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コラム「上海の街角で」

『文匯報』そして『日本』 【上海の街角で 井上邦久】vol13 (読む時間:約3分半)


    • 11月7日、シンガポールにて習先生・馬先生の会談が行われました。蒋介石・毛沢東による最後の会談から幾星霜、歴史に一頁を残すという表現もありました。当事者の自画自賛やその周辺のメディアが持ち上げるのは当然ですが、各地から妙に冷めた反応が届いていて、この課題が単純でないことを知らされます。


      その歴史的な一日になるかもしれない11月7日付けの『文匯報』に「一張報紙的抗戦」(一つの新聞の抗戦)と題する張小葉記者の特集記事と1938年2月14日の『文匯報』一面の写真が掲載されていました。『文匯報』は上海を代表する新聞ですが、その揺籃期の経緯を知りませんでした。


      1938年1月25日、英国商人のH.M.Cumine(中国音訳名:克明)が発行人兼総主筆となり租界で創刊されています。1937年11月に国民党軍が上海から撤退してから、蘇州河南岸の租界地以外は日本軍が占領。新聞報道管制が強化される中、中文新聞の発行は租界で外国人名義のもとに行うのが唯一の手段だったようです。看板に英人克明守護神を掲げて、実態は中国人ジャーナリストが主導していたようです。


      発刊に際して厳宝礼総経理が記者に要求した四条件は、「言論は公正にすべし」「高尚な新聞風格の樹立」「独占的な情報」「独立保持、外からの干渉を無くす」であった由。


      1938年2月14日の新聞一面を見るだけでも驚かされます。「中国軍淮河を渡り反抗激烈、北岸の日本軍の形勢危急」というトップ記事から、孔祥煕(財界の首領。宋家三姉妹の長女・宋藹齢の夫君)による軍事の劣勢を財政面で支援する談話、蒋介石の外敵を御して民族の復興を謳う精神訓話、毛沢東の対日抗戦談話「国民党と共産党は当然永久に合作する」などなど。一面を読んだだけで判断するのは軽率ではありますが、近くの安徽省、江蘇省で激烈な戦闘が続く最中に、抗日記事が掲載されていること、国民党の御用記事を掲載して平衡を保ちつつも(蒋介石の精神訓話は4年前のもの)、毛沢東談話や共産党の拠点である延安抗日大学の動向を載せていることに驚きました。租界、英国名義ということで、日本軍からも国民党からも「独立保持」を貫いていたのでしょうか。孤島の灯のような新聞であったかも知れませんが、当時の困難な環境の中で、『文匯報』はよくぞ「公正」な記事を残してくれたものと感心します。


      ただ、5万部を超える人気紙となった『文匯報』を獅子身中の虫として厭う勢力からの妨害・懐柔の圧力が徐々に強まり、社屋には爆弾や毒入り果物籠などが届けられます。そして、1939年5月16日に英国総領事から二週間停刊の通知に至ります。更には資金面からの懐柔として、汪精衛主導の南京偽政府(偽満=満州国と同じ「偽」表示)からの克明氏への買収提案と続きます。


      5月19日からの停刊は、1945年9月5日の復刊まで続きます。詳しくは創刊当時の記者、鄭重氏の記録『風雨文匯』が出版されており、後輩にあたる張小葉記者はその先輩の自宅でのインタビューに基づいて記事にしています。拙文はその記事からの孫引きです。


      『文匯報』の創刊当時の状況を伝える記事を読みながら、この夏に横浜の新聞博物館で開かれた新聞『日本』陸羯南と正岡子規の展示会に連想が飛びました。


      この展示への準備協力、講演を務められた高木宏治氏は、老上海であり、現在は北京にて重鎮として悠揚迫らぬ態度でお仕事をされています。一方では、産経新聞幹部から筑波大学教授に転じた青木彰氏の遺訓を忠実に守り、新聞『日本』そして主筆の陸羯南の資料発掘、分析整理,復刻発行をお仲間と粘り強く続けていらっしゃいます。『日本』は伊藤博文政府への批判で停刊処分を何度も受けて資金面での困窮も続く中、正岡子規を採用庇護して短歌・俳句など文芸面の充実を図っています。この冬に陸羯南の故郷、弘前でも展示会が開催されます。


      新聞『日本』と陸羯南については、紙幅も理解も足りないので高木さんに更に教わってから改めて触れることにしたいと思います。司馬遼太郎が『ひとびとの跫音』『街道をゆく・三浦半島編、津軽編』に新聞『日本』と主筆の陸羯南について、青木彰氏そして高木宏治氏に繋がる研究系譜の源流が書かれていることをお伝えするに留めます。


      それにつけても、『文匯報』は11月7日に何故この記事を載せたのか?
      シンガポールでの二人の先生は『文匯報』のこの記事を読んだのか?
      大きな関心事です。(了)


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    2015.11.09

    アラハンの金子兜太さん 【上海の街角で 井上邦久】vol12 (読む時間:約7分半)


    • 不惑前後の世代をアラフォーと称したことに続いて、アラカンという和英造語が上海でも闊歩しているようです。往年の映画スター嵐勘十郎の愛称のアラカンは知らなくても、around+還暦=アラカン=60歳前後の総経理殿というイメージが浮かんできます。ところが最近になって、健康や長寿を売り物にした雑誌の広告に「アラハン」という文字を見つけました。アラハンの前ではアラカンがずいぶん幼く感じられそうです。

        
      言うまでもなくアラハンは、around hundred、100歳前後の元気な方々のお名前が挙がっていました。代表選手は聖路加病院の日野原名誉会長、書道家の篠田桃紅女史でして、ともに100歳越えです。下っ端の辺りに1919年9月23日生まれの俳人、金子兜太さんの名前がありました。因みに、日野原さんの俳句の師匠が金子兜太さんであり、最近では、二人でイジメに悩む小学生の天才的な俳句に着目して、立派な句集に仕上げています。


      金子兜太さんの父君の金子元春氏は俳人で医師。1919年当時は東亜同文書院校医として上海に単身赴任しています。第一次大戦後の対華21ヶ条要求、そして五四運動に続く時代の上海に、兜太さんは二歳で父のもとへ転居。四歳まで上海で育つ、と略年譜に書かれています。

