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祝賀受賞 【上海の街角で 井上邦久】vol36 (読む時間:約2分半)

    • 9月29日、中日国交正常化45周年の記念日に、東華大学教授の陳祖恩先生ご夫妻は日本駐上海総領事館に招かれ、「両国の相互理解及び友好親善に寄与してその貢献顕著」と記された表彰状を受けられました。この表彰を大きな栄誉とされた陳先生からは「中日民間の友好交流に尽力していく」と決意を届けていただきました。


      陳祖恩先生は、日中交流史を長年にわたり調査研究され、とりわけ日本の幕末、中国の清末からの交流についての書籍出版も多く、交流史跡の調査や学会活動の為に度々来日されています。また陳夫妻は長年に渡り上海歴史散歩の会の顧問として指導引率をされており、身近でその温かく真っ直ぐなお人柄に接した上海在住者も多いことと思います。
      この場を借りて、心よりお祝いを申し上げます。


      古北路のご夫妻御贔屓の「紋兵衛」で偶然にお見掛けし、刊行されたばかりの書籍(高綱博文教授著作の中国語訳)をプレゼントしてもらいました。東京での道案内は、「中国人の来ない面白い場所へ行きたい」という陳夫妻の要望に従って、品川神社から旧東海道品川宿を歩き、そば処「いってつ」で喜んでもらいました。11月の大阪案内では福沢諭吉の生家跡などの福島区近辺を歩いたあとで、「まき埜」のスダチ蕎麦を賞味願うつもりです。蕎麦が取り持つ、蕎麦好き同士のご縁もあり、長いお付き合いと言いますか、蕎麦味噌のように味わい深く実の籠った交流を続けさせていただけたら幸いだと思います。そして、まさに受賞後の陳先生のお言葉の通り「民間交流」に力を尽くしたいものです。


      この時期に「受賞」と言えば、ノーベル賞であります。今年の日本では文学賞の話題が中心となり、情報の洪水状態ですが敢えて若干の屋上屋を重ねさせてもらいます。カズオ・イシグロは長崎生まれの英国人であり、英国人にしか書けないであろう小説『日の名残り』の描写が、アンソニー・ホプキンス主演での映画化の成功とも相まって強く印象に残っています。英国伝統の執事という控えめな職務、その分に徹した、そして分を越ええない男の「思い込み」の強さがほろ苦い味となっていました。


      しかし本欄では『私たちが孤児だったころ』に触れねばなりません。長崎・上海・英国を繋いで、アヘン戦争から上海事変を歴史背景とした長編です。和平賓館北楼でダンスに興じた欧米人が、虹口の方面で交差する日本軍と国民党軍の曳光弾を「見物」する理不尽なシーンをうろ覚えしています。


      10月12日付けの朝日新聞に、下司佳代子記者によるノリッジ発の「イシグロ文学、母校で語る」と題する記事が掲載されています。


      ・・・2000年出版の小説「わたしたちが孤児だったころ」では例外的に、1930年代の上海という舞台設定を先に決めたことも明かした。日本人の祖父が上海で豊田紡織廠(当時)の立ち上げを担ったため「祖父の当時の写真を見てこの時期の中国にとても興味を持った」と説明した。・・・


      祖父の石黒昌明は東亜同文書院の第5期生(1908年卒業)、伊藤忠商事から豊田紡織廠取締役。父の鎮雄は1920年上海生まれ、明治専門学校(現在の九州工業大学)に電気工学を学んだのちに海洋学者として英国へ。母の静子は長崎にて原爆により負傷。以上、長崎・上海との絡みを補足します。


      (了)


    2017.10.14

    春秋時代、1500年間さまよった杞憂の国「杞国」 【青島たより 工藤和直】Vol.77 (読む時間:約4分)

  • 2017.10.12

    猶太人 【上海の街角で 井上邦久】vol35 (読む時間:約4分)

