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コラム「上海の街角で」

博物館 【上海の街角で 井上邦久】vol21 (読む時間:約3分半)


    •  短い春と秋の間の可愛げのない猛暑、熱が身体に籠ったら苦瓜(ゴーヤ)を食べなさいと上海オフィスの複数のスタッフから言われたことを思い出します。そんな夏によく足を運んだのは南京西路が昔の競馬場のコーナーに沿って湾曲したあたり、時計台が目印の建物でした。欧州人が設計して、租界地に住む外国人がメンバーの中心を占めていた上海レース倶楽部があった場所でして、そのよすがを欄干に馬の頭部を配した階段などに見つけられます。博物館や図書館が移設されたあとに、美術館として2012年末まで使用されていました。天井の高い石造りの室内は、静かで涼しく広々としていました。無料の絵画展を見る時間より、ミュージアムショップで有料の画集や記念品を探す時間が長く、更に最上階の5階のレストラン「K’s 5」(Kathleen’s 5)のテラスで人民公園の緑や浦東の高層ビルを眺める時間がもっと長かったです。2010年頃まではブランチ目当ての欧米系の客が目立つくらいで概ね空いていて、ドラマや映画の撮影を目にしたことも懐かしく感じます。


      美術館があった場所からほど近い上海博物館は「鼎」を模した重厚な建物として1996年に完成し、外灘に向かう高架道路からは左手にその威容が見えます。ただ、開館前の早朝から長蛇の行列ができるので炎天下の夏には不向きです。上海博物館は1952年の創設の後、現在の立派な建物に収まるまで移転を重ねており、1980年初頭に古風な建物に入っていた頃によく訪ねました。日系企業のオフィスが上海大廈や聯誼大廈にあった頃で、和平賓館にも宿泊できた、のんびりした時代のことです。アテンドや商談への登板間隔もゆったりしていて、空いた時間の街歩きに博物館は手ごろな場所でした。来館者も少なく、展示品も限定的で、たゆとう時間を眺めるような空間でした。或る日、ずいぶん展示がすっきりと整理されていて、既視感覚に陥ったことがあります。しばらくして、大阪中之島の東洋陶磁美術館の展示との共通点が多いことに気付きました。たぶん、かなりの高い確率で両館の提携が順調になされていたことの証明でしょう。大阪と上海が友好都市であり、友好都市ということに意義と効果があったとされる時代でもありました。


      当時、中国の工場見学に行くと工場長から専門性に乏しい新米商社員も含めた日本からの訪問者に対して「先輩たちに学びたいので、参観を通しての貴重な意見を聴かせてください」という言葉が必ず発せられたものです。妙にくすぐったい気分にさせられましたが、日中双方とも大真面目でしたので、逐語訳で正確な通訳に努めました。
      その頃、記念品売り場で買った唐代の女人陶俑(女子十二楽坊のように、各種楽器を手にしたシリーズ)のレプリカは今も日本の留守宅の下駄箱の上にあります。美術カードも含めて、とても割安だった印象があります。売る方も買う方も、1970年代末から提唱された「社会主義市場経済」に不慣れだった兌換券の時代でした。


      上海博物館は北京故宮博物館、南京博物館とともに三大博物館と称される事もあるようですが、その場合、台湾の故宮博物院のことは別格にしているのでしょうか?因みに故宮博物院は、昨年末に嘉義市に南院が新設されたので、台北市のものは北院と称されるようになっています。


      その北院は6月末の時点では劇的に静かになっていました。入場料を払って進んで直ぐの処に「請輕聲細語(Please keep your voice low)」という看板がありましたが、その看板目的の対象者の行列もなく劇的に減っていました。加えて、嘉義市の南院の目玉として団体客に人気のある「翠玉白菜」が南院に出張展示されているので、北院は余計に静かであったのでしょう。台北の故宮博物院で宋朝の青磁・白磁の粋を静かに、ゆっくり眺めるには今を措いて無いようですよ、とお伝えしたら、大阪の老舗画廊のK社長から以下のような返信を頂戴しました。


      ・・・今年12月 東洋陶磁美術館にて「北宋汝窯 台北故宮博物院 青磁 水仙盆」という展覧会が開催されます。東洋陶磁美術館の所蔵品も含めて、世界に6点しか存在しない「青磁 水仙盆」の展覧会です。故宮のリニューアルオープンの展覧会も汝窯の展示が一本の柱でした。
      今回の東洋陶磁の企画も素晴らしいものと思われます。12.月10日から3月26日の期間と聞いております。ご来阪の折 お時間があれば、ご覧ください・・・


      12月の大阪開催まで待ち遠しい向きには、陳舜臣の直木賞受賞作『青玉獅子香炉』を読みながら、台湾にたどり着くまでの故宮秘宝の変遷をたどることは如何でしょうか?苦瓜を食べなくても暑気払いができるような内容だと思います。(了)


    2016.07.25

    散歩の会 【上海の街角で 井上邦久】vol20 (読む時間:約4分)


    • 1930年前後の上海の街を通底するテーマとして、色んな角度から変奏曲まがいの拙文を綴っております。時にお気楽なハ長調、またある時は少し重い気分のニ短調と、気まぐれな内容です。ただ、できるだけ街を歩きながら考えるという姿勢を続けていきたいと思っています。


      もうかれこれ25年くらい続いている「茨木土曜クラブ」。茨木市主催の父親学級で一年間をともにした仲間と、自主的な集いや行動をしようということで始まりました。多少の出入りはありますが、20名前後で年6回の活動が継続されています。会員自身による発信を大切にしています(来月には元会長から戦争中の体験報告。昨年8月には、上海から戻って「ほんまはどうやねん?中国!」の定点観測の報告をさせてもらいました)。屋外活動も盛んで、季節に合わせた探索地の選択や事前の下見と味わい深い資料作成をしてもらっています。大阪城などでボランティア活動の経験豊富なIさんや一級建築士のMさんに町歩きの面白さを教わってきました。最近ではMさんが設計した三田市立図書館から三田城址へ。水軍として名を馳せた九鬼氏が山の中でも水練を続けたという堀池、そして九鬼家家臣の白洲家の墓地で白洲次郎・正子の墓を拝んだコースが印象に残っています。また以前に、堺の鉄砲鍛冶町や刃物町を散歩した折に買ったペティナイフは、生涯単身赴任の強い味方になっています。数年前には、茨木から上海まで数名のメンバーが来てくれたので、水郷や上海の下町散歩の案内をして少しだけ恩返しができました。数年前からの課題として、あっという間に四半世紀を経た土曜クラブを土曜日に開催する必要性が乏しくなったことです。