       
      1943年、東京帝国大学を半年繰上げ卒業。日本銀行に入行。3日で退職して海軍経理学校へ。1944年3月に主計中尉としてトラック等へ赴任。米軍の空爆と栄養失調で多くの仲間を失う一方、尉官に関係のない俳句好き仲間で戦地句会を催していたとのこと。敗戦、捕虜となり、1946年11月に復員。翌年に日本銀行に復職。結婚。1949年頃から組合専従を経験してからは定年まで顕職とは縁のない処遇の転勤を重ねています。その一方で夫婦ともども現代俳句協会賞を受賞するなど俳句の作者、評者、指導者として地歩を築きあげています。

       
      以上のことを知り、同じ上海に住んでいたことに驚いたのは、金子兜太『悩むことはない』文春文庫を同人から頂戴してからのことです。句会を苦界に感じ、句作にクサっているのを見かねて同人が『悩むことはない』と励ましてくれたのでしょう。


      敗戦間もない神戸で橋閒石先生を中心に連句俳句同人『白燕』が結成されました。数年前、解散した『白燕』の流れを受け継ぐ人たちを中心に、連句・俳句の会『子燕』が結成されました。その中心メンバーが勤務先の先輩というご縁もあり、立ち上げから参加しました。枯れ木も山の賑わいと申しますが、この場合はアラカンでも同人の平均年齢を引き下げる効果がありました。米寿・卒寿記念句集を出された旧海軍潜水艦乗組員、アラ八十で現役薬剤師といった先輩諸兄姉が中核で、こちらは最年少の下っ端として雑巾がけをしてきました。


      2009年に上海着任後は月に各一度の連句会、俳句会に出ることが困難となりました。また駐在生活の中で季節感が薄れ、日本語が細り、生活が涸れるような気持ちになりました。その解決策として、先達がメールによる句会や連句(文音)の場を工夫してくれました。今では毎月十数名によるメール俳句会に発展し、歌仙文音の連句も次々に巻かれています。
      子燕も先輩同人の指導のお蔭を貰いながら、口ばしだけでなく羽ばたきもしっかりしなければ、と思っています。


      花屋までうぶ毛雨なら傘ささず
      春近し銀の雨降る上海に


      駐在したばかりの頃は、日本に居る同人にも中国への好奇心や上海への憧憬が残っていたせいか、拙句にも甘い点を頂戴していました。そんな頃の拙句です。「うぶ毛雨」とは勝手な造語です。冬の終わり春のはしりに降る嬉しい雨のことを、上海人は「毛毛雨」と親しみを込めて呼びます。日本語にするのは意外に難しく、幾つかの中日辞書に記載された「小糠雨」という訳は少しニュアンスが違うし、霧雨とも違います。まさに上海に降る「毛毛雨」。悩んだ挙句に、東京人形町の老舗刃物屋「うぶげ屋」(うぶ毛もきれいに剃れる刃物が売り)の爪切りを使いながら「うぶ毛雨」という造語に思い至りました。


      その後、政治的なストレスが高まった時期には、拙句にもそのストレスが忍び込んでいたことに気付かされます。少々ニヒルで諧謔が過ぎるかも知れません。


      黄砂飛ぶ俺のせいではないけれど
      日本でも月は丸かと訊く姑娘


      アラハンまで雑巾がけを続けられるかどうか不確かですが、連句・俳句の修行を重ね、諸兄姉のご指導をいただきながら句会を浄土のようにできれば幸いです。 (了)

       

    2015.10.19

    魯迅公園の中に 【上海の街角で 井上邦久】vol11 (読む時間:約3分半)


    • この6年、上海からある時は東京へ、ある時は関空への往還を繰り返して来ました。日本からの空路はおおむね瀬戸内沿いに九州へ、福江島上空を通過して上海に向かいます。フライトマップには右手に済州島が描かれていますが残念ながら目視はできません。
      済州島が見えないので、劇場公開は見逃した韓国で大ヒットした映画『国際市場で会いましょう』を飛行機内で繰り返し観ることにしました。大戦後の南北離散、経済困窮時代、西ドイツへの炭鉱労働者や看護師としての出稼ぎ、ベトナム戦争軍役参加など韓国戦後史を行き抜いた男とその妻の話です。


      映画の冒頭には、中共軍に追われる米軍、取り残される民衆の姿がありました。反共親米反日路線の李承晩大統領がラジオ放送で休戦を伝えるシーンもありました。休戦ラインから南で金日成の北朝鮮に対峙した大韓民国政府は、第二次世界大戦後の日本からの独立まで上海に亡命政府を置いていました。
      上海中心部の繁華街の一角に、その亡命政府跡が記念館として保存され、地図やガイドブックにも載っています。この数年の中韓両国の蜜月を象徴するかのように、記念館も改装されて訪れる人も増えたとのことです。9月3日、北京での式典に出席した朴大統領が、翌日に上海へ移動して亡命政府跡の記念館を訪ねたことも報道されました。


      ところで、9月3日を記念日とするのは中国以外には知らず、欧米ではドイツの降伏日と日本がミズーリ号甲板で連合国への降伏文書に署名した1945年9月2日を記念日とすることが多いようです。その日、敗戦直後に組閣された内閣の外務大臣に再任され、全権としてミズーリ号に向かったのが重光葵であることは良く知られています。調印式には大本営代表の梅津美治郎参謀総長が同行しています。重光と梅津は同じ大分県人ということと、第一次世界大戦が勃発した時に、駐ベルリン日本大使館で「八月の砲撃を聞いた日本人」という共通項もあります。


      記録画像でもミズーリ号甲板を歩く重光葵の足取りが不自由であることが明らかに判り、降伏する側の代表としての重い雰囲気を増幅させています。重光葵が右足切断の災難に遭遇したのは、1932年4月29日であり、場所は上海の虹口公園(現在の魯迅公園)でありました。第一次上海事変の停戦協定締結に向けて奔走している渦中、天長節(後の天皇誕生日)祝賀式典に出席していたところ、朝鮮独立運動家の尹奉吉の投じた爆弾により重傷を蒙った、いわゆる上海天長節爆弾事件の被害者の一人でありました。


