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コラム「上海の街角で」

ニ月礼者 【上海の街角で 井上邦久】vol28 (読む時間:約3分半)


    • 二月礼者の意味を辞書や歳時記で調べると、年明け早々に多用であった為、年始挨拶ができず、二月になって関係先の挨拶に回る人、またはその風習、とあります。ただ、今の日本にそんな人や風習が多く残っているとは思えませんし、二月どころか正月でも私的な挨拶回りは徐々に減っているようです。年賀状も元はと云えば、年始回りを端折って葉書一枚で代用する簡便法が始まりだと思います。昨今ではその簡便な年賀状さえも省略してメールで済ませる御仁が増えています。


      中国ではもともと日本ほど年賀状の習慣が盛んではなかったようですが、少し前に学校生徒による豪華なグリーティングカードの交換が社会教育問題になっていました。そして昨今では紅包をチャットで贈るスタイルが新常態化しそうな気配のようです。


      そんな中で二月礼者とは絶滅危惧種のような年始挨拶の形態のようでもあります。ただ日本の正月祝いと中国の春節祝賀を補完する意味では、それはそれで便利な言葉のような気がします。米国の偉い人はもっと上手で、中国の偉い人への春節の挨拶は失念したものの、元宵節には何とかメッセージを届けて帳尻合わせをしたのは周知のこととなりました。


      ところで、この二月礼者という季語を知ったのは、


      紹興酒ぶらさげ二月礼者かな   瞿麦


      という俳句を知ったことがきっかけです。これは上海在住の朱實先生の作品です。台湾彰化の人、笑いながら大正生まれと自称される朱實老師は、瞿麦という俳号で長年に渡り俳句や漢俳(漢字のみで五七五文字)の秀作を残されています。或る方の紹介で朱實(瞿麦)老師との交流が始まったいきさつは、この欄で拙文が掲載されるようになった第一回目に綴っています。その後も俳句や漢俳のご教示を頂いたり、おこがましくも老師の漢俳を俳句に移してみたりの試みを続けています。また、映画監督の山田洋次さんとの仲介をさせて頂いたこともあります。山田作品の『家族はつらいよ』がもうすぐ中国でも公開されるらしいことも嬉しいことです。


      ここで、汗顔の至りではありますが老師の漢俳と拙訳による俳句への置き換えを参考までに例示させてもらいます。


       一雷驚百蟲 万象更新新春意濃 耕種微雨中   瞿麦先生
          啓蟄や万象目覚む微雨のなか       拙


       掌中転胡桃 緩緩自問又自答 秋思幾多愁    瞿麦先生
          掌に胡桃自問自答で夕べまで       拙


      二月礼者の句は朱實先生が日本の大学で教鞭を取っていた頃に句誌に残されたようです。 それから幾星霜が過ぎた昨年の秋、東京神田のA社が主催する「伝統を次代に繋ぐ」秀作俳句展示会に二月礼者の句が選ばれたようだと老師からの電話がありました。おめでとうございます、と天真爛漫に反応したところ、実はそれほど単純ではなくて、出品するとなると、先ずは手数料が必要で、更には西陣織による高級表装の「実費代」として、合計で十万円近くを送金しなければならない由で、どうしたものかなとの相談でした。


      この文化的な縫いぐるみをまとった申し入れは、海を越えた大掛かりな企画工夫だから丁重に対応すべきだ、と日本在住の朱老師の息子さんからのご連絡がありました。それは婉曲に謝絶すべきだとの穏当なご意見でした。上海のベテランの詩人たちの会合では若さ溢れる熱気侠気から「作品を提供する場合は、逆に主催者から作者へ謝礼金を払うのが筋だ」という意見が多かったとのことでした。最終的に老師にはA社の担当者に対し、愛着のある旧作を日本で展示して頂けるのは光栄です、ただ上海で隠遁世活をしている老書生らしく自筆色紙を会場の隅に掲げて頂ければ幸いです、と返事をしてもらいました。加えて上海からの色紙の制作料と国際航空郵送料は作者で負担するという申し出をされましたが、A社からは音沙汰のないままになったようです。


      「二月礼者」という季語、「婉謝」という対応姿勢、卒寿を超えた老師の聡明さを学ばせてもらいました。それにしても日本と中国の文化交流は、俳句と漢俳の交流のように一筋縄にはいかず、落とし穴もあることを再認識しました。諸事情と怠惰のため、日本の年初の挨拶を控えた不肖の弟子は老師の軽味に倣って、春節の頃に年始の挨拶句を捻ってみましたが・・・


           微醺帯び二月礼者と知られたる  (拙)


      (了)


    2017.02.20

    梅蘭芳 【上海の街角で 井上邦久】vol27 (読む時間:約4分)


    • 春節を目前にした横浜の中華街、関帝廟ちかくの横浜中華学院から聞こえてくる太鼓の音にも熱が帯びて来ました。一方、横浜山手中華学校では、徐夕の日に新潮戯院による京劇ワークショップが開催される予定です。寒気のなか、月は細くなり、紅い灯籠も鮮やかさを増して、春節の到来を感じさせます。


      昨年、東京の成城ホールで、石山雄太さんらの新潮戯院による京劇を観る機会がありました。北京では長安戯院などの大劇場に通い、上海では福州路の庶民的な天蟾逸夫舞台で聴いて以来の京劇であり、しかも舞台近くの良い席でしたので久しぶりに堪能しました。


      石山雄太さんについては、よく知られている通り、中国戯曲学院附属中学校から留学し、同大学を卒業後に外国人として初めて中国国家京劇院に所属を認められ、日本・中国で地道な活動を続けて居られます。


      京劇を海外で初めて公演したのは、梅蘭芳の率いる劇団であり、1919年の日本に於いてでした。二回目の来日公演は1923年で、関東大震災慰問のチャリティ興業であったとのことで梅蘭芳に関する美談も残っています。戦後日本での初の京劇上演は1956年で、やはり梅蘭芳一行でした。その折の録画をNHKで見たおぼろげな記憶があります。日本の歌舞伎の近代化を京劇改革に採り入れ、絶世の女形、そして『親日家』として日本人の間でも絶大な声価が高く、好感を持たれていたようです。


      梅蘭芳については多く語られ、京劇の進化発展に貢献し(二胡の導入など)、欧米でも爆発的な人気を博したことは広く知られています。ここでは、冗語を避けて、林語堂による梅蘭芳への簡潔無比な賛辞を記すことに留めます。


        他是造物主精妙無比傑作
        He is a wonderful masterpiece of the Creator.


