政情不安、終わりの見えない紛争、そして難民問題。世界はどこへ向かおうとしているのか、それを動かす社会の仕組みがどうなっているのかということについて、多くの人が「教科書的でない」説明を求めています。 日本も例外ではありません。今世紀に入った頃から、政治について関心があり、「かなり分かっている」つもりの人たちでさえ展開が読めないことが多くなり、言い知れぬ不安を感じる人が増えている気がします。・・・  (上記テキスト7頁)


      悲観でも楽観でもない仲正教授の文章のサワリです。


      (了)


    2017.09.23

    徐州日本領事館跡を訪ねる 【青島たより 工藤和直】Vol.76 (読む時間:約3分)

  • 2017.09.07

    ボストンの老陳 【上海の街角で 井上邦久】vol34 (読む時間:約3分半)

    • この時期の俳句の季語に「今朝の秋」があります。立秋の朝のことを表すようです。立秋が過ぎても朝から暑いと実感が湧かない季語だと思います。昨今の中国には、虎が居なくなったと思っていたのに、「秋老虎(立秋後の残暑)」は依然として吠え続けている模様。できれば秋の虎も捕まえて欲しいものです。


      7月下旬から滞在中のボストンは、ほぼ青天が続きます。気温が30℃近くでも木陰の芝生では、涼しい風が吹き凌ぎやすく快適です。緑豊かなハーバード大学のキャンパスでは栗鼠まで賢そうだった、とは四半世紀前に訪れた先輩の言です。ところが、個人的な印象では、ハーバート大学の栗鼠は賢く見えるだけでなく中国語を話しそうだと言いたくなります。キャンパスには中国からの留学生だけでなく、視察団や観光客が続々と詰めかけており、中国語に接するには良い環境です。


      ハーバード大学に行かなくても、中華街まで出向かなくても街中で頻繁に中国語を耳にします。とりわけ、今回滞在している地域では、とても多くの中国系の人と会い、中国語を使う毎日が続いています。


               ボストン中心部から電車で西へ15分ばかり進むとKenmore駅。路面電車の分岐点でもあり、Boston Red Soxの本拠地であるFenway球場最寄りの駅でもあります。そこから西に広がるBrookline市は交通、治安、教育施設などに恵まれており、隣接するLongwood Medical Areaでの研究や仕事に通うのに便利なせいか、従来から外国人が集まる地域だったようです。


      この地域の小学校、スーパーマーケットなどで60歳半ばの中国人を多く見ます。その中の一組の陳氏夫妻と顔なじみになり、或る日、陳氏から部屋に寄って行けと誘われました。山東省の出身で息子夫婦が優秀であり、ボストンに留学、孫のケアと家事目的で老陳夫妻がボストンに呼ばれて2年になるそうです。住環境が良い分だけ家賃が高い、若夫婦は多忙だがベビーシッターを雇う習慣も資金もない、という話から愚痴とも諦めともつかない話の流れになりました。奥さんは孫を学校に送ってから、スーパーマーケットで「市場考察」と小さな買い物をしながら知り合いを増やしている。老陳さんは日がな一日、読書と昼寝と調理で過ごし街にはあまり出ない、とのこと。山東の故郷の話題や「人到中年、男は辛いよ」の吐露、孫が優秀なのに9月生まれなので小学校進級が来年になる不満などの話し相手を務めました。言葉の端々に「来たくて来たのではない」感が滲んでいました。従来からの華僑・華人の概念や規定は見直す時期に来ていることは明らかですが、老陳のような中国人はどんなカテゴリーに入るのかな、孫に手が掛からなくなれば帰郷するのかな、引き篭もりの異郷での余生は退屈だろう等の余計なお世話を頭の中で考えていたら、奥さんがマーケットでの小さな買い物を提げて戻って来ました。


      「あらあら、なんで白開水(白湯)しか出さずにどうしたの、お茶を淹れますからゆっくり話していきなさい」と言ってくれましたが、初めてのお宅でお茶を頂くのは野暮なので「また次回に」と辞去しました。


      米中政府の政治的駆け引きのカードの一つに中国人留学生の米国への出国制限策が知られています。米国政府が政治的経済的な圧力を掛けてくると、米国の大学経営を支えているのは中国であることを知っている中国政府は揺さぶりを掛けてきます。国費留学が圧倒的だった前世紀とは異なり、私費留学を希望する若者の「対策」は?


