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コラム「上海の街角で」

城隍廟 【上海の街角で 井上邦久】vol16 (読む時間:約4分半)


    • 2月22日(月)は「ニャンニャン猫の日」らしいのですが、当然これは日本固有のことで、今年の上海では陰暦(農暦)1月15日の元宵節。あいにくの雨で満月を眺めることは難しく楽しみに水を注されましたが、酒を注ぎ合った方は多かったことでしょう。元宵節は春節最後のお愉しみで、その日は仕事も早々に切り上げて、家族や友人が丸テーブルを囲んで会食する大団円の日。そして翌日からは春節気分は一掃されて・・・。
      そんな元宵節の午後に会議を催したり、客先に訪問アポイントを申し入れたりするのは野暮の骨頂として嫌われるので気をつけています。
      野暮と言えば「爆竹禁止、違反者は処分する」と大書された紅い幕が至る処に掲げられていました。この野暮なお達しについて、ある女性弁護士が「上海市民がこれほど従順に爆竹禁止規則を守ったことにビックリ!」と法曹界の人士らしからぬ本音を語ってくれたことも、愉しい春節の思い出のひとこまになりました。


      年の瀬の雰囲気が濃くなった頃、春節を区切りに上海での仕事や生活から離れる人の流れが始まりました。駐在任期満了の帰国者、受験を機に帰国する子弟たち、そして上海から別の国や地域へ異動する管理職・・・その中には、惜別の念は黙し難く、とまでは成らずとも何らかの形で惜別の宴をしたい方がいます。しかし、思いはあっても実際は異動や移動前の時間は貴重であり、よほどの事前準備をしなければ面談も難しく、ましてや昼食・夕食の枠はキャンセル待ちとなります。戦前、財閥系商社支店長の帰任に際しては、大きな料亭を三日三晩貸し切って宴を催したことを、陳祖恩教授が著した上海の日中交流史で読んだことがあります。


      「城隍廟での朝食をお別れの宴にしたいのですが・・・」失礼をかえりみず申し入れたところ、「朝ならOK。場所も便利」との嬉しい回答があり、「南翔饅頭店、小籠包の店の三階でどうですか?」にも「三階、いいですね」という老上海、上海通らしい遣り取りがありました。
      池の傍らのその店の1階はテイクアウトの長蛇の列で有名。2階は早朝から開いていて、食券方式で相席は当たり前、混み合うと順番待ちは階段を経て1階まで伸びることもしばしばです。その点、3階は小ぎれいな布も掛かった卓で注文ができます。小籠包の種類も豊富で、各種小菜もあります。欠点は開店が8時45分からであることくらいです。値段体系は1階や2階より高いのは当たり前ですが、3階の奥にあるVIP個室(最低消費金額が、以前は150元/一人でした)よりずっと庶民的です。


      その朝は9時前に席に就き、豚肉と蟹肉入りの小籠包をそれぞれ1籠、野菜炒めや醤油大根など上海小菜をつまみに紹興酒5年物を1本だけ呑みました。
      観光客も居ない朝の席は家族連れや友達同士がまばらに座っているだけで、実に話しやすい環境でした。お互いの現在、過去、未来の話が行ったり返ったりしながら、小腹も満たされました。
      酒も控えめであったので、足元もしっかりと1階に下りました。猿の張りぼてが目立つ大灯篭も朝では精彩を欠いていました。城隍廟の門票売場で一人10元の「香花券」を買い中に入ると、そこは香炉を置いた広場、信心深い老若男女の世界です。捧げられた線香からの煙を頭にあてる人、紙銭を惜しげもなく燃やす人、そして広場を囲むようにして祈福堂、財神殿、慈航殿、道縁軒などがあり、一つ一つお参りする人も居ます。方浜中路出口側を見上げると牌楼と戯台があります。数年前に静安区の高層ビル火災で多くの犠牲者が出た時、戯台で道士が鎮魂の舞をしていたのを思い出します。土地の氏神、鎮守を司る者として慙愧に耐えないというような文字も掲げられていたような記憶があります。
      最も大きな司馬霍光を祭る霍光殿には大小さまざまな像が鎮座し、鐘や太鼓なども下げられています。通路のような甲子殿の両側には十二支の守護神が飾られ、参拝者は自らの干支像に捧げ物やお布施を届けます。そして最も奥まった処に城隍殿があります。神壇には元末明初の秦裕伯(1295?-1373年)が祀られています。汚職とは無縁の清官、善政の人だったのか?産業を発展させて金持ちを増やした人なのか?よく知りません。調査は北京中央にお任せします。


      城隍殿で明代に創られた神に、一年のご加護の感謝をしました。上海から離任する友人は十年近い生活が息災であったことへの御礼をしたと話していました。
      元々は甲子殿の横に素麵館と茶館がありました。素麵は休日8元(平日5元)で、タップリの精進野菜が盛られ、それなりに美味しく、午後には売り切れになることがありました(以前、邦銀幹部の方が売切れに遭遇し、発奮して翌週再挑戦して一碗の8元の麵を食したという懐かしい話も思い出しました)。茶館は50元からで、中国茶道の伝統的なもてなしを延々としてくれます。最近、素麵館は場所を牌楼の東に移し、ずいぶんと綺麗になりました。原則は8時半からの営業で一律8元(縁日は5元?)、売切れなしとのこと。
      しかし、その朝は原則外れで開店休業で残念ながら食べそこねました。友人には、是非とも再度上海で素麵をご一緒したいものだと道教道士ともども念じております。一碗の素麵のために遠路を厭わずやってくる老上海が居れば鎮守様も喜ぶことと思いますので。 (了)


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    2016.02.24

    『Astor House Hotel』 【上海の街角で 井上邦久】vol15 (読む時間:約4分)


    • 榎本泰子さんは1992年から北京大学に留学され、帰国後は日中比較音楽学者としての著作でサントリー学芸賞や島田謹二学芸賞を受賞しています。その榎本泰子さんが2009年に中公新書として上梓した『上海 多国籍都市の百年』に大変お世話になりました。
      良き指揮者或いは水先案内人に導かれ、上海という魅力的な楽器を健脚や健筆で奏でた歴史小曲、多国籍協奏曲のような著作です。
      2009年の着任前後に上海に関する本をあれこれ読みました。多くの本やガイドブックの中で、堀田善衛氏の『上海』を別格とすれば、榎本泰子さんの『上海』が最も楽しく好奇心を刺激してくれました。この本を手にして一番に訪ねたのが外灘(The Bund)から外白渡橋(Garden Bridge)を渡ってすぐの角、黄浦路1号のレストラン「上海早晨」(Shanghai Morning)そして、黄浦15号の「浦江飯店」(Astor House Hotel)でした。