      かれこれ5年以上前、日本からの友人夫婦とともに北京の下町、和平門近くをぶらついて居た時に、しもた屋風の店がポツンポツンとあるだけの人通りの少ない路に紛れ込み(あとから確認すると、前門河沿街でした)、背の高い壁が続くなかで、ある家の古い門が開かれ、客寄せ人が出て来ました。取り立てて此れといった目的はないけど、好奇心はある我々三人は、このような朽ち落ちた街路の壁の中に劇場があるのか?と訝りながら木戸銭を払って入ると、中はかなり奥深く、整然とした内庭に続く劇場は清潔な作りでした。この偶然が、数百年の歴史を持ち、梅蘭芳の祖父から続く劇団の常打ち場であった「正乙祠戯楼」との遭遇でした。改造改装されて日も浅そうな劇場で、梅蘭芳の息子である梅葆玖が総監する「梅派」の名作のダイジェスト上演を待ちました。


      梅蘭芳が創作し、練り上げた「覇王別姫」や「貴妃酔酒」ではなく、おどろおどろしい武人が出てくる「抗金兵」から始まりました。


      「抗金兵」は1933年に上海で初演。金による宋への侵略が続く中、長江防衛線の潤州(鎮江)の守将である韓世忠とその夫人梁紅玉が金兵を追い返した歴史故事に題材をとった作品です。金兵を迎撃せんと金山江上に布陣した味方を鼓舞する為に、梁紅玉が自ら太鼓を鳴らした場面が見所のようです。


      九一八事変のあと、梅派京劇の故地である北京を捨てて、梅蘭芳は1932年に一家を挙げて上海に移住しています。そこで「抗金兵」を創作して、自ら将軍夫人の梁紅玉を演じています。女性ながらも勇猛果敢に、敵に抗する女大将として唱念・撃鼓・武打など京劇技法を駆使して演じきり、上海天蟾舞台の満場の観客は梅蘭芳の抗戦戯劇に割れんばかりの拍手を送ったとのこと。


      その後、1941年に役者生活に終止符を打ち、香港・上海で遁世しています。その間、どんな懇請や圧力があっても舞台に立たず、女形役者を廃業する意思表示として髭を生やしたとも言われています。髭面の梅蘭芳の写真は未だ見る機会がありませんが、稀代の女形が髭を蓄えたことの重み、その抵抗姿勢に、戦前戦後の日本人が安易に「親日派」と思い込んだ梅蘭芳の骨の太さや硬さを感じます。戦争終結後の1945年10月には舞台復帰しています。


      横浜中華街に本店を置く『梅蘭』で名物の焼きそばを食べた後、中国人マダムに、店名の由来として梅蘭芳とご縁があるのか?と軽口を叩きました。しかし残念ながら中年のマダムは、梅蘭芳その人をご存知なかったので話が続きませんでした。55年前に亡くなった京劇役者のことを、春節の太鼓を聴いて思い出す酔狂な日本人客の方が普通ではないと自重自戒しました。


      ただこれからも「抗金兵」が舞台に掛かることがあるでしょう。(但し、頻繁に上演されないことを祈りますが)歴史教育が強化されるという昨今の政策下で、若い上海人が「抗金兵」に抗日意識を募らせ、割れんばかりの拍手を送るかどうか?福州路方面へ行かれる折に舞台を覗いてみてはどうでしょう。(了)


    2017.01.22

    『この世界の片隅に』 【上海の街角で 井上邦久】vol26 (読む時間:約4分)


    • 「バカにされたい大学」というキャッチコピーで受験生にアピールしているデジタルハリウッド大学(東京・神田)。「バカにされよう。世界を変えよう。」という姿勢で設立10年目を迎え、注目度を上げているようです。「学歴」とは、学校歴のことだけを意味して、学習歴は不問に付されることが続く中で異色の大学のようです。
      そのデジタルハリウッド大学の萩野健一教授に「聖地巡礼と地域再生」についての報告を身近で聴かせて頂きました。改めて言うまでもないことと思いますが、ここでいう「聖地巡礼」とは、アニメや映画の舞台となった街や土地を訪ねて、作中人物との一体化を試みる行動のことであり、エルサレム、メッカそして四国八十八か所といった聖地を訪ねる巡礼とは異なる新しい用語です。『ローマの休日』でのスペイン広場、『君の名は』で真知子巻きの岸恵子が待った数寄屋橋は映画作品から生まれた伝説的な聖地とされます。
      国内外からの訪問者が増え続けている『スラムダンク』の江ノ電踏切、『神様はじめました』の川越市などのアニメ聖地の紹介がありました。色々と新鮮な発想と情報を教えて貰いながら、「そこに住んでいる人たちがアニメをよく知らないから、なぜ急に人出が増えたのか?分からない」「増えた訪問者をしっかり捉えて地域再生にどのように結び付けるか?地元は手をこまねいている」など多くの現場の実態も知りました。ブームになっても、その多くは2~3年で潮が引いていく傾向があるようで、順風が吹いている間に、地域に根付いた産業や文化に育てるには、受発信を担う地元のキーパーソンを育むことが最も重要だ、という一つの指針に導かれました。
      クールジャパンの掛け声が大きくなる前から日本のアニメの世界的な浸透力は潜在的に広まっていたのであり、最近になって鋭角的に顕在化してきたのではない、という分析には体験的にも同感できました。ただ、それに続く「アニメの技術が優れているから評価されているという見方は皮相的であり、海外の人たちはアニメを通じて日本の文化や日本人の発想法を発見しているのだ」と主張される萩野教授の考察見地が大切だと思いました。アニメ聖地の住民が「なぜ人が来るのか分からない」状態が、実は日本全体にも共通していて、多くの海外からの来訪者の来日目的や心情が「分かっていない」のではないかと考え始めました。


