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コラム「上海の街角で」

『この世界の片隅に』 【上海の街角で 井上邦久】vol26 (読む時間:約4分)


    • 「バカにされたい大学」というキャッチコピーで受験生にアピールしているデジタルハリウッド大学(東京・神田)。「バカにされよう。世界を変えよう。」という姿勢で設立10年目を迎え、注目度を上げているようです。「学歴」とは、学校歴のことだけを意味して、学習歴は不問に付されることが続く中で異色の大学のようです。
      そのデジタルハリウッド大学の萩野健一教授に「聖地巡礼と地域再生」についての報告を身近で聴かせて頂きました。改めて言うまでもないことと思いますが、ここでいう「聖地巡礼」とは、アニメや映画の舞台となった街や土地を訪ねて、作中人物との一体化を試みる行動のことであり、エルサレム、メッカそして四国八十八か所といった聖地を訪ねる巡礼とは異なる新しい用語です。『ローマの休日』でのスペイン広場、『君の名は』で真知子巻きの岸恵子が待った数寄屋橋は映画作品から生まれた伝説的な聖地とされます。
      国内外からの訪問者が増え続けている『スラムダンク』の江ノ電踏切、『神様はじめました』の川越市などのアニメ聖地の紹介がありました。色々と新鮮な発想と情報を教えて貰いながら、「そこに住んでいる人たちがアニメをよく知らないから、なぜ急に人出が増えたのか?分からない」「増えた訪問者をしっかり捉えて地域再生にどのように結び付けるか?地元は手をこまねいている」など多くの現場の実態も知りました。ブームになっても、その多くは2~3年で潮が引いていく傾向があるようで、順風が吹いている間に、地域に根付いた産業や文化に育てるには、受発信を担う地元のキーパーソンを育むことが最も重要だ、という一つの指針に導かれました。
      クールジャパンの掛け声が大きくなる前から日本のアニメの世界的な浸透力は潜在的に広まっていたのであり、最近になって鋭角的に顕在化してきたのではない、という分析には体験的にも同感できました。ただ、それに続く「アニメの技術が優れているから評価されているという見方は皮相的であり、海外の人たちはアニメを通じて日本の文化や日本人の発想法を発見しているのだ」と主張される萩野教授の考察見地が大切だと思いました。アニメ聖地の住民が「なぜ人が来るのか分からない」状態が、実は日本全体にも共通していて、多くの海外からの来訪者の来日目的や心情が「分かっていない」のではないかと考え始めました。


      上海でもアニメ『君の名は。』が封切られ、爆発的な集客に関する報道や口コミが伝えられています。春節前後から新たな四ツ谷の須賀神社など新しい聖地巡礼の対象が増えることは間違いないことでしょう。前評判も高く、封切り前から既視感覚さえ感じていた人たちは、早々に日本渡航の手配を済ませているのかも知れません。一方で『君の名は。』は、いずれ航空機内サービスで視れば良いのではという余裕のある方々もいるようです。一方、DVDや機内サービスではなく、映画館に通って観てもらいたいと思うのは、こうの史代原作の『この世界の片隅に』であります。


      こうの史代が漫画アクションに連載していた『夕凪の街 桜の国』を単行本で読んだのは十年以上前になります。その後、麻生久美子・田中麗奈らが演じる映画を観てからも十年近くになります。原爆投下後の広島に住み続けながら、貧しい生活のなか、原爆の後遺症やトラウマに戦い続ける人たちを描いたある意味で神聖な作品でした。
      あまりにも高い評価を受けた作品のあとでの『この世界の片隅に』でしたが、肩に力を込めた神聖な世界ではなく普通の人たちの生活や世間に誘われます。夕凪の街である広島市郊外の漁村から軍港のある呉へ嫁ぐ主人公すず。実直な夫や双方の家族とのほのぼのとした世界。幼馴染の水兵や遊郭で働く貧しい出自のリンとの交流も含めて、等身大に描かれた庶民の暮らし、まさに世界の片隅の生活を細部に至るまで丁寧に積み上げていきます。積み上げた時間の長さを知らされただけに、呉の大空襲、そして広島の原爆投下によって多くの生命と記憶が短い時間で損なれたことを痛烈に感じます。ほのぼのとした世界が、瞬時に失われる酷さを感じました。長崎への原爆投下を描いた山田洋次監督の『母と暮らせば』にはある種のファンタジーが漂い、こうの史代の『この世界の片隅に』には強ばりのないリアリティを感じました。


      上海では映画館上映の機会が限定的ではないかと推定される『この世界の片隅に』ですので、呉や広島が「聖地巡礼」の対象になるとは一概に言えません。しかし、多くの人たちにも何とか作品に接する工夫をしてもらい、その高度なアニメ技法とともに庶民の粘り強さや向日性気質などを感じとって貰えればなあ、と思います。
      正月や春節休暇を日本で過ごす日本人や海外からの来訪者たちのために、この映画が出来るだけ長く上映され続けることを期待しています。仮に映画館へ行くタイミングを逸した場合には、原作の漫画単行本、或いは雑誌『ユリイカ』11月号の「こうの史代特集」で、その世界に接することも可能です。(了)


    2016.12.21

    五角場 【上海の街角で 井上邦久】vol25 (読む時間:約3分)


    • 10月某日、某所にて、上海D大学のC教授からじっくりお話しを聴かせて頂きました。
      スターバックスのマグカップを前に置き、雑談をすることを惜しむようにメインテーマを語り合いました。C教授が学会に発表される「大上海計画」についての個人授業という、とても贅沢な時間の始まりでした。
      「大上海計画」は、1927年から1937年に南京の国民政府が立てた上海都市現代化を目的とするものであり、その中心理念は民族の発展追求、その核心地域は江湾地区、今の五角場でありました。2010年頃に五角場を歩いたことを思い出しながら地図をたどると、時計回りに淞滬路・翔殷路・黄興路・四平路・邯鄲路の五本の道が形成するペンタゴンの中心が五角場。そして周りには経軸に国政路・国庫路・国和路などの「国」が付く道、横軸には政府路・政治路・政立路などの「政」を冠にする名前の道が沢山あります。2010年当時の政府路などは鄙びた路地のような小路であり、道路名の大きさとのギャップに思わず笑ったこともあります。


       教授の資料によれば、1927年7月に上海特別市政府が成立し、南京とともに中央直轄市になり、同年11月の「大上海計画」設計委員会成立に基づき、市政府大廈(現在の上海体育学院)、スタジアム(現在の江湾体育場)、プール、博物館(現在の長海医院)、図書館(現在の楊浦区図書館)などが1930年前後にかけて陸続として建設されています。


