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『shanghai』 【上海の街角で 井上邦久】vol7 (読む時間:約5分半) 2015.05.19


Japanは日本, japanは漆器。 Chinaは中国、 chinaは陶磁器。ならばShanghai は上海でありますが、小文字のshanghaiはどういう意味?という話題は色んな場所で為されています。上海に関する出版物にも小文字から始まるshanghaiについて記述されたものが何冊かあります。手元のジーニアス英和辞典には米語・俗語として、(1)(酒・麻薬・暴力で)意識を失わせて船に連れこんで水夫にする。(2)・・・に(無理に・だまして)[・・・を]・・・させる(force)[ into] と書かれています。穏やかとは言えない意味ですが、この動詞のshanghaiが造語されたであろう時代の背景について粗っぽい考察を試みます。


 清末、アヘン戦争から太平天国の乱のころ、日本は幕末動乱期でした。高杉晋作が上海にやって来たのもそのころでした。この数年のNHK大河ドラマには、幕末ものが多すぎて食傷気味となり、あまり熱心に見ていませんが、今回のイケ面志士の晋作はどのように描かれるのやら。一方、米国では南北戦争が1861年(文久元年)に勃発。北部の側から見ればcivil war でありましたが、南部の人たちは今でもnorthern aggression(北からの侵略占領)と呼んでいるとか。わずか150年前のことですからファミリーストーリーにしっかり刻まれているのでしょう。とりわけ侵略・占領された側の人たちに・・・と知ったかぶりをしていたら、米国に暮らした経験もあり、歴史や文化に詳しい方から「それは南部の支配階級、保守富裕層の人たちが称するわけで、アフリカ系の人たちは用いないのでは?」と修正をしてくれました。また、まさに蛇足ながら、同じ文久元年、京都西陣で蝶屋という生糸問屋が産声を上げています。経営者の大橋家の男達は、理助とか理一郎とか「理」から始まる名前を使ったので、蝶屋の理○⇔蝶理という略称から現在の 会社名に繋がりました。続く文久三年に西陣から遠くない壬生寺に新撰組屯所が置かれています。たぶん蝶理の創業者たちは、新撰組の人たちとすれ違ったか、怖いもの見たさで遠めに眺めたのではないかと想像しています。1865年に南北戦争が終息して武器需要が激減したので、武器商人たちはその販路を極東に求め、尊皇攘夷という無謀な排外武力行使や勤皇佐幕の対立という内戦のために武器需要が増した日本(薩摩・肥前・長州などで近代兵器の生産が立ち上がっていたようですが)の各派に売り込みを図ったのではないでしょうか?上海のサッスーン財閥、長崎のグラバー商会は武器商談の機軸の一つだったと思われます。現在、外灘に面した和平ホテルやグラバー邸として残され、旅行観光のメッカになっている場所で、想像力を150年ほど遡らせると違った景色が見えて参ります。


上記のような乱暴な線で描いた19世紀中葉の世界歴史地図のなかで、米国がフロンティアとして開拓を進めた西海岸に眼を移して見ます。上海にも縁の深い梁啓超の『新大陸遊記』から孫引きすると・・・「中国人がアメリカに渡るようになったのは、元来アメリカの要請によるものである。カリフォルニアが合衆国に合併された当初、その開拓を急いだけれども、欧州系の移民は、僻遠の地をきらってあまり来たがらなかった。資本家は、金鉱の開発、鉄道の敷設などが拡大するにつれて、労働者の不足に困りはて、ついに中国にその補いを求めた」とあります。とりわけ1869年に完成したアメリカ大陸横断鉄道工事に、低賃金で従事した中国人労働者の数と質は他の移民労働者を凌駕していたようです。数ヶ月前の『環球時報』にも、苛酷な労働で痛んだ身体を仲間同士の鍼灸按摩で癒しながら生命と体力を維持して、他国の大男たちよりも勤勉に働いて貢献したので、鉄道開通記念式典(グレートソール市)には近年に到るまで中国人労働者代表やその子孫が招待され続けていたという歴史懐古記事が掲載されていました。帰郷した成功者から一攫千金が夢ではないことを知らされ、陸続として中国から米国へ渡る移民だけでなく,太平天国の乱の騒動で疲弊した農村から上海に流れてきた農民の中には、正にshanghai手段によって売られた者もいたと思います。更には太平天国に加担し、当局からの追捕の手を逃れて太平洋を越えた者もいたようです。やがて、その勤勉さ、質素さを基礎にして低賃金でも甘んじて働く中国人労働者と白人労働者との間に摩擦や衝突が生じるようになりました。そして1882年5月6日に米国政府は華人制限例案十五条(いわゆる華工禁止令)を布告しました。


駐日公使随行任務を終えて帰国していた外交官、そして詩人・文章家でもある黄遵憲は、同じ1882年にサンフランシスコ総領事に任命され、華工禁止令や中国人への圧迫に抗して華僑保護に当りました。その黄遵憲は、ワシントン大統領からの伝統である自由平等であるべき米国が、西部開拓に大いに貢献したはずの中国人を追放するという理不尽さを糺し、中国の無力を悲憤する『逐客篇』という長い詩を残しています。その中から一部を、島田久美子さんの解読を援用させていただきながら、恣意的に抜粋して引用します。その時代の匂いを感じていただければ幸いです。


華人往美利堅、始於道咸間、初由招工、踵往者多、数至二十萬衆
・・・ 華人がメリケンに往くのは道光(1821-1850)咸豊(1851-1861)年間に始まる。初めは労働者として招聘された。踵を連ねて往く者多く、数は二十万に至る。


嗚呼民何辜、値此国運剥、軒頊五千年、到今国極弱、
・・・ 嗚呼、民は何の辜(罪)ありて、此の国運の衰退に遭うのか、古代の黄帝顓頊から五千年、今に至り国は極めて弱る。


団焦始蝸盧、周防漸虎落、藍縷啓山林、邱墟変城郭、
・・・ 草葺小屋に蝸居し、周囲に漸く囲いができた。ボロ着で山林を開き、荒地を城郭に変えた


金山蟹惈高、伸手左右攫、驩呼満載帰、羣誇国極楽 
・・・ 黄金が山なし、手を伸ばし獲得、満載して帰国すれば、皆の衆に米国は極楽だと誇る。


後有紅巾賊、刊章指名捉、逋逃萃淵藪、趨如蛇赴壑
・・・ 後に紅巾の賊有り、指名手配で捉えるも、逃れて淵や薮に隠れ住み、穴に逃げ込む蛇の如し


驟下逐客令、此事恐倍約、萬国互通商、将以何辞卻
・・・ 俄かに放逐令を下すも、此の事は約束に背く、万国は互いに通商するのに、何の理由で追い出すか。


茫茫問禹跡、何時版図廓
・・・ 広々とした中国に問いたい、何時の日に版図を拡げられるのか 


洪秀全が挙兵、林則徐が逝去した1850年、同時期カリフォルニアに金鉱が発見され西部開発が始まっています。その頃から上述の華人制限が始まる1882年までの間に、米国人によってshanghaiの動詞化が為され、新語・造語・俗語として特別な意味を持つようになったのではないか、と想像します。中国人にとって不名誉なこの言葉や用法が使われなくなることが望ましいと思います。ましてや、中国人自らの言動がshanghai化することも望みません。(了)


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