      上海でもアニメ『君の名は。』が封切られ、爆発的な集客に関する報道や口コミが伝えられています。春節前後から新たな四ツ谷の須賀神社など新しい聖地巡礼の対象が増えることは間違いないことでしょう。前評判も高く、封切り前から既視感覚さえ感じていた人たちは、早々に日本渡航の手配を済ませているのかも知れません。一方で『君の名は。』は、いずれ航空機内サービスで視れば良いのではという余裕のある方々もいるようです。一方、DVDや機内サービスではなく、映画館に通って観てもらいたいと思うのは、こうの史代原作の『この世界の片隅に』であります。


      こうの史代が漫画アクションに連載していた『夕凪の街 桜の国』を単行本で読んだのは十年以上前になります。その後、麻生久美子・田中麗奈らが演じる映画を観てからも十年近くになります。原爆投下後の広島に住み続けながら、貧しい生活のなか、原爆の後遺症やトラウマに戦い続ける人たちを描いたある意味で神聖な作品でした。
      あまりにも高い評価を受けた作品のあとでの『この世界の片隅に』でしたが、肩に力を込めた神聖な世界ではなく普通の人たちの生活や世間に誘われます。夕凪の街である広島市郊外の漁村から軍港のある呉へ嫁ぐ主人公すず。実直な夫や双方の家族とのほのぼのとした世界。幼馴染の水兵や遊郭で働く貧しい出自のリンとの交流も含めて、等身大に描かれた庶民の暮らし、まさに世界の片隅の生活を細部に至るまで丁寧に積み上げていきます。積み上げた時間の長さを知らされただけに、呉の大空襲、そして広島の原爆投下によって多くの生命と記憶が短い時間で損なれたことを痛烈に感じます。ほのぼのとした世界が、瞬時に失われる酷さを感じました。長崎への原爆投下を描いた山田洋次監督の『母と暮らせば』にはある種のファンタジーが漂い、こうの史代の『この世界の片隅に』には強ばりのないリアリティを感じました。


      上海では映画館上映の機会が限定的ではないかと推定される『この世界の片隅に』ですので、呉や広島が「聖地巡礼」の対象になるとは一概に言えません。しかし、多くの人たちにも何とか作品に接する工夫をしてもらい、その高度なアニメ技法とともに庶民の粘り強さや向日性気質などを感じとって貰えればなあ、と思います。
      正月や春節休暇を日本で過ごす日本人や海外からの来訪者たちのために、この映画が出来るだけ長く上映され続けることを期待しています。仮に映画館へ行くタイミングを逸した場合には、原作の漫画単行本、或いは雑誌『ユリイカ』11月号の「こうの史代特集」で、その世界に接することも可能です。(了)


    2016.12.21

    五角場 【上海の街角で 井上邦久】vol25 (読む時間:約3分)


    • 10月某日、某所にて、上海D大学のC教授からじっくりお話しを聴かせて頂きました。
      スターバックスのマグカップを前に置き、雑談をすることを惜しむようにメインテーマを語り合いました。C教授が学会に発表される「大上海計画」についての個人授業という、とても贅沢な時間の始まりでした。
      「大上海計画」は、1927年から1937年に南京の国民政府が立てた上海都市現代化を目的とするものであり、その中心理念は民族の発展追求、その核心地域は江湾地区、今の五角場でありました。2010年頃に五角場を歩いたことを思い出しながら地図をたどると、時計回りに淞滬路・翔殷路・黄興路・四平路・邯鄲路の五本の道が形成するペンタゴンの中心が五角場。そして周りには経軸に国政路・国庫路・国和路などの「国」が付く道、横軸には政府路・政治路・政立路などの「政」を冠にする名前の道が沢山あります。2010年当時の政府路などは鄙びた路地のような小路であり、道路名の大きさとのギャップに思わず笑ったこともあります。


       教授の資料によれば、1927年7月に上海特別市政府が成立し、南京とともに中央直轄市になり、同年11月の「大上海計画」設計委員会成立に基づき、市政府大廈(現在の上海体育学院)、スタジアム(現在の江湾体育場)、プール、博物館(現在の長海医院)、図書館(現在の楊浦区図書館)などが1930年前後にかけて陸続として建設されています。


      「道路命名には国民政府が重視する用語が採用されています」、「建築物の設計に三か所の窓やアーチが採り入れられているのは、国民党が掲げる三民主義の影響ではないでしょうか?」という五角場散歩の印象記憶からの素朴な質問に、教授は前者の命名の件は間違いない、後者の設計理念は分からないという冷静な回答を為さいました。
      「同じ時期に、列強租界地を新設の東南西北の中山路で囲ってその増殖を喰いとめようとした、そしてその囲いの外に自分たちの都心を造ろうとした、それが五角場である、という解釈は正しいのでしょうか?」という質問に、教授は「対、対、対」と力を込めて肯定されました。
      更には、その時期の中国経済は地域限定的ながら、高度成長とも言える発展ぶりであり、官僚資本家・民族資本家が力を蓄えつつあったことが、五角場建設などの「大上海計画」の背景にあったことも間違いなさそうです。
      また、医療中心やモデル学校設立や全国体育大会の開催など、孫中山が目指した「民生」の具現化とも言える先駆的な試みもあったことを教わりました。
      もちろん、明るく輝くばかりではなく負の側面もあったことは事実でしょう。ただ、これまで、1949年の中華人民共和国成立までの負の部分、暗部が強調されすぎていたのではないかと気づきました。
      1937年夏の第二次上海事変、そして日本軍部の戦線拡大派の抬頭により「大上海計画」は頓挫。そのまま歴史の遺物のような存在として眠り続けることになり、経済発展、国民教育、民生進歩といった近代中国の夢の実現は立ち消えになりました。
      そして今、上海副都心計画の重要拠点として五角場の拡大は凄まじく、商業や文教の核としての存在感を高めているようです。
      五角場の鄙びた小路に時代錯誤的な名前が残っていることには、「笑えない」歴史的な背景があることを改めて感じています。C教授の引率で五角場をまた歩きたいと思います。
      そんなことをお願いして、冷えた珈琲を飲み干しました。(了)


    2016.11.23

    神無月 【上海の街角で 井上邦久】vol24 (読む時間:約4分)