      上海の「文明開化」は波止場近くのホテルから、と言っても過言ではないと感じます。
      華夏第一老飯店(The Oldest Hotel in China) と自他ともに称されるこのホテルは、1846年(清・道光26年)に、Astor of Richardという英国商人によって外灘の地に礼査飯店(Richard Hotel)として創建。1857年(清・咸豊7年)に、当時Wales橋と呼ばれた外白渡橋の北側の現在地に移り、英文名のみを「Astor House Hotel」に改称。1907年(光緒33年)に全面拡張。Davies & Thomas建築事務所の設計による鉄筋コンクリートと木造煉瓦折衷の東アジア随一のホテルと称されたとあります。
      西方文明の窓口として、中国初の電灯(1882年)、水道(1883年)、電話(1901年)が使用され、半有声映画(1908年)が上映されたのも浦江飯店であったようです。


      米国グラント大統領(1879年)、李鴻章(1895年)、バートランド・ラッセル(1920年)、アインシュタイン(1922年)、チャップリン(1931年、1936年)が宿泊。周恩来夫妻は1927年「4.12政変」後に2か月間も浦東飯店で身を潜め、追い詰めた側の国民党の蒋介石夫妻は堂々と宿泊しています。
      幕末の長州藩から派遣された高杉晋作が浦江飯店に宿泊したとすれば面白いのですが、中日交流史の泰斗の陳祖恩教授からお聴きしたところ、長州藩士一行は乗ってきた船に宿泊したようだとのことでした。ただ浦江飯店を高杉晋作が眺めた可能性は高いでしょう。
      また榎本泰子さんの『上海』には、ホテル併設のレストランの美味に驚いた日本人が、東京で中華レストランを開業し、その名を『銀座アスター』と名付けたという故事が載っています。どちらでも良い事ですが、英語綴りをAsterと異にしたのは、遠慮?ミス?


      現在のレストラン『上海早晨』は、高い天井からシャンデリアが飾られ、その数多い電球はいつも全部が輝いています。これは当たり前のことのようですが、豪華に飾ることは得意でも、常に灯りを維持する持続力には欠ける例を見慣れている眼には新鮮です。その持続力は味の持続力にも通じます。穏やかな本幇菜(地元料理、上海料理)は期待を裏切らず、いつもゲストに褒めて貰っています。地元料理としてポテトサラダが出てくるのはご愛嬌。いつぞや夏の終わりに「蟹粉豆腐」を注文しようとしたら、なじみの服務員から、まだ蟹が美味しくないから一か月待ちなさいと助言してもらったことがあります。事ほど左様に、上海最古のレストランは純朴さをサービスにも、味にも、料金にも残していると思います。


      昨年末、日本での仕事納めの翌日から上海へ。学生時代の友人との二泊三日の二人旅でした。浦江飯店は我々に2階奥の大きい部屋と6階のコンパクトで明るい部屋を同料金で提供。久しぶりの上海をより楽しく過ごして欲しいと、友人には6階に泊まって貰いました。窓からは蘇州河、外灘そして黄浦江の蛇行の向こうに浦東の高層ビルが一望できました。帰国後に届いた友人の旅日誌には「ホテルの6階の部屋から見た黄浦江の夜景は絶景。まさに独り占め。井上に感謝」とありました。
      ちなみに2階奥の廊下の窓は貼り絵がされ、隣のビルの汚れが見えないように配慮されており、大きい部屋には寒さ対策のランニングができるスペースがありました。
      それぞれの好みで選べると良いのですが、かなり客が多いせいか?きめ細かい手配が面倒なのか?事前の部屋の選定が難しいので今後の努力が必要です。現状は与えられた部屋を「阿Q式精神勝利法」を活用して、幸運であったと感じられる精神操作が必要なこともあります。


      年始早々、上海証券市場は激しい動きを示して世界にもかまびすしく発信されています。その上海証券市場が開設された場所がこの浦江飯店の孔雀庁と呼ばれる大広間でした。1990年12月19日のことです。社会主義国家に証券市場、という実験がどのように成長するのか、当時は色々な観測がなされました。25年前に始まった市場をまだまだ揺籃期とみるのか、発育不全と診断してしまうのか、種々分析がなされることと思います。少なくとも、中国経済が踊り場にある、という見方は正しいでしょう。 孔雀庁はかつて素晴らしいダンスホールでした。 (了)


    2016.01.25

    浦江飯店(ASTOR HOTEL) 【上海の街角で 井上邦久】vol14 (読む時間:約4分半)


    • 外灘からガーデンブリッジを渡ってすぐの交差点角、向かいはロシア領事館、道路を挟んで上海大廈という場所に、浦江飯店(ASTOR HOTEL)、そしてレストラン「上海早震(SHANGHAI MORNING)」が古風な存在感を醸し出しています。 2009年に着任して間もない頃から、このホテルとレストランを利用させて貰っています。 上海で最初に作られた西洋式ホテルの浦江飯店や「上海早震」の沿革や愉しみ方については改めて綴らせて頂きます。 ここでは、かつてこのホテルに逗宿した有名人たち(チャップリン、アインシュタイン、蒋介石夫妻、周恩来などなど)を記念する写真やプレートが、ホテルやレストランの所々に、やや控えめに掛けられていることを伝えるに留めます。


      先月の初めに浦江飯店に泊まった時、部屋のすぐ近くの303号室にはエドガー・スノーが宿泊したという小さなプレートがありました。ちょうど読み続けていた『真夜中の北京(MIDNIGHT IN PEKING)』の中に、エドガー・スノー夫妻についての写真や記述があり、1930年代の空間に引き寄せられたせいか、その夜はページが進みました。


      1937年1月、北京公使館区域近くで起きた元英国領事の養女殺人事件という悲劇。
      著者のポール・フレンチが7年の歳月をかけ、長く迷宮入りしていた猟奇的事件について、中国・英国の歴史的文書を調査し、オーラル・ヒストリー手法も用いて解明していく過程を綴った物語です。笹山裕子の翻訳により『真夜中の北京』という邦題で、7月30日に河出書房新社から発売され、直ぐに売り切れ状態になったようです。
      ポール・フレンチは上海在住の中国近現代史の専門家。エコノミスト・アナリストとして、主に中国経済に関する記事を世界の専門誌に多数寄稿していると紹介されています。