    • ボストン郊外にも杉原千畝の顕彰碑があるようだと、茨木市土曜クラブの友人から以下のサイトの連絡(探索指示?)がありました。


      http://hinode.8718.jp/japanese_sugihara_tiune_monument.html


      土曜クラブの8月例会はクラブ会員のF氏が「ユダヤ」について話されることを思い出し、例会に出席できない代わりに顕彰碑を探してみようと動き出しました。居候先の最寄り駅からグリーンラインCという路面電車で終点まで行けば、チェスナットヒル地区だから何とか分かるだろうと、いつものように五感頼みの横着(スマホも機能不全)。電車を降りて一寸迷った後、バス乗り場で学生風の男女にユダヤ教EMTH教会への行き方を訊ねました。幸運なことに男子学生から「15分待てば来る51番のバス。僕たちも教会前の同じ停留所で降りる」と言われました。バスはかなりの速度で20分ほど走った頃に、女子学生の手前からかとても親切な男子学生に声を掛けられ目的地に無事到着。日本風の灯篭が並ぶ一角に顕彰碑が整備されていました。折しもボストンでは、反ナチズム、反白人至上主義の大規模な行動がありましたが此処に限らずユダヤ教会の周辺は静かでした。


      或る日、最寄り駅近くの食堂でブランチを摂っていたら、隣の席に座った初老の紳士が話しかけてきました。CHALPINと名乗り、医学の研究者であり、苗字を聴けば分かる通りロシア系ユダヤ人で1800年代に一族はこの町に移り住み、長くユダヤ人だけの集落で住んでいた、と問わず語りが続きました。苗字を聴いてもユダヤ人と推測できるはずもない東洋人に、何故に自分からユダヤ人と言い出すのかなと訝しく感じました。そして上海へ貴州省から出稼ぎにきた青年が、此方から聴きもしないのに「私は苗族です」と照葉樹林帯地域に住む少数民族の名前を口にしたことを思い出しました。なお、CHALPIN氏の方は隣席の東洋人の苗字を聴いて、「DANIEL INOUYE!」、「日本人!」と喜びました。著名な日系議員の一族に会ったと夢想したかったかも知れません。


      留守宅に土曜クラブでの講演に使われた沢山のユダヤ関連資料を届けて貰いました。その中に、「もう一人 日本のシンドラー」と題する日経新聞記事(1997年4月16日文化欄)のコピーがありました。筆者であるジョン・ステシンガー教授は1941年3月、13歳の時、シベリア鉄道による逃避行中、ドイツ大使館から帰任途中の真鍋良一氏(元東海大学教授)に親切にしてもらった。何とか上海に定住したものの、ドイツからの圧力もあったのか、日本統治者はユダヤ人難民をゲットー(隔離地域)に強制収容した。上海領事として赴任していた真鍋氏に頼ったところ在留延期証明書を毎年発給して貰えてゲットー収容を回避できた。更に真鍋氏は上海交響楽団のユダヤ人メンバーにも演奏が続けられるように手配してくれた。敗戦後ステシンガー青年はハーバード大学に留学してキッシンジャーやブレジンスキーと机を並べ、国際関係論の学者になったが、真鍋氏は漢口領事として中国人捕虜への虐待を止められなかった罪で巣鴨プリズンへ、その後も外交官に戻ることはなかった由。


      上海虹口の猶太記念館に、欧州でユダヤ人難民にビザを発給した中華民国の何鳳山や杉原千畝についての顕彰展示がありましたが、真鍋良一の名前を見かけた記憶はありません。


      NHK・Eテレのテキストがベストセラーとなっています。九月の「100分de名著」(毎月曜日午後10:25~10:50)の『ハンナ・アーレント 全体主義の起原』のテキストとして仲正昌樹金沢大学教授が書き下ろした文章はとても簡潔です。裕福なドイツ系ユダヤ人の家に生まれて、ハイデッカーやヤスパースに師事したハンナ・アーレントの半生の闘いを描いた映画が上映された数年前、一種のブームがおこり本連載でも綴りました。