    • 今日、10月19日(水)は、陰暦9月19日。今年は9月、10月と続けて陽暦と陰暦がちょうど一か月ずれなので憶えやすくて助かります。昼間はまずまずの好天でしたが夕方から曇りがちになり、今宵一九夜の月の光は未だ見えません。
      今日は魯迅(周樹人)の命日にあたります。1936年10月19日、55歳の一生を上海市虹口で終えています。主治医の須藤医師の診断内容は竹内好『魯迅』に詳しく記されています。また井上ひさし『シャンハイ・ムーン』でも臨終のシーンが描かれています。一言で言えば、国民党や左翼文学者との激しい諍いの過程で、魯迅の身体はボロボロの状態であったと思われます。
      「今天晩上、很好的月光」で始まる『狂人日記』、自序に続く『狂人日記』に始まる14編の作品集『吶喊』には『故郷』や『阿Q正傳』も収められています。そして、『吶喊』に始まる小説と雑感文章により魯迅の存在感が高まったことに大方の評価は変わりません。
      魯迅は日本と中国の関係が決定的に悪化する前に逝去し、中国共産党が政権樹立後に、魯迅を中国現代文学の旗手として高く評価したことにより、長く神格化されてきた印象があります。最近になって、身の丈通りの魯迅を伝えようとする著作や展示が目に入るようになりました。一例として藤井省三教授の著作で魯迅と許廣平の関係を「女子大教師と教え子との不倫関係の同棲」とする率直な表現に触れ、虹口からハイヤーを飛ばしハリウッド映画を観に行っていたという有名なエピソードも再確認しました。魯迅記念館の研究職には魯迅の妻、朱安についての『私も魯迅の遺物です』という著作があります。この数年で記念館の展示も大幅に変わりました。朱安夫人の写真も展示されています。一方では、共産党新政権の要職に就いた許廣平女史は、魯迅の母親と正妻への送金を続けたという記述もあります。そして、ある人から「魯迅が革命後も存命だったら?」との問いかけに、毛沢東は「相変わらず陰でぶつぶつ不満を漏らしているか、とっくに批判されて消えていることだろう」と応えたという話を聴いたことがあります。


      あるベテラン教授から中国に関するテキストリーディングの指導を受けています。先週は、近代詩の先駆者の徐志摩の『你去』という詩を読みながら、中国語文法の基本を鮮やかに解明してもらいました。今週は、毛沢東の詩文、書のお話でした。その取りかかりとして、勤王の僧である月性の詩『将東遊題壁』を読みました。月性は西郷隆盛と入水自殺を遂げ、西郷は死に至らなかった。その友人の詩を西郷隆盛が大切にしていたことから、この詩が西郷作であると誤解した十七歳の毛沢東が同じような星雲の志を詩に残している、という繋がりでした。
              男児立志出郷関   学若無成不復還
              埋骨何期墳墓地   人間到処有青山
      人間(じんかん)到る処に青山(墓所)あり、という七言は良く耳にします。
      10月19日に毛沢東に関する指導を受け、しかも月性の詩を導入部として読んだことは、偶然とは言え、今日を命日とする魯迅に思いを馳せ、併せて本日を誕生日とする我が身の来し方を振り返る縁(よすが)になりました。


      本編も含めて、1930年代の上海を中心としたテーマで拙文を綴り、毎月不特定の読者の皆様にご笑覧願って足かけ3年になります。それ以前から「上海たより」「北京たより」そして「中国たより」と拠点の名を付した極めて個人的な発信を、毎月特定の方々宛てにお届けしています。二つの文章発信の場と姿勢が違うので、内容を極力重複させないように努めているつもりです。ただ、この神無月10月はその戒めを破って「中国たより『青島会』」と題する拙文との共用を以下の通りさせて頂きます。


      この夏、加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(2010年)が新潮文庫に入り、続いて同じ八月に『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』が出版されて、ともに刷数を増やしているようです。
      日清・日露そして第一次大戦が流れとして繋がっていること、そして山東半島や青島がその繋ぎ目として重要な土地であることが改めて解明されています。
      二冊の本は、中高生に授業形式で話を進めるスタイルが共通しています。優秀な中高生が鋭い指摘や回答をしていることも共通しています。後書きで加藤さんは、中高生とともに中高年にもどうぞ、とお誘いをしています。
      「近代史、現代史を授業では習っていないからなあ・・・」という言葉をしばしば耳にします。何故、授業で教えないか?本当に教えていないのか?についてはよく分かりません。ただ、仮に授業での印象が少なくても、知る・学ぶ方法は色々あることを加藤さんは示しています。


      10月19日の夜も更け、高い空で月が光っています。(了)


    2016.10.20

    中日大辞典 【上海の街角で 井上邦久】vol23 (読む時間:約4分)


    • 長年お世話になり、ずっと身近に置いている書物は『中日大辞典』をおいて他にありません。
      最近では、電子辞典の普及で重くて大きな辞書とは縁が薄くなる傾向にあるのでしょう。また熱心に新語を採り入れて増補改版を重ねている『中華現代漢語詞典』のような便利な存在もあります。その他にも各種各様の辞書が出版されて必要に応じた購入ができる今、『中日大辞典』がどのように位置づけされているかについては詳らかではありません。しかし個人的な思い入れが深い辞典であることに変わりはありません。