      こちらは土曜日開催が原則の「上海歴史散歩の会」の説明は、多くの方には多余的話でしょう。次回の散歩の案内が会員へ一斉配信された数時間後には受付締切りになる状態が多くあるようです。仕事熱心な方々が帰宅してメールチェックをする頃には、案内と締切りの通知を一緒に読むことになり、残念に思うことがあるようです。
      今は普通の人が普通の生活を営んでいる場所が、その昔は茶館や青楼であった(福州路散歩)とか、戦前の日本人が建てた日蓮宗の寺であった(虹口散歩)とかの例は枚挙にいとまがないのです。普通の生活空間を多くの散歩者がぞろぞろ覗き歩きをすることは厳に慎むべきであり、やむを得ず参加者人数が絞られることになります。
      こちらの会も資料の執筆編集には多大な力が注がれており、専門研究者による書下ろしの松江散歩資料などは白眉でありました。楚国の春申君が上海開発に着手したことに因んで上海の別称が「申」であり、母なる黄浦江は春申君の「黄」姓に由るという解き起こしからの説得力に満ちた解説にうなりました。日本との交流の歴史も深い、寧波そして揚州には一泊バスツアーになりました。


      顧問の陳祖恩東華大学教授夫妻にはいつもマクロからミクロへのご指導ご配慮を頂いています。寧波散歩の折には、陳教授に故郷料理の献立を選んで貰い、ご親戚とも交流させて頂くというオマケ付きでした。帰りのバスでは「この散歩の会への中国人の参加者が少ない。中国人はもっと歴史に学ぶべきだ」と真摯に語りかけることを常とされています。
      昨年の歴史散歩の会で、上海の民族資本家についての資料準備と講義そして道案内を された上井真さんは既に上海駐在から日本に戻っている方です。事前に資料を拝読していて、民族資本家である栄家一族に触れていることに気付きました。末裔には中国国際信託諮詢公司を創業して国家副主席まで務めた栄毅仁もいる無錫の栄家です。
      大学時代に薫陶を受けた中井英樹筑波大学名誉教授の業績の一つは栄家勃興の研究であり、以前に現地調査報告と論文を送って貰っていました。その資料を携えて上井さんに会ったところ「これがオリジナルですか!栄家研究には中井先生の論文が必須なので、あちこち探し、苦労して大阪の図書館で全頁コピーをしました」ということでした。その後、平塚で中井先生と上井さんを引き合わせ、トラック何台分かを処分したあとの資料の山を仕分け、上井さんに整理、分析してもらうという協業の約束ができました。
      中井先生の資料は、井上には「猫に小判」。それを上井さんとの「井の字」の御縁が繋がり「瓢箪から駒」の発展系になったのも、「上海歴史散歩の会」の事務局各位のお蔭です。


      上井さんは「江戸東京散歩」を始められています。一回目の蔵前辺りの米倉経済の考察散歩には都合がつかずに欠席。二回目の千代田城周りの水都としての江戸の発展(重要な水辺の場所に九鬼家の名前が)を知る散歩には、法事を終えてから参加し、和田倉門から合流させて貰いました。「和田」とは「海」のことと教わりました。確かに「ワタ」「パダ」とくればハングルで「海」「わたつみ」の意味に結び付きます。和田倉門の眼前に日比谷湾の海水をイメージするのが歴史散歩の醍醐味です。建築士のMさんから授かった「五感も六感も働かせながら歩きましょう」の教えの実践でした。(了)


    2016.07.04

    上海の街角で 【上海の街角で 井上邦久】vol19 (読む時間:約4分半)


    • JR環状線の大阪駅から一駅下ると福島駅があり、最近は個性的な趣向や料金の店ができて、客足も増えているようです。この数年、古いスタイルの商店からの模様替え,商売替えも進んでいます。その古いスタイルの典型のような小さな店が、福島駅から20メートルくらいの場所にあり、店名の「ミヤコ楽器店」に惹かれて何回か通ったことがあります。
       大阪府北河内郡四条畷町の高校生だった頃(大阪万博の前でした)、片町線という単線電車に揺られて繁華街に出ることは滅多になくて、たまに思い立って大阪駅前の旭屋書店でペーパーバックの英文小説を買うか、心斎橋筋でレコードジャケットを眺めるか、という精一杯気取った動機づけで交通費を捻出していました。当時の心斎橋筋は大丸・そごう百貨店を筆頭に老舗が並ぶ風格のある商店街でした。音楽関係では、YAMAHA音楽教室を別にすれば、大月楽器店とミヤコ楽器店が突出した二強でした。当時のレコード歌手は販売促進のために、大手のレコード販売店を訪ね、場合によれば仮設のステージ(ビールのカートンボックスなど)で新曲を歌うことがありました。大阪では心斎橋筋の二強の店にサービスをして、多く売ってもらうことはレコード会社にとって大切なことだったでしょう。過剰なサービス精神とバランス感覚で、新人歌手の芸名を「大月みやこ」としたことも、当時としては話題性があったのでしょう。


      今世紀の初め、心斎橋筋の変貌は凄まじく、イタリアからの客人は街並みが乱雑になるのは嘆かわしいと憤慨していました。この友人は「曽根崎心中」の切り場で涙を流すようなイタリア人ですから、老舗の衰退や安直な今様の店つくりを許せなかったのかも知れません。ミヤコ楽器店も2002年に心斎橋筋から店仕舞いをして何年も過ぎているのに、同じ店名のCD販売店が福島にあることに驚いたわけです。新曲のCDも置いていたのでしょうが、かつての大阪郡部の高校生が好んだ青春歌謡CDが多くありました。吉永小百合と三田明のデュエット曲集の発見などは特筆ものでした。レジの若い店主に、「失礼ながらこちらのミヤコさんは、あの心斎橋筋のミヤコさんと関係があるのでしょうか?」と聴くと「お祖父ちゃんの代までは心斎橋筋で大きな店をやっていました」とのこと。「そうでしたか・・・」という返答しかできませんでした。


      拙文の連載を始めるに当たって、テーマと題名をどうしようかと考えました。基本となるテーマは上海の街にちなむことを、できれば1930年前後の事と今の上海に結び付けて書かせて貰おうと思いました。時は国民党の隆盛期、官僚・金融資本主導の経済も二桁成長。東西南北の中山路で租界を封じ込める道路建設は、海外列強からの蚕食を喰い止める象徴的な工事だったでしょう。国父孫中山先生の名前を冠したのも、道路の目的や企図からして共感できます。そして、五角場での新都心建設に着手します。ペンタゴン状に道を配し、政府系機関の建設が始動していました。立派なスタジアム、水泳場の名残は現在もあり、そのアーチや窓の数が3個であるのは三民主義の象徴でしょうか?また、その近辺を歩くと小さな寂れた路地に「民権路」「政府路」などと大仰な名前が「保存」されていることに感動を覚えます。そんな1930年代の名残を残す上海の街をスケッチしようと決めました。ちょうどその頃、戦前の上海を題材にした曲に詳しい大先輩から『上海ブルース』と並んで『上海の街角で』という歌謡曲があるよ、と教えて貰いました。さればと、連載の題名を「上海の街角から」に決めて、拙文を綴り始めました。
      そうなると、その歌謡曲を丁寧に聴いておきたいという実証主義?と行動派の血が騒ぎ、福島駅のミヤコ楽器店(たしか楽器は置いていませんでしたが)へ赴きました。さすがの古い歌謡曲に強い店でも、目指す曲を探し出すにはかなりの時間と粘りが必要でしたが、『昭和の流浪歌』(テイチクレコード=帝国蓄音)というCDがあり、『カスバの女』『星の流れに』とともに、佐藤惣之助作詞、山田栄一作曲、東海林太郎が歌う『上海の街角で』を発見できました。