      北京公使館区域とは、北を東長安街、東を崇文門大街、西を公安街で仕切られ、南は城壁で囲まれたリゲーション・クォーター(LEGATION  QUARTER)のことです。城壁のすぐ南沿いに北京中央駅からの鉄道が平行して走っていました。
      1900年の義和団事件以降、強化された防御壁に囲まれた区域内には、英米日露仏伊の大使館や各国軍隊の兵営、横浜正金銀行そして聖ミカエル・カトリック教会等があり、欧州以上に欧州的な文化や習慣が維持されていたと云い、名残の建物が今も残っています。


      1934年発行の「最新北平全市詳図」と1938年発行の「最新北京市街地図」の復刻版を王府井書店で買い、本と読み合わせて歩きました。国民政府が南京を首都に定め、北京は北平に変わり、1937年7月の盧溝橋事件以降の占領により北平は北京と再改変されました。
      1938年の「最新北京市街地図」には、このエリアは「各国大使館」と記載されています。
      1937年初頭に日本軍は紫禁城から数キロメートルの場所に根拠地を作って圧力を加え続け、一方では満州からのアヘンや大麻が北京に持ち込まれ、リゲーション・クォーターの目と鼻の先(崇文門大街と東側の韃靼城壁の間)のアヘン窟や売春宿が密集して、バッド・ランズと呼ばれた地域で取引された、と同書に書かれています。


      北京における植民地主義文化の終焉を目前にして、日本による占領そして傀儡政権の擁立といった流れに呑みこまれようとする空気の中、1937年1月に殺人事件が発生しています。被害者の少女はフランス大使館近くでアイススケートに興じたあと、何者かに拉致されてバッド・ランズで強殺され、韃靼城壁の狐狸塔の下で無残な状態で発見されています。
       英国天津租界の警察や中国の警察の捜査では解明できない(敢えて解明しない?)逆境の中、元領事の父親の執念ともいうべき追及が始まり、物語は動き始めます。


      延安根拠地に赴き、毛沢東を『中国の赤い星』として海外に伝えたエドガー・スノーは中国共産党にとって得難い理解者として高く評価された時代がありました。後年、老境に達した毛沢東の心境を知りえた稀有な米国人という賞賛もありました。そんな従来のイメージは、この本に掲載された若いスノー夫妻の写真や次のような記述で揺らぎます。
      ・・・急進派のジャーナリストで作家のエドガー・スノーと、同じく有名なジャーナリストでもある情熱的で魅力的な妻、ヘレン・フォスター・スノー。スノー夫妻は北京の外国人の間ではよく名が知られており、二人を好きな人と嫌いな人は、はっきり分かれていた。特にエドガーの政治思想は、体制派には忌み嫌われていた。口では革命を説きながら、強いアメリカドルのおかげで街から四マイル離れた競馬場に競走馬を所有するなど、贅沢三昧の暮らしをしているうわべだけの左翼と軽蔑する人もいた。・・・
      妻のヘレン(別名ニム・ウェールズ)は事件について、夫の共産党寄りの言動に警告を発し、出版間近と言われていた『中国の赤い星』を封じるために、国民党特務の藍衣社首領である戴笠の手がヘレンに及んでいた、しかし何かの識別違いで元領事養女が身代わりに殺害された、と思い込みをしていたという一節もあります。


      この同じ時期に、現場のすぐ北側の東観音寺胡同に長年住んでいた兆民の子、中江丑吉がこの事件について何か書き残していないか?急いで調べましたが、『北京の中江丑吉』にはエドガー・スノーが中国人作家の短編集を編集したという記載はあっても、事件についての記述はありません。新聞熟読を日課にしていた中江丑吉ですから大量に流された記事を眼にしていないとは思われず、書簡集を再読すればコメントが出てくるかもしれません。 また丑吉は午後の散歩を日課にしており、韃靼城壁でも散歩をしていたことを読んだ記憶があります。


      1930年後半からの正に真夜中だった北京の一端に触れることができました。 (了)


    2015.12.21

    『文匯報』そして『日本』 【上海の街角で 井上邦久】vol13 (読む時間:約3分半)


    • 11月7日、シンガポールにて習先生・馬先生の会談が行われました。蒋介石・毛沢東による最後の会談から幾星霜、歴史に一頁を残すという表現もありました。当事者の自画自賛やその周辺のメディアが持ち上げるのは当然ですが、各地から妙に冷めた反応が届いていて、この課題が単純でないことを知らされます。


      その歴史的な一日になるかもしれない11月7日付けの『文匯報』に「一張報紙的抗戦」(一つの新聞の抗戦)と題する張小葉記者の特集記事と1938年2月14日の『文匯報』一面の写真が掲載されていました。『文匯報』は上海を代表する新聞ですが、その揺籃期の経緯を知りませんでした。


      1938年1月25日、英国商人のH.M.Cumine(中国音訳名:克明)が発行人兼総主筆となり租界で創刊されています。1937年11月に国民党軍が上海から撤退してから、蘇州河南岸の租界地以外は日本軍が占領。新聞報道管制が強化される中、中文新聞の発行は租界で外国人名義のもとに行うのが唯一の手段だったようです。看板に英人克明守護神を掲げて、実態は中国人ジャーナリストが主導していたようです。


      発刊に際して厳宝礼総経理が記者に要求した四条件は、「言論は公正にすべし」「高尚な新聞風格の樹立」「独占的な情報」「独立保持、外からの干渉を無くす」であった由。


      1938年2月14日の新聞一面を見るだけでも驚かされます。「中国軍淮河を渡り反抗激烈、北岸の日本軍の形勢危急」というトップ記事から、孔祥煕(財界の首領。宋家三姉妹の長女・宋藹齢の夫君)による軍事の劣勢を財政面で支援する談話、蒋介石の外敵を御して民族の復興を謳う精神訓話、毛沢東の対日抗戦談話「国民党と共産党は当然永久に合作する」などなど。一面を読んだだけで判断するのは軽率ではありますが、近くの安徽省、江蘇省で激烈な戦闘が続く最中に、抗日記事が掲載されていること、国民党の御用記事を掲載して平衡を保ちつつも(蒋介石の精神訓話は4年前のもの)、毛沢東談話や共産党の拠点である延安抗日大学の動向を載せていることに驚きました。租界、英国名義ということで、日本軍からも国民党からも「独立保持」を貫いていたのでしょうか。孤島の灯のような新聞であったかも知れませんが、当時の困難な環境の中で、『文匯報』はよくぞ「公正」な記事を残してくれたものと感心します。


