新規登録
コラムニスト募集中
日経新聞
DMMコラム
蘇州たより
上海の街角で
JETRO
上海日本商工クラブ
在上海日本国総領事館
ラクト
上海人
香港リーダーズ
C.L.Mリーダーズ
経営者.マガジン読者の集い
2015稲盛和夫経営哲学上海報告会
中国ニュース
株式会社TOHOKI
人気ページランキング
  • 今週
  • 今月
  • 殿堂
  • JBSコラム Vol.3

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • 上海リーグ法律事務所 コラム vol2

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座vol4

  • 知的財産権の取得・侵害対策、企業内不正対応を中心に、中国での企業活動をワンストップで支援。

  • JBSコラム Vol.3

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座vol4

  • 知的財産権の取得・侵害対策、企業内不正対応を中心に、中国での企業活動をワンストップで支援。

  • 上海リーグ法律事務所 コラム vol2

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • “One Team, No Border” 会計税務を中心に企業のグローバル化を全力で支援しております。

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座 vol.8

  • 微博・微信を中心とする中国ソーシャルソリューションサービスをワンストップで提供しています。

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • リスク管理領域を中心に日系企業の中国事業を支援させて頂きます。

周恩来首相 【上海の街角で 井上邦久】vol29 (読む時間:約4分半) 2017.03.19


 雪残る湖西湖東の分かれ道(拙)


雛祭り、中国では第12期全国人民代表大会が開幕しようとするころ、湖西線回りの新快速で敦賀へ。今回は気比神社にも、人道の港ムゼウムにも寄り道せず、福井行きの普通電車に乗り換えました。長年の朋友であるSさんは、一昨年来現場に復帰して企業再建に尽力されています。そのSさんから昨年末に電話を貰いました。支援元から派遣された総責任者のT社長は学生時代に中国に行ったことがあるようだ、もしかして二人は仲間同士ではないかい?といわれるSさんの推測は的中しており、今回の訪問に繋がりました。
大きな窓越しに雪に覆われた白山山系を目の当たりにできる、地元老舗企業の応接室に封筒を持参しながら現れたのは、40年以上会うことの無かったものの、一目でその人と分かる紛れもないTさんでした。Tさんは封筒から二枚のコピーを取り出し話し始めました。一枚は1971年3月13日に撮影された集合写真のコピー、もう一枚は集合写真と参加者を報道する3月14日付けの「人民日報」一面記事のコピーでした。この二枚のコピーを目にしただけで、ちょうど46年前の3月、残雪が凍っていた北京の人民大会堂に一気にカットバックすることになりました。


学生が国交回復前の中国に行くには個人旅行は難しく、日中友好協会の推薦支持のある団体に参加する形が多かったと思います。当然ながら公安警察からの圧力や恫喝(ブラックリストに載せるから、まともな就職などは考えないことだ、という担当官の捨て台詞もありました)などの通過儀礼を経たのちに、大阪からわざわざ外務省本省で特別なパスポートを入手して、ようやく香港に飛ぶことができました。香港市街から国境の町の羅湖で出国手続きをして英国軍と中国人民解放軍の厳重な警備のなか、一人一人徒歩で橋を渡って深圳へ。その頃の深圳は、駅前から水田が広がり水牛が働くのどかな農村でした。
広州、長沙、韶山(毛沢東生家見学)、南昌、上海(馬陸人民公社、工業展覧館など)、南京、天津と汽車移動をしました。上海では、和平賓館の窓から眺める街角に車も人も少なく、時々紅衛兵たちの「游行」(隊列示威行進)が通過する際に賑やかになり、やがて静寂が街をつつんでいました。和平賓館ロビーの本棚には「人民画報」「北京週報」と毛沢東選集(当時は4冊本)だけが無造作に置かれていたと記憶します。
入境して三週間が過ぎ、北京に入ってからの大学などの見学や現代革命京劇(『紅灯記』『沙家濱』)の観劇にも些か退屈してきた3月13日。中国旅行社の人たちから「今日は一番いい服を着てください」との要請指示がありました。連れて行かれたのが天安門広場の西側の人民大会堂でした。そこで周恩来首相が出迎えてくれるとは30名の団員の誰も予想しておらず、さらに記念の集合写真を撮ってから面談と会食になりました。一国の宰相が異国の学生相手に8時間もの時間を割いてくれたことにも驚きました・・・ここまでのオサライについては、Tさんの記憶や印象もほぼ同じでした。しかし、周恩来首相や陪席した郭沫若氏(人民大会常務委員会副委員長・中日友好協会名誉会長)と会えたことだけで舞い上がることなく、Tさんはとても冷静に面談に参加されていたことが今回の再会で良く分かりました。翌日付けの「人民日報」をしっかり入手して保管されていたことにも敬服しました。
後からの知識として、1971年3月の周首相は文化大革命の渦中にあり、毛沢東主席と№2の林彪副主席の間で軋轢が増していた時期に当たります(林彪の国外脱出、墜落死事件は同年9月13日とされています)。他方ではソ連の軍事的圧迫への対応策として、米国そして日本との関係改善を水面下で行っていた頃とも考えられます(ニクソン大統領、キッシンジャー長官の訪中は、1972年2月。田中角栄首相、大平外相、二階堂官房長官の訪中は1972年9月)。
ウィキペディアで「周恩来」の項を引くと、「逸話」の一例として以下の書き込みがあります。
・・・1971年関西学生友好訪中団との会見において、こう語っている。
「日本民族は偉大な民族です。元はインドシナからモスクワ、朝鮮まで
侵略しましたが、日本は2度、この侵略を撃退しました。(後略)」・・・
このような周首相の発言も聴いたはずですが、今では忘却のかなたであります。
周恩来首相の死後、何人かの首相がそれなりの努力を続けてきましたが、その誰もが周首相の影を意識してきた印象があります。昨年来、皇帝と宰相のような力関係が濃厚になってきた当今の首相は、折からの人民大会堂での報告に当たって、周恩来首相が味わった苦汁の再来を、どのように受けとめ呑み込んだことでしょうか。


30名の団員の内、宝石商から帰農したNさんと日中共同トキ保護活動のため西安に駐在していたMさんに続いて、今回Tさんと連絡がつきました。まずは名刺交換からというサラリーマンの所作も忘れて、二枚のコピーから始まったTさんとの会話は、中国団体旅行については事実確認が大半で、懐古談がほとんどなかったことを心地よく感じました。中国の流れはじっくり眺めて対応することも大切だ、しかし「不易と流行」は峻別して、決して流されてはならない、そして如何に後世にバトンタッチしていくかを考えることが大切だと異口同音に語り続けました。熱冷ましに、かまやつひろし『我が良き友よ』なども唄いました。


(了)


コラムニストの過去の記事も読む