      http://www.shanghai-leaders.com/column/life-and-culture/inoue/inoue010/


      しかし今回表紙に「考えることをやめるとき凡庸な『悪』に囚われる」と書かれたテキストが売れ、アーレントの著作が平積み販売されているのは映画化された時の知的ブームとは異なるような気がします。 ・・・人々の間に国家への不信、寄る辺ない不安が広がっているのは今の時代も同じではないでしょうか。政情不安、終わりの見えない紛争、そして難民問題。世界はどこへ向かおうとしているのか、それを動かす社会の仕組みがどうなっているのかということについて、多くの人が「教科書的でない」説明を求めています。 日本も例外ではありません。今世紀に入った頃から、政治について関心があり、「かなり分かっている」つもりの人たちでさえ展開が読めないことが多くなり、言い知れぬ不安を感じる人が増えている気がします。・・・  (上記テキスト7頁)


      悲観でも楽観でもない仲正教授の文章のサワリです。


      (了)


    2017.09.23

    徐州日本領事館跡を訪ねる 【青島たより 工藤和直】Vol.76 (読む時間:約3分)

  • 2017.09.07

    ボストンの老陳 【上海の街角で 井上邦久】vol34 (読む時間:約3分半)

    • この時期の俳句の季語に「今朝の秋」があります。立秋の朝のことを表すようです。立秋が過ぎても朝から暑いと実感が湧かない季語だと思います。昨今の中国には、虎が居なくなったと思っていたのに、「秋老虎(立秋後の残暑)」は依然として吠え続けている模様。できれば秋の虎も捕まえて欲しいものです。


      7月下旬から滞在中のボストンは、ほぼ青天が続きます。気温が30℃近くでも木陰の芝生では、涼しい風が吹き凌ぎやすく快適です。緑豊かなハーバード大学のキャンパスでは栗鼠まで賢そうだった、とは四半世紀前に訪れた先輩の言です。ところが、個人的な印象では、ハーバート大学の栗鼠は賢く見えるだけでなく中国語を話しそうだと言いたくなります。キャンパスには中国からの留学生だけでなく、視察団や観光客が続々と詰めかけており、中国語に接するには良い環境です。


      ハーバード大学に行かなくても、中華街まで出向かなくても街中で頻繁に中国語を耳にします。とりわけ、今回滞在している地域では、とても多くの中国系の人と会い、中国語を使う毎日が続いています。


               ボストン中心部から電車で西へ15分ばかり進むとKenmore駅。路面電車の分岐点でもあり、Boston Red Soxの本拠地であるFenway球場最寄りの駅でもあります。そこから西に広がるBrookline市は交通、治安、教育施設などに恵まれており、隣接するLongwood Medical Areaでの研究や仕事に通うのに便利なせいか、従来から外国人が集まる地域だったようです。


      この地域の小学校、スーパーマーケットなどで60歳半ばの中国人を多く見ます。その中の一組の陳氏夫妻と顔なじみになり、或る日、陳氏から部屋に寄って行けと誘われました。山東省の出身で息子夫婦が優秀であり、ボストンに留学、孫のケアと家事目的で老陳夫妻がボストンに呼ばれて2年になるそうです。住環境が良い分だけ家賃が高い、若夫婦は多忙だがベビーシッターを雇う習慣も資金もない、という話から愚痴とも諦めともつかない話の流れになりました。奥さんは孫を学校に送ってから、スーパーマーケットで「市場考察」と小さな買い物をしながら知り合いを増やしている。老陳さんは日がな一日、読書と昼寝と調理で過ごし街にはあまり出ない、とのこと。山東の故郷の話題や「人到中年、男は辛いよ」の吐露、孫が優秀なのに9月生まれなので小学校進級が来年になる不満などの話し相手を務めました。言葉の端々に「来たくて来たのではない」感が滲んでいました。従来からの華僑・華人の概念や規定は見直す時期に来ていることは明らかですが、老陳のような中国人はどんなカテゴリーに入るのかな、孫に手が掛からなくなれば帰郷するのかな、引き篭もりの異郷での余生は退屈だろう等の余計なお世話を頭の中で考えていたら、奥さんがマーケットでの小さな買い物を提げて戻って来ました。


      「あらあら、なんで白開水(白湯)しか出さずにどうしたの、お茶を淹れますからゆっくり話していきなさい」と言ってくれましたが、初めてのお宅でお茶を頂くのは野暮なので「また次回に」と辞去しました。


      米中政府の政治的駆け引きのカードの一つに中国人留学生の米国への出国制限策が知られています。米国政府が政治的経済的な圧力を掛けてくると、米国の大学経営を支えているのは中国であることを知っている中国政府は揺さぶりを掛けてきます。国費留学が圧倒的だった前世紀とは異なり、私費留学を希望する若者の「対策」は?