      亡命政府の指導者であった金九の指示で爆弾テロを実行したと言われる尹奉吉は、事件当時23歳。日本に移送され同年12月19日に金沢で処刑されています。
      魯迅公園の中に、フェンスで囲まれた「梅軒」という立て札のある一角があります。
      入場券を売る窓口にはハングル表示が為されています。入場料を払って中に入ると、そこはハングルだけの世界で、数少ない参観者も記念品売り場の係員もハングルを口にしていました。記念館には爆弾投擲の画像が流され、金沢での処刑を伝える北国新聞の記事などが展示されています。公園内公園の名称の「梅軒」は尹奉吉の号であることも知れます。
      今回、朴大統領が魯迅公園の中の「梅軒」まで足を運んだかどうかは不詳です。


      重光葵はミズーリ号から東京に戻り、皇居に参内して昭和天皇に報告をしています。
      米国らの対応がビジネスライクであったこと、カナダ代表が署名する箇所を間違えたことなどを伝えたとのことです。尹奉吉がテロのタイミングとして「天長節式典」を利用し、そこで足を負傷切断した重光葵は、戦後処理においても天皇も含めた国家の全権を委ねられて、不名誉な降伏文書署名の役目を果たすことになりました。
      追い討ちをかけるように、翌1946年4月29日にA級戦犯として逮捕されています。
      その後、政治家・外交官として復活し、1956年の国連復帰演説の大役を果たした翌年に逝去しています。


      重光葵について、その後任の有吉公使のいわゆる「有吉外交」など、1930年代の上海が日本と中国の接点であった頃のことについて、もっと学んでおきたいと常々思っています。
      その宿題が滞っていることを喚起させ、上海での人の奇縁や歴史の交差を感じさせる9月初旬の出来事でした。  (了)


    2015.09.21

    ハンナ・アーレント 【上海の街角で 井上邦久】vol10 (読む時間:約2分)


    • 突然訪ねて来る古い友人が、この夏に携えてきたのは、中公新書『ハンナ・アーレント』でした。矢野久美子フェリス女学院教授の著作です。帯には「決定版評伝」とか「20世紀を代表する政治哲学者の生涯」という断定的な大文字が目を惹きます。内容は冷静な視点と克明な表現に満ちていて、好感を持ちました。


      旧友はなぜこの夏にこの本を選んで、持参してくれたのか?と尋常ではない反応を示したことに、彼もしばらく訝っていました。そして、昨年初めに観たハンナ・アーレントの闘いの人生を描いた映画がとても良かったことを友人に伝えました。


      新書と映画という限られた知見だけでしたが、反ユダヤ主義、ナチズム、スターリニズムそしてマッカーシズムについて色々と考えさせられる会話となりました。(映画については、http://www.jk-asia.net/ →ブログ→国際→「北京たより」→2014年1月『骨格』に印象記録を掲示して頂いています)


      ハンナ・アーレントもその一人であるユダヤ人難民に関連して、杉原千畝に関する話題が増え、12月5日には映画『杉原千畝スギハラチウネ』(東宝 唐沢寿明主演)が封切られる運びです。戦後に外務省を離れて転職を繰り返す過程で、短い期間ではありましたが、川上貿易そして蝶理に在職されたご縁から、本社では映画へのご協力をさせて頂いています。8月17日には内部試写会に社内関係者も参加しています。


      ところで上海では、ユダヤ人難民記念館周辺の動きがキナ臭くなってきたようです。ユネスコ「世界記憶遺産」への登録申請、舟山路から提籃橋にかけての地域でのユダヤテーマパーク化のような動きを反ファシスト勝利70周年に合わせての一過性のものとして捉えるか、観光資源化の商業主義と見過ごすか、難しいところです。最近の関連記事をご参照ください。


      http://www.sankei.com/world/news/150809/wor1508090004-n1.html


      8月14日から9月3日の間に挟まれたこの時期。


      まず、「談話」を正しく理解しようと苦労しました。上記の中公新書によりハンナ・アーレントの大著『全体主義の起源』には、全体主義としてドイツ・ナチズムとともにソ連・スターリズムが取り上げられていることを知りました。9月3日の世界反ファシスト戦争勝利70周年という題目のカタカナ部分を全体主義として理解した場合、どの国どの政権を指すのか難解であり微妙だと思います。(了)


    2015.08.20

    遵義茅台 【上海の街角で 井上邦久】vol9 (読む時間:約3分半)


    • 延安西路の国際貿易中心付近を走る道路の一つに遵義路があります。この道を歩くたびに、瑞金から延安に到る共産党の大長征を思い出します。国民党の攻勢で江西省井岡山・瑞金拠点を放棄した共産党は西北の延安拠点へ大移動しました。その途上、1935年1月に貴州省遵義で開かれ、毛沢東が権力を握ったとされる、いわゆる「遵義会議」にちなんだ路の名前であろうことを思い起こします。初期共産党指導部のソ連・日本留学派、都市工人派(先月の拙文『子夜』で綴った世界もその流れの李立三コース?)主導から「農村から都市を包囲する」方針の毛沢東にヘゲモニーの移動が為された、重要な会議とされています。不倒翁の周恩来が巧みに毛沢東を立てたという説もあります。


      6月16日、その遵義を習近平主席が訪問したとのこと。汚職などの罪で無期懲役の判決を周永康(大虎とも称され。即席ラーメンの「康師傳」が隠語にされた時期もありました。裁判での白髪が印象的でした)に下した直後に毛沢東ゆかりの土地を訪ねることで、権力掌握を誇示する狙いがありそうだとの記事でした。


      同じ紙面に、貴州省仁懐市茅台鎮の茅台酒会社が自社栽培のブルーベリーを原料にした酒の製造、販売を行う新会社を設立したとの小さな報道がありました。消費が減っている白酒を補う事業として育てるとのこと。白酒の需要減は、短期的には汚職・浪費への制裁政策が大きな理由ですが、習主席にクレームするわけにもいかず辛いところでしょう。ただ、長期的視点で分析すると、白酒を好んだ老朋友の世代が歳を拾って高血圧や糖尿病の医者や家族からの制裁を受けているのも確かです。他にも自家用車族が増えているとか(飲酒運転の制裁が以前は厳しくなかった)、ライト嗜好の若い世代には白酒は古臭いイメージで好まれないとかの複合的な理由が考えられます。