      手元に置いている愛知大学中日大辞典編纂処編『中日大辞典』には1968年2月1日発行、1971年4月1日再版発行と記されています。編者のことばとして、鈴木択朗編纂委員長は冒頭に「昭和初期以前に中国語を学んだ人にとって最大の悩みは教科書・参考書・辞書がすこぶる不備だったことである」と書かれています。その空隙を埋めるべく上海の東亜同文書院にて日中中国語教師により辞典編纂の準備が始められるも、敗戦によりカード約14万枚、語彙数にして7~8万語の資料が中華民国に撤収され、戦後・革命後に内山完造日本中国友好協会理事長と郭沫若中国科学院院長の仲立ちや周恩来首相の理解の下、1954年9月に引揚船興安丸で日本へ返却され、東亜同文書院の後継である愛知大学にて辞書編纂が再開され、更に十数年を費やして『中日大辞典』が完成されました。
      東亜同文書院の成り立ち、愛知大学の創立そして『中日大辞典』編纂の詳しい経緯については、藤田佳久愛知大学名誉教授による『日中に懸ける  東亜同文書院の群像』(中日新聞社)に詳しく、芥川賞作家の大城立裕氏(1943年に東亜同文書院入学)の『朝、上海に立ちつくす―小説東亜同文書院』(講談社・中公文庫)も実体験者ならではの描写がリアルであった記憶が残っています。
      また教師として、辞書編纂チームにも参画した坂本一郎先生は戦後に関西の大学教授のかたわら蝶理株式会社の中国貿易室でご指導をされていました。短い期間ですが謦咳に触れながら、とても偉い先生と聞いて遠くから燈台のように眺めていることが多かったことが悔やまれます。
      岩波書店から出ていた倉石武四郎氏の編纂による『ローマ字中国語辞典』はローマ字拼音で引く辞典というユニークなものでしたが、なかなか使いこなせずに弱っていました。そんな中国語学習の入門者に『中日大辞典』発行のこと、そして部数に限りがあり入手が困難であることが伝わってきました。1971年の秋の日、再版本が京都御所近くの彙文堂で入手できることを知り、大枚4,000円を握り締めて向かったことを憶えています。3畳一間の下宿屋の家賃が3,000円、そして一か月の生活費が1万円でしたから大きな出費であり、生まれてから一番高い書籍購入でした。しかし、大げさではなく沙漠の羅針盤のようなこの大辞典のお蔭で様々な学恩を貰いました。 東亜同文書院は南京同文書院を編入して、上海黄浦江左岸の高昌廟桂墅里に校舎を開設。辛亥革命後のいわゆる第二革命の内戦時代に破壊されるも一時的に長崎や大村の寺院や上海の共同租界での仮校舎住まいを経て、徐家匯虹橋路の新校舎を建設しました。全国都道府県から自治体の経費負担で各二名の推薦派遣学生を受け入れています。


      東亜同文書院は外地での日本人の為の中国研究、中国語研鑽の教育機関として著名でありますが、逆に中国人にとっての日本研究、日本語学習の学校として、弘文学院や東亜高等予備学校が著名であることを、譚璐美さんが白水社のHP連載を加筆された新刊『帝都東京を中国革命で歩く』(白水社)で教わりました。
      東京市牛込区西五軒町34番地(現、新宿区西五軒町12,13番著)、江戸川橋交差点から神田川沿いにあった弘文学院には清末から民国にかけて7,192人の中国人が入学したとのことです。その中の一人、魯迅(周樹人)は弘文学院で二年間学んだあと、仙台の医学専門学校(後の東北帝国大学医学部)に推薦入学しています。
      東京市神田区中猿楽町6番地に所在した東亜高等予備学校は、年に1,000人から2,000人の中国人留学生が入学した学校で、周恩来・郭沫若・廖承志そして譚璐美さんのお父さんも学んだ教育機関です。1945年、閉校となりました。


      北京、上海そして日本で多くの大学生と交流してきました。日本語弁論大会への支援、集中講座などへの出講、個人的な相談など様々な形で若い世代の中国人や日本人と接しています。十九世紀末から始まった日本と中国の学生交流の足跡を学びながら、自らの若い時代の実践や体験を記録し、次の世代へより良い形でバトンを渡すこと、これが「活到老、学到老」の基本であり、目的の一つかなと思う今日この頃です。(了)


    2016.09.13

    上海の初印象 【上海の街角で 井上邦久】vol22 (読む時間:約4分半)


    • Whenever誌の江蘇版で連載が始まり、好評のうちに北京・天津・上海・広東版にも掲載され、30回のロングラン連載となっている『数字で学ぶ中国経済』を愛読されている方も多いことと思います。改めてそのタイトルを見ると「中国の達人が教える」「中国40年の変遷」というサブタイトルに挟まれていることに気付きました。連載執筆者の松本健三さんとは上海駐在の同年齢の仲間として知り合いました。1980年以前、北京の総公司か広州交易会でしか商談機会がなかった頃から、お互いが日中貿易業界に身を置いていたことが分かってから親密度が高まりました。松本さんは、9月号に「井上さんと私は1970年代から日中貿易に携わってきた最後の商社マンです」という一節を綴られているようです。
      「達人」から「最後の商社マン」と表現されるのは、何とも面映ゆいことで、畏れ入っております。こちらは松本さんと違って、数字にまるで弱く「達人」には程遠い存在です。ただ化石のような最後の商社マンかどうかは別にして、40年に渡る商社での業務を通じて、日中貿易の変遷を体験してきたことは事実です。今もまだ同じ商社に籍を置いているので、商社活動での回想に流れるのは控えます。ここでは商社に入る前、つまり国交正常化以前に体験した上海について素描を試み、松本さんへのアンサーソングに代えます。


      1971年の雪融けの季節、初めての上海へ。学生友好訪中団の仲間20名との団体旅行で、南昌から上海への列車移動でした。香港の羅湖から橋を一人一人渡り、深圳駅で入国審査を受けて以降一か月、すべて列車での移動でした。上海駅に到着する手前から鐘や太鼓が賑やかに鳴り響き、ホームは歓迎の横断幕を掲げる紅衛兵たちでぎっしり埋まり、まさに「熱烈歓迎」でした。駅のホームの賑やかさと対照的に、街はガラ~ンと静まり返り、外国人に開放されていた数少ないホテルの和平賓館も客が少なく、高い天井と暗い照明のせいもあって、ガラ~ンと静かでありました。時々、賑やかになるのは、革命歌を歌いながら「遊行」(行進と訳せば良いでしょうか)する隊伍が窓の外を通り過ぎる時くらいでした。
      夕食後の長い夜の時間を持て余して、本を探しにホテルの読書室に行きましたが、見つけたのは『中国画報』『北京周報』そして『毛沢東選集』全4巻でした。広州でも北京でも同じくこの三点セットだけを目にしていたので印象が鮮明であったわけでして、決して記憶の「達人」だからではありません。もちろん赤い表紙の小さな『毛沢東語録』だけは其処かしこに山積みされていました。現在、街の骨董屋で『毛沢東語録』を売っているのを見るたびに『中国画報』の表紙を飾った健康的な紅い頬をした女工さんや「毛語録」をかざして「遊行」していた紅衛兵たちは、還暦前後となった現在もまだ赤い頬をしているのだろうか、と詮無き想像をしてしまいます。