      ただ、5万部を超える人気紙となった『文匯報』を獅子身中の虫として厭う勢力からの妨害・懐柔の圧力が徐々に強まり、社屋には爆弾や毒入り果物籠などが届けられます。そして、1939年5月16日に英国総領事から二週間停刊の通知に至ります。更には資金面からの懐柔として、汪精衛主導の南京偽政府(偽満=満州国と同じ「偽」表示)からの克明氏への買収提案と続きます。


      5月19日からの停刊は、1945年9月5日の復刊まで続きます。詳しくは創刊当時の記者、鄭重氏の記録『風雨文匯』が出版されており、後輩にあたる張小葉記者はその先輩の自宅でのインタビューに基づいて記事にしています。拙文はその記事からの孫引きです。


      『文匯報』の創刊当時の状況を伝える記事を読みながら、この夏に横浜の新聞博物館で開かれた新聞『日本』陸羯南と正岡子規の展示会に連想が飛びました。


      この展示への準備協力、講演を務められた高木宏治氏は、老上海であり、現在は北京にて重鎮として悠揚迫らぬ態度でお仕事をされています。一方では、産経新聞幹部から筑波大学教授に転じた青木彰氏の遺訓を忠実に守り、新聞『日本』そして主筆の陸羯南の資料発掘、分析整理,復刻発行をお仲間と粘り強く続けていらっしゃいます。『日本』は伊藤博文政府への批判で停刊処分を何度も受けて資金面での困窮も続く中、正岡子規を採用庇護して短歌・俳句など文芸面の充実を図っています。この冬に陸羯南の故郷、弘前でも展示会が開催されます。


      新聞『日本』と陸羯南については、紙幅も理解も足りないので高木さんに更に教わってから改めて触れることにしたいと思います。司馬遼太郎が『ひとびとの跫音』『街道をゆく・三浦半島編、津軽編』に新聞『日本』と主筆の陸羯南について、青木彰氏そして高木宏治氏に繋がる研究系譜の源流が書かれていることをお伝えするに留めます。


      それにつけても、『文匯報』は11月7日に何故この記事を載せたのか?
      シンガポールでの二人の先生は『文匯報』のこの記事を読んだのか?
      大きな関心事です。(了)


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    2015.11.09

    アラハンの金子兜太さん 【上海の街角で 井上邦久】vol12 (読む時間:約7分半)


    • 不惑前後の世代をアラフォーと称したことに続いて、アラカンという和英造語が上海でも闊歩しているようです。往年の映画スター嵐勘十郎の愛称のアラカンは知らなくても、around+還暦=アラカン=60歳前後の総経理殿というイメージが浮かんできます。ところが最近になって、健康や長寿を売り物にした雑誌の広告に「アラハン」という文字を見つけました。アラハンの前ではアラカンがずいぶん幼く感じられそうです。

        
      言うまでもなくアラハンは、around hundred、100歳前後の元気な方々のお名前が挙がっていました。代表選手は聖路加病院の日野原名誉会長、書道家の篠田桃紅女史でして、ともに100歳越えです。下っ端の辺りに1919年9月23日生まれの俳人、金子兜太さんの名前がありました。因みに、日野原さんの俳句の師匠が金子兜太さんであり、最近では、二人でイジメに悩む小学生の天才的な俳句に着目して、立派な句集に仕上げています。


      金子兜太さんの父君の金子元春氏は俳人で医師。1919年当時は東亜同文書院校医として上海に単身赴任しています。第一次大戦後の対華21ヶ条要求、そして五四運動に続く時代の上海に、兜太さんは二歳で父のもとへ転居。四歳まで上海で育つ、と略年譜に書かれています。

       
      1943年、東京帝国大学を半年繰上げ卒業。日本銀行に入行。3日で退職して海軍経理学校へ。1944年3月に主計中尉としてトラック等へ赴任。米軍の空爆と栄養失調で多くの仲間を失う一方、尉官に関係のない俳句好き仲間で戦地句会を催していたとのこと。敗戦、捕虜となり、1946年11月に復員。翌年に日本銀行に復職。結婚。1949年頃から組合専従を経験してからは定年まで顕職とは縁のない処遇の転勤を重ねています。その一方で夫婦ともども現代俳句協会賞を受賞するなど俳句の作者、評者、指導者として地歩を築きあげています。

       
      以上のことを知り、同じ上海に住んでいたことに驚いたのは、金子兜太『悩むことはない』文春文庫を同人から頂戴してからのことです。句会を苦界に感じ、句作にクサっているのを見かねて同人が『悩むことはない』と励ましてくれたのでしょう。


      敗戦間もない神戸で橋閒石先生を中心に連句俳句同人『白燕』が結成されました。数年前、解散した『白燕』の流れを受け継ぐ人たちを中心に、連句・俳句の会『子燕』が結成されました。その中心メンバーが勤務先の先輩というご縁もあり、立ち上げから参加しました。枯れ木も山の賑わいと申しますが、この場合はアラカンでも同人の平均年齢を引き下げる効果がありました。米寿・卒寿記念句集を出された旧海軍潜水艦乗組員、アラ八十で現役薬剤師といった先輩諸兄姉が中核で、こちらは最年少の下っ端として雑巾がけをしてきました。


      2009年に上海着任後は月に各一度の連句会、俳句会に出ることが困難となりました。また駐在生活の中で季節感が薄れ、日本語が細り、生活が涸れるような気持ちになりました。その解決策として、先達がメールによる句会や連句(文音)の場を工夫してくれました。今では毎月十数名によるメール俳句会に発展し、歌仙文音の連句も次々に巻かれています。
      子燕も先輩同人の指導のお蔭を貰いながら、口ばしだけでなく羽ばたきもしっかりしなければ、と思っています。


      花屋までうぶ毛雨なら傘ささず
      春近し銀の雨降る上海に


      駐在したばかりの頃は、日本に居る同人にも中国への好奇心や上海への憧憬が残っていたせいか、拙句にも甘い点を頂戴していました。そんな頃の拙句です。「うぶ毛雨」とは勝手な造語です。冬の終わり春のはしりに降る嬉しい雨のことを、上海人は「毛毛雨」と親しみを込めて呼びます。日本語にするのは意外に難しく、幾つかの中日辞書に記載された「小糠雨」という訳は少しニュアンスが違うし、霧雨とも違います。まさに上海に降る「毛毛雨」。悩んだ挙句に、東京人形町の老舗刃物屋「うぶげ屋」(うぶ毛もきれいに剃れる刃物が売り)の爪切りを使いながら「うぶ毛雨」という造語に思い至りました。


