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コラム「蘇州たより」

写真で見る「青島に残る日本の残影」 【青島たより 工藤和直】Vol.74 (読む時間:約2分半)

    • 青島は、当時漁村に過ぎなかった青島村に1897年(明治30年)11月14日、突然ドイツ海軍陸戦隊が上陸占領したことから始まる。青島の歴史は今年で120年になる。青島市の中心にある中山路から北に行くと、日本企業が設立拡張した館陶路金融街(横浜正金銀行や朝鮮銀行、三菱商事や三井物産)がある。現在も金融の中心地であるが、当時から金融センターの役目を持っていた事が理解できる。ただ、今はドイツ風情街と命名され観光化されている事に多少違和感がある。中山路には日本映画を興行していた国際劇場が現存する。


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      ドイツ総監府周辺(太平路の日本総領事館跡)から江蘇路、熱河路から北に貯水山の青島神社跡周辺は、日本人が多く住んだ街であった。青島神社跡は児童公園として整備され、本殿跡は青島電視台となっているが、石段などはそのままである。西本願寺跡は、今では無棣四路小学校となっている。内地への手紙は青島郵便局大和町支店から送ったのであろう。桟橋バス停の対面は青島日報社となっているが、かつては中央飯店(1904年竣工)であった。青島路を越えた所に日本総領事館(徳華銀行)があり、同じ敷地内に膠済鉄道の敷設工事や炭鉱開発を進めた山東鉄路鉱路公司建屋が現存する。


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      日本軍関係施設は、それまであったドイツ建屋を借り受けた(略奪した)形でスタートした。しかし、どの施設にも日本軍が関与した説明書きは見当たらない。今では、憲兵分隊は青島市公安局、憲兵隊総部は宗鑫博物館になっている。その他陸軍倶楽部跡地は青島工人劇場、青島病院の対面の陸軍病院建屋も公安局となっている。


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      日本人学校は、ドイツが建設した学校を横滑りに学校として使ったことからスタートした。その後、青島中学を含め1917年頃から新校舎ができて来た。どの学校も、創立100周年になる。青島で生まれた日本人は、廣瀬小児科に行くことが多かった(第一小学校の北)。ドイツ総監府徳県路に個人医院(若槻病院)があるが、表札には私人宅としか表示されてない。青島病院は1904年完成した総督府野戦病院からスタートしている。2017年6月にはまだ改装中であった。普済病院は膠州路に面して今も現存するが、1919年に華人用として建てられた病院であった。


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      1912年(大正元年)には、ドイツはルンプラー型軍用飛行機を1機配備していた。この飛行機がドイツ総監府付近を撮影したのが下記の俯瞰写真である。当時の航空写真技術には驚きを隠しえない。現在その写真に見える建物を地上から撮影し併記して見た。多くは外装が補修されてはいるが、骨格は100年前と同じであることに気付く。手前左に隠れてプリンス・ハインリッヒホテル(1)があり、右手に日本総領事館(当時は徳華銀行)(3)が見える。青島路を左右に分断する広西路にドイツ郵便局や官公庁が立ち並ぶ。総監府から右手斜めに領事館街と呼ばれた沂水路があり、青島病院(総督府野戦病院)(11)に繋がる。


      参考文献:青島と山東半島(旅行人ブックス)


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    2017.07.06

    斉の国都「臨淄」を巡る 【青島たより 工藤和直】Vol.73 (読む時間:約6分)

    • 山東省「臨淄」は春秋周時代に斉都が置かれた地、現在は淄博(Zi Bo)市臨淄区になる。周の初めに太公望呂尚が封ぜられ、「営邱」といわれた。その後、紀元前859年に斉の献公がここに都を定め臨淄(Lin Zi)と名づけた。春秋時代には桓公が覇者となり、戦国時代には田氏一族が七雄の一国として、ここを中心に活躍、華北第一の都市として特に文芸の中心として栄えた。『史記』によると、春秋中期にはすでに4万2千戸の都会となり、戦国時代には7万戸(推定35万人)、男子21万人で街は肩と肩が触れ合うほどの賑わいと記録されている。


      春秋戦国時代、農業や手工業の発展によって、経済の規模が点から面に広がり、あわせて貨幣経済の促進で国境を越えた広範囲な市場の発展を促した。当時、周の洛陽、斉の臨淄、趙の邯譚、魏の大梁(開封)、楚の郢(荊州)などは1万戸を越える大都市であった。その後紀元前284年には燕など5国に攻められて衰え、紀元前221年には秦によって滅ぼされた。秦は紀元前230年に東隣の韓をまず滅ぼし、翌々年に趙、紀元前225年には先進国の魏を滅ぼした。魏国は当時一番の文明国であったが、国政が衰えたところを攻められ滅んだ。その後、南方の楚を前223年に滅ぼし広大な地域を手に入れた。残るは北方の燕国と東方の斉国であった。紀元前222年に燕を滅ぼし、その帰路に斉を急襲して一気に滅ぼした。斉の弱点は、今まで隣国でなかった秦に油断したことだった。ここで秦の統一が完成するのである。


      臨淄斉国故城は淄博市臨淄区の西部から北部にまたがり、東は淄河、西は系水に臨み、南に牛山と稷山がたたずみ、押し並べて平原である。『史記』によると、紀元前9世紀半ば、斉の献公が薄姑(現・博興県)から当地に遷都、春秋戦国時代から紀元前221年に秦に亡ぼされるまで630年余りにわたり姜斉と田斉の国都として東方の重要な政治・経済・文化の中心地となり、当時、最も繁栄した都市のひとつであった。斉の故城は大小両城からなり、大城は旧淄博県城北方に広がる4km長の不整長方形で城門が6ヶ所あり、城門跡・製銅・製鉄・鋳銭・骨器製造遺址が多数発見されている。また、墓地が2つと大規模な殉馬坑(写真)が発見されている。小城(東西1.4kmX南北1.2km)は大城の西南部に位置し長方形の宮殿区となっており、城門は5ヶ所あった。その西北部に桓公台という高さ20mほどの高台があり、斉の桓公が諸侯と会見したり兵馬を検閲したりしたところと伝える(写真)。小城の東には隣接する隋代の城壁があったが、周囲2キロメートルにすぎない。この斉国故城をより細かく説明すると、約4km四方の外郭をもつ外城に、南北2.2km×東西1.7kmの内城が南西角に食い込んだ形状で、大城は淄河に沿う東壁が5,209m、南壁と西壁が2,821m、北壁が3,316m、西壁幅32~43m、周囲14.16km。小城は東壁2,195m、西壁が2,274m、南・北壁は1,404m、周囲7.28Kmである。大城は役人・平民・商人が住む郭城、小城は君主の住む宮城で、二城はあわせて面積15.5平方キロ程度である。ほぼ蘇州城と同じである。城門は13座(二城をつなぐ2座を含む)あり、城内には大道が縦横に走り、多くが城門に通じる。現在究明した主要交通幹線は十条、小城に三条、大城内に七条あったと推定される。また、故城遺跡・殉馬坑・斉墓・桓公台など十数ヶ所の文化財名所がある。


