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コラム「上海の街角で」

花屋の譚さん 【上海の街角で 井上邦久】vol3 (読む時間:約2分半)


    •  ベランダの鉢植えの草木も三年目の春を迎え緑の色を濃くしています。今年も沈丁花は香り、桃は白い花を咲かせました。三連休の初日の夕方、食材や本を買った帰りに寄った隣の花屋。譚老板(ラオパン=大将)から、もうすぐ母の日だからとカーネーション、それともお前さんの趣味の料理には要るだろうとハーブ、今日はどちらにすると聞かれ、結局両方の小鉢を持たされました。無理に金を出すと水臭いと言われるので、いつものようにシレッと頂戴しました。昨年3月まで、次男坊誕生で喜ぶ彼の要請で、ご指定の明治粉ミルクを、日本から何度もハンドキャリーしたことから、時間差・物々交換の習慣が定着しました。震災までは日本製のミルクで育った譚ジュニアは元気に歩き回っています。


      上海たより(2012年5月)『上海の五月』に綴った後も譚さん一家との交流は深まっています。父親似の次男坊は腕白に育ち店前で走り回っています。それを優しい眼で眺める長男は物静かに店の手伝い仕事を探しています。  或る夕方、仕事帰りを目ざとく見つけた譚さんは「餃子は好きか?食べていけ」と声を掛けてくれました。店の隅で餃子の皮に豚肉と韮の餡を上手に詰めていた奥さんが「旦那はいつも突然誘うから面子がなくて・・・今夜は餃子しかないけど、明日だったらもっと腕を揮うよ」と少し含羞の表情を浮かべました。「奥さんの料理自慢は知っている。それにニンニクを入れない御宅の餃子が好きだ」という会話の端緒が長男の教育の話に繋がりました。「高校進学も近い。成績はまずまずだけど内向的なのが残念。安徽省の実家は出身が悪くて、出身って分かるかな?」「出身階級のことだよね」「そう、家は地主だったので革命後に父親たちは随分苦労をした。だからついつい私も教育に熱くなってしまう。」と餃子作りの手は休めずポツリポツリと語ってくれました。


       酒も煙草もやらず、朝の7時半から夜まで働く譚さんは研究熱心でもあります。パソコンなどで日本の園芸情報を仕入れては門外漢相手に相談してきます。或る年末に門松作りを頼んだら、実に見事な仕上がりで、オフィスの入り口に春節明けまで飾りました。植木鋏も日本製に限るとの所望で各タイプを届けました。次は何かと思ったら「腰に巻くホルダー」とのこと。帰国時に東急ハンズなどで探しました。最終的に旅先の長野駅前で、無印良品の店員が腰に巻き小道具を挿しているのを見つけ、これだ!と、倉庫から同じ品を取り出して貰いました。


       ただ努力と結果が必ずしも伴わないのはどの商売でも同じです。「日本人が花束をどっさり買いこんでカラオケに通った時代は戻らないのか?」と恨めしそうに呟いてから「二次会が苦手な自炊派のお前さんには没有関係だった」と笑ったのも数年前。最近は「贅沢禁止のお達しのせいか大口納品が激減した」と嘆く反面、店の造りを個人客用に切り替える工夫を始めました。


       駐在員には会社は有っても社会が無い、と以前の北京や青島での生活で残念に思っていました。今回の上海では社会との繋がりを感じる生活のゆとりが出来たかもしれません。春節が近いことでもあり、次の休みには譚家の安徽省風味の餃子を食べさせて貰いましょう。(了)


    2015.01.16

    杉原千畝と上海 【上海の街角で 井上邦久】vol2 (読む時間:約3分半)

    • 戦前日本人が多く居た虹口地区に、ユダヤ人が集中して住む一角がありました。上海人が敬遠する提籃橋監獄から舟山路にかけてのブロックにユダヤ人が居住した痕跡が残り、シナゴーグ(ユダヤ教会)が記念館となり、小さな公園には日本軍占領下の収容所跡の記念碑があります。その二つのランドマークの間にはオーストリア風建築の住居があり、現在は上海人の集合住宅になっています。スカイラインを揃えた煉瓦作りの「高層建築」は欧州の香りを今に感じさせます。この街の人波のなかに、東洋人離れした顔立ちの長身を見かけることがありますが、少々先入観が勝ち過ぎかなと思ったりもします。


       上海の中心部、外灘と南京東路の角にそびえる和平飯店(Peace Hotel)は1971年に初訪中した時にも泊りましたが、当時の外国人向けに割り当てられた数少ないホテルでした。文革の波の中でも往年の重厚な雰囲気は保たれたままでした。そこは解放前、サッスーン家が遠東の拠点としたビルであり、ハートン家などと共にユダヤ系の繁栄を象徴するところであったようです。カイロ、カルカッタなどから上海に拠点を拡張したユダヤ人は20世紀初頭には800~1,000人。1930年代には5,000人の富裕勢力として、多くの文化事業や教育事業も行う余力を有し、不動産事業の中核に成長していたと、『The Jews in Shanghai(猶太人在上海)』潘光主編(上海画報出版社)などの書物に記録されています。