      外灘で黄浦江の向う側について尋ねると、「辺鄙な土地です」と言うだけの遠い存在で、浦東という名称を使わずに説明されたような気がしています。その逆に虹口の魯迅公園はとても近くに感じました。和平賓館から車の少ない路を飛ばし、途中の何か所に信号機があったか定かではありません。「中国では赤信号はGOなのかな?」という軽口を叩く同行者も居れば、「我々の外国からの来賓(外賓)の車が通る時は、信号を青に切り替えるのだ!」と、したり顔で言う分析好きな同行者も居ました。魯迅公園では立派な魯迅の墓を見て、サトウキビを齧った記憶しかありません。たしか、現在の魯迅記念館の前身の施設も閉鎖中だったと思います。当時、歴史論争・文学論争などは押しなべて政治論争になっていましたから、記念館や博物館の多くは閉鎖されていたのではないでしょうか?一方、静安寺近くに威容を誇っていた工業展覧館は開放されていました。中央に星の塔が聳えるソ連風の巨大な建築物は他を圧していました。1980年代になり上海出張を始めた頃に、中華料理店以外では数少ないレストランとして貴重な場所となり、ボルシチを食べに通った記憶があります。今では、その四方を摩天楼に囲まれて。クラシックな建物は街の底に侍り、見上げていた星の塔も高架道路から横に見えます。
      1970年代初頭の上海見学コースの定番は、馬陸人民公社だったようです。1972年の秋、北京での国交正常化交渉を終えたあと、周恩来首相の接遇で上海を訪れた田中角栄首相・大平正芳外相・二階堂進官房長官の一行も虹橋空港から馬陸人民公社を訪れています。このことについては、以前に「上海たより『馬陸』」に綴りましたので重複を避けます。その後、馬陸は葡萄の産地として有名になり、葡萄園観光としても人気があるようです。かつての馬陸人民公社の名残を探しに行っても見つからず、地下鉄の馬陸駅前にはマンションが林立しています。


      単独で街歩きもできず、定番の訪問先での交流会を通じてのみの上海初体験でしたが、訪れた他の都市との違いとして印象に残っていることがあります。一つは、上海から南京へ移動する際の上海駅のホーム、到着時と同じ型通りの鐘や太鼓が賑やかな中で、横断幕の陰に一人のふてくされた様子の女子紅衛兵を見つけました。列車が走りだした後で、仲間たちの話題は「孤立を恐れない」女子紅衛兵の存在に集中しました。分析好きの同行者は「疎外がないはずの社会主義社会での疎外」について講釈をしてくれました。印象に残ったもう一つは、その白けた素振りの女子紅衛兵の中山服のズボンに折り目が当たっていたことと、襟元に覗いた(或いは覗かせた)セーターのオレンジ色でした。このことは個人的な印象に留め、同行者たちには話さなかったと思います。(了)


    2016.08.22

    博物館 【上海の街角で 井上邦久】vol21 (読む時間:約3分半)


    •  短い春と秋の間の可愛げのない猛暑、熱が身体に籠ったら苦瓜(ゴーヤ)を食べなさいと上海オフィスの複数のスタッフから言われたことを思い出します。そんな夏によく足を運んだのは南京西路が昔の競馬場のコーナーに沿って湾曲したあたり、時計台が目印の建物でした。欧州人が設計して、租界地に住む外国人がメンバーの中心を占めていた上海レース倶楽部があった場所でして、そのよすがを欄干に馬の頭部を配した階段などに見つけられます。博物館や図書館が移設されたあとに、美術館として2012年末まで使用されていました。天井の高い石造りの室内は、静かで涼しく広々としていました。無料の絵画展を見る時間より、ミュージアムショップで有料の画集や記念品を探す時間が長く、更に最上階の5階のレストラン「K’s 5」(Kathleen’s 5)のテラスで人民公園の緑や浦東の高層ビルを眺める時間がもっと長かったです。2010年頃まではブランチ目当ての欧米系の客が目立つくらいで概ね空いていて、ドラマや映画の撮影を目にしたことも懐かしく感じます。


      美術館があった場所からほど近い上海博物館は「鼎」を模した重厚な建物として1996年に完成し、外灘に向かう高架道路からは左手にその威容が見えます。ただ、開館前の早朝から長蛇の行列ができるので炎天下の夏には不向きです。上海博物館は1952年の創設の後、現在の立派な建物に収まるまで移転を重ねており、1980年初頭に古風な建物に入っていた頃によく訪ねました。日系企業のオフィスが上海大廈や聯誼大廈にあった頃で、和平賓館にも宿泊できた、のんびりした時代のことです。アテンドや商談への登板間隔もゆったりしていて、空いた時間の街歩きに博物館は手ごろな場所でした。来館者も少なく、展示品も限定的で、たゆとう時間を眺めるような空間でした。或る日、ずいぶん展示がすっきりと整理されていて、既視感覚に陥ったことがあります。しばらくして、大阪中之島の東洋陶磁美術館の展示との共通点が多いことに気付きました。たぶん、かなりの高い確率で両館の提携が順調になされていたことの証明でしょう。大阪と上海が友好都市であり、友好都市ということに意義と効果があったとされる時代でもありました。


      当時、中国の工場見学に行くと工場長から専門性に乏しい新米商社員も含めた日本からの訪問者に対して「先輩たちに学びたいので、参観を通しての貴重な意見を聴かせてください」という言葉が必ず発せられたものです。妙にくすぐったい気分にさせられましたが、日中双方とも大真面目でしたので、逐語訳で正確な通訳に努めました。
      その頃、記念品売り場で買った唐代の女人陶俑(女子十二楽坊のように、各種楽器を手にしたシリーズ)のレプリカは今も日本の留守宅の下駄箱の上にあります。美術カードも含めて、とても割安だった印象があります。売る方も買う方も、1970年代末から提唱された「社会主義市場経済」に不慣れだった兌換券の時代でした。


      上海博物館は北京故宮博物館、南京博物館とともに三大博物館と称される事もあるようですが、その場合、台湾の故宮博物院のことは別格にしているのでしょうか?因みに故宮博物院は、昨年末に嘉義市に南院が新設されたので、台北市のものは北院と称されるようになっています。


      その北院は6月末の時点では劇的に静かになっていました。入場料を払って進んで直ぐの処に「請輕聲細語(Please keep your voice low)」という看板がありましたが、その看板目的の対象者の行列もなく劇的に減っていました。加えて、嘉義市の南院の目玉として団体客に人気のある「翠玉白菜」が南院に出張展示されているので、北院は余計に静かであったのでしょう。台北の故宮博物院で宋朝の青磁・白磁の粋を静かに、ゆっくり眺めるには今を措いて無いようですよ、とお伝えしたら、大阪の老舗画廊のK社長から以下のような返信を頂戴しました。