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      斉国故城垣遺跡は、小城と大城が重なる付近に現存している。それは石垣を積み上げたものでなく、土を押し固めて積み上げる版築方式である。これは浙江省杭州北にある良諸遺跡や商(殷)、周時代の故城で見られる構造と同じである。この城垣遺跡から斉恒路(村道45号)を北に歩くと、すぐに晏嬰墓が右手にある。更に約2.0km歩くと排水道口に至る。写真は外城側と内城側から見たもので、その距離20mから城壁の幅が推定できる。


      田氏は紀元前386年、康公を幽閉して国を奪ったが、周王より諸侯として承認された。威王とその子宣王(紀元前319~301)の時に強大となった。都の臨淄は戦国時代中国最大の都市として繁栄、小城の西門にあたる稷門(Ji men)付近に多数の学者が集まり(写真)、時には数千の学士が学問上の論争を行ったという(稷下の学)。その中には「孟子」も居たが、史記の記録によると「用うるにあたわず」と冷たい表現が残っている。「東京大学稷門賞」は大学の発展に大きく貢献した個人・法人又は団体に対し授与するもので、平成14年度より毎年行われているが、その命名はここにある。


      故城は1926年に日本人が調査したという。中華人民共和国が創立した後に、山東省文物管理所が何度か調査し、1958年山東省文物幹部訓練班が遺跡を発掘・掘削、1964~1966年山東省文物管理所と北京大学が遺跡を全面的に掘削し、1971~1976年山東省文物管理所が再発掘した経緯がある。1961年に中華人民共和国国務院により全国重点文物保護単位に公布された。現在、全ての城壁は地上に存在せず、城内外とも麦畑が広がる長閑な田畑であるが、ここが当時世界1、2を争う大都会だったとは想像もできない。


      淄河と係水は東西の自然の河である。大城内に幅2.3m・深さ3mの幹線下水道があり、4つの排水路となっている。その排水路は城内から淄河と係水に連結させ、城は水に囲まれ実にうまく完備した排水網となっている(写真)。あたかも蘇州城内の3横4直の運河に似ている。


      城内に幹線道路が発見され、小城内に3条、大城内は7条があった。小城内の幹線道路をあげると、東門大道は約1,200m×幅8m。西門大道は長さ約650m×幅17m。北門大道は1,430m×幅6~8m。大城内の幹線道路は東西幹線道路、全長3,300m×幅20m。中部の南北幹線道路は全長4,400m×幅20m。北部の幹線道路は東門から西壁まで、長さ約3,600m×幅15mぐらい。北壁の西門大道は南・北部に650mが現存し、幅6メートルあまり。中部幹線道路は長さ2,500m×幅17m程度であった。大城の二つの南北の大通りと東西交差を形成する「井」の字付近は都の中で最もにぎやかな市井であったというが、今歩くとまさに農道でしかなく、ここが大道であったかと想像もつかない。


      臨淄は当時中国五大工商業都市の一つであったため、遺跡から東周から秦漢時期の手工業の遺物、東周・秦漢時代の銅銭の鋳型が多く発見され、当時の貨幣鋳造業が発展した証拠を見ることができる。写真は有名な春秋時代「斉」の刀銭(小城で鋳造)であるが、その後、西の秦が強大になるにつれて、秦で使われた環銭と同じ円孔円銭や方孔円銭が使われた(写真)。形状こそ違うが、字体に共通性がある。筆者は蘇州で斉の古銭(円銭)を収集したが、これがこの臨淄で造られ、はるか1,000kmの距離をどうやって来たのかと思うと感激に値する。前漢の後にあった新「王莽」時期に復古ゆかしい布銭銅銭が使われ、その鋳型が発見されている(写真)。この臨淄の街は、五胡十六国時代(西暦304~439)頃に衰えていったという。


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      この臨淄に行くには、山東省都済南市から高速鉄道で1時間、駅前右の張店天主堂前の三院バス停があるが、ここから辛店行き20番に乗る。臨淄駅前が辛店(この地域の昔の名)になる。ここから52番バスで臨淄城内へと向かう。高速道路を過ぎてすぐに南門入口(石碑のみ)に着く。斉都鎮を過ぎるとすぐに斉国故城遺跡博物館(現在は閉館し、太公湖の斉国文化博物館に移設)が見えて来る。


      参考文献:中国の歴史散歩1(山川出版社)


    2017.06.21

    山東省淄博市「淄川神社」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.72 (読む時間:約2分半)

    • 山東省淄博市は、解放前に「張店」と呼ばれていた。張店停車場(1903年建設:現在は淄博站)は淄川炭鉱・博山への鉄道支線分岐点として、膠済線では最重要の停車場であって最大の操車場を有していた。そのような土地柄から、張店には張店病院、妙心寺、屠獣場があり、中華人向け小学校を併設しているドイツ系の張店天主教堂(駅の右手に現存)もあった。張店駅の近辺は、道路も建物も全て日本式で、済南・坊子に次いで日本人が多い町であった。中華人の人口は200人前後で戸数は50戸ばかりだが、日本人の人口は664人、戸数は144戸であった。


      日本人は各種の営業を営んでおり、湯屋、洗濯屋、質屋、古物商、洋服屋、呉服屋、時計屋、運送屋、医師、女髪結、遊技業と広範に及んでいる。貿易商14店、雑貨商6店もあった。博愛街には張店神社(1919年11月22日創建)があった。斉都「臨淄」の南にある臨淄駅は当時辛店站といわれ貨物駅(1904年建設)であったが、その前は張夏站と呼ばれていた。張店駅は、北に行けば鉄山、南に行けば黄山炭坑(淄川炭坑)・博山炭坑への中継駅として山東省における採鉱集積上最も重要かつ最大の駅であった。


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      張店には、更に飲食店が3軒、料理店が8軒、宿屋が3軒あり、これに応じて芸妓3人、酌婦14人、仲居1名がいたようだ。鉄道中継駅として、金嶺鎮鉄鉱、博山炭鉱、淄川炭鉱など、この付近に広く在住する日本人を相手とする商売が繁盛していたのであろうか。張店尋常小学校が新設されているが、児童数、学級数等についての詳細な記述はない。淄博駅周辺の学校で戦前からあるのは、天主教堂の対面(淄博市第三医院)右の第五中学くらいだと聞いたが、ここが張店尋常小学校跡かどうかは断定できなかった。また、この第三医院も張店病院跡ではないだろうか。