      老陳のような1950年前後生まれの人たちは、留学はおろか大学受験への門も閉ざされた世代であり、余生を優秀な次世代、次々世代の為に捧げながら異郷に暮らしているようです。そんな人たちは、昨今の米中摩擦をどのように眺めていることでしょうか。


      最後に中国語がまったく聞こえてこない場所が少なくとも一つある事を伝えます。それはFenway野球場でして、まさに「アメリカ」の空間と時間が流れます。毎年8月15日は甲子園球場での黙祷に参加してきましたが、今年はSt. Louis Cardinalsとの一戦の外野席で米国国歌を聴き、野球ファンに馴染みの『ボールパークへ連れてって』の合唱、そして8回攻撃前には『Sweet Caroline』を全員で腕を振って大声で歌いあげます。父親のJFKを喪ったCaroline Kennedy(前駐日大使)をイメージして、1969年に発売され大ヒットした曲です。JFKがちょうど100年前に生まれた家は、Brookline市に記念館として開放されており、散歩がてらに訪れました。周りの家と同じような造りのごく普通のたたずまいでした。


      (了)


    2017.08.24

    孔子の故郷「曲阜魯国故城」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.75 (読む時間:約3分)

  • 2017.08.08

    優しさ 【上海の街角で 井上邦久】vol33 (読む時間:約3分)

    • 「一つとして同じ場所のない地形に人は住み、独自の文明文化をつくり出す。多くの国がほこりうる『歴史』は、そんな人々の蓄積と時間の成層の賜物であるが、〇〇には歴史を誇れる基礎もなければ、文化を形成する人間の集団もなかった。しかし突然『開国』という変革がもたらされる。時間と文明が〇〇という土地に触れあった瞬間、火花を散らしたのだ。歴史ももたず、誰もがスタート地点にたてる『〇〇』という時空間に住まう人は優しい。強引な手段によって塗り替えられた歴史の記憶がないからだ。」


      冒頭から他著の引用で恐縮ながら、酷暑を言い訳に手抜きをしたと叱責されても、甘んじて受けさせていただきます。さて引用文では「〇〇」と伏字にしましたが、原文には何と書かれているのでしょうと、国語か歴史の試験のように問えば、上海在住の各位は「〇〇は、たぶん上海か横浜だろう」と即答されるでしょう。


      ただ上海には県城もあり歴史が皆無とはいえません。また住まう人が優しいか?については個々の体験や感受性で異なってきます。そして「強引な手段によって塗り替えられた歴史の記憶が無いか?」についても大いに疑問があるので、〇〇は上海ではなく、横浜が正解であろう」と回答される諸賢が多いことでしょう。


      『横浜大桟橋物語』(客船とみなと遺産の会 編:2014年)という本があります。広角度に視点と事例選択を拡げ、バランスの良い丁寧な編集で作りあげた書籍の横浜についての冒頭文からの引用でした。


      横浜の優しさ、ということでは次のコメントも印象的です。
      「基本的に(横浜)ベイスターズファンは優しい、本当に優しいですよ。(中略)あんなひどい状態でも応援し続けてくれるんですから。
      辛抱強いというか、本当に不思議というか・・・好きなんですよね。」
      という月刊ベイスターズファン元編集長の岸野啓行氏の発言を好著『4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ 涙の球団史』(村瀬秀信 双葉社)に見つけたものです。


      実際に美しく便利に整備された横浜の街で接する人たちは、大声で自己主張することも少なく、さりげなく機能やサービスを提供しながら、各自の好みの生活を維持しているように見受けられます。