      その後、政治的なストレスが高まった時期には、拙句にもそのストレスが忍び込んでいたことに気付かされます。少々ニヒルで諧謔が過ぎるかも知れません。


      黄砂飛ぶ俺のせいではないけれど
      日本でも月は丸かと訊く姑娘


      アラハンまで雑巾がけを続けられるかどうか不確かですが、連句・俳句の修行を重ね、諸兄姉のご指導をいただきながら句会を浄土のようにできれば幸いです。 (了)

       

    2015.10.19

    魯迅公園の中に 【上海の街角で 井上邦久】vol11 (読む時間:約3分半)


    • この6年、上海からある時は東京へ、ある時は関空への往還を繰り返して来ました。日本からの空路はおおむね瀬戸内沿いに九州へ、福江島上空を通過して上海に向かいます。フライトマップには右手に済州島が描かれていますが残念ながら目視はできません。
      済州島が見えないので、劇場公開は見逃した韓国で大ヒットした映画『国際市場で会いましょう』を飛行機内で繰り返し観ることにしました。大戦後の南北離散、経済困窮時代、西ドイツへの炭鉱労働者や看護師としての出稼ぎ、ベトナム戦争軍役参加など韓国戦後史を行き抜いた男とその妻の話です。


      映画の冒頭には、中共軍に追われる米軍、取り残される民衆の姿がありました。反共親米反日路線の李承晩大統領がラジオ放送で休戦を伝えるシーンもありました。休戦ラインから南で金日成の北朝鮮に対峙した大韓民国政府は、第二次世界大戦後の日本からの独立まで上海に亡命政府を置いていました。
      上海中心部の繁華街の一角に、その亡命政府跡が記念館として保存され、地図やガイドブックにも載っています。この数年の中韓両国の蜜月を象徴するかのように、記念館も改装されて訪れる人も増えたとのことです。9月3日、北京での式典に出席した朴大統領が、翌日に上海へ移動して亡命政府跡の記念館を訪ねたことも報道されました。


      ところで、9月3日を記念日とするのは中国以外には知らず、欧米ではドイツの降伏日と日本がミズーリ号甲板で連合国への降伏文書に署名した1945年9月2日を記念日とすることが多いようです。その日、敗戦直後に組閣された内閣の外務大臣に再任され、全権としてミズーリ号に向かったのが重光葵であることは良く知られています。調印式には大本営代表の梅津美治郎参謀総長が同行しています。重光と梅津は同じ大分県人ということと、第一次世界大戦が勃発した時に、駐ベルリン日本大使館で「八月の砲撃を聞いた日本人」という共通項もあります。


      記録画像でもミズーリ号甲板を歩く重光葵の足取りが不自由であることが明らかに判り、降伏する側の代表としての重い雰囲気を増幅させています。重光葵が右足切断の災難に遭遇したのは、1932年4月29日であり、場所は上海の虹口公園(現在の魯迅公園)でありました。第一次上海事変の停戦協定締結に向けて奔走している渦中、天長節(後の天皇誕生日)祝賀式典に出席していたところ、朝鮮独立運動家の尹奉吉の投じた爆弾により重傷を蒙った、いわゆる上海天長節爆弾事件の被害者の一人でありました。


      亡命政府の指導者であった金九の指示で爆弾テロを実行したと言われる尹奉吉は、事件当時23歳。日本に移送され同年12月19日に金沢で処刑されています。
      魯迅公園の中に、フェンスで囲まれた「梅軒」という立て札のある一角があります。
      入場券を売る窓口にはハングル表示が為されています。入場料を払って中に入ると、そこはハングルだけの世界で、数少ない参観者も記念品売り場の係員もハングルを口にしていました。記念館には爆弾投擲の画像が流され、金沢での処刑を伝える北国新聞の記事などが展示されています。公園内公園の名称の「梅軒」は尹奉吉の号であることも知れます。
      今回、朴大統領が魯迅公園の中の「梅軒」まで足を運んだかどうかは不詳です。


      重光葵はミズーリ号から東京に戻り、皇居に参内して昭和天皇に報告をしています。
      米国らの対応がビジネスライクであったこと、カナダ代表が署名する箇所を間違えたことなどを伝えたとのことです。尹奉吉がテロのタイミングとして「天長節式典」を利用し、そこで足を負傷切断した重光葵は、戦後処理においても天皇も含めた国家の全権を委ねられて、不名誉な降伏文書署名の役目を果たすことになりました。
      追い討ちをかけるように、翌1946年4月29日にA級戦犯として逮捕されています。
      その後、政治家・外交官として復活し、1956年の国連復帰演説の大役を果たした翌年に逝去しています。


      重光葵について、その後任の有吉公使のいわゆる「有吉外交」など、1930年代の上海が日本と中国の接点であった頃のことについて、もっと学んでおきたいと常々思っています。
      その宿題が滞っていることを喚起させ、上海での人の奇縁や歴史の交差を感じさせる9月初旬の出来事でした。  (了)


    2015.09.21

    ハンナ・アーレント 【上海の街角で 井上邦久】vol10 (読む時間:約2分)


    • 突然訪ねて来る古い友人が、この夏に携えてきたのは、中公新書『ハンナ・アーレント』でした。矢野久美子フェリス女学院教授の著作です。帯には「決定版評伝」とか「20世紀を代表する政治哲学者の生涯」という断定的な大文字が目を惹きます。内容は冷静な視点と克明な表現に満ちていて、好感を持ちました。


      旧友はなぜこの夏にこの本を選んで、持参してくれたのか?と尋常ではない反応を示したことに、彼もしばらく訝っていました。そして、昨年初めに観たハンナ・アーレントの闘いの人生を描いた映画がとても良かったことを友人に伝えました。


      新書と映画という限られた知見だけでしたが、反ユダヤ主義、ナチズム、スターリニズムそしてマッカーシズムについて色々と考えさせられる会話となりました。(映画については、http://www.jk-asia.net/ →ブログ→国際→「北京たより」→2014年1月『骨格』に印象記録を掲示して頂いています)


      ハンナ・アーレントもその一人であるユダヤ人難民に関連して、杉原千畝に関する話題が増え、12月5日には映画『杉原千畝スギハラチウネ』(東宝 唐沢寿明主演)が封切られる運びです。戦後に外務省を離れて転職を繰り返す過程で、短い期間ではありましたが、川上貿易そして蝶理に在職されたご縁から、本社では映画へのご協力をさせて頂いています。8月17日には内部試写会に社内関係者も参加しています。