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      淄博駅から南に20kmほど行くと淄川(Zi Chuan)区がある。駅から公共バスで5分、公交東站バスターミナルがあり、ここから多方面にバスが運行されている。103番のバスに乗ること40分、洪山路バス停で降りて南に歩いて10分ほど行くと西山公園が見えてくる。ここを過ぎて淄鉱影刷院の南西150mの所に、淄川神社本殿が現存している(淄川区洪山鎮淄砿路133)。1940年(昭和15年)創建の東向き鉄筋コンクリート製である。これが幸いしたのか、中国大陸で現存している本殿は南京市五台山の南京神社と合わせて2ヶ所でないかと想定される。台湾除く中国大陸に約350ヶ所近い日本の神社が建てられたが、本殿が現存している事に驚きを感じ得ない。本殿の屋根や欄干、破風、手挟のコンクリートが剥がれ、内部天井も落下の危険性もあるので「立入禁止」となっている。早急なる補強工事の必要性を感じた。また、本殿正面から東70mほどに鳥居の足を置く花崗岩でできた亀腹がひとつ(鳥居の右足部の基礎石)残っていた。本殿前の鳥居は1960年頃に切除されたとのことであった。


      西山公園の緩やかな坂を登って行くと、同じく鉄筋コンクリート製の納骨堂がある。更に山の頂には炮楼と呼ばれる花崗岩でできた日本陸軍が造ったドームがあった。山の頂上であり、軍事的な意味合いのある監視塔であったのだろうか。淄川は炭鉱の町である。戦前もまた同じく炭鉱で栄え、多くの日本人が住んでいた。


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      参考文献:青島物語19話
      神奈川大学「海外神社に関するデータベース」


    2017.06.06

    済南日本領事館跡と済南神社跡を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.71 (読む時間:約6分半)

    • 済南は山東省都で膠済鉄道(青島⇔済南)と津浦鉄道(天津⇔上海)が交わる交通の要衝である。済南市の歴史は長く、黄河文明龍山文化の発祥の地と言われ、域内で多数の新石器時代の遺跡が発掘されている(城子崖遺跡など)。舜王の治世時代(紀元前22世紀ごろ)から既に豊かな土地柄であった。こうした古代の記憶は、舜王にちなんだ地名にしっかりと刻み込まれている(舜井、舜耕路、舜華路、舜耕山など)。商(殷)王朝の時代、現在の済南市章丘市平陵城を本拠地として、譚国が建国された。ちょうど、現在の龍山街道事務局が設置されている場所がその王都跡(城子崖龍山文化遺跡)である。


      西周が建国されると、各地へ国王が封じられ、分封制による間接統治体制が採用された。済南市エリアは斉国の版図下に組み込まれるも、東夷部族の一派であった譚国は、その半属国として引き続き存続した。春秋戦国時代を通じて、封建社会へと大規模な社会構造の変革が進められる。済南市一帯は引き続き、斉国の領土下にあって、濼邑(今の済南市中心部)と呼ばれ、その後に濼邑城は歴下邑城と改称される。


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      春秋戦国時代に幾度も繰り広げられた斉国と晋国との戦争は、主に現在の済南市の南部にある馬鞍山の一帯で行われた。以後、斉国は国防を重視し、 斉の長城を築城することとなる。秦の始皇帝により中原が統一されると、全国に郡県制が導入された。前漢代の初期から歴下邑の一帯は済南と通称されるようになる。かつての古代四大河川(長江、黄河、淮水、済水)の一つである済水(その河川は現存せず、今の黄河の湖底に眠る)の南側に位置したことから、済南と命名された。黄河は東周の都「洛邑」から大梁(開封)を過ぎた辺りより南から済水、漯水、河水の3本に分かれ東北方向の渤海に流れ込む。前漢の時代の大洪水によって済水は現在の黄河の流れになってしまった。細かく言うと、済南市から天津市の間には9本の河があるが、黄河は常に氾濫し、その川筋はその度に変わったというのが正しい表現となろう。春秋時代、黄河は一番北西寄りの天津辺りを河口とし、かつての済水は河南省済源市西北2kmを源流とした。前漢時代、済南郡が新設され済南郡の郡役所は東平陵県城(今の済南市章丘市平陵城)となった。東平陵県城は、古代商王朝の時代に端を発する譚国の王都から続く都市で、すでに一帯の中心拠点として確固たる地域を築いていた。


      清朝も末期に至ると、帝国列強による植民地化が進み、ついに1904年、済南府も開港させられ、 済南は急速に経済発展が進んだ。1911年末には津浦鉄道の黄河大橋が完成し、済南府は南北交通ルートの重要拠点となる。翌1912年に中華民国が成立し、全国的に府制から道制へ改編が進むと、済南府は当初、岱北道に帰属されるも、1914年には済南道と改称された。1928年5月3日、日本軍と国民党軍との間で済南事件が勃発する。日本軍は、蒋介石率いる国民革命軍が張作霖への北伐再開を牽制する為、居留民保護を名目にして出兵(第二次山東出兵)した。1928年(昭和3年)5月3日に済南で市街戦が起こり、8日には日中全面衝突へと発展した。日本軍は多数の中国人を殺傷し、中国国民の対日感情を極度に悪化させることとなった(済南事件)。更にこれに乗じて増派した兵力を山東省から華北全域に展開(第三次山東出兵)させたが、内外の批判を受け翌年には撤兵することとなった。攻城戦の際、日本軍は南門城壁に向けて激しい砲撃を加えた(下写真)。今日でも、この日を記念して、市内では空襲警報のサイレンが鳴らされている。


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      済南市槐蔭区経三路238号に日本領事館跡がある。済南事件を目の当たりに見た歴史の証人である。済南駅前の経一路を西方向に行き、緯六路から南方向に行き、経三路で右折したすぐ左である。第一次世界大戦終了後に青島の租借権をそのまま引継いた直後の1918年に建設された(左写真)。その後1928年5月の済南事件で焼かれ、1939年に再建された(右写真)。経三路から入った正面には、事務棟として使われた2号楼や山東鉄路の建屋がある。入って左にある二階建ての建屋が領事館の建屋である。正面は大きなプラタナスで覆われている。南面に庭がある。その向こうはタイル張りの噴水があった。領事館時代はここでガーデンパーティーが開かれたかもしれない。更に南方向へ行くと現在は営業をしていない済南飯店がある。解放後、毛沢東をはじめ、劉少奇、宋慶齢など多くの共産党幹部がここに泊まったという。 


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      またこの付近は済南駅前に広がった旧市街地に辺り、古い建物がいくつも見える。教会や郵便局、日本軍駐在司令部(経二路162号)などもあった。経二路276号は緯五路と交差する東南角で現在公安局交通警察支隊となっているが、ここは日本の高島屋百貨店(済南出張店)の跡である。高島屋の海外進出は、1899年(明治32年)フランスリヨンに始まり、中国では1905年(明治38年)に天津事務所、1938年の南京出張店に次いで1941年に済南出張店が開業した。高島屋のHPなど見ると、現在上海地下鉄10号線伊梨路にある店舗を中国一号店と宣伝しているが、戦前中国に進出したことは書かれていない。確かに官需受注による軍の命令下であったかも知れないが、この建物の写真「高島屋」は消せない歴史である。


