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浦江飯店(ASTOR HOTEL) 【上海の街角で 井上邦久】vol14 (読む時間:約4分半) 2015.12.21


外灘からガーデンブリッジを渡ってすぐの交差点角、向かいはロシア領事館、道路を挟んで上海大廈という場所に、浦江飯店(ASTOR HOTEL)、そしてレストラン「上海早震(SHANGHAI MORNING)」が古風な存在感を醸し出しています。 2009年に着任して間もない頃から、このホテルとレストランを利用させて貰っています。 上海で最初に作られた西洋式ホテルの浦江飯店や「上海早震」の沿革や愉しみ方については改めて綴らせて頂きます。 ここでは、かつてこのホテルに逗宿した有名人たち(チャップリン、アインシュタイン、蒋介石夫妻、周恩来などなど)を記念する写真やプレートが、ホテルやレストランの所々に、やや控えめに掛けられていることを伝えるに留めます。


先月の初めに浦江飯店に泊まった時、部屋のすぐ近くの303号室にはエドガー・スノーが宿泊したという小さなプレートがありました。ちょうど読み続けていた『真夜中の北京(MIDNIGHT IN PEKING)』の中に、エドガー・スノー夫妻についての写真や記述があり、1930年代の空間に引き寄せられたせいか、その夜はページが進みました。


1937年1月、北京公使館区域近くで起きた元英国領事の養女殺人事件という悲劇。
著者のポール・フレンチが7年の歳月をかけ、長く迷宮入りしていた猟奇的事件について、中国・英国の歴史的文書を調査し、オーラル・ヒストリー手法も用いて解明していく過程を綴った物語です。笹山裕子の翻訳により『真夜中の北京』という邦題で、7月30日に河出書房新社から発売され、直ぐに売り切れ状態になったようです。
ポール・フレンチは上海在住の中国近現代史の専門家。エコノミスト・アナリストとして、主に中国経済に関する記事を世界の専門誌に多数寄稿していると紹介されています。


北京公使館区域とは、北を東長安街、東を崇文門大街、西を公安街で仕切られ、南は城壁で囲まれたリゲーション・クォーター(LEGATION  QUARTER)のことです。城壁のすぐ南沿いに北京中央駅からの鉄道が平行して走っていました。
1900年の義和団事件以降、強化された防御壁に囲まれた区域内には、英米日露仏伊の大使館や各国軍隊の兵営、横浜正金銀行そして聖ミカエル・カトリック教会等があり、欧州以上に欧州的な文化や習慣が維持されていたと云い、名残の建物が今も残っています。


1934年発行の「最新北平全市詳図」と1938年発行の「最新北京市街地図」の復刻版を王府井書店で買い、本と読み合わせて歩きました。国民政府が南京を首都に定め、北京は北平に変わり、1937年7月の盧溝橋事件以降の占領により北平は北京と再改変されました。
1938年の「最新北京市街地図」には、このエリアは「各国大使館」と記載されています。
1937年初頭に日本軍は紫禁城から数キロメートルの場所に根拠地を作って圧力を加え続け、一方では満州からのアヘンや大麻が北京に持ち込まれ、リゲーション・クォーターの目と鼻の先(崇文門大街と東側の韃靼城壁の間)のアヘン窟や売春宿が密集して、バッド・ランズと呼ばれた地域で取引された、と同書に書かれています。


北京における植民地主義文化の終焉を目前にして、日本による占領そして傀儡政権の擁立といった流れに呑みこまれようとする空気の中、1937年1月に殺人事件が発生しています。被害者の少女はフランス大使館近くでアイススケートに興じたあと、何者かに拉致されてバッド・ランズで強殺され、韃靼城壁の狐狸塔の下で無残な状態で発見されています。
 英国天津租界の警察や中国の警察の捜査では解明できない(敢えて解明しない?)逆境の中、元領事の父親の執念ともいうべき追及が始まり、物語は動き始めます。


延安根拠地に赴き、毛沢東を『中国の赤い星』として海外に伝えたエドガー・スノーは中国共産党にとって得難い理解者として高く評価された時代がありました。後年、老境に達した毛沢東の心境を知りえた稀有な米国人という賞賛もありました。そんな従来のイメージは、この本に掲載された若いスノー夫妻の写真や次のような記述で揺らぎます。
・・・急進派のジャーナリストで作家のエドガー・スノーと、同じく有名なジャーナリストでもある情熱的で魅力的な妻、ヘレン・フォスター・スノー。スノー夫妻は北京の外国人の間ではよく名が知られており、二人を好きな人と嫌いな人は、はっきり分かれていた。特にエドガーの政治思想は、体制派には忌み嫌われていた。口では革命を説きながら、強いアメリカドルのおかげで街から四マイル離れた競馬場に競走馬を所有するなど、贅沢三昧の暮らしをしているうわべだけの左翼と軽蔑する人もいた。・・・
妻のヘレン(別名ニム・ウェールズ)は事件について、夫の共産党寄りの言動に警告を発し、出版間近と言われていた『中国の赤い星』を封じるために、国民党特務の藍衣社首領である戴笠の手がヘレンに及んでいた、しかし何かの識別違いで元領事養女が身代わりに殺害された、と思い込みをしていたという一節もあります。


この同じ時期に、現場のすぐ北側の東観音寺胡同に長年住んでいた兆民の子、中江丑吉がこの事件について何か書き残していないか?急いで調べましたが、『北京の中江丑吉』にはエドガー・スノーが中国人作家の短編集を編集したという記載はあっても、事件についての記述はありません。新聞熟読を日課にしていた中江丑吉ですから大量に流された記事を眼にしていないとは思われず、書簡集を再読すればコメントが出てくるかもしれません。 また丑吉は午後の散歩を日課にしており、韃靼城壁でも散歩をしていたことを読んだ記憶があります。


1930年後半からの正に真夜中だった北京の一端に触れることができました。 (了)


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