      ・・・今年12月 東洋陶磁美術館にて「北宋汝窯 台北故宮博物院 青磁 水仙盆」という展覧会が開催されます。東洋陶磁美術館の所蔵品も含めて、世界に6点しか存在しない「青磁 水仙盆」の展覧会です。故宮のリニューアルオープンの展覧会も汝窯の展示が一本の柱でした。
      今回の東洋陶磁の企画も素晴らしいものと思われます。12.月10日から3月26日の期間と聞いております。ご来阪の折 お時間があれば、ご覧ください・・・


      12月の大阪開催まで待ち遠しい向きには、陳舜臣の直木賞受賞作『青玉獅子香炉』を読みながら、台湾にたどり着くまでの故宮秘宝の変遷をたどることは如何でしょうか?苦瓜を食べなくても暑気払いができるような内容だと思います。(了)


    2016.07.25

    散歩の会 【上海の街角で 井上邦久】vol20 (読む時間:約4分)


    • 1930年前後の上海の街を通底するテーマとして、色んな角度から変奏曲まがいの拙文を綴っております。時にお気楽なハ長調、またある時は少し重い気分のニ短調と、気まぐれな内容です。ただ、できるだけ街を歩きながら考えるという姿勢を続けていきたいと思っています。


      もうかれこれ25年くらい続いている「茨木土曜クラブ」。茨木市主催の父親学級で一年間をともにした仲間と、自主的な集いや行動をしようということで始まりました。多少の出入りはありますが、20名前後で年6回の活動が継続されています。会員自身による発信を大切にしています(来月には元会長から戦争中の体験報告。昨年8月には、上海から戻って「ほんまはどうやねん?中国!」の定点観測の報告をさせてもらいました)。屋外活動も盛んで、季節に合わせた探索地の選択や事前の下見と味わい深い資料作成をしてもらっています。大阪城などでボランティア活動の経験豊富なIさんや一級建築士のMさんに町歩きの面白さを教わってきました。最近ではMさんが設計した三田市立図書館から三田城址へ。水軍として名を馳せた九鬼氏が山の中でも水練を続けたという堀池、そして九鬼家家臣の白洲家の墓地で白洲次郎・正子の墓を拝んだコースが印象に残っています。また以前に、堺の鉄砲鍛冶町や刃物町を散歩した折に買ったペティナイフは、生涯単身赴任の強い味方になっています。数年前には、茨木から上海まで数名のメンバーが来てくれたので、水郷や上海の下町散歩の案内をして少しだけ恩返しができました。数年前からの課題として、あっという間に四半世紀を経た土曜クラブを土曜日に開催する必要性が乏しくなったことです。


      こちらは土曜日開催が原則の「上海歴史散歩の会」の説明は、多くの方には多余的話でしょう。次回の散歩の案内が会員へ一斉配信された数時間後には受付締切りになる状態が多くあるようです。仕事熱心な方々が帰宅してメールチェックをする頃には、案内と締切りの通知を一緒に読むことになり、残念に思うことがあるようです。
      今は普通の人が普通の生活を営んでいる場所が、その昔は茶館や青楼であった(福州路散歩)とか、戦前の日本人が建てた日蓮宗の寺であった(虹口散歩)とかの例は枚挙にいとまがないのです。普通の生活空間を多くの散歩者がぞろぞろ覗き歩きをすることは厳に慎むべきであり、やむを得ず参加者人数が絞られることになります。
      こちらの会も資料の執筆編集には多大な力が注がれており、専門研究者による書下ろしの松江散歩資料などは白眉でありました。楚国の春申君が上海開発に着手したことに因んで上海の別称が「申」であり、母なる黄浦江は春申君の「黄」姓に由るという解き起こしからの説得力に満ちた解説にうなりました。日本との交流の歴史も深い、寧波そして揚州には一泊バスツアーになりました。


      顧問の陳祖恩東華大学教授夫妻にはいつもマクロからミクロへのご指導ご配慮を頂いています。寧波散歩の折には、陳教授に故郷料理の献立を選んで貰い、ご親戚とも交流させて頂くというオマケ付きでした。帰りのバスでは「この散歩の会への中国人の参加者が少ない。中国人はもっと歴史に学ぶべきだ」と真摯に語りかけることを常とされています。
      昨年の歴史散歩の会で、上海の民族資本家についての資料準備と講義そして道案内を された上井真さんは既に上海駐在から日本に戻っている方です。事前に資料を拝読していて、民族資本家である栄家一族に触れていることに気付きました。末裔には中国国際信託諮詢公司を創業して国家副主席まで務めた栄毅仁もいる無錫の栄家です。
      大学時代に薫陶を受けた中井英樹筑波大学名誉教授の業績の一つは栄家勃興の研究であり、以前に現地調査報告と論文を送って貰っていました。その資料を携えて上井さんに会ったところ「これがオリジナルですか!栄家研究には中井先生の論文が必須なので、あちこち探し、苦労して大阪の図書館で全頁コピーをしました」ということでした。その後、平塚で中井先生と上井さんを引き合わせ、トラック何台分かを処分したあとの資料の山を仕分け、上井さんに整理、分析してもらうという協業の約束ができました。
      中井先生の資料は、井上には「猫に小判」。それを上井さんとの「井の字」の御縁が繋がり「瓢箪から駒」の発展系になったのも、「上海歴史散歩の会」の事務局各位のお蔭です。


      上井さんは「江戸東京散歩」を始められています。一回目の蔵前辺りの米倉経済の考察散歩には都合がつかずに欠席。二回目の千代田城周りの水都としての江戸の発展(重要な水辺の場所に九鬼家の名前が)を知る散歩には、法事を終えてから参加し、和田倉門から合流させて貰いました。「和田」とは「海」のことと教わりました。確かに「ワタ」「パダ」とくればハングルで「海」「わたつみ」の意味に結び付きます。和田倉門の眼前に日比谷湾の海水をイメージするのが歴史散歩の醍醐味です。建築士のMさんから授かった「五感も六感も働かせながら歩きましょう」の教えの実践でした。(了)


    2016.07.04

    上海の街角で 【上海の街角で 井上邦久】vol19 (読む時間:約4分半)