      ただ、優しいという理由に「強引な手段によって塗り替えられた歴史の記憶がないからだ」と断定されると、そうとばかりは言えないのではないか、と疑義が生まれてきます。先の大戦末期に、強引な手段で(神奈川県警、笹下拘置所などで)個人や中央公論・改造社を抹殺した「横浜事件」を今こそ思い起こすべきではないか、と思うのです。治安維持法の運用強化、言論統制による異議申し立てへの封じ込めが行われ、予見逮捕と拷問による自白強要が続き、体力の限界に至ってから保釈され直後に死亡した人もいます。「横浜事件」のきっかけの一つは、細川嘉六氏の論文完成慰労会が富山県泊温泉で行われ、浴衣姿の編集者らを撮った旅の思い出写真を「党再建の共同謀議」の動かぬ証拠として、神奈川県警が中心となって捜査した事にあります。


      戦後、一部のグループが無罪認定と補償を求めて起こした訴訟も「証拠消滅」を理由に門前払いが続きました。遺族ら支援の会による粘り強い行動により、2009年3月30日になりようやく横浜地裁で「免訴」「実質無罪」の判決が出て、一矢を報いることができました。


      春からの国会で、強引な形で「共謀罪」の法制化が進められた頃、古くから横浜の文化を担う有隣堂や高橋書店を巡り、「横浜事件」に関する本の売れ行きを確認したところ、一冊も置いていないことに愕然としました。書店の人も此方の意図を理解しつつ、版元での絶版が多いことと購入の動きが乏しいことを口にしていました。国会への不満と「横浜事件」が地元でも結びつかないのは、「優しさ」ではなく、「歴史の記憶」がなくなっているということでしょうか?


      (了)


    2017.07.30

    日中の交流 【上海の街角で 井上邦久】vol32 (読む時間:約5分半)

    • 神奈川大学での学会出席のため、上海から横浜に来られた珈琲好きの先生と休日の午前をご一緒しました。ホテルからほど近い陋居にお越しいただき、濃い目の珈琲を淹れてから、忌憚なく色々な話の花を咲かせました。


      まず、前回3月末の来日土産に頂いた『顔梅華 口述歴史』(上海書店出版社)の御礼と読後感から今回の交流が始まりました。上海市文史研究館口述歴史叢書のシリーズで、著名な国画家というよりも、戦前の「連環画」の売れっ子といった方が通りの良い顔梅華さんが語る自分史を、先生が聴き取り原稿に仕上げた一冊です。顔氏に限らず、口述歴史の難しさは、どうしても主観的な側面が滲み出てくる点ではないか?という点を指摘しました。功成り名を遂げた大家の隠された部分の扱い、有体に言えば、現状に満足されている高名な老人たちにとって、触れて欲しくない側面裏面があっても、それを抉る事を期待するのは難しいでしょうね、という率直な感想を伝えました。ご本人の口述でなければ知りえない事例や人物評などはとても貴重であり、それを丁寧に聞き書きされた労作であることを十二分に理解した上で、書生論を口にさせてもらいました。「ただ、それだけではない」という点を意識しながら口述歴史を読みつつ、第三者が書いた別角度からの評伝等にも触れる姿勢が大切であろうと理解しました。蒋介石の何番目かの夫人、蒋介石が宋美齢と結婚するために正妻の座を失い米国留学に追いやられた陳潔如女史が口述したと言われる記録があります。様々な事情で長く公刊されなかった時期を経て,1992年にようやく台湾で出版された『陳潔如回想録』の例を挙げるまでもなく自叙伝の読み方は難しいものです。