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      済南神社は市の郊外にある梁家庄(現・英雄山)に創建された。詳細な資料写真は発見できていないが、英雄山路18号済南戦役記念館西門が当時の参道入口で、ここから東にやや登りかけた所にある記念館が本殿跡地になる。1939年(昭和14年)に建設開始され、残された石灯寵等に刻まれた年号から1942年 (昭和17年)7月頃にはかなり完成したが、一時建設が中断され1944年(昭和19年)に再開したが、翌昭和20年終戦で未完のままに終わった。境内地は済南革命烈士陵園となっている。神社の本殿があったと思われる場所には、国共内戦における共産党の勝利を記念した済南戦役記念館が建っている。神社の鳥居、灯龍、石碑などに使用された石材が公園のー画にまとめて置かれていた。鳥居の石柱と思われる二本が無造作に置かれ、その大きさ(約9m)からそれ相等に大きな鳥居であったと予想がつく。石灯籠の残骸から寄贈した人物の氏名が確認できる(残念ながら一部消されかけているが)。一つは、茨城県筑波町「廣瀬森次」であり、もう一つは岡山県「安原順吾」・長野県「山崎武源太」と読めそうである。いずれも昭和17年(1942年)の刻印があった。まるで「兵どもの夢の跡」の墓標である。


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      済南東駅の前に広がる大明湖は、済南城内北半分を占める。現在堀に囲まれた跡に内城があった。済南城城壁は北宋徽宗年間(西暦1101年~1125年)にかけて土城として築城され、明代初期1391年に土城からレンガ積みの周囲12里48丈(約6.1km)、高さ3丈2尺(9.6m)、幅5丈(15m)のほぼ四角状の城壁がある。南門(舜田門もしくは歴山門)は中央にあるが、西門(濼源門)は南寄り、北門(会波門)は東寄り、東門(斉川門)は北寄りとちょっとおかしな位置で、東北と南西に偏った城門構えであった。北門は大明湖の水を排出するために水門(水陸門)になっている。この門だけでは非常に不便でもあったのか、それぞれの門の右手に、便利門があった。四方八卦の思想から、南には巽利門、西には坤順門、北には乾健門、東には艮吉門である。清代中期になると、防御の意味で内城を取巻く外城が作られた。南は経十路、西は緯十二路、北は膠済鉄道、東は歴山路に囲まれた約16km2にわたる地域である。その外城には7つの城門が作られた。東に永靖門、東南に永固門、南に岱安門(圩子門)、東南に永綏門、西北に済安門、東北に海宴門である。その後民国時代に門が4つ増設され、最終的には19の城門があったという。しかし、中華人民共和国成立の翌年1950年に他の都市と同じく城門城壁は切除された。


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      参考文献:中国・華北の神社跡地(稲宮康人)


    2017.05.29

    鄭州「商(殷)代遺跡」と「日本領事館跡」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.70 (読む時間:約3分)

    • 中国では、西安(かつての長安)・北京・南京・洛陽の四つの歴史的な首都を「四大古都」と呼ぶ慣わしがあった。ところが、歴史学者らの主張によって1920年代に開封(北宋の都)、1930年代には杭州(かつての南宋の都、臨安)がこれに加えられて、「六大古都」の呼称が生まれた。1988年、地理学者の譚其驤は商(殷)の都の跡である殷墟を評価してその所在地である安陽を追加するように提案した。また2004年、中国古都学会は、商(殷)の時代以降3600年の歴史を持つことから、河南省鄭州を追加した。その結果、今日では以上の8都市(西安・北京・南京・洛陽・開封・杭州・安陽・鄭州)を「八大古都」と呼称している。


      鄭州市にある二里岡遺跡は1951年に発見された。商(殷)王朝の初期の中心地と考えられており、商(殷)後期の甲骨文占卜に記された建国者天乙(湯王)の亳という都市になる。二里岡文化は商王朝の初期段階ととらえている。一方、欧米の考古学者らは、安陽市で発見された商(殷)後期の殷墟とは異なり、二里岡からほとんど文字資料が出土していないため、二里岡を商王朝初期と結びつけることに慎重である。二里岡遺跡のほとんどは現代の鄭州市街の下にあるため発掘が困難である。湯王は当初都を亳(現在の商丘)としたが、あとに鄭州に遷都した。紀元前1600頃なので、3600年も前である。この時に都名を前の亳とし、前の亳を「南亳」と改名した。


      商代遺跡は周囲約7kmの城壁に囲まれた都城で、三重構造であった。現存の内城は北東部がややつぶれた長方形であり、下図のように北壁1690m、西壁1700m、南壁1870m、東壁1740mである。東と南壁がかなり完全に保存されており、東壁部を見ると高さは5m、幅は10~17mとばらつきがある。城壁上部は散歩も可能である。南東部には高さ10m以上の土壁がある。外城は円形で内城から0.5~1.5km離れている。この城郭スタイルは奉天(瀋陽)城でも見られ、「天円地方」の世界観に結びつく。内城の東北部に宮城がある三重構造だ。東大街が東部城壁を交わる公園に、商代亳都都城遺跡の石碑があった。城壁の外に骨器や陶器を作る大きな工房群が位置していた。工房の中には、二つの青銅器工房も含まれ、大型青銅器が発掘された。商代遺跡は商当初紀元前1600年~1400年頃の湯王の都城とされ、二里岡文化と重なる。鄭州市中央には3600年前の世界最大の古代都市が埋まっているのだ。


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      3600年前の城壁を見た後に鄭州駅に向い、途中80年前に建設された「鄭州日本領事館跡」を訪問した。鄭州駅から東南700m程である。駅前の福寿街から敦睦路を南に下り、東西馬路の交差点を左折する。交差点の周囲は商業ビルが乱立している。東馬路もほとんど市場の中にある。ここは、戦前に中国内で最後に建設された日本領事館であった。1929年からの中国政府との交渉の結果、1931年2月に漢口(武漢)総領事館の管轄のもと、駅前の福寿街109号に初代領事「田中庄太郎」が開設したが、9月18日の満州事変により領事館を一時停止、その後1935年秋に再度漢口から派遣された領事館員によって設立準備、1936年1月に現在の東馬路80号に正式開館したものである。しかし、1937年7月に起こった盧溝橋事件のため8月9日には一端閉館となり、領事館員他が鄭州を去った。一年半余りしか使われなかった日本領事館であった。日本人租界地でないこの中原の地に領事館を開館した背景は資料が乏しいので詳細不明であるが、明らかに中国大陸内部への進行を意図したものであろう。領事館前はいつも買い物客で混雑している。玄関右横に石碑(領事館跡)があり、裏にはもうひとつ領事館付属の建屋があった。3600年を1mとしたら、80年間はわずか2cmになる。


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      戦前、中国大陸に日本領事館が関東州含む旧満州に18ヵ所、その他に張家口・天津・青島・煙台・済南・上海・蘇州・杭州・南京・蕪湖・九江・宣昌・漢口(武漢)・沙市(荊州)・重慶・福州・厦門・汕頭・広州・徐州、そして鄭州と21ヵ所あった。