       ♪リラの花咲くキャバレーで逢うて 今宵別れる街の角
                 紅の月さえ瞼ににじむ 夢の四馬路が懐かしや♪


      上海航路の船乗りと日本から上海に出稼ぎに来ているダンサーが、一年を経て別れ話になった。船賃の足しくらいの少しのお金を渡して女性を日本に返し、自分が華北の新天地で一旗揚げるまで待っていろ、という男にとっては都合の良い内容です。タンゴ風の曲調は、戦後の『上海帰りのリル』に通じる気もしますし、ストーリー的にも繋がらないこともない?しかし、それはどちらでも良いことです。
      問題は歌詞の間に挟まれたセリフです。
      「・・・あれから一年、激しい戦火をあびたが、今は日本軍の手で愉しい平和がやって来た・・・」という能天気なことを復刻版のCDでは渡哲也が語っています。1938年に出されたオリジナル版のセリフの主は誰か?上述の先輩にお尋ねしたら、「それは佐野周二」と即答してくれました。上原謙、佐分利信と三羽カラスと称された二枚目銀幕スター、という説明より、「サンデーモーニング」の関口宏のお父さん、「アカシアの雨のやむとき」の西田佐知子のお舅さんが佐野周二です、という方が分かりやすいかも知れません。


      このセリフにある1937年の「激しい戦火」によって、国民党の短い春は終わり、五角場の新都建設計画は霧消しました。今年、その国民党候補に圧勝した民主進歩党の蔡英文総統は「小英」と親しまれ、具体性に欠ける経済政策を「空心菜(蔡)」と揶揄されています。
      大月みやこはベテラン歌手として活躍を続けていますが、福島駅近くのミヤコ楽器店はすでに無くなっています。闇市跡の建物だった旭屋書店で買った『ドクトル・ジバゴ』は冒頭のみ辞書を引きながら読んだと思われる赤鉛筆の跡がありますが、残りの多くの頁は半世紀に渡り、きれいなままで本棚の隅に保存されています。(了)


    2016.05.30

    開花宣言 【上海の街角で 井上邦久】vol18 (読む時間:約4分)


    • 今年の花見はかなり長く楽しめています。すでに東京では葉桜になっていますが、東北から北海道はこれからが本番。花と酒に生きる津軽の友人からは、「戦闘態勢に入らんとす」というたよりが届き、句会の最中でもあったので、即興で拙句をひねりました。
          花待てず戦闘モードの津軽衆  シャンパンの栓を抜くよな北の春


      「開花宣言」といい、「桜前線」という言葉そのものに情緒抒情を感じるのが日本の春。 その春の初めに上海から、台北から同時期に友人がやって来て、楽しい値千金の一刻を過ごしました。東京で開花宣言がなされた直後の大阪で、京都大学名誉教授の芝池義一氏の古希祝賀、退官、出版記念を合わせた宴が催されました。海外の門下生が上海から、台北から、そして韓国から駆け付けました。教授の下から巣立って大阪で修行したあとに、上海で活躍するC氏とは七年の交流を経て知己となり、台湾出張の際に研修をともにしたZ女史とはC氏が共通の友人であることが分かり、それ以来上海や台北で三相交流が続いています。今回は初めての大阪での会合なので、ホスト役としては美々卯のうどんすき等の浪速風の候補を考えていました。ところがC氏から、ズバリ三者をつなぐ意味からして、九州・琉球料理の店にしましょうと即断してくれたので、梅田駅前で予約をしました。


      当日、新阪急ホテルで待ち合わせた二人が、少し言いにくそうに、「実は昨日の宴のあと、とても喜ばれた芝池先生が海外からの参加者とだけ、もう一度席を囲みたいとのご意向でして・・・」とダブルブッキングへの断りの言葉。事情を察して「好事成双(良いことはダブル)ですよ。同じ店で席を連ねてはどうですか?」と応え、すぐに席の確保をせんと、店に電話したところ「承知しています。追加5名様ですよね。芝池様からご連絡をいただいています」とこれまたダブルの確認が取れて安心しました。
      韓国へ当日に移動する弟子の空港バスの時間を事前に調べたり、料理屋の追加予約をされたり、手回しよく手配される教授に脱帽でした。「グローバリズムとは!」と大きな声を出すこともなく、さりげなく、細やかに、そして具体的・効果的に接していくことが人や国の関係の基本姿勢なのだと改めて感じ入りました。琉球料理と泡盛で和気藹々のなか、やはり上海から来られた先輩格のL氏は、芝池先生のことを魯迅の仙台時代の恩師である藤野先生に喩えていましたが、朱筆指導も偲ばれて然もありなんと納得しました。


      その翌日、大阪本社に来てくれたC氏、Z女史そしてM氏の三人を、北船場の風情を今に残している「江戸菊」の二階部屋に案内しました。道すがら「開花宣言」とは何か?について日本滞在歴の長い三人も良く理解できていない、ということでうろ覚えの話をしました。各県ごとの気象台が桜の開花日を確定している。概ね各地の気象台近くに基準となる標本木があり、東京を除いて原則は秘密になっている。その標本木の基準の枝に5~6輪が咲いたら、その年の開花日とする。標本木以外の木や枝に沢山咲いていても開花とは認められない。(いくら千葉市内で雪が降っても、千葉県気象台のある銚子市に降雪がなければ「初雪宣言」はなされないとか)。
      その説明に驚いた皆さんは「差不多呀!」と中国語で反応されました。厳密なルールに従って、基準通りに職員が数を数える、それを多くの報道関係者が取材して速報することに、どれだけの意味があるのか?大差ないではないか?ということなのでしょう。確かに気象学的にそのような厳密さが必要なのか分かりません。恒例の春の風物詩ですと言っても説得力が足りない気がしますし、第一に「風物詩」という日本語の捉え方も曖昧ですし、中国語辞書にある「季節性伝統」は堅い直訳だし、「風景詩」は誤訳だと思います。風景や習慣を通して感じる季節の情緒。その情緒がキーワードなのでしょう。