      1930年代の末に、ナチスのユダヤ排除政策、列国の意図的な無関心方針で行き場を無くした欧州のユダヤ人が究極の選択をしたのが、当時世界唯一の自由港であった上海でした。南回りの欧州航路で避難したグループと、シベリア鉄道で日本海に出て上海に向かったグループの合計は、ほぼ3万人(その内,5,000人は上海経由ですぐに他国に移動)とされています。
      その過程で、ユダヤ人に通過ビザを発給した杉原千畝(日本国在リトアニア/カウナス領事館領事)、そして何鳳山(中華民国在オーストリア/ウィーン総領事)への恩義を大として、記念館では大きな写真付きで顕彰しています。上述の書物などにも杉原氏の功績について記述されており、日本軍政下の収容所責任者であった合屋氏(ユダヤの王と自称していた由)の貧相な写真付きの批判的掲示とは対照的です。
      先般、上海奈良県人会にお招き頂いた時にも、現下の中国で顕彰される数少ない日本人としての杉原千畝に、上海在住の我々は眼を向けていきましょうとお伝えしました。


       杉原千畝に関しては、昨年そのintelligence(「諜報」という訳の語感に馴染めませんが)の要素にライトを当てる研究書(『諜報の天才・杉原千畝』白石仁章 新潮選書)が出版され、日本人が外交音痴であるといった一般的な風潮に一石を投じる好例として取り上げられています。
      一昨年の秋に、顔なじみになっていた記念館のボランティア女子大生から戦後の杉原氏について尋ねられ、外務省を辞したあとソ連貿易名門の川上貿易を経て、蝶理という商社で働いたことを伝えました。ところがその後、駐在仲間の方から「記念館の案内人が、戦後になって杉原氏は処刑されたと言うので訂正しておいた」と連絡を貰いました。
      これは一大事なので、歴史を学ばないと中国人から言われる日本人が、僭越ながら中国人に歴史を学んで頂こうと、2008年に発行された『蝶理㈱設立60周年記念誌』をユダヤ記念館に持参し贈呈しました。この記念誌の70ページには、編纂責任者であった柳瀬役員自らが杉原千畝記念館(岐阜県加茂郡八百津町)まで取材した文章が掲載されています。モスクワ事務所長辞令(1969年12月付け命課通報)の写真も付されていますので、第一級かどうかは別にして、歴史資料に値するのではないでしょうか。


      杉原氏についても、上海のユダヤ人に関することについても知らない事、分からない事が多くあります。当時の満州国を通過できた背景? 関東軍の思惑「フグ作戦」? ユダヤ人富裕層と避難民の扶助関係?などの諸点はともかくとして、先ずは当時の上海人からのユダヤ人や日本人への視点について調べ続けたいと思います。気楽なお喋りの対象にするテーマではないのでコツコツと学びたいと思います。


    2014.12.15

    朱實先生と瞿麦さん 【上海の街角で 井上邦久】vol1 (読む時間:約2分半)

    • 司馬遼太郎「街道をゆく」シリーズの25巻目『中国・閩のみち』は1984年8月から12月に週刊朝日に連載されました。単行本や何度か装丁を変えた朝日文庫により読者を拡げ続けているようです。
      閩の国、福建省へ陳舜臣らの友人と訪れた司馬氏は、旅の初めに上海虹橋空港に到着しました。一行は空港近くの龍柏飯店に投宿、町見物をせずホテルに残った司馬氏と案内役の瞿麦さんとの味わい深い会話が冒頭にさらりと描かれています。1975年以来の親しい付き合いの二人の会話は瞿麦さんの「呼吸をするように話す」と描写された上等な日本語で成り立っています。そして瞿麦さんから「人民解放軍」という言葉の福建語読みは北京語発音より、日本語の音読みにずっと近いということを教わり、更には瞿麦さんから「本来は福建人です」という言葉を引き出しています。


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      1980年代の北京、日本企業のオアシス的存在であった新僑飯店に当社もサロンと言えば聞こえは良いのですが、実際は出張者の溜まり場のような部屋がありました。その一角の本棚から抜き出した単行本で「閩のみち」を読んだ記憶があります。内容のあらかたは忘れましたが龍柏飯店での瞿麦さんとのエピソードは印象に残り続けていました。


      上海短歌会へのお誘いを受けて何度か末席を汚しています。その会の中心的存在の朱實先生をご存知の方は多いことと思います。日中国交正常化交渉の折に田中角栄首相と周恩来首相の通訳を果たし、その後多くの日本語人材を育てたことは良く知られています。ただ戦中戦後の台湾で文学結社「銀鈴会」の中心メンバーとして活躍されていたことはあまり語られていません。


      その朱實先生からの電話でお誘いがあり、10月12日、先生から指定された康定路のポルトガル料理屋でお会いすることができました。社宅近くの長年懇意にしている小譚花店で花束を包んでもらおうとしたら、偉い先生を訪ねるならと譚老板は立派な胡蝶蘭の鉢を持たせてくれました。朱實先生は9月30日の誕生日の祝いとして蘭の花をとても愛でてくれました。事前に台湾文学、文学史を研究している友人や後輩から教わった参考資料の中に、前述の『閩のみち』が挙げられていました。それで、先生には幾つかのペンネームや号があるでしょうが、一番のお好みは?と訊ねると「瞿麦です」、と即答されました。朱實先生と瞿麦さんが重なった瞬間、感動が走りました。先生が好まれる瞿秋白の「瞿」と台湾で参加されていた「麦浪会」合唱団の「麦」を繋いだ思い入れの深いお名前でありました。台湾での青春、1949年台湾からの命懸けの脱出、そして同年9月30日の天津上陸直後の英雄としての扱いまでを熱く語られ、それから1972年の日本との国交正常化交渉への参画までの日々についてはさらりと話されました。次回は共通の研究テーマである瞿秋白について、ポートワインを傾けながらお聴きしたいと思っています。上海の街で、歴史の経糸と横糸が交差するなか、人を敬うことを信条として明るく生きて来られた先生との贅沢な巡り合いに感謝しています。


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    2014.08.04
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