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      参考文献:旧満州に15ヵ所あった日本国領事館 【蘇州たより 工藤和直】Vol.41


    2017.04.26

    江沢民も訪れた濮陽市「戚城遺跡」 【青島たより 工藤和直】Vol.69 (読む時間:約3分半)

    • 河南省濮陽(Pu yang)市は、山東省都済南市から東南へ黄河を上ること250kmにある中堅都市である。街の中央にある戚城(Qi cheng)遺跡は古くは上古時代の五帝王「顓頊:せんぎょく」が住んでいた「帝丘」といわれ、春秋時代は「衛」の王都となった。戚城には7000年以上の歴史がり、顓頊の孫「禹」が夏王朝を開いた。衛(紀元前11世紀 ~紀元前209年)は、春秋時代から戦国時代にかけて河南省の一部を支配した春秋12諸侯のひとつ。12諸侯とは、魯・斉・晋・秦・楚・宋・衛・鄭・陳・蔡・曹・燕・呉をいう。衛の始祖は周の文王の九男の康叔である。康叔は周より衛君に封じられ、朝歌(紀元前11世紀~紀元前660)を都とした。


      懿公(いこう)は紀元前669年に即位してから鶴を好み、鶴を大夫の車に乗せ鶴に爵位を与えるなど淫楽奢侈な性格であったため、人民も大臣もみな服従しなかった。懿公9年(前660年)12月、北の異民族の翟(てき、狄)が衛を攻撃してきた。懿公は出兵しようとしたが、兵は従わず、大臣にいたっては「鶴が好きなら鶴に翟を撃たせたらよいでしょう」と言うありさまで、誰も懿公に従おうとはしなかった。懿公は少数の衛軍を率いて翟の軍勢と熒沢の地で戦ったが、懿公が旗を立て通したため集中射撃を浴びて戦死した。こうして衛は大敗、懿公は戦死後に人肉として翟人に食べられたという。鶴を愛するが故に身を滅ぼした懿公の愚行に対し、「懿公喜鶴」とか「懿公之鶴」という故事ができた。下らない物を重んじて大事を疎かにして身を滅ぼす行為のことをいう。


      国都は朝歌ののち紀元前660年に曹(滑県)、紀元前659~紀元前629年に楚丘(滑県の東)、紀元前629~紀元前241年に帝丘(濮陽)、紀元前241~紀元前209に野王(駐馬店市沁陽県)に遷都した。第8代頃侯の時、多くの財物を周王朝に献上したことから侯爵に叙された。第10代武公の時、周の幽王が犬戎に殺されると、兵を率いて犬戎討伐に駆けつけ、その功により周王室から公爵に叙された。その領土は狭いとはいえ、黄河流域の中原の中心地であり、先進地帯であった。しかし、それがため衛は周辺諸国との折衝に忙殺されることになる。紀元前660年には狄により滅ぼされたが、斉の桓公の助力により国を復活した。しかし、亡命時代の晋の文公を冷遇して他国へ去らせ、孔子を迎え入れた時にも同じく他国へ追いやるなど、優秀な人材が滞在してもすぐに出国してしまう状況であった。


      孔子は50歳(天命を知る頃)にして魯の大臣となったが、政局問題で53歳の時に弟子達を連れて諸国巡遊に出た。当時の平均寿命が50歳に満たない時に旅に出ると言う事は、今で言えば85歳の高齢者が車も新幹線もない旅をすることで、非常に過酷な巡遊だったと推測される。67歳で魯に戻るが、苦労の14年間であった。その旅は、魯(曲阜市)→衛(帝丘:濮陽市)→曹(陶丘:定陶県)→宋(商丘)→鄭(新鄭)→陳(宛丘:淮陽県)→蔡(上蔡)→楚(負函:信陽市)と彷徨するが、孔子を受け入れる国はなかった。衛に5年間、陳に4年間滞在したが、両国においては官位すら得られなかった。孔子の子弟に子路(孔門十哲のひとり)がいる。彼は衛の高官に引き立てられたが、王位争いの中で謀殺され、塩漬けにされて晒されたという。戚城の北に彼の墓がある。孔子60歳(耳従う頃)の時は、衛と陳を渡り歩いていた。70歳(則を越えずの頃)には魯で教育者として「春秋左氏伝」を編纂し、子路の惨殺の翌年に天寿を全うした。


      また、公族の一人であった商鞅は魏を経て秦に仕え活躍した。衛は戦国時代には韓・魏の半属国状態となり、紀元前240年には秦に事実上滅ぼされるものの、名目的には細々と続き、最終的には最後の君主・衛君角が秦の二世皇帝(胡亥)に廃されることで滅んだ(紀元前209年)。


      2008年7月の中国通信社の報道によると、この戚城遺跡は竜山文化遺跡(約4000年前)と重なり、発見された周囲1520m、南北405m、東西390mの城壁跡(高さ8.5m、幅15m)は、春秋時代の衛国の都城跡とほぼ同じで、春秋城壁は竜山城跡を基礎に建設されたものと推定された。五帝王「顓頊」が住んでいた可能性もある。中国5000年と真にいわれる時代が来るかもしれない。今後の発掘調査が楽しみである。


      戚城は春秋時代7度の会盟が行われた「諸侯会盟」の地として知られている。紀元前626年~紀元前531年の95年間の間に、周王朝は15回の会盟を行い、そのうち7度がここ濮陽戚城で行われた。その跡は「会盟台」として現存する(高さ4.6m、長さ20m×幅16m)。この地は春秋時代交通の要所であったということだ。戚城城壁は周囲1500m程度で、そのうち北と東の城壁がほぼ完全に残されている。下記写真のように、朝の散歩に城壁を一周することで7000年前の裴李崗文化・仰韶文化・竜山文化そして商(殷)・周・漢の文化を一望に散策できるのを特徴とする。1991年2月5日、江沢民総書記が濮陽で発見された油田を視察した際に戚城遺跡も見学、「春秋時代の連合国」と称した。


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      戚城遺跡は、濮陽駅から北へ1kmほど行った石化東路×古城路に囲まれた場所にあり、正門は国道212号線側にある。正門から入ると約100mで龍に乗った「顓頊」の石造がある。その奥から約400m四方の戚城城壁が見えて来る。城壁は版築工法で作られたもので、4000年以上経過しているが、保存状態は良好である。一部は金網フェンスなので保護されているが、大半は城壁の上を散歩可能である。一周しても1500m程度、約30分でほぼ戚城に内部を探索できるほど小さい。至る所に埋蔵物の調査が行われた痕跡があり、南門付近には江沢民が来た石碑が建立されている。さすがに鶴は居ないが、ちょうど春の陽気で白梅や紅梅が満開であった。


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    2017.04.03

    時間が止まった「濰坊市坊子」日本人居留地 【青島たより 工藤和直】Vol.68 (読む時間:約3分半)

