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『魯迅の墓』 【上海の街角で 井上邦久】vol6 (読む時間:約5分) 2015.04.20


 先月の拙文で、上海における野球の草の根に少しだけ触れました。その後、陳祖恩先生が『上海に生きた日本人』(大修館書店)に、戦前の上海野球の隆盛について記述されていることを、迂闊にも見落としていたことに気付きました。


・・・上海でも東亜同文書院や日本の大企業はいずれも野球場をもっており、その時期(註;4月15日から10月15日)には「新公園」(工部局は虹口公園と呼んだが、日本人はこう呼んで親しんだ。現在の魯迅公園)や競馬場では日本人が野球を行うスペースを開放していた。五月の中旬には東亜同文書院の校内で上海の日本人による定期野球大会が行われた。(第4章「新旧風俗の融合と共存」より)


上海での日本人文化研究の原典とも言える著作を再確認しなかった、正にボーンヘッドでした。陳先生ご夫妻には歴史散歩の会やメールの遣り取りを通じて、優しいお人柄に触れる一方で、その学識と行動力に畏敬の念を持ち続けています。この春は、東京の大学に進まれたご子弟の入学式に赴き、花見時期にも遭遇され、下田まで足を伸ばされたようです。


さて、陳教授の文章にある魯迅公園(新公園。虹口公園)には、魯迅記念館があり、立派な魯迅の墓があることで知られています。公園近くの山陰路界隈には、大陸新邨に魯迅旧居(月曜日を除き公開)や茅盾の旧居(表示なし)、内山書店跡(銀行の二階が記念館)そして魯迅の盟友、瞿秋白の旧居(非公開)もあります。初めて上海に来た1971年2月のぼんやりした記憶の中で、馬陸人民公社と魯迅公園の墓の見学は強く印象に残っています。当時の外国人の宿泊指定先であった和平飯店で借りた厚手の綿入れのコートに包まり、園内で買ったサトウキビを齧っている19歳の写真が残っています。毛沢東の揮毫による「魯迅先生之墓」と刻まれた構造物は威風堂々とした印象が強く、「全国重点文物保護単位」にも指定されていたので、魯迅はずっとその場所に埋葬されていたものと誤解していました。ところが、1936年10月19日に逝去したあと、魯迅は万国公墓(現在の宋園路。宋慶齢墓地)に埋葬されていたこと、1946年に改装され、1956年になって虹口公園に建造された新墓に移骨、という経緯を辿ったようです。改装前の1943年に墓参を試みた竹内好について、生方直吉は次のように描写しています。


墓のある万国公墓はフランス租界の西郊で租界のはずれから徒歩約二十分ぐらいのところにあるのは予め知っていた。しかしこの地域もすでにゲリラ地区になっていたから、昼間なるべく目立たないスタイルで行くことになり、墓参に必要な花束なども故意に用意しなかった。・・・ようやく隅の方に求める魯迅の墓を発見し・・・しかしこの魯迅の墓を正面からみて、竹内をはじめわれわれ一同は愕然とした。碑面にはめられた魯迅の陶器肖像が無残にも打ち壊され、その半分がいたましく残っているにすぎない。竹内がそれをみて、一言も発せずジッと見つめていたことが私にはきわめて印象的であった。・・・日本軍占領下にあっては、魯迅は死しても辱められていたのであった。その前で、無言で頭をたれた竹内好の思いは『魯迅』を書いている竹内の叙述のなかにも流れていたのではあるまいか。(鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』岩波現代文庫 第10章「魯迅の墓」より)


一方、1945年3月24日から1946年12月28日までという歴史の結節点を上海で過ごした堀田善衛は『上海にて』(集英社文庫)の第Ⅲ章「魯迅の墓」に以下の文章を残しています。・・・1945年6月、私は武田泰淳といっしょだったか、菊池租氏といっしょだったか、ぶざまなことに忘れてしまったが、上海西郊の万国公墓へ魯迅の墓を見に行った。それは、ちいさな、なんということもない墓であった。一面、ぼうぼうの草に埋もれていた。花もなんにもなかった。・・・例の写真を、白タイルに焼きつけたのがはめ込んであったのだ。しかも、その写真タイルは、鼻まるまると顔の下部ぜんぶが欠け落ちていて、左の眼もなく、右の眼だけが、・・・写真入りの墓が珍しいとて、付近の悪童どもが乱入し、この写真めがけて石をぶっつけて遊んだ、そのためであったという。1946年に、郭沫若氏などの提唱で、この墓は立派に修理された。その完工の式があり、魯迅祭のようなものも催された。たしか内山完造氏も出て、なにか演説をしたようであった・・・


堀田氏は1946年の式に行きたいと思いつつ、中国の友人が国民党特務の眼が光っているからと引止め、自らは外国人だからという理由にして参加を遠慮しています。解放後に、共産党は虹口公園の一角に巨大な魯迅像をつくり、その背後に骨を移したのですが、1957年に戦後初めて上海を訪れた堀田氏は「ともあれ、私は魯迅の巨大な新墓を見に行くことをしなかった」という結語でこの章を締めくくっています。


軍、憲、警、党の誰かが意図的に陶器の肖像を割ったのか?近所の悪童が面白半分に石を投げたか?検証の術はありません。ただ、その反応が如何にも重い竹内好よりも、荒れた時代の傷んだ墓地にありがちなこととして、リアルな割り切り方をした堀田善衛の方に不在者投票の一票を投じたい気分です。


魯迅の月命日に重なった日曜日、魯迅公園で墓を遠目に見てから記念館に入りました。魯迅の正妻の朱安さんの写真の展示が続いているかどうかの確認目的でした。北京女子師範大学生の許広平との大幅な年齢差を超えた北京での師弟間恋愛、広州での不倫逃避行、そして上海での同居重婚生活。それらの男女関係は、共産党の社会になってからの魯迅神格化とともに美化され、忌避されて久しいのですが、文革以降さすがにリアルに物事を語る人が出てきました(喬麗華『我也魯迅的遺物 朱安伝』上海市社会科学出版社。藤井省三『魯迅 東アジアを生きる文学』岩波新書)。魯迅夫婦と母親が「同居」していた住宅を改装した北京の記念館は当然ですが、上海でも魯迅の正妻の存在について、写真付きで紹介され続けていることを再確認しました。何となく安心した気分で魯迅公園をあとにして、南口から上海外国語大学グラウンドでの野球見物に回りました。


「もしも今日、魯迅がまだ生きていたら、どうなっていたでしょうか?」1957年、上海で行われた座談会で出された問いに「私が思うに、牢屋に閉じこめられながらも、なおも書こうとしているか、大勢を知って沈黙しているかだろう」・・・毛沢東の言葉です。   (了)


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