      「道路命名には国民政府が重視する用語が採用されています」、「建築物の設計に三か所の窓やアーチが採り入れられているのは、国民党が掲げる三民主義の影響ではないでしょうか?」という五角場散歩の印象記憶からの素朴な質問に、教授は前者の命名の件は間違いない、後者の設計理念は分からないという冷静な回答を為さいました。
      「同じ時期に、列強租界地を新設の東南西北の中山路で囲ってその増殖を喰いとめようとした、そしてその囲いの外に自分たちの都心を造ろうとした、それが五角場である、という解釈は正しいのでしょうか?」という質問に、教授は「対、対、対」と力を込めて肯定されました。
      更には、その時期の中国経済は地域限定的ながら、高度成長とも言える発展ぶりであり、官僚資本家・民族資本家が力を蓄えつつあったことが、五角場建設などの「大上海計画」の背景にあったことも間違いなさそうです。
      また、医療中心やモデル学校設立や全国体育大会の開催など、孫中山が目指した「民生」の具現化とも言える先駆的な試みもあったことを教わりました。
      もちろん、明るく輝くばかりではなく負の側面もあったことは事実でしょう。ただ、これまで、1949年の中華人民共和国成立までの負の部分、暗部が強調されすぎていたのではないかと気づきました。
      1937年夏の第二次上海事変、そして日本軍部の戦線拡大派の抬頭により「大上海計画」は頓挫。そのまま歴史の遺物のような存在として眠り続けることになり、経済発展、国民教育、民生進歩といった近代中国の夢の実現は立ち消えになりました。
      そして今、上海副都心計画の重要拠点として五角場の拡大は凄まじく、商業や文教の核としての存在感を高めているようです。
      五角場の鄙びた小路に時代錯誤的な名前が残っていることには、「笑えない」歴史的な背景があることを改めて感じています。C教授の引率で五角場をまた歩きたいと思います。
      そんなことをお願いして、冷えた珈琲を飲み干しました。(了)


    2016.11.23

    神無月 【上海の街角で 井上邦久】vol24 (読む時間:約4分)


    • 今日、10月19日(水)は、陰暦9月19日。今年は9月、10月と続けて陽暦と陰暦がちょうど一か月ずれなので憶えやすくて助かります。昼間はまずまずの好天でしたが夕方から曇りがちになり、今宵一九夜の月の光は未だ見えません。
      今日は魯迅(周樹人)の命日にあたります。1936年10月19日、55歳の一生を上海市虹口で終えています。主治医の須藤医師の診断内容は竹内好『魯迅』に詳しく記されています。また井上ひさし『シャンハイ・ムーン』でも臨終のシーンが描かれています。一言で言えば、国民党や左翼文学者との激しい諍いの過程で、魯迅の身体はボロボロの状態であったと思われます。
      「今天晩上、很好的月光」で始まる『狂人日記』、自序に続く『狂人日記』に始まる14編の作品集『吶喊』には『故郷』や『阿Q正傳』も収められています。そして、『吶喊』に始まる小説と雑感文章により魯迅の存在感が高まったことに大方の評価は変わりません。
      魯迅は日本と中国の関係が決定的に悪化する前に逝去し、中国共産党が政権樹立後に、魯迅を中国現代文学の旗手として高く評価したことにより、長く神格化されてきた印象があります。最近になって、身の丈通りの魯迅を伝えようとする著作や展示が目に入るようになりました。一例として藤井省三教授の著作で魯迅と許廣平の関係を「女子大教師と教え子との不倫関係の同棲」とする率直な表現に触れ、虹口からハイヤーを飛ばしハリウッド映画を観に行っていたという有名なエピソードも再確認しました。魯迅記念館の研究職には魯迅の妻、朱安についての『私も魯迅の遺物です』という著作があります。この数年で記念館の展示も大幅に変わりました。朱安夫人の写真も展示されています。一方では、共産党新政権の要職に就いた許廣平女史は、魯迅の母親と正妻への送金を続けたという記述もあります。そして、ある人から「魯迅が革命後も存命だったら?」との問いかけに、毛沢東は「相変わらず陰でぶつぶつ不満を漏らしているか、とっくに批判されて消えていることだろう」と応えたという話を聴いたことがあります。


      あるベテラン教授から中国に関するテキストリーディングの指導を受けています。先週は、近代詩の先駆者の徐志摩の『你去』という詩を読みながら、中国語文法の基本を鮮やかに解明してもらいました。今週は、毛沢東の詩文、書のお話でした。その取りかかりとして、勤王の僧である月性の詩『将東遊題壁』を読みました。月性は西郷隆盛と入水自殺を遂げ、西郷は死に至らなかった。その友人の詩を西郷隆盛が大切にしていたことから、この詩が西郷作であると誤解した十七歳の毛沢東が同じような星雲の志を詩に残している、という繋がりでした。
              男児立志出郷関   学若無成不復還
              埋骨何期墳墓地   人間到処有青山
      人間(じんかん)到る処に青山(墓所)あり、という七言は良く耳にします。
      10月19日に毛沢東に関する指導を受け、しかも月性の詩を導入部として読んだことは、偶然とは言え、今日を命日とする魯迅に思いを馳せ、併せて本日を誕生日とする我が身の来し方を振り返る縁(よすが)になりました。


      本編も含めて、1930年代の上海を中心としたテーマで拙文を綴り、毎月不特定の読者の皆様にご笑覧願って足かけ3年になります。それ以前から「上海たより」「北京たより」そして「中国たより」と拠点の名を付した極めて個人的な発信を、毎月特定の方々宛てにお届けしています。二つの文章発信の場と姿勢が違うので、内容を極力重複させないように努めているつもりです。ただ、この神無月10月はその戒めを破って「中国たより『青島会』」と題する拙文との共用を以下の通りさせて頂きます。


      この夏、加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(2010年)が新潮文庫に入り、続いて同じ八月に『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』が出版されて、ともに刷数を増やしているようです。
      日清・日露そして第一次大戦が流れとして繋がっていること、そして山東半島や青島がその繋ぎ目として重要な土地であることが改めて解明されています。
      二冊の本は、中高生に授業形式で話を進めるスタイルが共通しています。優秀な中高生が鋭い指摘や回答をしていることも共通しています。後書きで加藤さんは、中高生とともに中高年にもどうぞ、とお誘いをしています。
      「近代史、現代史を授業では習っていないからなあ・・・」という言葉をしばしば耳にします。何故、授業で教えないか?本当に教えていないのか?についてはよく分かりません。ただ、仮に授業での印象が少なくても、知る・学ぶ方法は色々あることを加藤さんは示しています。