      ところで上海では、ユダヤ人難民記念館周辺の動きがキナ臭くなってきたようです。ユネスコ「世界記憶遺産」への登録申請、舟山路から提籃橋にかけての地域でのユダヤテーマパーク化のような動きを反ファシスト勝利70周年に合わせての一過性のものとして捉えるか、観光資源化の商業主義と見過ごすか、難しいところです。最近の関連記事をご参照ください。


      http://www.sankei.com/world/news/150809/wor1508090004-n1.html


      8月14日から9月3日の間に挟まれたこの時期。


      まず、「談話」を正しく理解しようと苦労しました。上記の中公新書によりハンナ・アーレントの大著『全体主義の起源』には、全体主義としてドイツ・ナチズムとともにソ連・スターリズムが取り上げられていることを知りました。9月3日の世界反ファシスト戦争勝利70周年という題目のカタカナ部分を全体主義として理解した場合、どの国どの政権を指すのか難解であり微妙だと思います。(了)


    2015.08.20

    遵義茅台 【上海の街角で 井上邦久】vol9 (読む時間:約3分半)


    • 延安西路の国際貿易中心付近を走る道路の一つに遵義路があります。この道を歩くたびに、瑞金から延安に到る共産党の大長征を思い出します。国民党の攻勢で江西省井岡山・瑞金拠点を放棄した共産党は西北の延安拠点へ大移動しました。その途上、1935年1月に貴州省遵義で開かれ、毛沢東が権力を握ったとされる、いわゆる「遵義会議」にちなんだ路の名前であろうことを思い起こします。初期共産党指導部のソ連・日本留学派、都市工人派(先月の拙文『子夜』で綴った世界もその流れの李立三コース?)主導から「農村から都市を包囲する」方針の毛沢東にヘゲモニーの移動が為された、重要な会議とされています。不倒翁の周恩来が巧みに毛沢東を立てたという説もあります。


      6月16日、その遵義を習近平主席が訪問したとのこと。汚職などの罪で無期懲役の判決を周永康(大虎とも称され。即席ラーメンの「康師傳」が隠語にされた時期もありました。裁判での白髪が印象的でした)に下した直後に毛沢東ゆかりの土地を訪ねることで、権力掌握を誇示する狙いがありそうだとの記事でした。


      同じ紙面に、貴州省仁懐市茅台鎮の茅台酒会社が自社栽培のブルーベリーを原料にした酒の製造、販売を行う新会社を設立したとの小さな報道がありました。消費が減っている白酒を補う事業として育てるとのこと。白酒の需要減は、短期的には汚職・浪費への制裁政策が大きな理由ですが、習主席にクレームするわけにもいかず辛いところでしょう。ただ、長期的視点で分析すると、白酒を好んだ老朋友の世代が歳を拾って高血圧や糖尿病の医者や家族からの制裁を受けているのも確かです。他にも自家用車族が増えているとか(飲酒運転の制裁が以前は厳しくなかった)、ライト嗜好の若い世代には白酒は古臭いイメージで好まれないとかの複合的な理由が考えられます。


      1989年から1992年、青島に駐在した時には青島ビールをチェイサーにして白酒を半斤だけ呑んで他の酒には手を出しませんでした。盟友の紅星化工集団の姜総経理とは特によく呑みました。春節初一の朝から、自宅に乗り込んでお宝の貴州茅台酒と重慶五糧液の二大銘酒を飾り棚から下ろし、年賀挨拶に来る工場幹部や親戚友人への対応をビールでしながら、銘酒は意地汚く二人だけで呑みます。機嫌よくツマミや料理を準備してくれていた奥さんも、昼下がりの白酒がほぼなくなる頃には、さすがに湖南女性の「辣」気質が表面化して、「井上先生!いい加減に社宅に帰りなさい」と厳しいお達し。 それも当然で、前の晩の大晦日(除夕)は姜さんの実家で両親・妹さん達一家が揃っての大団円。紅白歌合戦を聴きながら、餃子作りに女性達が精を出している頃、姜さんと二人で集団の工場を巡り、現場で年越しをする工人たちへの慰問と感謝を伝えます。家に戻り、冷え切った身体を温めるには餃子だけでは足らず、白酒補給が必要だという大義名分は年越しの夜には許されていましたが、初一の午後には有効期限も切れるのは当然でした。


      その後、青島での製造維持ではコスト競争力が減ってきて、公害反対運動も散発するようになりました。そこで、重慶の銅梁県で炭酸ストロンチウム工場を、貴州の鎮寧県では炭酸バリウム工場を合弁で新設しました。それぞれの原料となる天青石や重晶石が豊かな土地を選んだのであり、誓って二大銘酒の産地を選んだわけではありません。ただ、工場建設段階では、寒さと寂しさを癒す為に白酒は欠かせないものでしたが、偽物の心配のない安価な酒を呑んだものです。


      上海では、淡白な本帮菜の味に適う黄酒(上海老酒。水郷楓涇で製造)の『石庫門』黒ラベルを飲み続けてきました。ところが古北路の社宅に馴染んできた頃、隣家の主人が青島人であることが分かりました。節季のお祝いの食事に招いてくれるようになり、ヨガや車の運転の上手な安徽省出身の奥さんは、料理にあまり関心がないこともあり、お手伝いさんが作る山東風の料理がよく供されました。山東省から両親や親戚が上海にやって来るときには当然白酒持参なので、自然に白酒と餃子の世界が再現されます。歩いても這っても帰宅まで10メートルなので安心して痛飲となります。


      時には茅台酒も飲ませてもらう隣人と長年暮らしてきたアパートの裏側には、スーパーAPITAが出来て便利になりました。遠くない将来にAPITAの裏のアパートですね、と言われそうです。そして、古北路から右に曲がるAPITAへの道、その道の名前が茅台路であることに改めて気付き、ご縁を感じました。                 (了)


    2015.07.13

    『子夜』 【上海の街角で 井上邦久】vol8 (読む時間:約5分)


    •  某月某日某所で「近代金融と上海」と題する講演を興味深く聞かせて頂きました。中国近現代史、上海史を専攻され、現在は上海市档案館にお勤めのかたわら、幾つかの有名大学でも教鞭を執られてきた邢建榕教授は、坦々とした口調で語り始めました。
      56ページに及ぶパワーポイント資料のうち、文章が並んでいるのは4ページだけで、あとは蒋介石らの政治家、有名だと思われる銀行家、梅蘭芳・魯迅らの文化人、そして銀行や証券取引所の建物や取り付け騒動など社会現象の写真が並んでいました。
      この人を喰ったような資料を活用するでもなく、あくまでも坦々と話されました。一方、並行して『非常銀行家 民国金融往時』邢建榕著(東方出版中心 2014年7月28元)という200ページ余りの本が聴衆一人一人に配られました。