      学生時代に読んだ『中国を知るために』(竹内 好:筑摩書房)にこれに通じる内容があったような気がして、本棚から正続二冊を取り出し探しました。しかし、次々に出てくる話題が面白く寄り道ばかりして、目的の文章は見つかりませんでした。以下は曖昧な記憶によるものです。
      ・・・秋の初めにたわわに実った柿も晩秋には数を減らしている。それを見て、中国人は「柿はもう無くなった」と感じ、日本人は「まだ数個ある」と言う。大まかにはほとんど無くなって、大勢としては「もう無い」と感じる中国人。全部無くなったわけではなく、厳密には何個か残っているのだから「まだ有る」と判断する日本人・・・


      「江戸菊」個室での会話が弾みました。日本で青春時代を過ごした皆さん、たぶんそれは程度の差はあっても苦学の時代であったでしょう。そんな辛苦を克服した過去を忘れず、社会的な地位を獲得して度々来日する現在を充実させ、仕事を離れて大所から連携をめざす未来を志向しましょう、とお茶で乾杯しました。
      桜がきれいに咲いた「江戸菊」の玄関で記念の写真を撮ってお別れしました。
      大阪の開花宣言はそれから4日後でした。(了)


    2016.04.15

    禁じられた遊び 【上海の街角で 井上邦久】vol17 (読む時間:約4分半)


    • 虹橋公園の梅は早々に開花し、柳は印象派のタッチで緑の点描を宿しつつも、未だ寒気の残っていた元宵節も続いて静かな夜となりました。


      すっかり春めいた今となっては、春節の爆竹花火禁止の話題も旧聞に属していることでしょう。それにつけても今回の爆竹花火の取締まりは大掛かりだったと思います。


      杜甫の名詩「烽火三月に連なり」をもじれば、煙火禁止のお触れの横断幕は、「黄幕二月に連なり」という感じで、陽暦の1月から2月にかけて上海の街角の至る処に掲げられていました。個人の携帯電話にも禁止指示が届き、爆竹花火を供給する側への規制も厳しくなされたようです。確かに売人がいなければ買人は存在し得ないのは単純な道理です。 そして、実に静かな上海の春節となりました。


      人によって爆竹の轟音の凄まじさは、あるいは砲弾のように、あるいはトタン屋根を叩くようにと表現され、とても安眠妨害といった生易しさではありませんでした。静かな今年が異常事態だったと判断し、さぞや庶民には欲求不満が溜まっているだろうなあと推測していました。ところが「空気汚染防止の為だから悪くないと思うよ」とか「まあ、爆竹がなくても特段の問題はないよ」といった一見冷静な声が多く聞こえました。古くから静安区(閘北と合併する前からの旧市街)に生まれ育った上海っ子から、「やはり爆竹を聞かないと寂しい」という少数派メールが届いたのが印象に残るくらいでした。


      そして大連出身の友人が「ビックリ、ポン!」とは言わないまでも、「まさか上海人がここまでやすやすと指示に従って爆竹を我慢するとは!?」と法令順守を旨とする法曹界で働く人とは思えない「?」を連発していたことでようやく我が意を得ました。上海人の従順さを意外に感じる人が居たことで安心をするというのも失礼なことかも知れませんが。


      若い頃に黒鉛の取引過程で、アモルファス(AMORPHOUS)という言葉を学びました。中国語では「不定形」と訳され、辞書的には「非晶質」と呼ばれ、曰く、結晶のように長距離秩序はないが、短距離秩序はある物質の状態。これは熱力学的には、非平衡な準安定状態である・・・難しい物理学的解釈は後回しにして、このアモルファスという概念は当時(1978年改革開放政策の開始直後)の中国を表す適切な言葉ではないか、と感じたことを思い出します。多くのことが未整備で、有体に言えば「いい加減」、身も蓋もない言い方では「我説的話就算」(戦後間もない頃のプロ野球、二出川審判部長の明言「私がルールブックだ」を思い出します)。そして少し洒落た流行語では「上有政策、下有対策」。そんな時代でした。  カオスとか混沌というほど無茶苦茶ではなく、一定の秩序があるけれど、個別主義が横行し、解釈通が重宝される・・・それなりに面白い状態でした。そんな変化に富んだ中で応用問題を解いていくには「ヤンチャな大人」が必要だと思いました。四角四面の形式主義ではなく、柔軟で大まかな姿勢を「ヤンチャ」という言葉に託し、それでいて、しっかり基本技と理念を心得た判断が出来ることを「大人」と称しました。


      例えを挙げれば、2008年前後に日経新聞朝刊に連載された高樹のぶ子の『甘苦上海』の世界。同時代の上海の風俗や気分を具体的な街角を背景に活写した小説でした。登場する女も男も「ヤンチャ」に酒と薔薇の日々を過ごしていました。杜月笙の主席公館跡を改装したホテルでの逢引、未整備だった田子坊に潜む謎の少数民族との交渉などなどスリリングでした。ただ、時代と併走する小説の弱みはリーマンショックのような急変を予測できずに急成長が続くことを想定していたこと、そして中国だけが経済停滞からV字回復することは更に予想できず、小説世界に急ブレーキをかけたことでした。小説内での助演男優賞的存在の「関西系中堅商社総代表の松本」が日本への転任を命じられ、主人公の紅子マダムに「日本ではこちらのような訳にはいかない。日本は公序良俗が建前の社会だから」といったニュアンスを伝えるシーンに「ヤンチャ」な男の「大人」の部分を感じたことを思い出します。


      そんな昔の思い込みや刷り込みがあって、今回の爆竹花火規制に対しても、「ヤンチャな大人」の上海人が様々な工夫をして、お上の鼻をあかすのではないか?と想像し、一面では期待もしていたのでした。しかし古い帽子を被った日本人や大連人と異なり、上海人はすでに「ヤンチャ」を卒業していたのかも知れません。


      十五夜満月の元宵節で春節の区切りをつけて、婦女節も過ぎた頃、ある上海人から爆竹花火規制について「今回のお上からの『信号』はきつかった。軽はずみなことをしでかして、罰金や拘留くらいならまだいい。しかし『言うことを聴かない奴』としてブラックリストに載せられたら大変。例えば、海外渡航を制限されるとか、銀行融資を拒否されるなどの社会的経済的制裁が怖い」と自己規制の背景を滲ませてくれました。春節という開放感に満みちるべき季節にしては閉塞感を感じる言葉でした。


