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コラム「上海の街角で」

『魯迅の墓』 【上海の街角で 井上邦久】vol6 (読む時間:約5分)


    •  先月の拙文で、上海における野球の草の根に少しだけ触れました。その後、陳祖恩先生が『上海に生きた日本人』(大修館書店)に、戦前の上海野球の隆盛について記述されていることを、迂闊にも見落としていたことに気付きました。


      ・・・上海でも東亜同文書院や日本の大企業はいずれも野球場をもっており、その時期(註;4月15日から10月15日)には「新公園」(工部局は虹口公園と呼んだが、日本人はこう呼んで親しんだ。現在の魯迅公園)や競馬場では日本人が野球を行うスペースを開放していた。五月の中旬には東亜同文書院の校内で上海の日本人による定期野球大会が行われた。(第4章「新旧風俗の融合と共存」より)


      上海での日本人文化研究の原典とも言える著作を再確認しなかった、正にボーンヘッドでした。陳先生ご夫妻には歴史散歩の会やメールの遣り取りを通じて、優しいお人柄に触れる一方で、その学識と行動力に畏敬の念を持ち続けています。この春は、東京の大学に進まれたご子弟の入学式に赴き、花見時期にも遭遇され、下田まで足を伸ばされたようです。


      さて、陳教授の文章にある魯迅公園(新公園。虹口公園)には、魯迅記念館があり、立派な魯迅の墓があることで知られています。公園近くの山陰路界隈には、大陸新邨に魯迅旧居(月曜日を除き公開)や茅盾の旧居(表示なし)、内山書店跡(銀行の二階が記念館)そして魯迅の盟友、瞿秋白の旧居(非公開)もあります。初めて上海に来た1971年2月のぼんやりした記憶の中で、馬陸人民公社と魯迅公園の墓の見学は強く印象に残っています。当時の外国人の宿泊指定先であった和平飯店で借りた厚手の綿入れのコートに包まり、園内で買ったサトウキビを齧っている19歳の写真が残っています。毛沢東の揮毫による「魯迅先生之墓」と刻まれた構造物は威風堂々とした印象が強く、「全国重点文物保護単位」にも指定されていたので、魯迅はずっとその場所に埋葬されていたものと誤解していました。ところが、1936年10月19日に逝去したあと、魯迅は万国公墓(現在の宋園路。宋慶齢墓地)に埋葬されていたこと、1946年に改装され、1956年になって虹口公園に建造された新墓に移骨、という経緯を辿ったようです。改装前の1943年に墓参を試みた竹内好について、生方直吉は次のように描写しています。


      墓のある万国公墓はフランス租界の西郊で租界のはずれから徒歩約二十分ぐらいのところにあるのは予め知っていた。しかしこの地域もすでにゲリラ地区になっていたから、昼間なるべく目立たないスタイルで行くことになり、墓参に必要な花束なども故意に用意しなかった。・・・ようやく隅の方に求める魯迅の墓を発見し・・・しかしこの魯迅の墓を正面からみて、竹内をはじめわれわれ一同は愕然とした。碑面にはめられた魯迅の陶器肖像が無残にも打ち壊され、その半分がいたましく残っているにすぎない。竹内がそれをみて、一言も発せずジッと見つめていたことが私にはきわめて印象的であった。・・・日本軍占領下にあっては、魯迅は死しても辱められていたのであった。その前で、無言で頭をたれた竹内好の思いは『魯迅』を書いている竹内の叙述のなかにも流れていたのではあるまいか。(鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』岩波現代文庫 第10章「魯迅の墓」より)


      一方、1945年3月24日から1946年12月28日までという歴史の結節点を上海で過ごした堀田善衛は『上海にて』(集英社文庫)の第Ⅲ章「魯迅の墓」に以下の文章を残しています。・・・1945年6月、私は武田泰淳といっしょだったか、菊池租氏といっしょだったか、ぶざまなことに忘れてしまったが、上海西郊の万国公墓へ魯迅の墓を見に行った。それは、ちいさな、なんということもない墓であった。一面、ぼうぼうの草に埋もれていた。花もなんにもなかった。・・・例の写真を、白タイルに焼きつけたのがはめ込んであったのだ。しかも、その写真タイルは、鼻まるまると顔の下部ぜんぶが欠け落ちていて、左の眼もなく、右の眼だけが、・・・写真入りの墓が珍しいとて、付近の悪童どもが乱入し、この写真めがけて石をぶっつけて遊んだ、そのためであったという。1946年に、郭沫若氏などの提唱で、この墓は立派に修理された。その完工の式があり、魯迅祭のようなものも催された。たしか内山完造氏も出て、なにか演説をしたようであった・・・