       資料の内、数少ない文章部分を要約します。
      【1】 上海金融档案館概況;1949年以前の金融機構は300社余り、その内に銀行は200社前後。関係する史料内容は豊富で保存良好、近代上海の金融センターの形成過程や近代上海市の発展と経済社会活動の相互関係を反映している。租界档案以外では金融档案は最も整っており、歴史的価値を具えている。(2ページ)
      【2】 近代中国金融の風雲;金融と政治は密にして不可分であり、一方面では利害関係を有する。近代中国のいかなる政治活動の背景にも全て金融の影があり、当然ながら金融活動にも政治的背景がある。(8ページ)
      【3】 近代銀行家の選択;近代上海の銀行家は一群の優秀なエリートであった。著名な銀行家としての宋漢章、陳光甫、銭新之、李銘らは、政治への眼光鋭敏、社会に於ける信用卓抜な名流であり、各界からの尊敬を受けていた。1949年、彼らは一つの十字路で重大な選択を迫られた・・・(49ページ)
      【4】 上海はいつ、どのようにして金融センターとなったか;(1)金融機構の密集と社会貨幣資本の集中は金融センター形成の主要条件→主要な華商銀行、著名な銀行家(杜月笙を含む) (2)外資銀行の競争、是は金融センター形成の外部動力 (3)銀行家の素質と上海金融業制度の創設、是は金融センター形成の内在動力 (4)南京政府の政策決定は鍵となる(54ページ)


      翻訳作業を通して味読すると、この資料は決して人を喰った構成ではなく、上記4点でセミナーの題目は十分に説明されていることに気付かされます。加えて、邢氏はキーワードとして、(1)租界 (2) 移民 (3) 変遷 を掲げ、少し丁寧に説明されました。
      (1)については、上海の道路の名称(東西は都市名;南京路・漢口路など。南北は省、四川路・河南路など。現在の古北新区の道路名は伝統破壊;黄金路・紅宝石路)から各地域の特徴を説き起こされました。(徐家匯はキリスト教宣教の出発点。西洋音楽・絵画などの文化伝統の町。虹口は日本人町。県城・楊浦・南市は華界と称される中国人社会)。
      (2)について上海人の90%が他の地域からの移民。各出身地の文化が流入した。
      (3)については、海外勢力、清朝、北洋軍閥政府、国民党、共産党と権力の変遷にともなう時勢に対応してきた。南京政府が樹立され上海銀行が成長、首都でない北京を北平と呼称変更、天津と上海を特別市とした時期(1927年~1937年)が上海の最盛期であった、と位置付けられました。


      4枚の文章ページと三つのキーワードを知ってくれれば、それで良いとされ、もし詳しく知りたかったら自著『非常銀行家 民国金融往事』を読んでくれれば良いという暗黙のメッセージを受け取りました。この著作について楊天石氏は前言の「他們都是一些什麼様的人」の文中で、邢建榕教授の民国史研究、とりわけ上海史についての業績を高く評価した上で、建榕さんは人気夕刊紙『新民晩報』に連載欄を持ち、短・信・新・趣の四つの重要な特色ある文章スタイルで広範な読者に一気に読ませていると伝え、この著作でもその「晩報体」の風格と優位性を保っていると親しみを込めて褒めています。


      邢建榕教授の資料には作者の写真だけですが、著作には二編で取り上げられている、茅盾の長編小説『子夜』を偶然にも再読していたので、とても嬉しい符合でした。『子夜』副題は英文で “The Twilight, a Romance of China in 1930” 、岩波文庫の昭和45年初版の上下2冊の★は合計7個でした。
      外国資本に対抗して民族工業の振興をもくろむ野心的な資本家、閘北に大きな製糸工場を持ち、フランス租界の洋館に住んでいる呉蓀甫とその一族の生活と恋愛と挫折を描いた一種の劇場小説です。民族資本家仲間、南北内戦に従事する軍人、フランス留学帰りのニヒリスト、日和見主義の学者、故郷の旧弊な番頭、組合対策に奮闘する工場長、共産党の地下組織細胞、そして主人公の呉と公債市場で一騎打ちをする趙伯韜、その間で暗躍する女スパイや仲買人などなど多くの人間が登場します。公債市場での勝負を決したのは、主人公の義兄でもある金融資本家の寝返りでした。破産した呉は、昔の恋人であった軍人への未練が残る妻に旅支度を急かせて、青島への道行に向かう場面で長編小説は終わります。


      学生時代は名作をただ読んだだけでした。文化大革命の時期でもあり、魯迅以外の戦前の作品は概ね批判の対象でした。茅盾(本名は沈徳鴻。人民共和国政府文化部長としては沈雁冰の名)も、岩波文庫昭和45年初版のあとがきには消息不明と書かれています。
      今、読み返して1930年代の社会風俗や民族資本家の周囲に群がる人・人・人の動きに改めて興味が湧きました。そして、現代中国の経済と政治と金融と世俗とも重ね合わせて読みました。また、小説の登場人物の語る日本の位置づけに、今に通じるものを感じました。
      邢建榕教授から見れば「そんなに難しく考えなくとも好いよ。但し、やはり要は人だよね」と坦々と仰るかも知れないという気がします。   (了)


    2015.06.15

    『shanghai』 【上海の街角で 井上邦久】vol7 (読む時間:約5分半)


    • Japanは日本, japanは漆器。 Chinaは中国、 chinaは陶磁器。ならばShanghai は上海でありますが、小文字のshanghaiはどういう意味?という話題は色んな場所で為されています。上海に関する出版物にも小文字から始まるshanghaiについて記述されたものが何冊かあります。手元のジーニアス英和辞典には米語・俗語として、(1)(酒・麻薬・暴力で)意識を失わせて船に連れこんで水夫にする。(2)・・・に(無理に・だまして)[・・・を]・・・させる(force)[ into] と書かれています。穏やかとは言えない意味ですが、この動詞のshanghaiが造語されたであろう時代の背景について粗っぽい考察を試みます。