      10月19日の夜も更け、高い空で月が光っています。(了)


    2016.10.20

    中日大辞典 【上海の街角で 井上邦久】vol23 (読む時間:約4分)


    • 長年お世話になり、ずっと身近に置いている書物は『中日大辞典』をおいて他にありません。
      最近では、電子辞典の普及で重くて大きな辞書とは縁が薄くなる傾向にあるのでしょう。また熱心に新語を採り入れて増補改版を重ねている『中華現代漢語詞典』のような便利な存在もあります。その他にも各種各様の辞書が出版されて必要に応じた購入ができる今、『中日大辞典』がどのように位置づけされているかについては詳らかではありません。しかし個人的な思い入れが深い辞典であることに変わりはありません。


      手元に置いている愛知大学中日大辞典編纂処編『中日大辞典』には1968年2月1日発行、1971年4月1日再版発行と記されています。編者のことばとして、鈴木択朗編纂委員長は冒頭に「昭和初期以前に中国語を学んだ人にとって最大の悩みは教科書・参考書・辞書がすこぶる不備だったことである」と書かれています。その空隙を埋めるべく上海の東亜同文書院にて日中中国語教師により辞典編纂の準備が始められるも、敗戦によりカード約14万枚、語彙数にして7~8万語の資料が中華民国に撤収され、戦後・革命後に内山完造日本中国友好協会理事長と郭沫若中国科学院院長の仲立ちや周恩来首相の理解の下、1954年9月に引揚船興安丸で日本へ返却され、東亜同文書院の後継である愛知大学にて辞書編纂が再開され、更に十数年を費やして『中日大辞典』が完成されました。
      東亜同文書院の成り立ち、愛知大学の創立そして『中日大辞典』編纂の詳しい経緯については、藤田佳久愛知大学名誉教授による『日中に懸ける  東亜同文書院の群像』(中日新聞社)に詳しく、芥川賞作家の大城立裕氏(1943年に東亜同文書院入学)の『朝、上海に立ちつくす―小説東亜同文書院』(講談社・中公文庫)も実体験者ならではの描写がリアルであった記憶が残っています。
      また教師として、辞書編纂チームにも参画した坂本一郎先生は戦後に関西の大学教授のかたわら蝶理株式会社の中国貿易室でご指導をされていました。短い期間ですが謦咳に触れながら、とても偉い先生と聞いて遠くから燈台のように眺めていることが多かったことが悔やまれます。
      岩波書店から出ていた倉石武四郎氏の編纂による『ローマ字中国語辞典』はローマ字拼音で引く辞典というユニークなものでしたが、なかなか使いこなせずに弱っていました。そんな中国語学習の入門者に『中日大辞典』発行のこと、そして部数に限りがあり入手が困難であることが伝わってきました。1971年の秋の日、再版本が京都御所近くの彙文堂で入手できることを知り、大枚4,000円を握り締めて向かったことを憶えています。3畳一間の下宿屋の家賃が3,000円、そして一か月の生活費が1万円でしたから大きな出費であり、生まれてから一番高い書籍購入でした。しかし、大げさではなく沙漠の羅針盤のようなこの大辞典のお蔭で様々な学恩を貰いました。 東亜同文書院は南京同文書院を編入して、上海黄浦江左岸の高昌廟桂墅里に校舎を開設。辛亥革命後のいわゆる第二革命の内戦時代に破壊されるも一時的に長崎や大村の寺院や上海の共同租界での仮校舎住まいを経て、徐家匯虹橋路の新校舎を建設しました。全国都道府県から自治体の経費負担で各二名の推薦派遣学生を受け入れています。


      東亜同文書院は外地での日本人の為の中国研究、中国語研鑽の教育機関として著名でありますが、逆に中国人にとっての日本研究、日本語学習の学校として、弘文学院や東亜高等予備学校が著名であることを、譚璐美さんが白水社のHP連載を加筆された新刊『帝都東京を中国革命で歩く』(白水社)で教わりました。
      東京市牛込区西五軒町34番地(現、新宿区西五軒町12,13番著)、江戸川橋交差点から神田川沿いにあった弘文学院には清末から民国にかけて7,192人の中国人が入学したとのことです。その中の一人、魯迅(周樹人)は弘文学院で二年間学んだあと、仙台の医学専門学校(後の東北帝国大学医学部)に推薦入学しています。
      東京市神田区中猿楽町6番地に所在した東亜高等予備学校は、年に1,000人から2,000人の中国人留学生が入学した学校で、周恩来・郭沫若・廖承志そして譚璐美さんのお父さんも学んだ教育機関です。1945年、閉校となりました。


      北京、上海そして日本で多くの大学生と交流してきました。日本語弁論大会への支援、集中講座などへの出講、個人的な相談など様々な形で若い世代の中国人や日本人と接しています。十九世紀末から始まった日本と中国の学生交流の足跡を学びながら、自らの若い時代の実践や体験を記録し、次の世代へより良い形でバトンを渡すこと、これが「活到老、学到老」の基本であり、目的の一つかなと思う今日この頃です。(了)


    2016.09.13

    上海の初印象 【上海の街角で 井上邦久】vol22 (読む時間:約4分半)


    • Whenever誌の江蘇版で連載が始まり、好評のうちに北京・天津・上海・広東版にも掲載され、30回のロングラン連載となっている『数字で学ぶ中国経済』を愛読されている方も多いことと思います。改めてそのタイトルを見ると「中国の達人が教える」「中国40年の変遷」というサブタイトルに挟まれていることに気付きました。連載執筆者の松本健三さんとは上海駐在の同年齢の仲間として知り合いました。1980年以前、北京の総公司か広州交易会でしか商談機会がなかった頃から、お互いが日中貿易業界に身を置いていたことが分かってから親密度が高まりました。松本さんは、9月号に「井上さんと私は1970年代から日中貿易に携わってきた最後の商社マンです」という一節を綴られているようです。
      「達人」から「最後の商社マン」と表現されるのは、何とも面映ゆいことで、畏れ入っております。こちらは松本さんと違って、数字にまるで弱く「達人」には程遠い存在です。ただ化石のような最後の商社マンかどうかは別にして、40年に渡る商社での業務を通じて、日中貿易の変遷を体験してきたことは事実です。今もまだ同じ商社に籍を置いているので、商社活動での回想に流れるのは控えます。ここでは商社に入る前、つまり国交正常化以前に体験した上海について素描を試み、松本さんへのアンサーソングに代えます。