      堀田氏は1946年の式に行きたいと思いつつ、中国の友人が国民党特務の眼が光っているからと引止め、自らは外国人だからという理由にして参加を遠慮しています。解放後に、共産党は虹口公園の一角に巨大な魯迅像をつくり、その背後に骨を移したのですが、1957年に戦後初めて上海を訪れた堀田氏は「ともあれ、私は魯迅の巨大な新墓を見に行くことをしなかった」という結語でこの章を締めくくっています。


      軍、憲、警、党の誰かが意図的に陶器の肖像を割ったのか?近所の悪童が面白半分に石を投げたか?検証の術はありません。ただ、その反応が如何にも重い竹内好よりも、荒れた時代の傷んだ墓地にありがちなこととして、リアルな割り切り方をした堀田善衛の方に不在者投票の一票を投じたい気分です。


      魯迅の月命日に重なった日曜日、魯迅公園で墓を遠目に見てから記念館に入りました。魯迅の正妻の朱安さんの写真の展示が続いているかどうかの確認目的でした。北京女子師範大学生の許広平との大幅な年齢差を超えた北京での師弟間恋愛、広州での不倫逃避行、そして上海での同居重婚生活。それらの男女関係は、共産党の社会になってからの魯迅神格化とともに美化され、忌避されて久しいのですが、文革以降さすがにリアルに物事を語る人が出てきました(喬麗華『我也魯迅的遺物 朱安伝』上海市社会科学出版社。藤井省三『魯迅 東アジアを生きる文学』岩波新書)。魯迅夫婦と母親が「同居」していた住宅を改装した北京の記念館は当然ですが、上海でも魯迅の正妻の存在について、写真付きで紹介され続けていることを再確認しました。何となく安心した気分で魯迅公園をあとにして、南口から上海外国語大学グラウンドでの野球見物に回りました。


      「もしも今日、魯迅がまだ生きていたら、どうなっていたでしょうか?」1957年、上海で行われた座談会で出された問いに「私が思うに、牢屋に閉じこめられながらも、なおも書こうとしているか、大勢を知って沈黙しているかだろう」・・・毛沢東の言葉です。   (了)


    2015.04.20

    上海野球の草の根 【上海の街角で 井上邦久】vol5 (読む時間:約3分半)


    • 去年の2月に台湾で封切られ空前のヒットを記録した『KANO』が、今年の1月最終週から日本でも劇場公開されました。1931年夏の甲子園、全国中等学校野球大会に、台湾代表の無名チーム嘉義農林が決勝まで進むまでを描いた映画です。近藤兵太郎監督(松山商業OB)の指導の下、漢族・原住民(当時は高砂族と呼称)・日本人がそれぞれの特性を活かしながら成長するストーリーに並行して、八田與一の指揮による「嘉南大圳」大治水工事(1930年)のエピソードも挟まれます。更には霧社事件(1930~1931年)そして柳条湖事件(1931年9月;満洲事変)の時代の空気が遠景に重なります。


      先月寸描した尾崎秀実も朝日新聞上海支局で自社が主催する大会経過を逸早く知っていたかもしれません。尾崎秀実も台湾育ちです。戦前の大連や青島で実業団や中等野球が盛んであったことは清岡卓行の小説などで知られていますが、上海での野球事情がどうだったかは詳らかではありません。戦後になって、文化大革命が始まる前の上海では野球・ソフトボールが盛んで、大学や高校に50チーム近くあったとのことです(朝日新聞1997年6月26日付け。清水勝彦氏の記事)。しかしその後、上海では野球の草の根は絶えようとしていたようです。(個人的な体験ですが、1988年ゴルバチョフのソ連時代、モスクワ大学野球場の新設記念試合に出くわしたことがあります。日本からの東海大学とともに天津体育学院が招かれていました。ルール解説の場内放送付きのゲームで、ホームインのことをロシア語で「ダモイ」と言っていたのを聞き取れたことと天津のエースが東海大学相手に好投していたのを思い出します)