    • ドイツは清国と「膠噢借条約」を締結した翌年の1899年に、青島から済南までの膠済鉄道の起工式を行った。膠済鉄道の敷設工事は、民間会社である山東鉄道株式会社が5,400万マルク(現在価格で1600億円)を投入して行われ、青島⇔済南間430キロメートルの本線工事、張店(淄博)⇔博山40キロメートルの支線工事を1904年に完工した。この鉄道敷設に従事した中国人労働者は1日に2万人から2万5千人と、まさに中国人民の血と汗による大突貫工事であった。1901年に青島から坊子まで、更に1902年には張店(淄博)と博山までの支線敷設が進んだ。1904年には青島⇔済南間の全線敷設が完工し、青島駅舎も建設されて盛大な開通式が挙行された。


      膠済線は青島を出ると、膠州・高密を過ぎ、やや遠回りするように坊子に左折し濰県(濰坊)に向かう。遠回りする理由は石炭の採掘に関係があった。坊子駅から南西1kmの坊子炭鉱で採掘された石炭は、積み出し駅として坊子駅に持ち込まれた。坊子駅は膠済線で最も重要な駅の一つであった。現在も構内には到る所に石炭の山(ぼた山)が取り残され、石炭の臭いがする。また構内には広大な操車場があった。下記写真は今も残るその跡地である。


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      坊子炭坑はドイツが山東省で最初に採掘を開始した石炭鉱山であった。1902年、この炭鉱で採掘された石炭が採炭列車で青島駅に到着した時、官民は大歓迎でこの列車を迎えたという。後年、この坊子炭鉱鉱脈の出炭量が急に減り別の鉱脈採掘に着手、結局坊子は閉山の方向に進んだ。この急な閉山によって当然坊子は忘れられ、人々が忽然と消えて濰県(濰坊)他に移住した。それが、今も残る街の廃墟とつながった。時間はその時から止まったままだ。かつての坊子駅は、今は貨物駅として営業されている。坊子駅舎正面左から駅構内に入る事ができ、昔のままの駅構内を探索することが可能である(下記写真)。


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      廃墟になった坊子の街は北東の駅に始まる。東西に伸びる膠済線から南の長寧街までの2km、東側は運河から西は北海路まで4キロの約8平方キロに広がる日本人居留地があった。下図のように、駅の前から一から七までの馬路が膠済線に並行に続く。一馬路は駅前通りで、駅や鉄道関係の庁舎や倉庫が並んでいる。街のメインストリートは三馬路であった。駅前は再開発中で、かつての映画館や郵便局が作られるようだ。西に行くと蔦の葉で覆われている横田旅館があった(写真)。一馬路西端には日本家屋が多く見られる。そこから文化路を斜めに下ると三馬路の交差点に出る。南東に日本電灯公司の廃墟が見える。対面はきれいな徳建豪華住宅「坊茨(fang Tze)小鎮」が並び、その入口に「坊子徳日建築群」の石碑があった。1918年7月11日創建の坊子神社は、三馬路にあった記載されており探索したが、痕跡はなかった。戦後移設した三馬路小学校が当時の神社跡かも知れない。


      坊子には日本人が1006人、戸数は399戸で、膠済線沿線では済南に次いで日本人が多かった。その人口構成は教員を含む官衙関係者が268人で、家族婦女子が520人、炭鉱勤務者は53人、その他様々な商売人が104人居た。坊子には新設の尋常高等小学校があったが、ドイツ時代はドイツ医院軍管学校であった。その施設を租借権が移った1914年以降、日本人学校とした。現在はドイツ人住宅「坊茨小鎮」の入口になっているが、玄関から中を見ると学校の教室であることが分かる。小学校の裏は現在坊子区文物局となっている。当時の教員数、児童数に関しての記録はないが、日本人婦女子520名の半分として250人ほどの児童がいたのだろうか。当時の門柱がガラスケース内に保存されているのを見て、少し異様な感じがした(写真)。


      学校の北側に日軍医院跡があった。まるで野戦病院である。更に西に行くと鉄道踏み切りがある。その角の北側にメルヘンチックなドイツ軍司令部があり、ちょうど改装中であった。周囲のドイツ建築物は改装中が多いが日本建築物はそのまま放置されている。その南側に唯一改装中の日本領事館坊子出張所の建屋があった。二階建てレンガ作りである。南側が玄関となっており、車留めの前に噴水のような池があった。


      参考文献:「青島物語」第19話


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    2017.03.16

    青島にあった「ヤマトホテル」 【青島たより 工藤和直】Vol.67 (読む時間:約5分)

    • ヤマトホテルは、かつて南満州鉄道株式会社が経営していた高級ホテルブランドである。1907年から1945年まで満鉄線沿線の主要都市を中心にホテル網を展開していた。日露戦争後、満鉄沿線に西洋人が快適に滞在できるホテルを確保することが必須であった。初代総裁・後藤新平が掲げる「文装的武備」の思想の下で多角経営を進めた満鉄は、ホテル網の展開も率先して進めていった。こうしてできたヤマトホテルは西洋人旅客を招致するとともに、満鉄の迎賓館としても機能する西洋式高級ホテルとなった。しかし、満鉄はホテルを鉄道事業と満州開発を支える手段と考えて採算を度外視したため、ホテル事業単体では利益が出ない体質だったといわれている。


      満鉄は1945年(昭和20年)の敗戦に伴い解体されたが、一部の旧ヤマトホテルは現在もホテルとして営業を続けている。大連ヤマトホテル(大連賓館)、長春ヤマトホテル(春誼賓館)、奉天ヤマトホテル(遼寧賓館)、ハルビンヤマトホテル(龍門大厦貴賓楼)などである。その他名前を上げると、旅順ヤマトホテル、大連星ケ浦ヤマトホテル、撫順ヤマトホテル、チチハルヤマトホテル、アルシャンヤマトホテル(モンゴル自治区)、牡丹江ヤマトホテル、孫呉ヤマトホテル (黒龍江省黒河市)、東安ヤマトホテルなどがあった。


      満鉄沿線でないのが、天津ヤマトホテルと青島大和ホテルである。山東省青島も満鉄の路線外であるが、不思議なことに「大和ホテル」がある。青島湾の桟橋方面から中山路を歩いて行くと、左側に百盛というデパートがある。その先の曲阜路の角を左に曲がると最初の四つ角右奥に旧大和ホテル跡(曲阜路13号)がある。当時の写真を見ると右から「大和ホテル」と読める。日本軍が1914年に青島を占領したのに伴い、満鉄は1915年から1921年まで社員を山東鉄道に派遣して経営にあたったというので、臨時的に大和ホテルの名を使ったかもしれない。当時は麻布通りと言われ、青島駅から北東の方向になる。現在は一階が店舗で二階・三階がアパートである。写真のように、ほぼ当時のままに使われており、入口玄関に繋がる石畳は百年の歴史を感じ、石の階段の踊り場には当時のタイルがそのまま残っている。玄関から入ると木の階段が二階に通じている。これも当時のままであろうと思われる。