      1971年の雪融けの季節、初めての上海へ。学生友好訪中団の仲間20名との団体旅行で、南昌から上海への列車移動でした。香港の羅湖から橋を一人一人渡り、深圳駅で入国審査を受けて以降一か月、すべて列車での移動でした。上海駅に到着する手前から鐘や太鼓が賑やかに鳴り響き、ホームは歓迎の横断幕を掲げる紅衛兵たちでぎっしり埋まり、まさに「熱烈歓迎」でした。駅のホームの賑やかさと対照的に、街はガラ~ンと静まり返り、外国人に開放されていた数少ないホテルの和平賓館も客が少なく、高い天井と暗い照明のせいもあって、ガラ~ンと静かでありました。時々、賑やかになるのは、革命歌を歌いながら「遊行」(行進と訳せば良いでしょうか)する隊伍が窓の外を通り過ぎる時くらいでした。
      夕食後の長い夜の時間を持て余して、本を探しにホテルの読書室に行きましたが、見つけたのは『中国画報』『北京周報』そして『毛沢東選集』全4巻でした。広州でも北京でも同じくこの三点セットだけを目にしていたので印象が鮮明であったわけでして、決して記憶の「達人」だからではありません。もちろん赤い表紙の小さな『毛沢東語録』だけは其処かしこに山積みされていました。現在、街の骨董屋で『毛沢東語録』を売っているのを見るたびに『中国画報』の表紙を飾った健康的な紅い頬をした女工さんや「毛語録」をかざして「遊行」していた紅衛兵たちは、還暦前後となった現在もまだ赤い頬をしているのだろうか、と詮無き想像をしてしまいます。


      外灘で黄浦江の向う側について尋ねると、「辺鄙な土地です」と言うだけの遠い存在で、浦東という名称を使わずに説明されたような気がしています。その逆に虹口の魯迅公園はとても近くに感じました。和平賓館から車の少ない路を飛ばし、途中の何か所に信号機があったか定かではありません。「中国では赤信号はGOなのかな?」という軽口を叩く同行者も居れば、「我々の外国からの来賓(外賓)の車が通る時は、信号を青に切り替えるのだ!」と、したり顔で言う分析好きな同行者も居ました。魯迅公園では立派な魯迅の墓を見て、サトウキビを齧った記憶しかありません。たしか、現在の魯迅記念館の前身の施設も閉鎖中だったと思います。当時、歴史論争・文学論争などは押しなべて政治論争になっていましたから、記念館や博物館の多くは閉鎖されていたのではないでしょうか?一方、静安寺近くに威容を誇っていた工業展覧館は開放されていました。中央に星の塔が聳えるソ連風の巨大な建築物は他を圧していました。1980年代になり上海出張を始めた頃に、中華料理店以外では数少ないレストランとして貴重な場所となり、ボルシチを食べに通った記憶があります。今では、その四方を摩天楼に囲まれて。クラシックな建物は街の底に侍り、見上げていた星の塔も高架道路から横に見えます。
      1970年代初頭の上海見学コースの定番は、馬陸人民公社だったようです。1972年の秋、北京での国交正常化交渉を終えたあと、周恩来首相の接遇で上海を訪れた田中角栄首相・大平正芳外相・二階堂進官房長官の一行も虹橋空港から馬陸人民公社を訪れています。このことについては、以前に「上海たより『馬陸』」に綴りましたので重複を避けます。その後、馬陸は葡萄の産地として有名になり、葡萄園観光としても人気があるようです。かつての馬陸人民公社の名残を探しに行っても見つからず、地下鉄の馬陸駅前にはマンションが林立しています。


      単独で街歩きもできず、定番の訪問先での交流会を通じてのみの上海初体験でしたが、訪れた他の都市との違いとして印象に残っていることがあります。一つは、上海から南京へ移動する際の上海駅のホーム、到着時と同じ型通りの鐘や太鼓が賑やかな中で、横断幕の陰に一人のふてくされた様子の女子紅衛兵を見つけました。列車が走りだした後で、仲間たちの話題は「孤立を恐れない」女子紅衛兵の存在に集中しました。分析好きの同行者は「疎外がないはずの社会主義社会での疎外」について講釈をしてくれました。印象に残ったもう一つは、その白けた素振りの女子紅衛兵の中山服のズボンに折り目が当たっていたことと、襟元に覗いた(或いは覗かせた)セーターのオレンジ色でした。このことは個人的な印象に留め、同行者たちには話さなかったと思います。(了)


    2016.08.22

    博物館 【上海の街角で 井上邦久】vol21 (読む時間:約3分半)


    •  短い春と秋の間の可愛げのない猛暑、熱が身体に籠ったら苦瓜(ゴーヤ)を食べなさいと上海オフィスの複数のスタッフから言われたことを思い出します。そんな夏によく足を運んだのは南京西路が昔の競馬場のコーナーに沿って湾曲したあたり、時計台が目印の建物でした。欧州人が設計して、租界地に住む外国人がメンバーの中心を占めていた上海レース倶楽部があった場所でして、そのよすがを欄干に馬の頭部を配した階段などに見つけられます。博物館や図書館が移設されたあとに、美術館として2012年末まで使用されていました。天井の高い石造りの室内は、静かで涼しく広々としていました。無料の絵画展を見る時間より、ミュージアムショップで有料の画集や記念品を探す時間が長く、更に最上階の5階のレストラン「K’s 5」(Kathleen’s 5)のテラスで人民公園の緑や浦東の高層ビルを眺める時間がもっと長かったです。2010年頃まではブランチ目当ての欧米系の客が目立つくらいで概ね空いていて、ドラマや映画の撮影を目にしたことも懐かしく感じます。