      大分県立宇佐高校出身の水江孝一さんが復旦大学に留学したのは1996年、日本球界への退路を断って大リーグの門を叩いた野茂英雄投手がドジャーズで注目された時期に重なります。上海の野球に興味を持つ学生達がコーチを探している事を知った留学生のS氏が、野茂ロゴのTシャツでキャンパスを歩いていた水江さんに声を掛けたのが野球部創設のキッカケと聞いています。野球好きのお父さんとキャッチボールをした想い出を何よりも大切にしている水江さんは、甲子園を目指す高校球児として流した汗を、復旦大学硬式野球部の為に流すことを決意しました。基本の基本を手ずから教える、更には復旦大学以外の大学まで野球を教えに回る水江さんについて、当時の学内新聞やスポーツ系記事に取り上げられたスクラップを見せてもらいました。スクラップには留学生仲間が色んな形で力を尽くしている様子が伺えます。


      記者たちは共通して水江さんの姿勢を「認真」「謹厳」「可愛」「黙黙」と表現しています。ある新聞には「バット1本とボール5個」、別の記事には「グローブふたつとボール3個」からのスタートとあり、九州に戻って母校などから掻き集めた野球用具100kg分をお父さんと二人で背負って上海に持ち帰ったことが美談として採り上げられています。数年後、各方面の支援協力も得て、上海外国語大学、同済大学、東華大学、上海財経大学、上海師範大学、上海応用技術学院そして日本留学生チームなどで大学リーグが開催されるようになりました。


      復旦大学が上海リーグで優勝した時、選手たちが水江さんの前に整列して「教練! 謝謝你!!」と声を揃えたというエピソードは、『KANO』 の中で準優勝が決まった直後「先生!ありがとうございます。もう泣いてもいいですか」と選手達に問われ、近藤監督が泣き声で「グランドでは泣くな!」と応えるシーンを彷彿とさせました。水江さんは今また上海で駐在生活を送っています。「私は野球が好きだから、熱情と楽しみを同級生たちと分かち合いたかっただけです」という、フラットな視線と姿勢は変わりません。ビジネスの世界でも黙黙と厳しい仕事に立ち向かっています。


      記事には残らない多くの留学生や企業駐在員の人たち草の根の努力が今も続いていることでしょう。聞くところでは、現在上海には15チームがあり、野球人口がじわりと増えているようです。今年も上海大学リーグが3月末から始まるようです。虹口の上海外国語大学のグランドへ水江さんやSさんと一緒に観戦に行きたいと思っています。   (了)


    2015.03.17

    上海1930年 尾崎秀実寸描 【上海の街角で 井上邦久】vol4 (読む時間:約2分)


    •  朝の通勤は、アパートの人たちと声を掛け合い、花屋の譚さんの元気な顔を見ることから始まります。古北路を曲がって、仙霞路と婁山関路の交差点の新聞スタンドに近づくと、煙草の手を止めた店主が「参考消息」と「環球時報」を揃えて渡してくれます。その日の紙面が日本に関してどんなに激烈で深刻な文字や写真に溢れていても、坦々と畳んでくれて「謝謝」と一言です。「環球時報」が1元50銭に値上がりしてから、2元50銭を持参するようにしています。時に小銭が足りない場合には「次で良いから」方式に甘えています。毎週木曜日発売の「南方周末」は、昨年3元から5元に大幅値上がり、今年になって紙面サイズがスリムになり実質再値上げ。しかし問題は価格や減量ではなく、紙面の中身にスクープ性が減り、鋭さを感じなくなったことです。一月の天覧相撲の無難で単調な取組を蒸留水相撲と批評しましたが、昨今の「南方周末」の蒸留水紙面も同様に無味無臭で無害です。


       大阪朝日新聞社の上海通信部に赴任する前に、尾崎秀実は一高・東大独法科で一緒だった羽仁五郎に中国に行ったらどういうふうに勉強をすればよいか、と訊ねた。すると羽仁五郎は、
       「新聞を読むことだ」
       「もちろん、新聞を読むことは仕事のうちだから・・・」
       「そうするつもりぐらいではだめだ。よく読めるようにならなければいけない」