      老陳のような1950年前後生まれの人たちは、留学はおろか大学受験への門も閉ざされた世代であり、余生を優秀な次世代、次々世代の為に捧げながら異郷に暮らしているようです。そんな人たちは、昨今の米中摩擦をどのように眺めていることでしょうか。


      最後に中国語がまったく聞こえてこない場所が少なくとも一つある事を伝えます。それはFenway野球場でして、まさに「アメリカ」の空間と時間が流れます。毎年8月15日は甲子園球場での黙祷に参加してきましたが、今年はSt. Louis Cardinalsとの一戦の外野席で米国国歌を聴き、野球ファンに馴染みの『ボールパークへ連れてって』の合唱、そして8回攻撃前には『Sweet Caroline』を全員で腕を振って大声で歌いあげます。父親のJFKを喪ったCaroline Kennedy(前駐日大使)をイメージして、1969年に発売され大ヒットした曲です。JFKがちょうど100年前に生まれた家は、Brookline市に記念館として開放されており、散歩がてらに訪れました。周りの家と同じような造りのごく普通のたたずまいでした。


      (了)


    2017.08.24

    孔子の故郷「曲阜魯国故城」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.75 (読む時間:約3分)

  • 2017.08.08

    優しさ 【上海の街角で 井上邦久】vol33 (読む時間:約3分)

    • 「一つとして同じ場所のない地形に人は住み、独自の文明文化をつくり出す。多くの国がほこりうる『歴史』は、そんな人々の蓄積と時間の成層の賜物であるが、〇〇には歴史を誇れる基礎もなければ、文化を形成する人間の集団もなかった。しかし突然『開国』という変革がもたらされる。時間と文明が〇〇という土地に触れあった瞬間、火花を散らしたのだ。歴史ももたず、誰もがスタート地点にたてる『〇〇』という時空間に住まう人は優しい。強引な手段によって塗り替えられた歴史の記憶がないからだ。」


      冒頭から他著の引用で恐縮ながら、酷暑を言い訳に手抜きをしたと叱責されても、甘んじて受けさせていただきます。さて引用文では「〇〇」と伏字にしましたが、原文には何と書かれているのでしょうと、国語か歴史の試験のように問えば、上海在住の各位は「〇〇は、たぶん上海か横浜だろう」と即答されるでしょう。


      ただ上海には県城もあり歴史が皆無とはいえません。また住まう人が優しいか?については個々の体験や感受性で異なってきます。そして「強引な手段によって塗り替えられた歴史の記憶が無いか?」についても大いに疑問があるので、〇〇は上海ではなく、横浜が正解であろう」と回答される諸賢が多いことでしょう。


      『横浜大桟橋物語』(客船とみなと遺産の会 編:2014年)という本があります。広角度に視点と事例選択を拡げ、バランスの良い丁寧な編集で作りあげた書籍の横浜についての冒頭文からの引用でした。


      横浜の優しさ、ということでは次のコメントも印象的です。
      「基本的に(横浜)ベイスターズファンは優しい、本当に優しいですよ。(中略)あんなひどい状態でも応援し続けてくれるんですから。
      辛抱強いというか、本当に不思議というか・・・好きなんですよね。」
      という月刊ベイスターズファン元編集長の岸野啓行氏の発言を好著『4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ 涙の球団史』(村瀬秀信 双葉社)に見つけたものです。


      実際に美しく便利に整備された横浜の街で接する人たちは、大声で自己主張することも少なく、さりげなく機能やサービスを提供しながら、各自の好みの生活を維持しているように見受けられます。


      ただ、優しいという理由に「強引な手段によって塗り替えられた歴史の記憶がないからだ」と断定されると、そうとばかりは言えないのではないか、と疑義が生まれてきます。先の大戦末期に、強引な手段で(神奈川県警、笹下拘置所などで)個人や中央公論・改造社を抹殺した「横浜事件」を今こそ思い起こすべきではないか、と思うのです。治安維持法の運用強化、言論統制による異議申し立てへの封じ込めが行われ、予見逮捕と拷問による自白強要が続き、体力の限界に至ってから保釈され直後に死亡した人もいます。「横浜事件」のきっかけの一つは、細川嘉六氏の論文完成慰労会が富山県泊温泉で行われ、浴衣姿の編集者らを撮った旅の思い出写真を「党再建の共同謀議」の動かぬ証拠として、神奈川県警が中心となって捜査した事にあります。


      戦後、一部のグループが無罪認定と補償を求めて起こした訴訟も「証拠消滅」を理由に門前払いが続きました。遺族ら支援の会による粘り強い行動により、2009年3月30日になりようやく横浜地裁で「免訴」「実質無罪」の判決が出て、一矢を報いることができました。


      春からの国会で、強引な形で「共謀罪」の法制化が進められた頃、古くから横浜の文化を担う有隣堂や高橋書店を巡り、「横浜事件」に関する本の売れ行きを確認したところ、一冊も置いていないことに愕然としました。書店の人も此方の意図を理解しつつ、版元での絶版が多いことと購入の動きが乏しいことを口にしていました。国会への不満と「横浜事件」が地元でも結びつかないのは、「優しさ」ではなく、「歴史の記憶」がなくなっているということでしょうか?


      (了)


    2017.07.30
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