      美術館があった場所からほど近い上海博物館は「鼎」を模した重厚な建物として1996年に完成し、外灘に向かう高架道路からは左手にその威容が見えます。ただ、開館前の早朝から長蛇の行列ができるので炎天下の夏には不向きです。上海博物館は1952年の創設の後、現在の立派な建物に収まるまで移転を重ねており、1980年初頭に古風な建物に入っていた頃によく訪ねました。日系企業のオフィスが上海大廈や聯誼大廈にあった頃で、和平賓館にも宿泊できた、のんびりした時代のことです。アテンドや商談への登板間隔もゆったりしていて、空いた時間の街歩きに博物館は手ごろな場所でした。来館者も少なく、展示品も限定的で、たゆとう時間を眺めるような空間でした。或る日、ずいぶん展示がすっきりと整理されていて、既視感覚に陥ったことがあります。しばらくして、大阪中之島の東洋陶磁美術館の展示との共通点が多いことに気付きました。たぶん、かなりの高い確率で両館の提携が順調になされていたことの証明でしょう。大阪と上海が友好都市であり、友好都市ということに意義と効果があったとされる時代でもありました。


      当時、中国の工場見学に行くと工場長から専門性に乏しい新米商社員も含めた日本からの訪問者に対して「先輩たちに学びたいので、参観を通しての貴重な意見を聴かせてください」という言葉が必ず発せられたものです。妙にくすぐったい気分にさせられましたが、日中双方とも大真面目でしたので、逐語訳で正確な通訳に努めました。
      その頃、記念品売り場で買った唐代の女人陶俑(女子十二楽坊のように、各種楽器を手にしたシリーズ)のレプリカは今も日本の留守宅の下駄箱の上にあります。美術カードも含めて、とても割安だった印象があります。売る方も買う方も、1970年代末から提唱された「社会主義市場経済」に不慣れだった兌換券の時代でした。


      上海博物館は北京故宮博物館、南京博物館とともに三大博物館と称される事もあるようですが、その場合、台湾の故宮博物院のことは別格にしているのでしょうか?因みに故宮博物院は、昨年末に嘉義市に南院が新設されたので、台北市のものは北院と称されるようになっています。


      その北院は6月末の時点では劇的に静かになっていました。入場料を払って進んで直ぐの処に「請輕聲細語(Please keep your voice low)」という看板がありましたが、その看板目的の対象者の行列もなく劇的に減っていました。加えて、嘉義市の南院の目玉として団体客に人気のある「翠玉白菜」が南院に出張展示されているので、北院は余計に静かであったのでしょう。台北の故宮博物院で宋朝の青磁・白磁の粋を静かに、ゆっくり眺めるには今を措いて無いようですよ、とお伝えしたら、大阪の老舗画廊のK社長から以下のような返信を頂戴しました。


      ・・・今年12月 東洋陶磁美術館にて「北宋汝窯 台北故宮博物院 青磁 水仙盆」という展覧会が開催されます。東洋陶磁美術館の所蔵品も含めて、世界に6点しか存在しない「青磁 水仙盆」の展覧会です。故宮のリニューアルオープンの展覧会も汝窯の展示が一本の柱でした。
      今回の東洋陶磁の企画も素晴らしいものと思われます。12.月10日から3月26日の期間と聞いております。ご来阪の折 お時間があれば、ご覧ください・・・


      12月の大阪開催まで待ち遠しい向きには、陳舜臣の直木賞受賞作『青玉獅子香炉』を読みながら、台湾にたどり着くまでの故宮秘宝の変遷をたどることは如何でしょうか?苦瓜を食べなくても暑気払いができるような内容だと思います。(了)


    2016.07.25

    散歩の会 【上海の街角で 井上邦久】vol20 (読む時間:約4分)


    • 1930年前後の上海の街を通底するテーマとして、色んな角度から変奏曲まがいの拙文を綴っております。時にお気楽なハ長調、またある時は少し重い気分のニ短調と、気まぐれな内容です。ただ、できるだけ街を歩きながら考えるという姿勢を続けていきたいと思っています。


      もうかれこれ25年くらい続いている「茨木土曜クラブ」。茨木市主催の父親学級で一年間をともにした仲間と、自主的な集いや行動をしようということで始まりました。多少の出入りはありますが、20名前後で年6回の活動が継続されています。会員自身による発信を大切にしています(来月には元会長から戦争中の体験報告。昨年8月には、上海から戻って「ほんまはどうやねん?中国!」の定点観測の報告をさせてもらいました)。屋外活動も盛んで、季節に合わせた探索地の選択や事前の下見と味わい深い資料作成をしてもらっています。大阪城などでボランティア活動の経験豊富なIさんや一級建築士のMさんに町歩きの面白さを教わってきました。最近ではMさんが設計した三田市立図書館から三田城址へ。水軍として名を馳せた九鬼氏が山の中でも水練を続けたという堀池、そして九鬼家家臣の白洲家の墓地で白洲次郎・正子の墓を拝んだコースが印象に残っています。また以前に、堺の鉄砲鍛冶町や刃物町を散歩した折に買ったペティナイフは、生涯単身赴任の強い味方になっています。数年前には、茨木から上海まで数名のメンバーが来てくれたので、水郷や上海の下町散歩の案内をして少しだけ恩返しができました。数年前からの課題として、あっという間に四半世紀を経た土曜クラブを土曜日に開催する必要性が乏しくなったことです。


      こちらは土曜日開催が原則の「上海歴史散歩の会」の説明は、多くの方には多余的話でしょう。次回の散歩の案内が会員へ一斉配信された数時間後には受付締切りになる状態が多くあるようです。仕事熱心な方々が帰宅してメールチェックをする頃には、案内と締切りの通知を一緒に読むことになり、残念に思うことがあるようです。
      今は普通の人が普通の生活を営んでいる場所が、その昔は茶館や青楼であった(福州路散歩)とか、戦前の日本人が建てた日蓮宗の寺であった(虹口散歩)とかの例は枚挙にいとまがないのです。普通の生活空間を多くの散歩者がぞろぞろ覗き歩きをすることは厳に慎むべきであり、やむを得ず参加者人数が絞られることになります。
      こちらの会も資料の執筆編集には多大な力が注がれており、専門研究者による書下ろしの松江散歩資料などは白眉でありました。楚国の春申君が上海開発に着手したことに因んで上海の別称が「申」であり、母なる黄浦江は春申君の「黄」姓に由るという解き起こしからの説得力に満ちた解説にうなりました。日本との交流の歴史も深い、寧波そして揚州には一泊バスツアーになりました。