      事実は果たしてどうでしょうか?純粋に空気汚染防止目的かも知れません。上海人も今や無理に爆竹で悪鬼を追い出す儀式に拘らないのかも知れません。そしてきつい『信号』は単なる被害妄想の思い過ごしかも知れません。ただ、北京からの指示が上海の末端まで及んだのも事実であります。それが核心によって社会の結晶を固定化する動きの一つの試験紙、試金石だったのかも知れません。「真面目な大人」と「ヤンチャな子供」が増える閉塞した空気の中で、烽火(のろし)が三ヶ月も連なることのないように祈ります。 (了)


    2016.03.22

    城隍廟 【上海の街角で 井上邦久】vol16 (読む時間:約4分半)


    • 2月22日(月)は「ニャンニャン猫の日」らしいのですが、当然これは日本固有のことで、今年の上海では陰暦(農暦)1月15日の元宵節。あいにくの雨で満月を眺めることは難しく楽しみに水を注されましたが、酒を注ぎ合った方は多かったことでしょう。元宵節は春節最後のお愉しみで、その日は仕事も早々に切り上げて、家族や友人が丸テーブルを囲んで会食する大団円の日。そして翌日からは春節気分は一掃されて・・・。
      そんな元宵節の午後に会議を催したり、客先に訪問アポイントを申し入れたりするのは野暮の骨頂として嫌われるので気をつけています。
      野暮と言えば「爆竹禁止、違反者は処分する」と大書された紅い幕が至る処に掲げられていました。この野暮なお達しについて、ある女性弁護士が「上海市民がこれほど従順に爆竹禁止規則を守ったことにビックリ!」と法曹界の人士らしからぬ本音を語ってくれたことも、愉しい春節の思い出のひとこまになりました。


      年の瀬の雰囲気が濃くなった頃、春節を区切りに上海での仕事や生活から離れる人の流れが始まりました。駐在任期満了の帰国者、受験を機に帰国する子弟たち、そして上海から別の国や地域へ異動する管理職・・・その中には、惜別の念は黙し難く、とまでは成らずとも何らかの形で惜別の宴をしたい方がいます。しかし、思いはあっても実際は異動や移動前の時間は貴重であり、よほどの事前準備をしなければ面談も難しく、ましてや昼食・夕食の枠はキャンセル待ちとなります。戦前、財閥系商社支店長の帰任に際しては、大きな料亭を三日三晩貸し切って宴を催したことを、陳祖恩教授が著した上海の日中交流史で読んだことがあります。


      「城隍廟での朝食をお別れの宴にしたいのですが・・・」失礼をかえりみず申し入れたところ、「朝ならOK。場所も便利」との嬉しい回答があり、「南翔饅頭店、小籠包の店の三階でどうですか?」にも「三階、いいですね」という老上海、上海通らしい遣り取りがありました。
      池の傍らのその店の1階はテイクアウトの長蛇の列で有名。2階は早朝から開いていて、食券方式で相席は当たり前、混み合うと順番待ちは階段を経て1階まで伸びることもしばしばです。その点、3階は小ぎれいな布も掛かった卓で注文ができます。小籠包の種類も豊富で、各種小菜もあります。欠点は開店が8時45分からであることくらいです。値段体系は1階や2階より高いのは当たり前ですが、3階の奥にあるVIP個室(最低消費金額が、以前は150元/一人でした)よりずっと庶民的です。


      その朝は9時前に席に就き、豚肉と蟹肉入りの小籠包をそれぞれ1籠、野菜炒めや醤油大根など上海小菜をつまみに紹興酒5年物を1本だけ呑みました。
      観光客も居ない朝の席は家族連れや友達同士がまばらに座っているだけで、実に話しやすい環境でした。お互いの現在、過去、未来の話が行ったり返ったりしながら、小腹も満たされました。
      酒も控えめであったので、足元もしっかりと1階に下りました。猿の張りぼてが目立つ大灯篭も朝では精彩を欠いていました。城隍廟の門票売場で一人10元の「香花券」を買い中に入ると、そこは香炉を置いた広場、信心深い老若男女の世界です。捧げられた線香からの煙を頭にあてる人、紙銭を惜しげもなく燃やす人、そして広場を囲むようにして祈福堂、財神殿、慈航殿、道縁軒などがあり、一つ一つお参りする人も居ます。方浜中路出口側を見上げると牌楼と戯台があります。数年前に静安区の高層ビル火災で多くの犠牲者が出た時、戯台で道士が鎮魂の舞をしていたのを思い出します。土地の氏神、鎮守を司る者として慙愧に耐えないというような文字も掲げられていたような記憶があります。
      最も大きな司馬霍光を祭る霍光殿には大小さまざまな像が鎮座し、鐘や太鼓なども下げられています。通路のような甲子殿の両側には十二支の守護神が飾られ、参拝者は自らの干支像に捧げ物やお布施を届けます。そして最も奥まった処に城隍殿があります。神壇には元末明初の秦裕伯(1295?-1373年)が祀られています。汚職とは無縁の清官、善政の人だったのか?産業を発展させて金持ちを増やした人なのか?よく知りません。調査は北京中央にお任せします。


      城隍殿で明代に創られた神に、一年のご加護の感謝をしました。上海から離任する友人は十年近い生活が息災であったことへの御礼をしたと話していました。
      元々は甲子殿の横に素麵館と茶館がありました。素麵は休日8元(平日5元)で、タップリの精進野菜が盛られ、それなりに美味しく、午後には売り切れになることがありました(以前、邦銀幹部の方が売切れに遭遇し、発奮して翌週再挑戦して一碗の8元の麵を食したという懐かしい話も思い出しました)。茶館は50元からで、中国茶道の伝統的なもてなしを延々としてくれます。最近、素麵館は場所を牌楼の東に移し、ずいぶんと綺麗になりました。原則は8時半からの営業で一律8元(縁日は5元?)、売切れなしとのこと。
      しかし、その朝は原則外れで開店休業で残念ながら食べそこねました。友人には、是非とも再度上海で素麵をご一緒したいものだと道教道士ともども念じております。一碗の素麵のために遠路を厭わずやってくる老上海が居れば鎮守様も喜ぶことと思いますので。 (了)


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    2016.02.24

    『Astor House Hotel』 【上海の街角で 井上邦久】vol15 (読む時間:約4分)


    • 榎本泰子さんは1992年から北京大学に留学され、帰国後は日中比較音楽学者としての著作でサントリー学芸賞や島田謹二学芸賞を受賞しています。その榎本泰子さんが2009年に中公新書として上梓した『上海 多国籍都市の百年』に大変お世話になりました。
      良き指揮者或いは水先案内人に導かれ、上海という魅力的な楽器を健脚や健筆で奏でた歴史小曲、多国籍協奏曲のような著作です。
      2009年の着任前後に上海に関する本をあれこれ読みました。多くの本やガイドブックの中で、堀田善衛氏の『上海』を別格とすれば、榎本泰子さんの『上海』が最も楽しく好奇心を刺激してくれました。この本を手にして一番に訪ねたのが外灘(The Bund)から外白渡橋(Garden Bridge)を渡ってすぐの角、黄浦路1号のレストラン「上海早晨」(Shanghai Morning)そして、黄浦15号の「浦江飯店」(Astor House Hotel)でした。