      1989年から1992年、青島に駐在した時には青島ビールをチェイサーにして白酒を半斤だけ呑んで他の酒には手を出しませんでした。盟友の紅星化工集団の姜総経理とは特によく呑みました。春節初一の朝から、自宅に乗り込んでお宝の貴州茅台酒と重慶五糧液の二大銘酒を飾り棚から下ろし、年賀挨拶に来る工場幹部や親戚友人への対応をビールでしながら、銘酒は意地汚く二人だけで呑みます。機嫌よくツマミや料理を準備してくれていた奥さんも、昼下がりの白酒がほぼなくなる頃には、さすがに湖南女性の「辣」気質が表面化して、「井上先生!いい加減に社宅に帰りなさい」と厳しいお達し。 それも当然で、前の晩の大晦日(除夕)は姜さんの実家で両親・妹さん達一家が揃っての大団円。紅白歌合戦を聴きながら、餃子作りに女性達が精を出している頃、姜さんと二人で集団の工場を巡り、現場で年越しをする工人たちへの慰問と感謝を伝えます。家に戻り、冷え切った身体を温めるには餃子だけでは足らず、白酒補給が必要だという大義名分は年越しの夜には許されていましたが、初一の午後には有効期限も切れるのは当然でした。


      その後、青島での製造維持ではコスト競争力が減ってきて、公害反対運動も散発するようになりました。そこで、重慶の銅梁県で炭酸ストロンチウム工場を、貴州の鎮寧県では炭酸バリウム工場を合弁で新設しました。それぞれの原料となる天青石や重晶石が豊かな土地を選んだのであり、誓って二大銘酒の産地を選んだわけではありません。ただ、工場建設段階では、寒さと寂しさを癒す為に白酒は欠かせないものでしたが、偽物の心配のない安価な酒を呑んだものです。


      上海では、淡白な本帮菜の味に適う黄酒(上海老酒。水郷楓涇で製造)の『石庫門』黒ラベルを飲み続けてきました。ところが古北路の社宅に馴染んできた頃、隣家の主人が青島人であることが分かりました。節季のお祝いの食事に招いてくれるようになり、ヨガや車の運転の上手な安徽省出身の奥さんは、料理にあまり関心がないこともあり、お手伝いさんが作る山東風の料理がよく供されました。山東省から両親や親戚が上海にやって来るときには当然白酒持参なので、自然に白酒と餃子の世界が再現されます。歩いても這っても帰宅まで10メートルなので安心して痛飲となります。


      時には茅台酒も飲ませてもらう隣人と長年暮らしてきたアパートの裏側には、スーパーAPITAが出来て便利になりました。遠くない将来にAPITAの裏のアパートですね、と言われそうです。そして、古北路から右に曲がるAPITAへの道、その道の名前が茅台路であることに改めて気付き、ご縁を感じました。                 (了)


    2015.07.13

    『子夜』 【上海の街角で 井上邦久】vol8 (読む時間:約5分)


    •  某月某日某所で「近代金融と上海」と題する講演を興味深く聞かせて頂きました。中国近現代史、上海史を専攻され、現在は上海市档案館にお勤めのかたわら、幾つかの有名大学でも教鞭を執られてきた邢建榕教授は、坦々とした口調で語り始めました。
      56ページに及ぶパワーポイント資料のうち、文章が並んでいるのは4ページだけで、あとは蒋介石らの政治家、有名だと思われる銀行家、梅蘭芳・魯迅らの文化人、そして銀行や証券取引所の建物や取り付け騒動など社会現象の写真が並んでいました。
      この人を喰ったような資料を活用するでもなく、あくまでも坦々と話されました。一方、並行して『非常銀行家 民国金融往時』邢建榕著(東方出版中心 2014年7月28元)という200ページ余りの本が聴衆一人一人に配られました。


       資料の内、数少ない文章部分を要約します。
      【1】 上海金融档案館概況;1949年以前の金融機構は300社余り、その内に銀行は200社前後。関係する史料内容は豊富で保存良好、近代上海の金融センターの形成過程や近代上海市の発展と経済社会活動の相互関係を反映している。租界档案以外では金融档案は最も整っており、歴史的価値を具えている。(2ページ)
      【2】 近代中国金融の風雲;金融と政治は密にして不可分であり、一方面では利害関係を有する。近代中国のいかなる政治活動の背景にも全て金融の影があり、当然ながら金融活動にも政治的背景がある。(8ページ)
      【3】 近代銀行家の選択;近代上海の銀行家は一群の優秀なエリートであった。著名な銀行家としての宋漢章、陳光甫、銭新之、李銘らは、政治への眼光鋭敏、社会に於ける信用卓抜な名流であり、各界からの尊敬を受けていた。1949年、彼らは一つの十字路で重大な選択を迫られた・・・(49ページ)
      【4】 上海はいつ、どのようにして金融センターとなったか;(1)金融機構の密集と社会貨幣資本の集中は金融センター形成の主要条件→主要な華商銀行、著名な銀行家(杜月笙を含む) (2)外資銀行の競争、是は金融センター形成の外部動力 (3)銀行家の素質と上海金融業制度の創設、是は金融センター形成の内在動力 (4)南京政府の政策決定は鍵となる(54ページ)


      翻訳作業を通して味読すると、この資料は決して人を喰った構成ではなく、上記4点でセミナーの題目は十分に説明されていることに気付かされます。加えて、邢氏はキーワードとして、(1)租界 (2) 移民 (3) 変遷 を掲げ、少し丁寧に説明されました。
      (1)については、上海の道路の名称(東西は都市名;南京路・漢口路など。南北は省、四川路・河南路など。現在の古北新区の道路名は伝統破壊;黄金路・紅宝石路)から各地域の特徴を説き起こされました。(徐家匯はキリスト教宣教の出発点。西洋音楽・絵画などの文化伝統の町。虹口は日本人町。県城・楊浦・南市は華界と称される中国人社会)。
      (2)について上海人の90%が他の地域からの移民。各出身地の文化が流入した。
      (3)については、海外勢力、清朝、北洋軍閥政府、国民党、共産党と権力の変遷にともなう時勢に対応してきた。南京政府が樹立され上海銀行が成長、首都でない北京を北平と呼称変更、天津と上海を特別市とした時期(1927年~1937年)が上海の最盛期であった、と位置付けられました。