       「よく読めるようになるには、二、三年はかかるよ」
       「いや二、三ヶ月でよく読めるようにならなければだめだ」(中略)
       「一日のうちで、いちばん頭の働きが良い時に新聞を読むことだ。大学を出た連中は、分厚い本を机の上にのせて読むのに、新聞は食事をしながら読んだりする。あれではだめだ。(中略)赤と青の鉛筆を使い、一字一句考え、批判し、それが真実かうそか見分け、前日の新聞や、これまでに知っている知識とも照らし合わせ、ノートをとりながら研究的に読むことだ」
       長い引用のあと、「尾崎秀実はこの友人の忠告を、忠実に実行した。新聞を丹念に読むだけでなく、現実にも真剣に対処した。動きつつある中国の現実が、尾崎の良きテキストになったのである」と実弟の尾崎秀樹は『上海1930年』(岩波新書)の序章に書いています。


       虹口の北四川路周辺を活動の拠点とした尾崎秀実は、魯迅やスメドレーらと交流し、内山書店への借金を重ねながら、中国とそれを取り巻く世界の動きを照らし合わせました。そして、1930年前後の上海で育まれた人との繋がりや歴史認識が後にゾルゲ事件という結果に繋がりました。(了)


    2015.02.09

    花屋の譚さん 【上海の街角で 井上邦久】vol3 (読む時間:約2分半)


    •  ベランダの鉢植えの草木も三年目の春を迎え緑の色を濃くしています。今年も沈丁花は香り、桃は白い花を咲かせました。三連休の初日の夕方、食材や本を買った帰りに寄った隣の花屋。譚老板(ラオパン=大将)から、もうすぐ母の日だからとカーネーション、それともお前さんの趣味の料理には要るだろうとハーブ、今日はどちらにすると聞かれ、結局両方の小鉢を持たされました。無理に金を出すと水臭いと言われるので、いつものようにシレッと頂戴しました。昨年3月まで、次男坊誕生で喜ぶ彼の要請で、ご指定の明治粉ミルクを、日本から何度もハンドキャリーしたことから、時間差・物々交換の習慣が定着しました。震災までは日本製のミルクで育った譚ジュニアは元気に歩き回っています。


      上海たより(2012年5月)『上海の五月』に綴った後も譚さん一家との交流は深まっています。父親似の次男坊は腕白に育ち店前で走り回っています。それを優しい眼で眺める長男は物静かに店の手伝い仕事を探しています。  或る夕方、仕事帰りを目ざとく見つけた譚さんは「餃子は好きか?食べていけ」と声を掛けてくれました。店の隅で餃子の皮に豚肉と韮の餡を上手に詰めていた奥さんが「旦那はいつも突然誘うから面子がなくて・・・今夜は餃子しかないけど、明日だったらもっと腕を揮うよ」と少し含羞の表情を浮かべました。「奥さんの料理自慢は知っている。それにニンニクを入れない御宅の餃子が好きだ」という会話の端緒が長男の教育の話に繋がりました。「高校進学も近い。成績はまずまずだけど内向的なのが残念。安徽省の実家は出身が悪くて、出身って分かるかな?」「出身階級のことだよね」「そう、家は地主だったので革命後に父親たちは随分苦労をした。だからついつい私も教育に熱くなってしまう。」と餃子作りの手は休めずポツリポツリと語ってくれました。


       酒も煙草もやらず、朝の7時半から夜まで働く譚さんは研究熱心でもあります。パソコンなどで日本の園芸情報を仕入れては門外漢相手に相談してきます。或る年末に門松作りを頼んだら、実に見事な仕上がりで、オフィスの入り口に春節明けまで飾りました。植木鋏も日本製に限るとの所望で各タイプを届けました。次は何かと思ったら「腰に巻くホルダー」とのこと。帰国時に東急ハンズなどで探しました。最終的に旅先の長野駅前で、無印良品の店員が腰に巻き小道具を挿しているのを見つけ、これだ!と、倉庫から同じ品を取り出して貰いました。