      上海の「文明開化」は波止場近くのホテルから、と言っても過言ではないと感じます。
      華夏第一老飯店(The Oldest Hotel in China) と自他ともに称されるこのホテルは、1846年(清・道光26年)に、Astor of Richardという英国商人によって外灘の地に礼査飯店(Richard Hotel)として創建。1857年(清・咸豊7年)に、当時Wales橋と呼ばれた外白渡橋の北側の現在地に移り、英文名のみを「Astor House Hotel」に改称。1907年(光緒33年)に全面拡張。Davies & Thomas建築事務所の設計による鉄筋コンクリートと木造煉瓦折衷の東アジア随一のホテルと称されたとあります。
      西方文明の窓口として、中国初の電灯(1882年)、水道(1883年)、電話(1901年)が使用され、半有声映画(1908年)が上映されたのも浦江飯店であったようです。


      米国グラント大統領(1879年)、李鴻章(1895年)、バートランド・ラッセル(1920年)、アインシュタイン(1922年)、チャップリン(1931年、1936年)が宿泊。周恩来夫妻は1927年「4.12政変」後に2か月間も浦東飯店で身を潜め、追い詰めた側の国民党の蒋介石夫妻は堂々と宿泊しています。
      幕末の長州藩から派遣された高杉晋作が浦江飯店に宿泊したとすれば面白いのですが、中日交流史の泰斗の陳祖恩教授からお聴きしたところ、長州藩士一行は乗ってきた船に宿泊したようだとのことでした。ただ浦江飯店を高杉晋作が眺めた可能性は高いでしょう。
      また榎本泰子さんの『上海』には、ホテル併設のレストランの美味に驚いた日本人が、東京で中華レストランを開業し、その名を『銀座アスター』と名付けたという故事が載っています。どちらでも良い事ですが、英語綴りをAsterと異にしたのは、遠慮?ミス?


      現在のレストラン『上海早晨』は、高い天井からシャンデリアが飾られ、その数多い電球はいつも全部が輝いています。これは当たり前のことのようですが、豪華に飾ることは得意でも、常に灯りを維持する持続力には欠ける例を見慣れている眼には新鮮です。その持続力は味の持続力にも通じます。穏やかな本幇菜(地元料理、上海料理)は期待を裏切らず、いつもゲストに褒めて貰っています。地元料理としてポテトサラダが出てくるのはご愛嬌。いつぞや夏の終わりに「蟹粉豆腐」を注文しようとしたら、なじみの服務員から、まだ蟹が美味しくないから一か月待ちなさいと助言してもらったことがあります。事ほど左様に、上海最古のレストランは純朴さをサービスにも、味にも、料金にも残していると思います。


      昨年末、日本での仕事納めの翌日から上海へ。学生時代の友人との二泊三日の二人旅でした。浦江飯店は我々に2階奥の大きい部屋と6階のコンパクトで明るい部屋を同料金で提供。久しぶりの上海をより楽しく過ごして欲しいと、友人には6階に泊まって貰いました。窓からは蘇州河、外灘そして黄浦江の蛇行の向こうに浦東の高層ビルが一望できました。帰国後に届いた友人の旅日誌には「ホテルの6階の部屋から見た黄浦江の夜景は絶景。まさに独り占め。井上に感謝」とありました。
      ちなみに2階奥の廊下の窓は貼り絵がされ、隣のビルの汚れが見えないように配慮されており、大きい部屋には寒さ対策のランニングができるスペースがありました。
      それぞれの好みで選べると良いのですが、かなり客が多いせいか?きめ細かい手配が面倒なのか?事前の部屋の選定が難しいので今後の努力が必要です。現状は与えられた部屋を「阿Q式精神勝利法」を活用して、幸運であったと感じられる精神操作が必要なこともあります。


      年始早々、上海証券市場は激しい動きを示して世界にもかまびすしく発信されています。その上海証券市場が開設された場所がこの浦江飯店の孔雀庁と呼ばれる大広間でした。1990年12月19日のことです。社会主義国家に証券市場、という実験がどのように成長するのか、当時は色々な観測がなされました。25年前に始まった市場をまだまだ揺籃期とみるのか、発育不全と診断してしまうのか、種々分析がなされることと思います。少なくとも、中国経済が踊り場にある、という見方は正しいでしょう。 孔雀庁はかつて素晴らしいダンスホールでした。 (了)


    2016.01.25

    浦江飯店(ASTOR HOTEL) 【上海の街角で 井上邦久】vol14 (読む時間:約4分半)


    • 外灘からガーデンブリッジを渡ってすぐの交差点角、向かいはロシア領事館、道路を挟んで上海大廈という場所に、浦江飯店(ASTOR HOTEL)、そしてレストラン「上海早震(SHANGHAI MORNING)」が古風な存在感を醸し出しています。 2009年に着任して間もない頃から、このホテルとレストランを利用させて貰っています。 上海で最初に作られた西洋式ホテルの浦江飯店や「上海早震」の沿革や愉しみ方については改めて綴らせて頂きます。 ここでは、かつてこのホテルに逗宿した有名人たち(チャップリン、アインシュタイン、蒋介石夫妻、周恩来などなど)を記念する写真やプレートが、ホテルやレストランの所々に、やや控えめに掛けられていることを伝えるに留めます。


      先月の初めに浦江飯店に泊まった時、部屋のすぐ近くの303号室にはエドガー・スノーが宿泊したという小さなプレートがありました。ちょうど読み続けていた『真夜中の北京(MIDNIGHT IN PEKING)』の中に、エドガー・スノー夫妻についての写真や記述があり、1930年代の空間に引き寄せられたせいか、その夜はページが進みました。


      1937年1月、北京公使館区域近くで起きた元英国領事の養女殺人事件という悲劇。
      著者のポール・フレンチが7年の歳月をかけ、長く迷宮入りしていた猟奇的事件について、中国・英国の歴史的文書を調査し、オーラル・ヒストリー手法も用いて解明していく過程を綴った物語です。笹山裕子の翻訳により『真夜中の北京』という邦題で、7月30日に河出書房新社から発売され、直ぐに売り切れ状態になったようです。
      ポール・フレンチは上海在住の中国近現代史の専門家。エコノミスト・アナリストとして、主に中国経済に関する記事を世界の専門誌に多数寄稿していると紹介されています。