      顧問の陳祖恩東華大学教授夫妻にはいつもマクロからミクロへのご指導ご配慮を頂いています。寧波散歩の折には、陳教授に故郷料理の献立を選んで貰い、ご親戚とも交流させて頂くというオマケ付きでした。帰りのバスでは「この散歩の会への中国人の参加者が少ない。中国人はもっと歴史に学ぶべきだ」と真摯に語りかけることを常とされています。
      昨年の歴史散歩の会で、上海の民族資本家についての資料準備と講義そして道案内を された上井真さんは既に上海駐在から日本に戻っている方です。事前に資料を拝読していて、民族資本家である栄家一族に触れていることに気付きました。末裔には中国国際信託諮詢公司を創業して国家副主席まで務めた栄毅仁もいる無錫の栄家です。
      大学時代に薫陶を受けた中井英樹筑波大学名誉教授の業績の一つは栄家勃興の研究であり、以前に現地調査報告と論文を送って貰っていました。その資料を携えて上井さんに会ったところ「これがオリジナルですか!栄家研究には中井先生の論文が必須なので、あちこち探し、苦労して大阪の図書館で全頁コピーをしました」ということでした。その後、平塚で中井先生と上井さんを引き合わせ、トラック何台分かを処分したあとの資料の山を仕分け、上井さんに整理、分析してもらうという協業の約束ができました。
      中井先生の資料は、井上には「猫に小判」。それを上井さんとの「井の字」の御縁が繋がり「瓢箪から駒」の発展系になったのも、「上海歴史散歩の会」の事務局各位のお蔭です。


      上井さんは「江戸東京散歩」を始められています。一回目の蔵前辺りの米倉経済の考察散歩には都合がつかずに欠席。二回目の千代田城周りの水都としての江戸の発展(重要な水辺の場所に九鬼家の名前が)を知る散歩には、法事を終えてから参加し、和田倉門から合流させて貰いました。「和田」とは「海」のことと教わりました。確かに「ワタ」「パダ」とくればハングルで「海」「わたつみ」の意味に結び付きます。和田倉門の眼前に日比谷湾の海水をイメージするのが歴史散歩の醍醐味です。建築士のMさんから授かった「五感も六感も働かせながら歩きましょう」の教えの実践でした。(了)


    2016.07.04

    上海の街角で 【上海の街角で 井上邦久】vol19 (読む時間:約4分半)


    • JR環状線の大阪駅から一駅下ると福島駅があり、最近は個性的な趣向や料金の店ができて、客足も増えているようです。この数年、古いスタイルの商店からの模様替え,商売替えも進んでいます。その古いスタイルの典型のような小さな店が、福島駅から20メートルくらいの場所にあり、店名の「ミヤコ楽器店」に惹かれて何回か通ったことがあります。
       大阪府北河内郡四条畷町の高校生だった頃(大阪万博の前でした)、片町線という単線電車に揺られて繁華街に出ることは滅多になくて、たまに思い立って大阪駅前の旭屋書店でペーパーバックの英文小説を買うか、心斎橋筋でレコードジャケットを眺めるか、という精一杯気取った動機づけで交通費を捻出していました。当時の心斎橋筋は大丸・そごう百貨店を筆頭に老舗が並ぶ風格のある商店街でした。音楽関係では、YAMAHA音楽教室を別にすれば、大月楽器店とミヤコ楽器店が突出した二強でした。当時のレコード歌手は販売促進のために、大手のレコード販売店を訪ね、場合によれば仮設のステージ(ビールのカートンボックスなど)で新曲を歌うことがありました。大阪では心斎橋筋の二強の店にサービスをして、多く売ってもらうことはレコード会社にとって大切なことだったでしょう。過剰なサービス精神とバランス感覚で、新人歌手の芸名を「大月みやこ」としたことも、当時としては話題性があったのでしょう。


      今世紀の初め、心斎橋筋の変貌は凄まじく、イタリアからの客人は街並みが乱雑になるのは嘆かわしいと憤慨していました。この友人は「曽根崎心中」の切り場で涙を流すようなイタリア人ですから、老舗の衰退や安直な今様の店つくりを許せなかったのかも知れません。ミヤコ楽器店も2002年に心斎橋筋から店仕舞いをして何年も過ぎているのに、同じ店名のCD販売店が福島にあることに驚いたわけです。新曲のCDも置いていたのでしょうが、かつての大阪郡部の高校生が好んだ青春歌謡CDが多くありました。吉永小百合と三田明のデュエット曲集の発見などは特筆ものでした。レジの若い店主に、「失礼ながらこちらのミヤコさんは、あの心斎橋筋のミヤコさんと関係があるのでしょうか?」と聴くと「お祖父ちゃんの代までは心斎橋筋で大きな店をやっていました」とのこと。「そうでしたか・・・」という返答しかできませんでした。


      拙文の連載を始めるに当たって、テーマと題名をどうしようかと考えました。基本となるテーマは上海の街にちなむことを、できれば1930年前後の事と今の上海に結び付けて書かせて貰おうと思いました。時は国民党の隆盛期、官僚・金融資本主導の経済も二桁成長。東西南北の中山路で租界を封じ込める道路建設は、海外列強からの蚕食を喰い止める象徴的な工事だったでしょう。国父孫中山先生の名前を冠したのも、道路の目的や企図からして共感できます。そして、五角場での新都心建設に着手します。ペンタゴン状に道を配し、政府系機関の建設が始動していました。立派なスタジアム、水泳場の名残は現在もあり、そのアーチや窓の数が3個であるのは三民主義の象徴でしょうか?また、その近辺を歩くと小さな寂れた路地に「民権路」「政府路」などと大仰な名前が「保存」されていることに感動を覚えます。そんな1930年代の名残を残す上海の街をスケッチしようと決めました。ちょうどその頃、戦前の上海を題材にした曲に詳しい大先輩から『上海ブルース』と並んで『上海の街角で』という歌謡曲があるよ、と教えて貰いました。さればと、連載の題名を「上海の街角から」に決めて、拙文を綴り始めました。
      そうなると、その歌謡曲を丁寧に聴いておきたいという実証主義?と行動派の血が騒ぎ、福島駅のミヤコ楽器店(たしか楽器は置いていませんでしたが)へ赴きました。さすがの古い歌謡曲に強い店でも、目指す曲を探し出すにはかなりの時間と粘りが必要でしたが、『昭和の流浪歌』(テイチクレコード=帝国蓄音)というCDがあり、『カスバの女』『星の流れに』とともに、佐藤惣之助作詞、山田栄一作曲、東海林太郎が歌う『上海の街角で』を発見できました。