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      では、その他ヤマトホテルについてまとめてみる(下表参照)。大連ヤマトホテルは旗艦店である。大連は欧亜連絡鉄道と上海航路との接続点であり、日本から満州への玄関口であり、そして満鉄が本社を置いた最重要拠点である。それ故、大連ヤマトホテルには欧米の一流ホテルに伍する格式が求められた。満鉄の設立から間もない1907年(明治40年)8月1日、旧ダーリニーホテルを改装して開業。大連一の格式ホテルだったが、客室数が13室と小規模で宿泊客の増加に対応できず、1909年(明治42年)5月7日には旧満鉄本社跡(旧ダーリニー市庁舎)を改修して客室36室を確保、さらに1911年(明治44年)には社宅用建物2棟を改装し客室8室を増設、合計58室とした。1914年(大正3年)3月に大連中心部の大広場(現中山広場)前に新館が竣工、8月1日に移転開業した。現在は「大連賓館」として営業している。


      奉天ヤマトホテルは奉天駅(1910年7月竣工)に併設されたステーションホテルとして、駅の開業日と同じ1910年(明治43年)10月1日に客室数12室で開業した。1924年(大正13年)にホテル新築設計の指名コンペを実施、小野木・横井共同建築事務所が新築設計を受託した。1929年(昭和4年)5月10日、奉天大広場(現中山広場)前に完成した客室数71室の新館が営業を開始した。内外装はアール・デコ調のデザインが施され、外壁は白色のタイル貼り仕上げとされた。客室は全室浴室付き、館内にはバー・ビリヤード室・理髪室など長期滞在者向けの設備が設けられた。当時は最新かつ最高格式のホテルとして知られ、戦後も中華人民共和国の国家指導者である毛沢東や鄧小平がここに宿泊した。現在も3つ星ホテル「遼寧賓館」として営業している。客室(77室)は現代的に改装されているが、エントランスやレストランは往時のままの装飾が維持されている。エレベーターホールには上記を含め著名人の宿泊を示すプレートが標示されている。また、上階に通じる螺旋階段は必見の価値がある(写真)。


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      長春ヤマトホテルは1909年(明治42年)に帝政ロシア(東清鉄道)や清国高官との交渉の場に充てるべく、南満州鉄道と東清鉄道との接続点だった長春駅前に新築されたホテル、1910年(明治43年)2月1日に本格営業を開始した。建物の内外装はアール・ヌーヴォー様式。満州国の成立後は新京ヤマトホテルと改称し、現在は「春誼賓館」として営業中。食堂などの内装にアール・ヌーヴォー様式の装飾が残されていたが、1987年の改装で大部分が失われた。


      旅順ヤマトホテルは1908年に開業、開業当時は15部屋の小規模ホテルだった。この建物は元々ロシアと関係が深かった豪商紀鳳台の私邸を改良したものだと伝えられる。1927(昭和2年)年11月、川島芳子(愛新覚羅顯㺭/金璧輝)の結婚式があった。1928(昭和3年)年5月与謝野晶子・鉄幹夫妻が2泊、晶子は203高地等を訪れ11首残す。1931(昭和6年)年愛新覚羅溥儀が105日滞在、1932(昭和7)年2月24日には、1階レストランで板垣征四郎と満州国建国を祝って乾杯したと記録される。


      ハルビンヤマトホテルは、1903年(明治36年)ハルビン駅前に東清鉄道ホテルとして建てられた。日露戦争が勃発するとロシア軍が野戦病院や軍司令部として使用、戦後はロシア軍将校クラブ(1907年~)、中東鉄路理事会館(1921年~)として使用された。1935年より満鉄の所有となり、1937年(昭和12年)2月1日に客室数56室(浴室付き45室)のホテルとなった。第二次大戦後は哈爾濱軍事工程学院、鉄路医院を経て1968年よりハルビン鉄路局招待所として使用されたが、1996年にハルビン鉄路局が経営するホテル龍門大厦に統合・改修され、1997年より龍門大厦貴賓楼として営業している。ランクは3つ星。


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    2017.03.01

    中日友好を貫いた「青島学院」 【青島たより 工藤和直】Vol.66 (読む時間:約2分)

    • 鹿児島県出身の「吉利(よしとし)平次郎」氏は、日本人と中華人の共学実現の念から私立青島学院を設立、1945年(昭和20年)の敗戦までの30年の間に少なくとも1万人以上(内中華人3000名)の卒業生を送り出した。日本人と中国人を同じ教室で勉強させることで両国の相互理解を実践した。相互理解の授業は、例えば「日本」という共通の漢字を日本人には「リーベン」と読ませ、中国人には「にほん」と読ませることから始め、日中共学を実践した極めて異色の学校だった。吉利平次郎が戦前・戦後において民間レベルにおける日中関係の友好を維持向上させた功績は極めて大きい。


      1.青島英学校の設立


      1916年(大正5年)4月、山東省青島市馬関通(曲阜路)にあった青島基督教青年教会を教室として日本人青年を対象とした夜間英語学校が開設された。翌1917年(大正6年)4月、英語に加えて簿記・日本語を教科に組み入れて学院の名称を「青島学院実業学校」に改称すると共に、中国人との共学を開始した。初年度新入生290人、その内中国人は50人であった。当時、日本の経営下にあった山東鉄道の若い社員が多くここで学んだという。


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      2.校舎を葉桜町(館陶路8号)へ移転


      生徒数の増加に伴い馬関通教会教室は手狭になったので、青島守備軍軍政部と折衝の結果、1918年(大正7年)、廃校となる青島小学校葉桜分教場(現在は第12中学)の払下げを受けることとなった。青島学院実業学校の生徒はその後増加し、1920年(大正9年)の生徒数は832人、夜間授業が始まる午後6時半頃になると学院周辺の道路は通学する生徒でふさがるほどであったという。


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      3.青島学院商業学校(台西鎮単県路)の設立


      吉利平次郎氏は、かねてより計画していた全日制私立商業学校を1920年(大正9年)4月に開校した。初年度の新入生は60名であったが、その内30名は中国人であった。1921年(大正10年)の青島学院の総生徒数は更に増加して963人となった。吉利氏が念願してきた全日制日中共学の商業学校が、この年に初めて形となったわけだ。


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      終戦後、吉利平次郎は日本各地に引揚げた日本人在学生の在学証明や卒業証書の発行と日本国内学校への転入学手続きに追われた。そして引揚げから半年後ついに病に伏した。亡くなる一週間前、孫の吉利醇に「百年後の中国は、世界を制覇する。お前はその目でしっかり確かめよ」と語ったという。そして現在中国は実質GDPで世界一の国となった。1916年(大正5年)4月の学院創設からちょうど100年を迎えた。青島学院OB会は「桜稲会」と称している。


      参考文献:青島物語続編


    2017.02.14

    青島の風景「日本人学校の今昔」 【青島たより 工藤和直】Vol.65 (読む時間:約4分半)