      4枚の文章ページと三つのキーワードを知ってくれれば、それで良いとされ、もし詳しく知りたかったら自著『非常銀行家 民国金融往事』を読んでくれれば良いという暗黙のメッセージを受け取りました。この著作について楊天石氏は前言の「他們都是一些什麼様的人」の文中で、邢建榕教授の民国史研究、とりわけ上海史についての業績を高く評価した上で、建榕さんは人気夕刊紙『新民晩報』に連載欄を持ち、短・信・新・趣の四つの重要な特色ある文章スタイルで広範な読者に一気に読ませていると伝え、この著作でもその「晩報体」の風格と優位性を保っていると親しみを込めて褒めています。


      邢建榕教授の資料には作者の写真だけですが、著作には二編で取り上げられている、茅盾の長編小説『子夜』を偶然にも再読していたので、とても嬉しい符合でした。『子夜』副題は英文で “The Twilight, a Romance of China in 1930” 、岩波文庫の昭和45年初版の上下2冊の★は合計7個でした。
      外国資本に対抗して民族工業の振興をもくろむ野心的な資本家、閘北に大きな製糸工場を持ち、フランス租界の洋館に住んでいる呉蓀甫とその一族の生活と恋愛と挫折を描いた一種の劇場小説です。民族資本家仲間、南北内戦に従事する軍人、フランス留学帰りのニヒリスト、日和見主義の学者、故郷の旧弊な番頭、組合対策に奮闘する工場長、共産党の地下組織細胞、そして主人公の呉と公債市場で一騎打ちをする趙伯韜、その間で暗躍する女スパイや仲買人などなど多くの人間が登場します。公債市場での勝負を決したのは、主人公の義兄でもある金融資本家の寝返りでした。破産した呉は、昔の恋人であった軍人への未練が残る妻に旅支度を急かせて、青島への道行に向かう場面で長編小説は終わります。


      学生時代は名作をただ読んだだけでした。文化大革命の時期でもあり、魯迅以外の戦前の作品は概ね批判の対象でした。茅盾(本名は沈徳鴻。人民共和国政府文化部長としては沈雁冰の名)も、岩波文庫昭和45年初版のあとがきには消息不明と書かれています。
      今、読み返して1930年代の社会風俗や民族資本家の周囲に群がる人・人・人の動きに改めて興味が湧きました。そして、現代中国の経済と政治と金融と世俗とも重ね合わせて読みました。また、小説の登場人物の語る日本の位置づけに、今に通じるものを感じました。
      邢建榕教授から見れば「そんなに難しく考えなくとも好いよ。但し、やはり要は人だよね」と坦々と仰るかも知れないという気がします。   (了)


    2015.06.15

    『shanghai』 【上海の街角で 井上邦久】vol7 (読む時間:約5分半)


    • Japanは日本, japanは漆器。 Chinaは中国、 chinaは陶磁器。ならばShanghai は上海でありますが、小文字のshanghaiはどういう意味?という話題は色んな場所で為されています。上海に関する出版物にも小文字から始まるshanghaiについて記述されたものが何冊かあります。手元のジーニアス英和辞典には米語・俗語として、(1)(酒・麻薬・暴力で)意識を失わせて船に連れこんで水夫にする。(2)・・・に(無理に・だまして)[・・・を]・・・させる(force)[ into] と書かれています。穏やかとは言えない意味ですが、この動詞のshanghaiが造語されたであろう時代の背景について粗っぽい考察を試みます。


       清末、アヘン戦争から太平天国の乱のころ、日本は幕末動乱期でした。高杉晋作が上海にやって来たのもそのころでした。この数年のNHK大河ドラマには、幕末ものが多すぎて食傷気味となり、あまり熱心に見ていませんが、今回のイケ面志士の晋作はどのように描かれるのやら。一方、米国では南北戦争が1861年(文久元年)に勃発。北部の側から見ればcivil war でありましたが、南部の人たちは今でもnorthern aggression(北からの侵略占領)と呼んでいるとか。わずか150年前のことですからファミリーストーリーにしっかり刻まれているのでしょう。とりわけ侵略・占領された側の人たちに・・・と知ったかぶりをしていたら、米国に暮らした経験もあり、歴史や文化に詳しい方から「それは南部の支配階級、保守富裕層の人たちが称するわけで、アフリカ系の人たちは用いないのでは?」と修正をしてくれました。また、まさに蛇足ながら、同じ文久元年、京都西陣で蝶屋という生糸問屋が産声を上げています。経営者の大橋家の男達は、理助とか理一郎とか「理」から始まる名前を使ったので、蝶屋の理○⇔蝶理という略称から現在の 会社名に繋がりました。続く文久三年に西陣から遠くない壬生寺に新撰組屯所が置かれています。たぶん蝶理の創業者たちは、新撰組の人たちとすれ違ったか、怖いもの見たさで遠めに眺めたのではないかと想像しています。1865年に南北戦争が終息して武器需要が激減したので、武器商人たちはその販路を極東に求め、尊皇攘夷という無謀な排外武力行使や勤皇佐幕の対立という内戦のために武器需要が増した日本(薩摩・肥前・長州などで近代兵器の生産が立ち上がっていたようですが)の各派に売り込みを図ったのではないでしょうか?上海のサッスーン財閥、長崎のグラバー商会は武器商談の機軸の一つだったと思われます。現在、外灘に面した和平ホテルやグラバー邸として残され、旅行観光のメッカになっている場所で、想像力を150年ほど遡らせると違った景色が見えて参ります。