    • JR環状線の大阪駅から一駅下ると福島駅があり、最近は個性的な趣向や料金の店ができて、客足も増えているようです。この数年、古いスタイルの商店からの模様替え,商売替えも進んでいます。その古いスタイルの典型のような小さな店が、福島駅から20メートルくらいの場所にあり、店名の「ミヤコ楽器店」に惹かれて何回か通ったことがあります。
       大阪府北河内郡四条畷町の高校生だった頃(大阪万博の前でした)、片町線という単線電車に揺られて繁華街に出ることは滅多になくて、たまに思い立って大阪駅前の旭屋書店でペーパーバックの英文小説を買うか、心斎橋筋でレコードジャケットを眺めるか、という精一杯気取った動機づけで交通費を捻出していました。当時の心斎橋筋は大丸・そごう百貨店を筆頭に老舗が並ぶ風格のある商店街でした。音楽関係では、YAMAHA音楽教室を別にすれば、大月楽器店とミヤコ楽器店が突出した二強でした。当時のレコード歌手は販売促進のために、大手のレコード販売店を訪ね、場合によれば仮設のステージ(ビールのカートンボックスなど)で新曲を歌うことがありました。大阪では心斎橋筋の二強の店にサービスをして、多く売ってもらうことはレコード会社にとって大切なことだったでしょう。過剰なサービス精神とバランス感覚で、新人歌手の芸名を「大月みやこ」としたことも、当時としては話題性があったのでしょう。


      今世紀の初め、心斎橋筋の変貌は凄まじく、イタリアからの客人は街並みが乱雑になるのは嘆かわしいと憤慨していました。この友人は「曽根崎心中」の切り場で涙を流すようなイタリア人ですから、老舗の衰退や安直な今様の店つくりを許せなかったのかも知れません。ミヤコ楽器店も2002年に心斎橋筋から店仕舞いをして何年も過ぎているのに、同じ店名のCD販売店が福島にあることに驚いたわけです。新曲のCDも置いていたのでしょうが、かつての大阪郡部の高校生が好んだ青春歌謡CDが多くありました。吉永小百合と三田明のデュエット曲集の発見などは特筆ものでした。レジの若い店主に、「失礼ながらこちらのミヤコさんは、あの心斎橋筋のミヤコさんと関係があるのでしょうか?」と聴くと「お祖父ちゃんの代までは心斎橋筋で大きな店をやっていました」とのこと。「そうでしたか・・・」という返答しかできませんでした。


      拙文の連載を始めるに当たって、テーマと題名をどうしようかと考えました。基本となるテーマは上海の街にちなむことを、できれば1930年前後の事と今の上海に結び付けて書かせて貰おうと思いました。時は国民党の隆盛期、官僚・金融資本主導の経済も二桁成長。東西南北の中山路で租界を封じ込める道路建設は、海外列強からの蚕食を喰い止める象徴的な工事だったでしょう。国父孫中山先生の名前を冠したのも、道路の目的や企図からして共感できます。そして、五角場での新都心建設に着手します。ペンタゴン状に道を配し、政府系機関の建設が始動していました。立派なスタジアム、水泳場の名残は現在もあり、そのアーチや窓の数が3個であるのは三民主義の象徴でしょうか?また、その近辺を歩くと小さな寂れた路地に「民権路」「政府路」などと大仰な名前が「保存」されていることに感動を覚えます。そんな1930年代の名残を残す上海の街をスケッチしようと決めました。ちょうどその頃、戦前の上海を題材にした曲に詳しい大先輩から『上海ブルース』と並んで『上海の街角で』という歌謡曲があるよ、と教えて貰いました。さればと、連載の題名を「上海の街角から」に決めて、拙文を綴り始めました。
      そうなると、その歌謡曲を丁寧に聴いておきたいという実証主義?と行動派の血が騒ぎ、福島駅のミヤコ楽器店(たしか楽器は置いていませんでしたが)へ赴きました。さすがの古い歌謡曲に強い店でも、目指す曲を探し出すにはかなりの時間と粘りが必要でしたが、『昭和の流浪歌』(テイチクレコード=帝国蓄音)というCDがあり、『カスバの女』『星の流れに』とともに、佐藤惣之助作詞、山田栄一作曲、東海林太郎が歌う『上海の街角で』を発見できました。


       ♪リラの花咲くキャバレーで逢うて 今宵別れる街の角
                 紅の月さえ瞼ににじむ 夢の四馬路が懐かしや♪


      上海航路の船乗りと日本から上海に出稼ぎに来ているダンサーが、一年を経て別れ話になった。船賃の足しくらいの少しのお金を渡して女性を日本に返し、自分が華北の新天地で一旗揚げるまで待っていろ、という男にとっては都合の良い内容です。タンゴ風の曲調は、戦後の『上海帰りのリル』に通じる気もしますし、ストーリー的にも繋がらないこともない?しかし、それはどちらでも良いことです。
      問題は歌詞の間に挟まれたセリフです。
      「・・・あれから一年、激しい戦火をあびたが、今は日本軍の手で愉しい平和がやって来た・・・」という能天気なことを復刻版のCDでは渡哲也が語っています。1938年に出されたオリジナル版のセリフの主は誰か?上述の先輩にお尋ねしたら、「それは佐野周二」と即答してくれました。上原謙、佐分利信と三羽カラスと称された二枚目銀幕スター、という説明より、「サンデーモーニング」の関口宏のお父さん、「アカシアの雨のやむとき」の西田佐知子のお舅さんが佐野周二です、という方が分かりやすいかも知れません。


      このセリフにある1937年の「激しい戦火」によって、国民党の短い春は終わり、五角場の新都建設計画は霧消しました。今年、その国民党候補に圧勝した民主進歩党の蔡英文総統は「小英」と親しまれ、具体性に欠ける経済政策を「空心菜(蔡)」と揶揄されています。
      大月みやこはベテラン歌手として活躍を続けていますが、福島駅近くのミヤコ楽器店はすでに無くなっています。闇市跡の建物だった旭屋書店で買った『ドクトル・ジバゴ』は冒頭のみ辞書を引きながら読んだと思われる赤鉛筆の跡がありますが、残りの多くの頁は半世紀に渡り、きれいなままで本棚の隅に保存されています。(了)


    2016.05.30
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