      北京公使館区域とは、北を東長安街、東を崇文門大街、西を公安街で仕切られ、南は城壁で囲まれたリゲーション・クォーター(LEGATION  QUARTER)のことです。城壁のすぐ南沿いに北京中央駅からの鉄道が平行して走っていました。
      1900年の義和団事件以降、強化された防御壁に囲まれた区域内には、英米日露仏伊の大使館や各国軍隊の兵営、横浜正金銀行そして聖ミカエル・カトリック教会等があり、欧州以上に欧州的な文化や習慣が維持されていたと云い、名残の建物が今も残っています。


      1934年発行の「最新北平全市詳図」と1938年発行の「最新北京市街地図」の復刻版を王府井書店で買い、本と読み合わせて歩きました。国民政府が南京を首都に定め、北京は北平に変わり、1937年7月の盧溝橋事件以降の占領により北平は北京と再改変されました。
      1938年の「最新北京市街地図」には、このエリアは「各国大使館」と記載されています。
      1937年初頭に日本軍は紫禁城から数キロメートルの場所に根拠地を作って圧力を加え続け、一方では満州からのアヘンや大麻が北京に持ち込まれ、リゲーション・クォーターの目と鼻の先(崇文門大街と東側の韃靼城壁の間)のアヘン窟や売春宿が密集して、バッド・ランズと呼ばれた地域で取引された、と同書に書かれています。


      北京における植民地主義文化の終焉を目前にして、日本による占領そして傀儡政権の擁立といった流れに呑みこまれようとする空気の中、1937年1月に殺人事件が発生しています。被害者の少女はフランス大使館近くでアイススケートに興じたあと、何者かに拉致されてバッド・ランズで強殺され、韃靼城壁の狐狸塔の下で無残な状態で発見されています。
       英国天津租界の警察や中国の警察の捜査では解明できない(敢えて解明しない?)逆境の中、元領事の父親の執念ともいうべき追及が始まり、物語は動き始めます。


      延安根拠地に赴き、毛沢東を『中国の赤い星』として海外に伝えたエドガー・スノーは中国共産党にとって得難い理解者として高く評価された時代がありました。後年、老境に達した毛沢東の心境を知りえた稀有な米国人という賞賛もありました。そんな従来のイメージは、この本に掲載された若いスノー夫妻の写真や次のような記述で揺らぎます。
      ・・・急進派のジャーナリストで作家のエドガー・スノーと、同じく有名なジャーナリストでもある情熱的で魅力的な妻、ヘレン・フォスター・スノー。スノー夫妻は北京の外国人の間ではよく名が知られており、二人を好きな人と嫌いな人は、はっきり分かれていた。特にエドガーの政治思想は、体制派には忌み嫌われていた。口では革命を説きながら、強いアメリカドルのおかげで街から四マイル離れた競馬場に競走馬を所有するなど、贅沢三昧の暮らしをしているうわべだけの左翼と軽蔑する人もいた。・・・
      妻のヘレン(別名ニム・ウェールズ)は事件について、夫の共産党寄りの言動に警告を発し、出版間近と言われていた『中国の赤い星』を封じるために、国民党特務の藍衣社首領である戴笠の手がヘレンに及んでいた、しかし何かの識別違いで元領事養女が身代わりに殺害された、と思い込みをしていたという一節もあります。


      この同じ時期に、現場のすぐ北側の東観音寺胡同に長年住んでいた兆民の子、中江丑吉がこの事件について何か書き残していないか?急いで調べましたが、『北京の中江丑吉』にはエドガー・スノーが中国人作家の短編集を編集したという記載はあっても、事件についての記述はありません。新聞熟読を日課にしていた中江丑吉ですから大量に流された記事を眼にしていないとは思われず、書簡集を再読すればコメントが出てくるかもしれません。 また丑吉は午後の散歩を日課にしており、韃靼城壁でも散歩をしていたことを読んだ記憶があります。


      1930年後半からの正に真夜中だった北京の一端に触れることができました。 (了)


    2015.12.21

    『文匯報』そして『日本』 【上海の街角で 井上邦久】vol13 (読む時間:約3分半)


    • 11月7日、シンガポールにて習先生・馬先生の会談が行われました。蒋介石・毛沢東による最後の会談から幾星霜、歴史に一頁を残すという表現もありました。当事者の自画自賛やその周辺のメディアが持ち上げるのは当然ですが、各地から妙に冷めた反応が届いていて、この課題が単純でないことを知らされます。


      その歴史的な一日になるかもしれない11月7日付けの『文匯報』に「一張報紙的抗戦」(一つの新聞の抗戦)と題する張小葉記者の特集記事と1938年2月14日の『文匯報』一面の写真が掲載されていました。『文匯報』は上海を代表する新聞ですが、その揺籃期の経緯を知りませんでした。


      1938年1月25日、英国商人のH.M.Cumine(中国音訳名:克明)が発行人兼総主筆となり租界で創刊されています。1937年11月に国民党軍が上海から撤退してから、蘇州河南岸の租界地以外は日本軍が占領。新聞報道管制が強化される中、中文新聞の発行は租界で外国人名義のもとに行うのが唯一の手段だったようです。看板に英人克明守護神を掲げて、実態は中国人ジャーナリストが主導していたようです。


      発刊に際して厳宝礼総経理が記者に要求した四条件は、「言論は公正にすべし」「高尚な新聞風格の樹立」「独占的な情報」「独立保持、外からの干渉を無くす」であった由。


      1938年2月14日の新聞一面を見るだけでも驚かされます。「中国軍淮河を渡り反抗激烈、北岸の日本軍の形勢危急」というトップ記事から、孔祥煕(財界の首領。宋家三姉妹の長女・宋藹齢の夫君)による軍事の劣勢を財政面で支援する談話、蒋介石の外敵を御して民族の復興を謳う精神訓話、毛沢東の対日抗戦談話「国民党と共産党は当然永久に合作する」などなど。一面を読んだだけで判断するのは軽率ではありますが、近くの安徽省、江蘇省で激烈な戦闘が続く最中に、抗日記事が掲載されていること、国民党の御用記事を掲載して平衡を保ちつつも(蒋介石の精神訓話は4年前のもの)、毛沢東談話や共産党の拠点である延安抗日大学の動向を載せていることに驚きました。租界、英国名義ということで、日本軍からも国民党からも「独立保持」を貫いていたのでしょうか。孤島の灯のような新聞であったかも知れませんが、当時の困難な環境の中で、『文匯報』はよくぞ「公正」な記事を残してくれたものと感心します。


      ただ、5万部を超える人気紙となった『文匯報』を獅子身中の虫として厭う勢力からの妨害・懐柔の圧力が徐々に強まり、社屋には爆弾や毒入り果物籠などが届けられます。そして、1939年5月16日に英国総領事から二週間停刊の通知に至ります。更には資金面からの懐柔として、汪精衛主導の南京偽政府(偽満=満州国と同じ「偽」表示)からの克明氏への買収提案と続きます。


