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魯迅公園の中に 【上海の街角で 井上邦久】vol11 (読む時間:約3分半) 2015.09.21


この6年、上海からある時は東京へ、ある時は関空への往還を繰り返して来ました。日本からの空路はおおむね瀬戸内沿いに九州へ、福江島上空を通過して上海に向かいます。フライトマップには右手に済州島が描かれていますが残念ながら目視はできません。
済州島が見えないので、劇場公開は見逃した韓国で大ヒットした映画『国際市場で会いましょう』を飛行機内で繰り返し観ることにしました。大戦後の南北離散、経済困窮時代、西ドイツへの炭鉱労働者や看護師としての出稼ぎ、ベトナム戦争軍役参加など韓国戦後史を行き抜いた男とその妻の話です。


映画の冒頭には、中共軍に追われる米軍、取り残される民衆の姿がありました。反共親米反日路線の李承晩大統領がラジオ放送で休戦を伝えるシーンもありました。休戦ラインから南で金日成の北朝鮮に対峙した大韓民国政府は、第二次世界大戦後の日本からの独立まで上海に亡命政府を置いていました。
上海中心部の繁華街の一角に、その亡命政府跡が記念館として保存され、地図やガイドブックにも載っています。この数年の中韓両国の蜜月を象徴するかのように、記念館も改装されて訪れる人も増えたとのことです。9月3日、北京での式典に出席した朴大統領が、翌日に上海へ移動して亡命政府跡の記念館を訪ねたことも報道されました。


ところで、9月3日を記念日とするのは中国以外には知らず、欧米ではドイツの降伏日と日本がミズーリ号甲板で連合国への降伏文書に署名した1945年9月2日を記念日とすることが多いようです。その日、敗戦直後に組閣された内閣の外務大臣に再任され、全権としてミズーリ号に向かったのが重光葵であることは良く知られています。調印式には大本営代表の梅津美治郎参謀総長が同行しています。重光と梅津は同じ大分県人ということと、第一次世界大戦が勃発した時に、駐ベルリン日本大使館で「八月の砲撃を聞いた日本人」という共通項もあります。


記録画像でもミズーリ号甲板を歩く重光葵の足取りが不自由であることが明らかに判り、降伏する側の代表としての重い雰囲気を増幅させています。重光葵が右足切断の災難に遭遇したのは、1932年4月29日であり、場所は上海の虹口公園(現在の魯迅公園)でありました。第一次上海事変の停戦協定締結に向けて奔走している渦中、天長節(後の天皇誕生日)祝賀式典に出席していたところ、朝鮮独立運動家の尹奉吉の投じた爆弾により重傷を蒙った、いわゆる上海天長節爆弾事件の被害者の一人でありました。


亡命政府の指導者であった金九の指示で爆弾テロを実行したと言われる尹奉吉は、事件当時23歳。日本に移送され同年12月19日に金沢で処刑されています。
魯迅公園の中に、フェンスで囲まれた「梅軒」という立て札のある一角があります。
入場券を売る窓口にはハングル表示が為されています。入場料を払って中に入ると、そこはハングルだけの世界で、数少ない参観者も記念品売り場の係員もハングルを口にしていました。記念館には爆弾投擲の画像が流され、金沢での処刑を伝える北国新聞の記事などが展示されています。公園内公園の名称の「梅軒」は尹奉吉の号であることも知れます。
今回、朴大統領が魯迅公園の中の「梅軒」まで足を運んだかどうかは不詳です。


重光葵はミズーリ号から東京に戻り、皇居に参内して昭和天皇に報告をしています。
米国らの対応がビジネスライクであったこと、カナダ代表が署名する箇所を間違えたことなどを伝えたとのことです。尹奉吉がテロのタイミングとして「天長節式典」を利用し、そこで足を負傷切断した重光葵は、戦後処理においても天皇も含めた国家の全権を委ねられて、不名誉な降伏文書署名の役目を果たすことになりました。
追い討ちをかけるように、翌1946年4月29日にA級戦犯として逮捕されています。
その後、政治家・外交官として復活し、1956年の国連復帰演説の大役を果たした翌年に逝去しています。


重光葵について、その後任の有吉公使のいわゆる「有吉外交」など、1930年代の上海が日本と中国の接点であった頃のことについて、もっと学んでおきたいと常々思っています。
その宿題が滞っていることを喚起させ、上海での人の奇縁や歴史の交差を感じさせる9月初旬の出来事でした。  (了)


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