       ♪リラの花咲くキャバレーで逢うて 今宵別れる街の角
                 紅の月さえ瞼ににじむ 夢の四馬路が懐かしや♪


      上海航路の船乗りと日本から上海に出稼ぎに来ているダンサーが、一年を経て別れ話になった。船賃の足しくらいの少しのお金を渡して女性を日本に返し、自分が華北の新天地で一旗揚げるまで待っていろ、という男にとっては都合の良い内容です。タンゴ風の曲調は、戦後の『上海帰りのリル』に通じる気もしますし、ストーリー的にも繋がらないこともない?しかし、それはどちらでも良いことです。
      問題は歌詞の間に挟まれたセリフです。
      「・・・あれから一年、激しい戦火をあびたが、今は日本軍の手で愉しい平和がやって来た・・・」という能天気なことを復刻版のCDでは渡哲也が語っています。1938年に出されたオリジナル版のセリフの主は誰か?上述の先輩にお尋ねしたら、「それは佐野周二」と即答してくれました。上原謙、佐分利信と三羽カラスと称された二枚目銀幕スター、という説明より、「サンデーモーニング」の関口宏のお父さん、「アカシアの雨のやむとき」の西田佐知子のお舅さんが佐野周二です、という方が分かりやすいかも知れません。


      このセリフにある1937年の「激しい戦火」によって、国民党の短い春は終わり、五角場の新都建設計画は霧消しました。今年、その国民党候補に圧勝した民主進歩党の蔡英文総統は「小英」と親しまれ、具体性に欠ける経済政策を「空心菜(蔡)」と揶揄されています。
      大月みやこはベテラン歌手として活躍を続けていますが、福島駅近くのミヤコ楽器店はすでに無くなっています。闇市跡の建物だった旭屋書店で買った『ドクトル・ジバゴ』は冒頭のみ辞書を引きながら読んだと思われる赤鉛筆の跡がありますが、残りの多くの頁は半世紀に渡り、きれいなままで本棚の隅に保存されています。(了)


    2016.05.30

    開花宣言 【上海の街角で 井上邦久】vol18 (読む時間:約4分)


    • 今年の花見はかなり長く楽しめています。すでに東京では葉桜になっていますが、東北から北海道はこれからが本番。花と酒に生きる津軽の友人からは、「戦闘態勢に入らんとす」というたよりが届き、句会の最中でもあったので、即興で拙句をひねりました。
          花待てず戦闘モードの津軽衆  シャンパンの栓を抜くよな北の春


      「開花宣言」といい、「桜前線」という言葉そのものに情緒抒情を感じるのが日本の春。 その春の初めに上海から、台北から同時期に友人がやって来て、楽しい値千金の一刻を過ごしました。東京で開花宣言がなされた直後の大阪で、京都大学名誉教授の芝池義一氏の古希祝賀、退官、出版記念を合わせた宴が催されました。海外の門下生が上海から、台北から、そして韓国から駆け付けました。教授の下から巣立って大阪で修行したあとに、上海で活躍するC氏とは七年の交流を経て知己となり、台湾出張の際に研修をともにしたZ女史とはC氏が共通の友人であることが分かり、それ以来上海や台北で三相交流が続いています。今回は初めての大阪での会合なので、ホスト役としては美々卯のうどんすき等の浪速風の候補を考えていました。ところがC氏から、ズバリ三者をつなぐ意味からして、九州・琉球料理の店にしましょうと即断してくれたので、梅田駅前で予約をしました。


      当日、新阪急ホテルで待ち合わせた二人が、少し言いにくそうに、「実は昨日の宴のあと、とても喜ばれた芝池先生が海外からの参加者とだけ、もう一度席を囲みたいとのご意向でして・・・」とダブルブッキングへの断りの言葉。事情を察して「好事成双(良いことはダブル)ですよ。同じ店で席を連ねてはどうですか?」と応え、すぐに席の確保をせんと、店に電話したところ「承知しています。追加5名様ですよね。芝池様からご連絡をいただいています」とこれまたダブルの確認が取れて安心しました。
      韓国へ当日に移動する弟子の空港バスの時間を事前に調べたり、料理屋の追加予約をされたり、手回しよく手配される教授に脱帽でした。「グローバリズムとは!」と大きな声を出すこともなく、さりげなく、細やかに、そして具体的・効果的に接していくことが人や国の関係の基本姿勢なのだと改めて感じ入りました。琉球料理と泡盛で和気藹々のなか、やはり上海から来られた先輩格のL氏は、芝池先生のことを魯迅の仙台時代の恩師である藤野先生に喩えていましたが、朱筆指導も偲ばれて然もありなんと納得しました。


      その翌日、大阪本社に来てくれたC氏、Z女史そしてM氏の三人を、北船場の風情を今に残している「江戸菊」の二階部屋に案内しました。道すがら「開花宣言」とは何か?について日本滞在歴の長い三人も良く理解できていない、ということでうろ覚えの話をしました。各県ごとの気象台が桜の開花日を確定している。概ね各地の気象台近くに基準となる標本木があり、東京を除いて原則は秘密になっている。その標本木の基準の枝に5~6輪が咲いたら、その年の開花日とする。標本木以外の木や枝に沢山咲いていても開花とは認められない。(いくら千葉市内で雪が降っても、千葉県気象台のある銚子市に降雪がなければ「初雪宣言」はなされないとか)。
      その説明に驚いた皆さんは「差不多呀!」と中国語で反応されました。厳密なルールに従って、基準通りに職員が数を数える、それを多くの報道関係者が取材して速報することに、どれだけの意味があるのか?大差ないではないか?ということなのでしょう。確かに気象学的にそのような厳密さが必要なのか分かりません。恒例の春の風物詩ですと言っても説得力が足りない気がしますし、第一に「風物詩」という日本語の捉え方も曖昧ですし、中国語辞書にある「季節性伝統」は堅い直訳だし、「風景詩」は誤訳だと思います。風景や習慣を通して感じる季節の情緒。その情緒がキーワードなのでしょう。


      学生時代に読んだ『中国を知るために』(竹内 好:筑摩書房)にこれに通じる内容があったような気がして、本棚から正続二冊を取り出し探しました。しかし、次々に出てくる話題が面白く寄り道ばかりして、目的の文章は見つかりませんでした。以下は曖昧な記憶によるものです。
      ・・・秋の初めにたわわに実った柿も晩秋には数を減らしている。それを見て、中国人は「柿はもう無くなった」と感じ、日本人は「まだ数個ある」と言う。大まかにはほとんど無くなって、大勢としては「もう無い」と感じる中国人。全部無くなったわけではなく、厳密には何個か残っているのだから「まだ有る」と判断する日本人・・・