      上記のような乱暴な線で描いた19世紀中葉の世界歴史地図のなかで、米国がフロンティアとして開拓を進めた西海岸に眼を移して見ます。上海にも縁の深い梁啓超の『新大陸遊記』から孫引きすると・・・「中国人がアメリカに渡るようになったのは、元来アメリカの要請によるものである。カリフォルニアが合衆国に合併された当初、その開拓を急いだけれども、欧州系の移民は、僻遠の地をきらってあまり来たがらなかった。資本家は、金鉱の開発、鉄道の敷設などが拡大するにつれて、労働者の不足に困りはて、ついに中国にその補いを求めた」とあります。とりわけ1869年に完成したアメリカ大陸横断鉄道工事に、低賃金で従事した中国人労働者の数と質は他の移民労働者を凌駕していたようです。数ヶ月前の『環球時報』にも、苛酷な労働で痛んだ身体を仲間同士の鍼灸按摩で癒しながら生命と体力を維持して、他国の大男たちよりも勤勉に働いて貢献したので、鉄道開通記念式典(グレートソール市)には近年に到るまで中国人労働者代表やその子孫が招待され続けていたという歴史懐古記事が掲載されていました。帰郷した成功者から一攫千金が夢ではないことを知らされ、陸続として中国から米国へ渡る移民だけでなく,太平天国の乱の騒動で疲弊した農村から上海に流れてきた農民の中には、正にshanghai手段によって売られた者もいたと思います。更には太平天国に加担し、当局からの追捕の手を逃れて太平洋を越えた者もいたようです。やがて、その勤勉さ、質素さを基礎にして低賃金でも甘んじて働く中国人労働者と白人労働者との間に摩擦や衝突が生じるようになりました。そして1882年5月6日に米国政府は華人制限例案十五条(いわゆる華工禁止令)を布告しました。


      駐日公使随行任務を終えて帰国していた外交官、そして詩人・文章家でもある黄遵憲は、同じ1882年にサンフランシスコ総領事に任命され、華工禁止令や中国人への圧迫に抗して華僑保護に当りました。その黄遵憲は、ワシントン大統領からの伝統である自由平等であるべき米国が、西部開拓に大いに貢献したはずの中国人を追放するという理不尽さを糺し、中国の無力を悲憤する『逐客篇』という長い詩を残しています。その中から一部を、島田久美子さんの解読を援用させていただきながら、恣意的に抜粋して引用します。その時代の匂いを感じていただければ幸いです。


      華人往美利堅、始於道咸間、初由招工、踵往者多、数至二十萬衆
      ・・・ 華人がメリケンに往くのは道光(1821-1850)咸豊(1851-1861)年間に始まる。初めは労働者として招聘された。踵を連ねて往く者多く、数は二十万に至る。


      嗚呼民何辜、値此国運剥、軒頊五千年、到今国極弱、
      ・・・ 嗚呼、民は何の辜(罪)ありて、此の国運の衰退に遭うのか、古代の黄帝顓頊から五千年、今に至り国は極めて弱る。


      団焦始蝸盧、周防漸虎落、藍縷啓山林、邱墟変城郭、
      ・・・ 草葺小屋に蝸居し、周囲に漸く囲いができた。ボロ着で山林を開き、荒地を城郭に変えた


      金山蟹惈高、伸手左右攫、驩呼満載帰、羣誇国極楽 
      ・・・ 黄金が山なし、手を伸ばし獲得、満載して帰国すれば、皆の衆に米国は極楽だと誇る。


      後有紅巾賊、刊章指名捉、逋逃萃淵藪、趨如蛇赴壑
      ・・・ 後に紅巾の賊有り、指名手配で捉えるも、逃れて淵や薮に隠れ住み、穴に逃げ込む蛇の如し


      驟下逐客令、此事恐倍約、萬国互通商、将以何辞卻
      ・・・ 俄かに放逐令を下すも、此の事は約束に背く、万国は互いに通商するのに、何の理由で追い出すか。


      茫茫問禹跡、何時版図廓
      ・・・ 広々とした中国に問いたい、何時の日に版図を拡げられるのか 


      洪秀全が挙兵、林則徐が逝去した1850年、同時期カリフォルニアに金鉱が発見され西部開発が始まっています。その頃から上述の華人制限が始まる1882年までの間に、米国人によってshanghaiの動詞化が為され、新語・造語・俗語として特別な意味を持つようになったのではないか、と想像します。中国人にとって不名誉なこの言葉や用法が使われなくなることが望ましいと思います。ましてや、中国人自らの言動がshanghai化することも望みません。(了)


    2015.05.19

    『魯迅の墓』 【上海の街角で 井上邦久】vol6 (読む時間:約5分)


    •  先月の拙文で、上海における野球の草の根に少しだけ触れました。その後、陳祖恩先生が『上海に生きた日本人』(大修館書店)に、戦前の上海野球の隆盛について記述されていることを、迂闊にも見落としていたことに気付きました。


      ・・・上海でも東亜同文書院や日本の大企業はいずれも野球場をもっており、その時期(註;4月15日から10月15日)には「新公園」(工部局は虹口公園と呼んだが、日本人はこう呼んで親しんだ。現在の魯迅公園)や競馬場では日本人が野球を行うスペースを開放していた。五月の中旬には東亜同文書院の校内で上海の日本人による定期野球大会が行われた。(第4章「新旧風俗の融合と共存」より)


      上海での日本人文化研究の原典とも言える著作を再確認しなかった、正にボーンヘッドでした。陳先生ご夫妻には歴史散歩の会やメールの遣り取りを通じて、優しいお人柄に触れる一方で、その学識と行動力に畏敬の念を持ち続けています。この春は、東京の大学に進まれたご子弟の入学式に赴き、花見時期にも遭遇され、下田まで足を伸ばされたようです。


