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上海の初印象 【上海の街角で 井上邦久】vol22 (読む時間:約4分半) 2016.08.22


Whenever誌の江蘇版で連載が始まり、好評のうちに北京・天津・上海・広東版にも掲載され、30回のロングラン連載となっている『数字で学ぶ中国経済』を愛読されている方も多いことと思います。改めてそのタイトルを見ると「中国の達人が教える」「中国40年の変遷」というサブタイトルに挟まれていることに気付きました。連載執筆者の松本健三さんとは上海駐在の同年齢の仲間として知り合いました。1980年以前、北京の総公司か広州交易会でしか商談機会がなかった頃から、お互いが日中貿易業界に身を置いていたことが分かってから親密度が高まりました。松本さんは、9月号に「井上さんと私は1970年代から日中貿易に携わってきた最後の商社マンです」という一節を綴られているようです。
「達人」から「最後の商社マン」と表現されるのは、何とも面映ゆいことで、畏れ入っております。こちらは松本さんと違って、数字にまるで弱く「達人」には程遠い存在です。ただ化石のような最後の商社マンかどうかは別にして、40年に渡る商社での業務を通じて、日中貿易の変遷を体験してきたことは事実です。今もまだ同じ商社に籍を置いているので、商社活動での回想に流れるのは控えます。ここでは商社に入る前、つまり国交正常化以前に体験した上海について素描を試み、松本さんへのアンサーソングに代えます。


1971年の雪融けの季節、初めての上海へ。学生友好訪中団の仲間20名との団体旅行で、南昌から上海への列車移動でした。香港の羅湖から橋を一人一人渡り、深圳駅で入国審査を受けて以降一か月、すべて列車での移動でした。上海駅に到着する手前から鐘や太鼓が賑やかに鳴り響き、ホームは歓迎の横断幕を掲げる紅衛兵たちでぎっしり埋まり、まさに「熱烈歓迎」でした。駅のホームの賑やかさと対照的に、街はガラ~ンと静まり返り、外国人に開放されていた数少ないホテルの和平賓館も客が少なく、高い天井と暗い照明のせいもあって、ガラ~ンと静かでありました。時々、賑やかになるのは、革命歌を歌いながら「遊行」(行進と訳せば良いでしょうか)する隊伍が窓の外を通り過ぎる時くらいでした。
夕食後の長い夜の時間を持て余して、本を探しにホテルの読書室に行きましたが、見つけたのは『中国画報』『北京周報』そして『毛沢東選集』全4巻でした。広州でも北京でも同じくこの三点セットだけを目にしていたので印象が鮮明であったわけでして、決して記憶の「達人」だからではありません。もちろん赤い表紙の小さな『毛沢東語録』だけは其処かしこに山積みされていました。現在、街の骨董屋で『毛沢東語録』を売っているのを見るたびに『中国画報』の表紙を飾った健康的な紅い頬をした女工さんや「毛語録」をかざして「遊行」していた紅衛兵たちは、還暦前後となった現在もまだ赤い頬をしているのだろうか、と詮無き想像をしてしまいます。


外灘で黄浦江の向う側について尋ねると、「辺鄙な土地です」と言うだけの遠い存在で、浦東という名称を使わずに説明されたような気がしています。その逆に虹口の魯迅公園はとても近くに感じました。和平賓館から車の少ない路を飛ばし、途中の何か所に信号機があったか定かではありません。「中国では赤信号はGOなのかな?」という軽口を叩く同行者も居れば、「我々の外国からの来賓(外賓)の車が通る時は、信号を青に切り替えるのだ!」と、したり顔で言う分析好きな同行者も居ました。魯迅公園では立派な魯迅の墓を見て、サトウキビを齧った記憶しかありません。たしか、現在の魯迅記念館の前身の施設も閉鎖中だったと思います。当時、歴史論争・文学論争などは押しなべて政治論争になっていましたから、記念館や博物館の多くは閉鎖されていたのではないでしょうか?一方、静安寺近くに威容を誇っていた工業展覧館は開放されていました。中央に星の塔が聳えるソ連風の巨大な建築物は他を圧していました。1980年代になり上海出張を始めた頃に、中華料理店以外では数少ないレストランとして貴重な場所となり、ボルシチを食べに通った記憶があります。今では、その四方を摩天楼に囲まれて。クラシックな建物は街の底に侍り、見上げていた星の塔も高架道路から横に見えます。
1970年代初頭の上海見学コースの定番は、馬陸人民公社だったようです。1972年の秋、北京での国交正常化交渉を終えたあと、周恩来首相の接遇で上海を訪れた田中角栄首相・大平正芳外相・二階堂進官房長官の一行も虹橋空港から馬陸人民公社を訪れています。このことについては、以前に「上海たより『馬陸』」に綴りましたので重複を避けます。その後、馬陸は葡萄の産地として有名になり、葡萄園観光としても人気があるようです。かつての馬陸人民公社の名残を探しに行っても見つからず、地下鉄の馬陸駅前にはマンションが林立しています。


単独で街歩きもできず、定番の訪問先での交流会を通じてのみの上海初体験でしたが、訪れた他の都市との違いとして印象に残っていることがあります。一つは、上海から南京へ移動する際の上海駅のホーム、到着時と同じ型通りの鐘や太鼓が賑やかな中で、横断幕の陰に一人のふてくされた様子の女子紅衛兵を見つけました。列車が走りだした後で、仲間たちの話題は「孤立を恐れない」女子紅衛兵の存在に集中しました。分析好きの同行者は「疎外がないはずの社会主義社会での疎外」について講釈をしてくれました。印象に残ったもう一つは、その白けた素振りの女子紅衛兵の中山服のズボンに折り目が当たっていたことと、襟元に覗いた(或いは覗かせた)セーターのオレンジ色でした。このことは個人的な印象に留め、同行者たちには話さなかったと思います。(了)


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