       ただ努力と結果が必ずしも伴わないのはどの商売でも同じです。「日本人が花束をどっさり買いこんでカラオケに通った時代は戻らないのか?」と恨めしそうに呟いてから「二次会が苦手な自炊派のお前さんには没有関係だった」と笑ったのも数年前。最近は「贅沢禁止のお達しのせいか大口納品が激減した」と嘆く反面、店の造りを個人客用に切り替える工夫を始めました。


       駐在員には会社は有っても社会が無い、と以前の北京や青島での生活で残念に思っていました。今回の上海では社会との繋がりを感じる生活のゆとりが出来たかもしれません。春節が近いことでもあり、次の休みには譚家の安徽省風味の餃子を食べさせて貰いましょう。(了)


    2015.01.16

    杉原千畝と上海 【上海の街角で 井上邦久】vol2 (読む時間:約3分半)

    • 戦前日本人が多く居た虹口地区に、ユダヤ人が集中して住む一角がありました。上海人が敬遠する提籃橋監獄から舟山路にかけてのブロックにユダヤ人が居住した痕跡が残り、シナゴーグ(ユダヤ教会)が記念館となり、小さな公園には日本軍占領下の収容所跡の記念碑があります。その二つのランドマークの間にはオーストリア風建築の住居があり、現在は上海人の集合住宅になっています。スカイラインを揃えた煉瓦作りの「高層建築」は欧州の香りを今に感じさせます。この街の人波のなかに、東洋人離れした顔立ちの長身を見かけることがありますが、少々先入観が勝ち過ぎかなと思ったりもします。


       上海の中心部、外灘と南京東路の角にそびえる和平飯店(Peace Hotel)は1971年に初訪中した時にも泊りましたが、当時の外国人向けに割り当てられた数少ないホテルでした。文革の波の中でも往年の重厚な雰囲気は保たれたままでした。そこは解放前、サッスーン家が遠東の拠点としたビルであり、ハートン家などと共にユダヤ系の繁栄を象徴するところであったようです。カイロ、カルカッタなどから上海に拠点を拡張したユダヤ人は20世紀初頭には800~1,000人。1930年代には5,000人の富裕勢力として、多くの文化事業や教育事業も行う余力を有し、不動産事業の中核に成長していたと、『The Jews in Shanghai(猶太人在上海)』潘光主編(上海画報出版社)などの書物に記録されています。


      1930年代の末に、ナチスのユダヤ排除政策、列国の意図的な無関心方針で行き場を無くした欧州のユダヤ人が究極の選択をしたのが、当時世界唯一の自由港であった上海でした。南回りの欧州航路で避難したグループと、シベリア鉄道で日本海に出て上海に向かったグループの合計は、ほぼ3万人(その内,5,000人は上海経由ですぐに他国に移動)とされています。
      その過程で、ユダヤ人に通過ビザを発給した杉原千畝(日本国在リトアニア/カウナス領事館領事)、そして何鳳山(中華民国在オーストリア/ウィーン総領事)への恩義を大として、記念館では大きな写真付きで顕彰しています。上述の書物などにも杉原氏の功績について記述されており、日本軍政下の収容所責任者であった合屋氏(ユダヤの王と自称していた由)の貧相な写真付きの批判的掲示とは対照的です。
      先般、上海奈良県人会にお招き頂いた時にも、現下の中国で顕彰される数少ない日本人としての杉原千畝に、上海在住の我々は眼を向けていきましょうとお伝えしました。


       杉原千畝に関しては、昨年そのintelligence(「諜報」という訳の語感に馴染めませんが)の要素にライトを当てる研究書(『諜報の天才・杉原千畝』白石仁章 新潮選書)が出版され、日本人が外交音痴であるといった一般的な風潮に一石を投じる好例として取り上げられています。
      一昨年の秋に、顔なじみになっていた記念館のボランティア女子大生から戦後の杉原氏について尋ねられ、外務省を辞したあとソ連貿易名門の川上貿易を経て、蝶理という商社で働いたことを伝えました。ところがその後、駐在仲間の方から「記念館の案内人が、戦後になって杉原氏は処刑されたと言うので訂正しておいた」と連絡を貰いました。
      これは一大事なので、歴史を学ばないと中国人から言われる日本人が、僭越ながら中国人に歴史を学んで頂こうと、2008年に発行された『蝶理㈱設立60周年記念誌』をユダヤ記念館に持参し贈呈しました。この記念誌の70ページには、編纂責任者であった柳瀬役員自らが杉原千畝記念館(岐阜県加茂郡八百津町)まで取材した文章が掲載されています。モスクワ事務所長辞令(1969年12月付け命課通報)の写真も付されていますので、第一級かどうかは別にして、歴史資料に値するのではないでしょうか。