      さて、陳教授の文章にある魯迅公園(新公園。虹口公園)には、魯迅記念館があり、立派な魯迅の墓があることで知られています。公園近くの山陰路界隈には、大陸新邨に魯迅旧居(月曜日を除き公開)や茅盾の旧居(表示なし)、内山書店跡(銀行の二階が記念館)そして魯迅の盟友、瞿秋白の旧居(非公開)もあります。初めて上海に来た1971年2月のぼんやりした記憶の中で、馬陸人民公社と魯迅公園の墓の見学は強く印象に残っています。当時の外国人の宿泊指定先であった和平飯店で借りた厚手の綿入れのコートに包まり、園内で買ったサトウキビを齧っている19歳の写真が残っています。毛沢東の揮毫による「魯迅先生之墓」と刻まれた構造物は威風堂々とした印象が強く、「全国重点文物保護単位」にも指定されていたので、魯迅はずっとその場所に埋葬されていたものと誤解していました。ところが、1936年10月19日に逝去したあと、魯迅は万国公墓(現在の宋園路。宋慶齢墓地)に埋葬されていたこと、1946年に改装され、1956年になって虹口公園に建造された新墓に移骨、という経緯を辿ったようです。改装前の1943年に墓参を試みた竹内好について、生方直吉は次のように描写しています。


      墓のある万国公墓はフランス租界の西郊で租界のはずれから徒歩約二十分ぐらいのところにあるのは予め知っていた。しかしこの地域もすでにゲリラ地区になっていたから、昼間なるべく目立たないスタイルで行くことになり、墓参に必要な花束なども故意に用意しなかった。・・・ようやく隅の方に求める魯迅の墓を発見し・・・しかしこの魯迅の墓を正面からみて、竹内をはじめわれわれ一同は愕然とした。碑面にはめられた魯迅の陶器肖像が無残にも打ち壊され、その半分がいたましく残っているにすぎない。竹内がそれをみて、一言も発せずジッと見つめていたことが私にはきわめて印象的であった。・・・日本軍占領下にあっては、魯迅は死しても辱められていたのであった。その前で、無言で頭をたれた竹内好の思いは『魯迅』を書いている竹内の叙述のなかにも流れていたのではあるまいか。(鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』岩波現代文庫 第10章「魯迅の墓」より)


      一方、1945年3月24日から1946年12月28日までという歴史の結節点を上海で過ごした堀田善衛は『上海にて』(集英社文庫)の第Ⅲ章「魯迅の墓」に以下の文章を残しています。・・・1945年6月、私は武田泰淳といっしょだったか、菊池租氏といっしょだったか、ぶざまなことに忘れてしまったが、上海西郊の万国公墓へ魯迅の墓を見に行った。それは、ちいさな、なんということもない墓であった。一面、ぼうぼうの草に埋もれていた。花もなんにもなかった。・・・例の写真を、白タイルに焼きつけたのがはめ込んであったのだ。しかも、その写真タイルは、鼻まるまると顔の下部ぜんぶが欠け落ちていて、左の眼もなく、右の眼だけが、・・・写真入りの墓が珍しいとて、付近の悪童どもが乱入し、この写真めがけて石をぶっつけて遊んだ、そのためであったという。1946年に、郭沫若氏などの提唱で、この墓は立派に修理された。その完工の式があり、魯迅祭のようなものも催された。たしか内山完造氏も出て、なにか演説をしたようであった・・・


      堀田氏は1946年の式に行きたいと思いつつ、中国の友人が国民党特務の眼が光っているからと引止め、自らは外国人だからという理由にして参加を遠慮しています。解放後に、共産党は虹口公園の一角に巨大な魯迅像をつくり、その背後に骨を移したのですが、1957年に戦後初めて上海を訪れた堀田氏は「ともあれ、私は魯迅の巨大な新墓を見に行くことをしなかった」という結語でこの章を締めくくっています。


      軍、憲、警、党の誰かが意図的に陶器の肖像を割ったのか?近所の悪童が面白半分に石を投げたか?検証の術はありません。ただ、その反応が如何にも重い竹内好よりも、荒れた時代の傷んだ墓地にありがちなこととして、リアルな割り切り方をした堀田善衛の方に不在者投票の一票を投じたい気分です。


      魯迅の月命日に重なった日曜日、魯迅公園で墓を遠目に見てから記念館に入りました。魯迅の正妻の朱安さんの写真の展示が続いているかどうかの確認目的でした。北京女子師範大学生の許広平との大幅な年齢差を超えた北京での師弟間恋愛、広州での不倫逃避行、そして上海での同居重婚生活。それらの男女関係は、共産党の社会になってからの魯迅神格化とともに美化され、忌避されて久しいのですが、文革以降さすがにリアルに物事を語る人が出てきました(喬麗華『我也魯迅的遺物 朱安伝』上海市社会科学出版社。藤井省三『魯迅 東アジアを生きる文学』岩波新書)。魯迅夫婦と母親が「同居」していた住宅を改装した北京の記念館は当然ですが、上海でも魯迅の正妻の存在について、写真付きで紹介され続けていることを再確認しました。何となく安心した気分で魯迅公園をあとにして、南口から上海外国語大学グラウンドでの野球見物に回りました。


      「もしも今日、魯迅がまだ生きていたら、どうなっていたでしょうか?」1957年、上海で行われた座談会で出された問いに「私が思うに、牢屋に閉じこめられながらも、なおも書こうとしているか、大勢を知って沈黙しているかだろう」・・・毛沢東の言葉です。   (了)


    2015.04.20

    上海野球の草の根 【上海の街角で 井上邦久】vol5 (読む時間:約3分半)


    • 去年の2月に台湾で封切られ空前のヒットを記録した『KANO』が、今年の1月最終週から日本でも劇場公開されました。1931年夏の甲子園、全国中等学校野球大会に、台湾代表の無名チーム嘉義農林が決勝まで進むまでを描いた映画です。近藤兵太郎監督(松山商業OB)の指導の下、漢族・原住民(当時は高砂族と呼称)・日本人がそれぞれの特性を活かしながら成長するストーリーに並行して、八田與一の指揮による「嘉南大圳」大治水工事(1930年)のエピソードも挟まれます。更には霧社事件(1930~1931年)そして柳条湖事件(1931年9月;満洲事変)の時代の空気が遠景に重なります。