      「江戸菊」個室での会話が弾みました。日本で青春時代を過ごした皆さん、たぶんそれは程度の差はあっても苦学の時代であったでしょう。そんな辛苦を克服した過去を忘れず、社会的な地位を獲得して度々来日する現在を充実させ、仕事を離れて大所から連携をめざす未来を志向しましょう、とお茶で乾杯しました。
      桜がきれいに咲いた「江戸菊」の玄関で記念の写真を撮ってお別れしました。
      大阪の開花宣言はそれから4日後でした。(了)


    2016.04.15

    禁じられた遊び 【上海の街角で 井上邦久】vol17 (読む時間:約4分半)


    • 虹橋公園の梅は早々に開花し、柳は印象派のタッチで緑の点描を宿しつつも、未だ寒気の残っていた元宵節も続いて静かな夜となりました。


      すっかり春めいた今となっては、春節の爆竹花火禁止の話題も旧聞に属していることでしょう。それにつけても今回の爆竹花火の取締まりは大掛かりだったと思います。


      杜甫の名詩「烽火三月に連なり」をもじれば、煙火禁止のお触れの横断幕は、「黄幕二月に連なり」という感じで、陽暦の1月から2月にかけて上海の街角の至る処に掲げられていました。個人の携帯電話にも禁止指示が届き、爆竹花火を供給する側への規制も厳しくなされたようです。確かに売人がいなければ買人は存在し得ないのは単純な道理です。 そして、実に静かな上海の春節となりました。


      人によって爆竹の轟音の凄まじさは、あるいは砲弾のように、あるいはトタン屋根を叩くようにと表現され、とても安眠妨害といった生易しさではありませんでした。静かな今年が異常事態だったと判断し、さぞや庶民には欲求不満が溜まっているだろうなあと推測していました。ところが「空気汚染防止の為だから悪くないと思うよ」とか「まあ、爆竹がなくても特段の問題はないよ」といった一見冷静な声が多く聞こえました。古くから静安区(閘北と合併する前からの旧市街)に生まれ育った上海っ子から、「やはり爆竹を聞かないと寂しい」という少数派メールが届いたのが印象に残るくらいでした。


      そして大連出身の友人が「ビックリ、ポン!」とは言わないまでも、「まさか上海人がここまでやすやすと指示に従って爆竹を我慢するとは!?」と法令順守を旨とする法曹界で働く人とは思えない「?」を連発していたことでようやく我が意を得ました。上海人の従順さを意外に感じる人が居たことで安心をするというのも失礼なことかも知れませんが。


      若い頃に黒鉛の取引過程で、アモルファス(AMORPHOUS)という言葉を学びました。中国語では「不定形」と訳され、辞書的には「非晶質」と呼ばれ、曰く、結晶のように長距離秩序はないが、短距離秩序はある物質の状態。これは熱力学的には、非平衡な準安定状態である・・・難しい物理学的解釈は後回しにして、このアモルファスという概念は当時(1978年改革開放政策の開始直後)の中国を表す適切な言葉ではないか、と感じたことを思い出します。多くのことが未整備で、有体に言えば「いい加減」、身も蓋もない言い方では「我説的話就算」(戦後間もない頃のプロ野球、二出川審判部長の明言「私がルールブックだ」を思い出します)。そして少し洒落た流行語では「上有政策、下有対策」。そんな時代でした。  カオスとか混沌というほど無茶苦茶ではなく、一定の秩序があるけれど、個別主義が横行し、解釈通が重宝される・・・それなりに面白い状態でした。そんな変化に富んだ中で応用問題を解いていくには「ヤンチャな大人」が必要だと思いました。四角四面の形式主義ではなく、柔軟で大まかな姿勢を「ヤンチャ」という言葉に託し、それでいて、しっかり基本技と理念を心得た判断が出来ることを「大人」と称しました。


      例えを挙げれば、2008年前後に日経新聞朝刊に連載された高樹のぶ子の『甘苦上海』の世界。同時代の上海の風俗や気分を具体的な街角を背景に活写した小説でした。登場する女も男も「ヤンチャ」に酒と薔薇の日々を過ごしていました。杜月笙の主席公館跡を改装したホテルでの逢引、未整備だった田子坊に潜む謎の少数民族との交渉などなどスリリングでした。ただ、時代と併走する小説の弱みはリーマンショックのような急変を予測できずに急成長が続くことを想定していたこと、そして中国だけが経済停滞からV字回復することは更に予想できず、小説世界に急ブレーキをかけたことでした。小説内での助演男優賞的存在の「関西系中堅商社総代表の松本」が日本への転任を命じられ、主人公の紅子マダムに「日本ではこちらのような訳にはいかない。日本は公序良俗が建前の社会だから」といったニュアンスを伝えるシーンに「ヤンチャ」な男の「大人」の部分を感じたことを思い出します。


      そんな昔の思い込みや刷り込みがあって、今回の爆竹花火規制に対しても、「ヤンチャな大人」の上海人が様々な工夫をして、お上の鼻をあかすのではないか?と想像し、一面では期待もしていたのでした。しかし古い帽子を被った日本人や大連人と異なり、上海人はすでに「ヤンチャ」を卒業していたのかも知れません。


      十五夜満月の元宵節で春節の区切りをつけて、婦女節も過ぎた頃、ある上海人から爆竹花火規制について「今回のお上からの『信号』はきつかった。軽はずみなことをしでかして、罰金や拘留くらいならまだいい。しかし『言うことを聴かない奴』としてブラックリストに載せられたら大変。例えば、海外渡航を制限されるとか、銀行融資を拒否されるなどの社会的経済的制裁が怖い」と自己規制の背景を滲ませてくれました。春節という開放感に満みちるべき季節にしては閉塞感を感じる言葉でした。


      事実は果たしてどうでしょうか?純粋に空気汚染防止目的かも知れません。上海人も今や無理に爆竹で悪鬼を追い出す儀式に拘らないのかも知れません。そしてきつい『信号』は単なる被害妄想の思い過ごしかも知れません。ただ、北京からの指示が上海の末端まで及んだのも事実であります。それが核心によって社会の結晶を固定化する動きの一つの試験紙、試金石だったのかも知れません。「真面目な大人」と「ヤンチャな子供」が増える閉塞した空気の中で、烽火(のろし)が三ヶ月も連なることのないように祈ります。 (了)


    2016.03.22
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