      次に今年2月に勉誠出版から出された『戦時上海のグレーゾーン 溶融する「抵抗」と「協力」』堀井弘一郎・木田隆文(編)が話題になりました。21名の研究者が夫々の専門分野における上海のグレーゾーンについて健筆を振っています。序言で堀井氏は、1937年から1945年の戦時下の上海に於いて、日本軍側の「支配」と中国側の「被支配」があり、被支配側の内部にも「協力」と「抵抗」の異なる立ち位置があり、それもまた一枚岩ではなかったという「グレーゾーン」の定義をしています。関智英氏による「汪兆銘政権の人々」の複雑に絡んだ各グループへの精緻な分析、上井真氏の「劉鴻生の戦時事業展開」では、民族資本家が如何にして人と財の継承に腐心したかの考察、武田泰淳「上海の蛍」を手掛かりにして「中日文化協会上海分会と戦時上海の翻訳事業」について丹念に再確認された木田隆文氏の文章など、それぞれが一冊の本になりうるようなテーマがダイジェストされていました。長い間、赤か白か、紅か青かと二極分化して捉えてきた古い認識の蒙を啓いて貰えました。「政治・経済」、「社会・文化」。「言論・メディア」の三章に仕分けされていますが、239頁という限られた紙幅のなかに、広範なテーマを盛り込むにはかなりの力技が必要だったことでしょう。下世話な表現で恐縮ながら、大阪でのたとえ方で言えば、「てんこ盛りのかやくご飯」をオニギリにしたような印象が少し残りました、と先生に伝えた時、その温顔はそのままに、眼光が鋭くなった気がしました。そして交流とは、同じ平面で対等の立場で行われるのが本来の望ましい形でありながら、この書籍の各文章が研究対象とした時代は一方からの「直流」が大きな電位差で迸る中での「協力」であり「抵抗」であったという域まで想像力を逞しくすべきだと思い至りました。


      先生が上海に戻られた後に、2017年6月25日初版発行と奥付にある『上海の日本人街・虹口 もう一つの長崎』という賑やかな表装の本を偶然見つけました。著者は長崎県立シーボルト大学で教鞭を執り、「新長崎市史」の編纂に参画された横山宏章北九州大学名誉教授でした。長崎と上海を結びつける事例は多くありますが、この本は虹口をもう一つの長崎に位置付けることが主題の様でした。非常に多くの文献や資料を渉猟され、それを丹念に整理されていると感じました。巻末注の項には、珈琲好きの先生による日中交流史の著作からの引用が何回も出てきました。この本文中に、二人の中国人研究者の名前が記されています。一人は「劉建輝は、日本における【魔都】という言葉の使われ方に批判的である」(25頁)、もう一人は「上海における日本人街研究の第一人者である陳祖恩は、長崎人の活躍を次のように結論付けている」(55頁)という紹介に留めています。


      京都の国際日本文化研究センター(日文研)は今年創設30周年を迎え、磯田道史、呉座勇一ら気鋭の研究者の参画もあって活性化しているとの話を聴きます。6月13日に開催された第311回日文研フォーラム「筆談で見る明治前期の中日文化交流」(発表者:劉雨珍南開大学教授。日文研研究員)のコメンテーターとして登場した、日文研副所長の劉建輝氏はペリー来航時に翻訳官として随行した羅森から始まる日中交流について卓見を淡々と述べながら、一筋縄ではない各時代の日中間の交流の裏面や弱点を抉られていました。


      劉建輝『増補 魔都上海 日本知識人の「近代」体験』(ちくま学芸文庫)は、2000年にこの本が出された時、上海研究に一つの新しい風が吹いてきたと感じた(海野弘)と評された著作です。


      …上海は一九二〇年代にある日本人の「不良」作家によって「魔都」という異名を得た。以後この名は上海というさまざまな「顔」が錯綜する空間をよく表す言葉として、ほとんど陳腐になるまでさまざまな人に引用されてきた。そしてその喚起されたイメージはしばしば上海と関係した人びと、とりわけ日本人の心象風景の一つにさえなったといえる。…上海がはじめてその「魔性」を現出したのは、けっして二十世紀に入ってからではなく、その起源はむしろ遠く十九世紀の七〇年代にまでさかのぼる。…(劉建輝 前掲書165頁)