      先月寸描した尾崎秀実も朝日新聞上海支局で自社が主催する大会経過を逸早く知っていたかもしれません。尾崎秀実も台湾育ちです。戦前の大連や青島で実業団や中等野球が盛んであったことは清岡卓行の小説などで知られていますが、上海での野球事情がどうだったかは詳らかではありません。戦後になって、文化大革命が始まる前の上海では野球・ソフトボールが盛んで、大学や高校に50チーム近くあったとのことです(朝日新聞1997年6月26日付け。清水勝彦氏の記事)。しかしその後、上海では野球の草の根は絶えようとしていたようです。(個人的な体験ですが、1988年ゴルバチョフのソ連時代、モスクワ大学野球場の新設記念試合に出くわしたことがあります。日本からの東海大学とともに天津体育学院が招かれていました。ルール解説の場内放送付きのゲームで、ホームインのことをロシア語で「ダモイ」と言っていたのを聞き取れたことと天津のエースが東海大学相手に好投していたのを思い出します)


      大分県立宇佐高校出身の水江孝一さんが復旦大学に留学したのは1996年、日本球界への退路を断って大リーグの門を叩いた野茂英雄投手がドジャーズで注目された時期に重なります。上海の野球に興味を持つ学生達がコーチを探している事を知った留学生のS氏が、野茂ロゴのTシャツでキャンパスを歩いていた水江さんに声を掛けたのが野球部創設のキッカケと聞いています。野球好きのお父さんとキャッチボールをした想い出を何よりも大切にしている水江さんは、甲子園を目指す高校球児として流した汗を、復旦大学硬式野球部の為に流すことを決意しました。基本の基本を手ずから教える、更には復旦大学以外の大学まで野球を教えに回る水江さんについて、当時の学内新聞やスポーツ系記事に取り上げられたスクラップを見せてもらいました。スクラップには留学生仲間が色んな形で力を尽くしている様子が伺えます。


      記者たちは共通して水江さんの姿勢を「認真」「謹厳」「可愛」「黙黙」と表現しています。ある新聞には「バット1本とボール5個」、別の記事には「グローブふたつとボール3個」からのスタートとあり、九州に戻って母校などから掻き集めた野球用具100kg分をお父さんと二人で背負って上海に持ち帰ったことが美談として採り上げられています。数年後、各方面の支援協力も得て、上海外国語大学、同済大学、東華大学、上海財経大学、上海師範大学、上海応用技術学院そして日本留学生チームなどで大学リーグが開催されるようになりました。


      復旦大学が上海リーグで優勝した時、選手たちが水江さんの前に整列して「教練! 謝謝你!!」と声を揃えたというエピソードは、『KANO』 の中で準優勝が決まった直後「先生!ありがとうございます。もう泣いてもいいですか」と選手達に問われ、近藤監督が泣き声で「グランドでは泣くな!」と応えるシーンを彷彿とさせました。水江さんは今また上海で駐在生活を送っています。「私は野球が好きだから、熱情と楽しみを同級生たちと分かち合いたかっただけです」という、フラットな視線と姿勢は変わりません。ビジネスの世界でも黙黙と厳しい仕事に立ち向かっています。


      記事には残らない多くの留学生や企業駐在員の人たち草の根の努力が今も続いていることでしょう。聞くところでは、現在上海には15チームがあり、野球人口がじわりと増えているようです。今年も上海大学リーグが3月末から始まるようです。虹口の上海外国語大学のグランドへ水江さんやSさんと一緒に観戦に行きたいと思っています。   (了)


    2015.03.17

    上海1930年 尾崎秀実寸描 【上海の街角で 井上邦久】vol4 (読む時間:約2分)


    •  朝の通勤は、アパートの人たちと声を掛け合い、花屋の譚さんの元気な顔を見ることから始まります。古北路を曲がって、仙霞路と婁山関路の交差点の新聞スタンドに近づくと、煙草の手を止めた店主が「参考消息」と「環球時報」を揃えて渡してくれます。その日の紙面が日本に関してどんなに激烈で深刻な文字や写真に溢れていても、坦々と畳んでくれて「謝謝」と一言です。「環球時報」が1元50銭に値上がりしてから、2元50銭を持参するようにしています。時に小銭が足りない場合には「次で良いから」方式に甘えています。毎週木曜日発売の「南方周末」は、昨年3元から5元に大幅値上がり、今年になって紙面サイズがスリムになり実質再値上げ。しかし問題は価格や減量ではなく、紙面の中身にスクープ性が減り、鋭さを感じなくなったことです。一月の天覧相撲の無難で単調な取組を蒸留水相撲と批評しましたが、昨今の「南方周末」の蒸留水紙面も同様に無味無臭で無害です。


       大阪朝日新聞社の上海通信部に赴任する前に、尾崎秀実は一高・東大独法科で一緒だった羽仁五郎に中国に行ったらどういうふうに勉強をすればよいか、と訊ねた。すると羽仁五郎は、
       「新聞を読むことだ」
       「もちろん、新聞を読むことは仕事のうちだから・・・」
       「そうするつもりぐらいではだめだ。よく読めるようにならなければいけない」

       「よく読めるようになるには、二、三年はかかるよ」
       「いや二、三ヶ月でよく読めるようにならなければだめだ」(中略)
       「一日のうちで、いちばん頭の働きが良い時に新聞を読むことだ。大学を出た連中は、分厚い本を机の上にのせて読むのに、新聞は食事をしながら読んだりする。あれではだめだ。(中略)赤と青の鉛筆を使い、一字一句考え、批判し、それが真実かうそか見分け、前日の新聞や、これまでに知っている知識とも照らし合わせ、ノートをとりながら研究的に読むことだ」
       長い引用のあと、「尾崎秀実はこの友人の忠告を、忠実に実行した。新聞を丹念に読むだけでなく、現実にも真剣に対処した。動きつつある中国の現実が、尾崎の良きテキストになったのである」と実弟の尾崎秀樹は『上海1930年』(岩波新書)の序章に書いています。


       虹口の北四川路周辺を活動の拠点とした尾崎秀実は、魯迅やスメドレーらと交流し、内山書店への借金を重ねながら、中国とそれを取り巻く世界の動きを照らし合わせました。そして、1930年前後の上海で育まれた人との繋がりや歴史認識が後にゾルゲ事件という結果に繋がりました。(了)


    2015.02.09
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