      5月19日からの停刊は、1945年9月5日の復刊まで続きます。詳しくは創刊当時の記者、鄭重氏の記録『風雨文匯』が出版されており、後輩にあたる張小葉記者はその先輩の自宅でのインタビューに基づいて記事にしています。拙文はその記事からの孫引きです。


      『文匯報』の創刊当時の状況を伝える記事を読みながら、この夏に横浜の新聞博物館で開かれた新聞『日本』陸羯南と正岡子規の展示会に連想が飛びました。


      この展示への準備協力、講演を務められた高木宏治氏は、老上海であり、現在は北京にて重鎮として悠揚迫らぬ態度でお仕事をされています。一方では、産経新聞幹部から筑波大学教授に転じた青木彰氏の遺訓を忠実に守り、新聞『日本』そして主筆の陸羯南の資料発掘、分析整理,復刻発行をお仲間と粘り強く続けていらっしゃいます。『日本』は伊藤博文政府への批判で停刊処分を何度も受けて資金面での困窮も続く中、正岡子規を採用庇護して短歌・俳句など文芸面の充実を図っています。この冬に陸羯南の故郷、弘前でも展示会が開催されます。


      新聞『日本』と陸羯南については、紙幅も理解も足りないので高木さんに更に教わってから改めて触れることにしたいと思います。司馬遼太郎が『ひとびとの跫音』『街道をゆく・三浦半島編、津軽編』に新聞『日本』と主筆の陸羯南について、青木彰氏そして高木宏治氏に繋がる研究系譜の源流が書かれていることをお伝えするに留めます。


      それにつけても、『文匯報』は11月7日に何故この記事を載せたのか?
      シンガポールでの二人の先生は『文匯報』のこの記事を読んだのか?
      大きな関心事です。(了)


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    2015.11.09

    アラハンの金子兜太さん 【上海の街角で 井上邦久】vol12 (読む時間:約7分半)


    • 不惑前後の世代をアラフォーと称したことに続いて、アラカンという和英造語が上海でも闊歩しているようです。往年の映画スター嵐勘十郎の愛称のアラカンは知らなくても、around+還暦=アラカン=60歳前後の総経理殿というイメージが浮かんできます。ところが最近になって、健康や長寿を売り物にした雑誌の広告に「アラハン」という文字を見つけました。アラハンの前ではアラカンがずいぶん幼く感じられそうです。

        
      言うまでもなくアラハンは、around hundred、100歳前後の元気な方々のお名前が挙がっていました。代表選手は聖路加病院の日野原名誉会長、書道家の篠田桃紅女史でして、ともに100歳越えです。下っ端の辺りに1919年9月23日生まれの俳人、金子兜太さんの名前がありました。因みに、日野原さんの俳句の師匠が金子兜太さんであり、最近では、二人でイジメに悩む小学生の天才的な俳句に着目して、立派な句集に仕上げています。


      金子兜太さんの父君の金子元春氏は俳人で医師。1919年当時は東亜同文書院校医として上海に単身赴任しています。第一次大戦後の対華21ヶ条要求、そして五四運動に続く時代の上海に、兜太さんは二歳で父のもとへ転居。四歳まで上海で育つ、と略年譜に書かれています。

       
      1943年、東京帝国大学を半年繰上げ卒業。日本銀行に入行。3日で退職して海軍経理学校へ。1944年3月に主計中尉としてトラック等へ赴任。米軍の空爆と栄養失調で多くの仲間を失う一方、尉官に関係のない俳句好き仲間で戦地句会を催していたとのこと。敗戦、捕虜となり、1946年11月に復員。翌年に日本銀行に復職。結婚。1949年頃から組合専従を経験してからは定年まで顕職とは縁のない処遇の転勤を重ねています。その一方で夫婦ともども現代俳句協会賞を受賞するなど俳句の作者、評者、指導者として地歩を築きあげています。

       
      以上のことを知り、同じ上海に住んでいたことに驚いたのは、金子兜太『悩むことはない』文春文庫を同人から頂戴してからのことです。句会を苦界に感じ、句作にクサっているのを見かねて同人が『悩むことはない』と励ましてくれたのでしょう。


      敗戦間もない神戸で橋閒石先生を中心に連句俳句同人『白燕』が結成されました。数年前、解散した『白燕』の流れを受け継ぐ人たちを中心に、連句・俳句の会『子燕』が結成されました。その中心メンバーが勤務先の先輩というご縁もあり、立ち上げから参加しました。枯れ木も山の賑わいと申しますが、この場合はアラカンでも同人の平均年齢を引き下げる効果がありました。米寿・卒寿記念句集を出された旧海軍潜水艦乗組員、アラ八十で現役薬剤師といった先輩諸兄姉が中核で、こちらは最年少の下っ端として雑巾がけをしてきました。


      2009年に上海着任後は月に各一度の連句会、俳句会に出ることが困難となりました。また駐在生活の中で季節感が薄れ、日本語が細り、生活が涸れるような気持ちになりました。その解決策として、先達がメールによる句会や連句(文音)の場を工夫してくれました。今では毎月十数名によるメール俳句会に発展し、歌仙文音の連句も次々に巻かれています。
      子燕も先輩同人の指導のお蔭を貰いながら、口ばしだけでなく羽ばたきもしっかりしなければ、と思っています。


      花屋までうぶ毛雨なら傘ささず
      春近し銀の雨降る上海に


      駐在したばかりの頃は、日本に居る同人にも中国への好奇心や上海への憧憬が残っていたせいか、拙句にも甘い点を頂戴していました。そんな頃の拙句です。「うぶ毛雨」とは勝手な造語です。冬の終わり春のはしりに降る嬉しい雨のことを、上海人は「毛毛雨」と親しみを込めて呼びます。日本語にするのは意外に難しく、幾つかの中日辞書に記載された「小糠雨」という訳は少しニュアンスが違うし、霧雨とも違います。まさに上海に降る「毛毛雨」。悩んだ挙句に、東京人形町の老舗刃物屋「うぶげ屋」(うぶ毛もきれいに剃れる刃物が売り)の爪切りを使いながら「うぶ毛雨」という造語に思い至りました。


      その後、政治的なストレスが高まった時期には、拙句にもそのストレスが忍び込んでいたことに気付かされます。少々ニヒルで諧謔が過ぎるかも知れません。


      黄砂飛ぶ俺のせいではないけれど
      日本でも月は丸かと訊く姑娘


      アラハンまで雑巾がけを続けられるかどうか不確かですが、連句・俳句の修行を重ね、諸兄姉のご指導をいただきながら句会を浄土のようにできれば幸いです。 (了)

       

    2015.10.19
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