      杉原氏についても、上海のユダヤ人に関することについても知らない事、分からない事が多くあります。当時の満州国を通過できた背景? 関東軍の思惑「フグ作戦」? ユダヤ人富裕層と避難民の扶助関係?などの諸点はともかくとして、先ずは当時の上海人からのユダヤ人や日本人への視点について調べ続けたいと思います。気楽なお喋りの対象にするテーマではないのでコツコツと学びたいと思います。


    2014.12.15

    朱實先生と瞿麦さん 【上海の街角で 井上邦久】vol1 (読む時間:約2分半)

    • 司馬遼太郎「街道をゆく」シリーズの25巻目『中国・閩のみち』は1984年8月から12月に週刊朝日に連載されました。単行本や何度か装丁を変えた朝日文庫により読者を拡げ続けているようです。
      閩の国、福建省へ陳舜臣らの友人と訪れた司馬氏は、旅の初めに上海虹橋空港に到着しました。一行は空港近くの龍柏飯店に投宿、町見物をせずホテルに残った司馬氏と案内役の瞿麦さんとの味わい深い会話が冒頭にさらりと描かれています。1975年以来の親しい付き合いの二人の会話は瞿麦さんの「呼吸をするように話す」と描写された上等な日本語で成り立っています。そして瞿麦さんから「人民解放軍」という言葉の福建語読みは北京語発音より、日本語の音読みにずっと近いということを教わり、更には瞿麦さんから「本来は福建人です」という言葉を引き出しています。


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      1980年代の北京、日本企業のオアシス的存在であった新僑飯店に当社もサロンと言えば聞こえは良いのですが、実際は出張者の溜まり場のような部屋がありました。その一角の本棚から抜き出した単行本で「閩のみち」を読んだ記憶があります。内容のあらかたは忘れましたが龍柏飯店での瞿麦さんとのエピソードは印象に残り続けていました。


      上海短歌会へのお誘いを受けて何度か末席を汚しています。その会の中心的存在の朱實先生をご存知の方は多いことと思います。日中国交正常化交渉の折に田中角栄首相と周恩来首相の通訳を果たし、その後多くの日本語人材を育てたことは良く知られています。ただ戦中戦後の台湾で文学結社「銀鈴会」の中心メンバーとして活躍されていたことはあまり語られていません。


      その朱實先生からの電話でお誘いがあり、10月12日、先生から指定された康定路のポルトガル料理屋でお会いすることができました。社宅近くの長年懇意にしている小譚花店で花束を包んでもらおうとしたら、偉い先生を訪ねるならと譚老板は立派な胡蝶蘭の鉢を持たせてくれました。朱實先生は9月30日の誕生日の祝いとして蘭の花をとても愛でてくれました。事前に台湾文学、文学史を研究している友人や後輩から教わった参考資料の中に、前述の『閩のみち』が挙げられていました。それで、先生には幾つかのペンネームや号があるでしょうが、一番のお好みは?と訊ねると「瞿麦です」、と即答されました。朱實先生と瞿麦さんが重なった瞬間、感動が走りました。先生が好まれる瞿秋白の「瞿」と台湾で参加されていた「麦浪会」合唱団の「麦」を繋いだ思い入れの深いお名前でありました。台湾での青春、1949年台湾からの命懸けの脱出、そして同年9月30日の天津上陸直後の英雄としての扱いまでを熱く語られ、それから1972年の日本との国交正常化交渉への参画までの日々についてはさらりと話されました。次回は共通の研究テーマである瞿秋白について、ポートワインを傾けながらお聴きしたいと思っています。上海の街で、歴史の経糸と横糸が交差するなか、人を敬うことを信条として明るく生きて来られた先生との贅沢な巡り合いに感謝しています。


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    2014.08.04
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