      上記の横山氏も一部を引用している「魔都」の曖昧なイメージを鋭く劉氏が抉った文章です。


      此処では「魔都」よりも印象に残った、未来に向けての劉氏のメッセージを引用します。…上海、また上海人自身も「過去」と「未来」の間を揺れ続けているが、すでに五万人を超える長期滞在者を擁する日本、また日本人が、「過去」を背負いながらも「未来」へ向けて、いよいよ新たな「伝説」を作り出さなければならない時期に差し掛かっていると言えよう。その作業こそが、いま一度有意義な「他者」として上海と相対するきっかけとなっていくに違いない。…(前掲書292頁)


      珈琲好きの上海の先生からの教えを踏まえて、「他者」として対する時、初めてフラットな交流が始まる、という基本姿勢に立ち返りたいと思います。


      (了)


    2017.07.06

    写真で見る「青島に残る日本の残影」 【青島たより 工藤和直】Vol.74 (読む時間:約2分半)

    • 青島は、当時漁村に過ぎなかった青島村に1897年(明治30年)11月14日、突然ドイツ海軍陸戦隊が上陸占領したことから始まる。青島の歴史は今年で120年になる。青島市の中心にある中山路から北に行くと、日本企業が設立拡張した館陶路金融街(横浜正金銀行や朝鮮銀行、三菱商事や三井物産)がある。現在も金融の中心地であるが、当時から金融センターの役目を持っていた事が理解できる。ただ、今はドイツ風情街と命名され観光化されている事に多少違和感がある。中山路には日本映画を興行していた国際劇場が現存する。


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      ドイツ総監府周辺(太平路の日本総領事館跡)から江蘇路、熱河路から北に貯水山の青島神社跡周辺は、日本人が多く住んだ街であった。青島神社跡は児童公園として整備され、本殿跡は青島電視台となっているが、石段などはそのままである。西本願寺跡は、今では無棣四路小学校となっている。内地への手紙は青島郵便局大和町支店から送ったのであろう。桟橋バス停の対面は青島日報社となっているが、かつては中央飯店(1904年竣工)であった。青島路を越えた所に日本総領事館(徳華銀行)があり、同じ敷地内に膠済鉄道の敷設工事や炭鉱開発を進めた山東鉄路鉱路公司建屋が現存する。


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      日本軍関係施設は、それまであったドイツ建屋を借り受けた(略奪した)形でスタートした。しかし、どの施設にも日本軍が関与した説明書きは見当たらない。今では、憲兵分隊は青島市公安局、憲兵隊総部は宗鑫博物館になっている。その他陸軍倶楽部跡地は青島工人劇場、青島病院の対面の陸軍病院建屋も公安局となっている。


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      日本人学校は、ドイツが建設した学校を横滑りに学校として使ったことからスタートした。その後、青島中学を含め1917年頃から新校舎ができて来た。どの学校も、創立100周年になる。青島で生まれた日本人は、廣瀬小児科に行くことが多かった(第一小学校の北)。ドイツ総監府徳県路に個人医院(若槻病院)があるが、表札には私人宅としか表示されてない。青島病院は1904年完成した総督府野戦病院からスタートしている。2017年6月にはまだ改装中であった。普済病院は膠州路に面して今も現存するが、1919年に華人用として建てられた病院であった。


      kudou74-06


      1912年(大正元年)には、ドイツはルンプラー型軍用飛行機を1機配備していた。この飛行機がドイツ総監府付近を撮影したのが下記の俯瞰写真である。当時の航空写真技術には驚きを隠しえない。現在その写真に見える建物を地上から撮影し併記して見た。多くは外装が補修されてはいるが、骨格は100年前と同じであることに気付く。手前左に隠れてプリンス・ハインリッヒホテル(1)があり、右手に日本総領事館(当時は徳華銀行)(3)が見える。青島路を左右に分断する広西路にドイツ郵便局や官公庁が立ち並ぶ。総監府から右手斜めに領事館街と呼ばれた沂水路があり、青島病院(総督府野戦病院)(11)に繋がる。


      参考文献:青島と山東半島(旅行人ブックス)


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    2017.07.06

    斉の国都「臨淄」を巡る 【青島たより 工藤和直】Vol.73 (読む時間:約6分)

  • 2017.06.21
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