    • 青島は、当時漁村に過ぎなかった青島村に1897年(明治30年)、突然ドイツ海軍陸戦隊が上陸占領したことから始まる。青島の歴史は120年前に始まった。写真左は将来青島の中心となる観海山(総督府山)から青島湾にかけての傾斜地である。おそらく現在の小魚山公園から撮影されたのであろう。草木がほとんど見当たらない、月の砂漠である。写真に見える建物は清国衙門兵営で、奥の方に天宮后のシンボルである2本の門柱が微かに見えている。衙門兵営の右方には下青島村の民家も見える。元々の青島人はここに住んだ方々である。現在の青島は山東省各地から集められた人々によって作られ、発展していった。左奥の海浜に桟橋が見える。この延長が中山路になる。


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      ドイツは1898年から僅か15年で、この何もない傾斜地に、絵のように美しい緑と赤き屋根の住宅を持つ青島(小ベルリン)を造り上げた。ドイツという国の構想力と実行力には驚きを禁じ得ない。一例が青島駅である。現在の駅は拡張して、東西と南の三つの改札口があるが、当時は写真のように東改札口のみでスタートした。斜めに落ちる褐色の屋根が青島駅の特徴である。


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      1914年の日本軍による軍政が始まると、小学校・中学校・女学校の建設がすぐに始まった。ドイツ租借時代にすでに学校の建設が進んでいたのが幸いした。日本の小学校は1913年(大正2年)に西本願寺(現在は無棣四路小学校)で開校していたが、ドイツ降伏後すぐに既存学校の利用が始まった。青島市内における日本人小学校を2校とすることを1917年(大正6年)に決定して花咲町(現武定路)に新校舎の建設に着手、1917年(大正6年)に開校。翌年1918年(大正7年)4月に落成した新校舎を青島第一尋常高等小学校とした。何と1915年(大正4年)に先に開校した青島日本小学校(佐賀町)を第二尋常小学校と定めた。


      佐賀町(広西路×常州路)の第二尋常小学校校舎(生徒数230名)は1905年(明治38年)に開校したドイツ総督府実科中学校を修理して使った。校舎の壁は全て花崗岩で覆われ、屋根裏階まで含めると4階建ての荘重な建物であった。この総統府学校は中国人富裕層向けの教育機関で、12教室・280名収容であった。第2尋常小学校には高等科は併設されなかったことと、借物でなく日本独自創建を優先したため第一尋常小学校と命名しなかったと思われる。左は、ドイツ総督府実科中学校が竣工したときの写真で、校舎は丘陵上にあった。現在は海軍関係の施設になって中に入ることは不可能であるが、玄関前の階段は昔のままであることが理解できる。卒業式・入学式の時の集合写真はこの階段を使うことが多かったという。1918年(大正7年)5月には生徒数576名となった。


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      急増する就学児童の増加に対し、民生部は1917年(大正6年)にもう一校の新設を決定した。1918年(大正7年)4月に落成した第一尋常高等小学校は、花吹町(武定路)に校庭面積17,762坪(58、600平米)、校舎は近世ゴシック式煉瓦造で建物総坪数は666坪(2,200平米)であった。後年、13,100坪(43,200平米)の大運動場が拡張され、5年後の1927年(昭和2年)に完成した。名実共に日本最大級の運動場となり、青島における各種の行事に利用されるようになった。また、合わせると10万平米を越える日本一の小学校を誇った。この第一小学校には尋常科と共に高等科が設置された。1918年5月の記録では、尋常科児童750名、高等科生徒87名とある。


      学校前に通学児童が見受けられる。また学校前の道路(武定路)はまだ舗装されていない。現在、武定路は建家に囲まれた狭い道路だ。学校跡は現在、徳愛花園大酒店として使われている。玄関から入る花崗岩の石段は当時のままで、各教室はホテルの部屋に改装されている。宿泊は可能である。正面建家は二階建てであるが、奥は三階建てとなって、かなり大規模で日本内地で考えられない蒸気設備(冬の暖房)もあったようだ。その奥に43,000平米の大グラウンド(現在は青島第二体育場)があった。日本内地の小学校が木造であったのに対し、大学並みの荘厳な建築物であることが周囲を一周することで認識できる。この小学校にあったピアノで中村八大が演奏したと言う記録もある。


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      青島守備軍第2代司令官大谷中将が青島における高等普通教育として最初に着手したのは、青島日本高等女学校の設立であった。大正5年(1916年)、青島高等女学校は旧ドイツ女学校跡に設立され、大正7年若鶴山山麓(黄台路10号)に新校舎が落成、女学校は新校舎に移動した。ちょうど設立100周年になる。写真では全校生徒が体操を練習しているが、これによると開校初期において制服はまだセーラー服ではなかったようだ。現在は、四季花園賓館になっているが、正門にある花崗岩造りの門柱は当時のままで、そこから建物の間に広がる空間で体操を行なったと思われ、黄台路側から撮った写真であろう。生徒数は152名と記録されている。人数のわりに大きな校舎である。


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      同じく大谷中将の命令で、青島日本中学校は1917年(大正6年)、旭ケ丘(ドイツ・イルティス兵営跡地)に開設された。イルティス兵営は1899年太平山南麓(今の中山公園)に作られた二階建ての建物であった。男子中学校より先に高等女学校が先に開校されると言う珍事が起こった。開設当初の制服は、冬服は紺色詰襟、夏冬は鼠霜降詰襟であった。1921年(大正10年)、旧ドイツ自動車廠跡地(ビスマルク兵営)に建設中であった新校舎が落成し、桜ケ丘校舎と呼ばれ全校生徒が新校舎に移動した。新校舎の敷地は15,892坪(52,400平米)、校舎の延坪数は1,936坪(6,400平米)で、当時の日本においては稀に見る堂々とした外観を有していた。校舎内に寄宿舎があり、膠済線沿線の生徒ばかりか全中国各地から、ここに寄宿勉学した。現在も中国海洋大学正門前にある門柱は昔のままである。


      学校内のため外部の方は入門できないが、亡父の友人に旧制青島中学の出身者が居た事を思い出し、中国語で「亡き父がここを卒業した」と守衛に言って、建屋内を案内して頂いた。建設後百年近く経つが、大きさと言いその正面玄関背後にある広い中庭と別棟の校舎建屋、北西に広がる運動場(昔の教練場)へ下りる階段は当時の花崗岩であり、遠く真正面にドイツ総監官邸(日本軍司令官邸)が見える。これが中学校とは思われない。内地の帝国大学がこれに匹敵する建屋であろう。旧制青島中学は名門であり、内地の有名官公大学・高等学校・私立大学や専門学校に多くの卒業生を輩出した。在籍記録の中に、石丸寛(九州交響楽団・東京交響楽団指揮者)や中村八大(上を向いて歩こう・こんにちは赤ちゃん等の作曲家)などの異彩児も居る。下記に校舎内部の写真を示す。日本に引揚げ後70年以上になるが、各学校卒業生は定期的に集っているようだ。青島中学は鳳雛会、青島高等女学校は若鶴会と称して、OB・OG会を開催している。


      参考文献:青島物語


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    2017.01.28
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