       清末、アヘン戦争から太平天国の乱のころ、日本は幕末動乱期でした。高杉晋作が上海にやって来たのもそのころでした。この数年のNHK大河ドラマには、幕末ものが多すぎて食傷気味となり、あまり熱心に見ていませんが、今回のイケ面志士の晋作はどのように描かれるのやら。一方、米国では南北戦争が1861年(文久元年)に勃発。北部の側から見ればcivil war でありましたが、南部の人たちは今でもnorthern aggression(北からの侵略占領)と呼んでいるとか。わずか150年前のことですからファミリーストーリーにしっかり刻まれているのでしょう。とりわけ侵略・占領された側の人たちに・・・と知ったかぶりをしていたら、米国に暮らした経験もあり、歴史や文化に詳しい方から「それは南部の支配階級、保守富裕層の人たちが称するわけで、アフリカ系の人たちは用いないのでは?」と修正をしてくれました。また、まさに蛇足ながら、同じ文久元年、京都西陣で蝶屋という生糸問屋が産声を上げています。経営者の大橋家の男達は、理助とか理一郎とか「理」から始まる名前を使ったので、蝶屋の理○⇔蝶理という略称から現在の 会社名に繋がりました。続く文久三年に西陣から遠くない壬生寺に新撰組屯所が置かれています。たぶん蝶理の創業者たちは、新撰組の人たちとすれ違ったか、怖いもの見たさで遠めに眺めたのではないかと想像しています。1865年に南北戦争が終息して武器需要が激減したので、武器商人たちはその販路を極東に求め、尊皇攘夷という無謀な排外武力行使や勤皇佐幕の対立という内戦のために武器需要が増した日本(薩摩・肥前・長州などで近代兵器の生産が立ち上がっていたようですが)の各派に売り込みを図ったのではないでしょうか?上海のサッスーン財閥、長崎のグラバー商会は武器商談の機軸の一つだったと思われます。現在、外灘に面した和平ホテルやグラバー邸として残され、旅行観光のメッカになっている場所で、想像力を150年ほど遡らせると違った景色が見えて参ります。


      上記のような乱暴な線で描いた19世紀中葉の世界歴史地図のなかで、米国がフロンティアとして開拓を進めた西海岸に眼を移して見ます。上海にも縁の深い梁啓超の『新大陸遊記』から孫引きすると・・・「中国人がアメリカに渡るようになったのは、元来アメリカの要請によるものである。カリフォルニアが合衆国に合併された当初、その開拓を急いだけれども、欧州系の移民は、僻遠の地をきらってあまり来たがらなかった。資本家は、金鉱の開発、鉄道の敷設などが拡大するにつれて、労働者の不足に困りはて、ついに中国にその補いを求めた」とあります。とりわけ1869年に完成したアメリカ大陸横断鉄道工事に、低賃金で従事した中国人労働者の数と質は他の移民労働者を凌駕していたようです。数ヶ月前の『環球時報』にも、苛酷な労働で痛んだ身体を仲間同士の鍼灸按摩で癒しながら生命と体力を維持して、他国の大男たちよりも勤勉に働いて貢献したので、鉄道開通記念式典(グレートソール市)には近年に到るまで中国人労働者代表やその子孫が招待され続けていたという歴史懐古記事が掲載されていました。帰郷した成功者から一攫千金が夢ではないことを知らされ、陸続として中国から米国へ渡る移民だけでなく,太平天国の乱の騒動で疲弊した農村から上海に流れてきた農民の中には、正にshanghai手段によって売られた者もいたと思います。更には太平天国に加担し、当局からの追捕の手を逃れて太平洋を越えた者もいたようです。やがて、その勤勉さ、質素さを基礎にして低賃金でも甘んじて働く中国人労働者と白人労働者との間に摩擦や衝突が生じるようになりました。そして1882年5月6日に米国政府は華人制限例案十五条(いわゆる華工禁止令)を布告しました。


      駐日公使随行任務を終えて帰国していた外交官、そして詩人・文章家でもある黄遵憲は、同じ1882年にサンフランシスコ総領事に任命され、華工禁止令や中国人への圧迫に抗して華僑保護に当りました。その黄遵憲は、ワシントン大統領からの伝統である自由平等であるべき米国が、西部開拓に大いに貢献したはずの中国人を追放するという理不尽さを糺し、中国の無力を悲憤する『逐客篇』という長い詩を残しています。その中から一部を、島田久美子さんの解読を援用させていただきながら、恣意的に抜粋して引用します。その時代の匂いを感じていただければ幸いです。


      華人往美利堅、始於道咸間、初由招工、踵往者多、数至二十萬衆
      ・・・ 華人がメリケンに往くのは道光(1821-1850)咸豊(1851-1861)年間に始まる。初めは労働者として招聘された。踵を連ねて往く者多く、数は二十万に至る。


      嗚呼民何辜、値此国運剥、軒頊五千年、到今国極弱、
      ・・・ 嗚呼、民は何の辜(罪)ありて、此の国運の衰退に遭うのか、古代の黄帝顓頊から五千年、今に至り国は極めて弱る。


      団焦始蝸盧、周防漸虎落、藍縷啓山林、邱墟変城郭、
      ・・・ 草葺小屋に蝸居し、周囲に漸く囲いができた。ボロ着で山林を開き、荒地を城郭に変えた


      金山蟹惈高、伸手左右攫、驩呼満載帰、羣誇国極楽 
      ・・・ 黄金が山なし、手を伸ばし獲得、満載して帰国すれば、皆の衆に米国は極楽だと誇る。


      後有紅巾賊、刊章指名捉、逋逃萃淵藪、趨如蛇赴壑
      ・・・ 後に紅巾の賊有り、指名手配で捉えるも、逃れて淵や薮に隠れ住み、穴に逃げ込む蛇の如し


      驟下逐客令、此事恐倍約、萬国互通商、将以何辞卻
      ・・・ 俄かに放逐令を下すも、此の事は約束に背く、万国は互いに通商するのに、何の理由で追い出すか。


      茫茫問禹跡、何時版図廓
      ・・・ 広々とした中国に問いたい、何時の日に版図を拡げられるのか 


      洪秀全が挙兵、林則徐が逝去した1850年、同時期カリフォルニアに金鉱が発見され西部開発が始まっています。その頃から上述の華人制限が始まる1882年までの間に、米国人によってshanghaiの動詞化が為され、新語・造語・俗語として特別な意味を持つようになったのではないか、と想像します。中国人にとって不名誉なこの言葉や用法が使われなくなることが望ましいと思います。ましてや、中国人自らの言動がshanghai化することも望みません。(了)


    2015.05.19
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