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コラム「蘇州たより」

中日友好を貫いた「青島学院」 【青島たより 工藤和直】Vol.66 (読む時間:約2分)

    • 鹿児島県出身の「吉利(よしとし)平次郎」氏は、日本人と中華人の共学実現の念から私立青島学院を設立、1945年(昭和20年)の敗戦までの30年の間に少なくとも1万人以上(内中華人3000名)の卒業生を送り出した。日本人と中国人を同じ教室で勉強させることで両国の相互理解を実践した。相互理解の授業は、例えば「日本」という共通の漢字を日本人には「リーベン」と読ませ、中国人には「にほん」と読ませることから始め、日中共学を実践した極めて異色の学校だった。吉利平次郎が戦前・戦後において民間レベルにおける日中関係の友好を維持向上させた功績は極めて大きい。


      1.青島英学校の設立


      1916年(大正5年)4月、山東省青島市馬関通(曲阜路)にあった青島基督教青年教会を教室として日本人青年を対象とした夜間英語学校が開設された。翌1917年(大正6年)4月、英語に加えて簿記・日本語を教科に組み入れて学院の名称を「青島学院実業学校」に改称すると共に、中国人との共学を開始した。初年度新入生290人、その内中国人は50人であった。当時、日本の経営下にあった山東鉄道の若い社員が多くここで学んだという。


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      2.校舎を葉桜町(館陶路8号)へ移転


      生徒数の増加に伴い馬関通教会教室は手狭になったので、青島守備軍軍政部と折衝の結果、1918年(大正7年)、廃校となる青島小学校葉桜分教場(現在は第12中学)の払下げを受けることとなった。青島学院実業学校の生徒はその後増加し、1920年(大正9年)の生徒数は832人、夜間授業が始まる午後6時半頃になると学院周辺の道路は通学する生徒でふさがるほどであったという。


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      3.青島学院商業学校(台西鎮単県路)の設立


      吉利平次郎氏は、かねてより計画していた全日制私立商業学校を1920年(大正9年)4月に開校した。初年度の新入生は60名であったが、その内30名は中国人であった。1921年(大正10年)の青島学院の総生徒数は更に増加して963人となった。吉利氏が念願してきた全日制日中共学の商業学校が、この年に初めて形となったわけだ。


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      終戦後、吉利平次郎は日本各地に引揚げた日本人在学生の在学証明や卒業証書の発行と日本国内学校への転入学手続きに追われた。そして引揚げから半年後ついに病に伏した。亡くなる一週間前、孫の吉利醇に「百年後の中国は、世界を制覇する。お前はその目でしっかり確かめよ」と語ったという。そして現在中国は実質GDPで世界一の国となった。1916年(大正5年)4月の学院創設からちょうど100年を迎えた。青島学院OB会は「桜稲会」と称している。


      参考文献:青島物語続編


    2017.02.14

    青島の風景「日本人学校の今昔」 【青島たより 工藤和直】Vol.65 (読む時間:約4分半)

    • 青島は、当時漁村に過ぎなかった青島村に1897年(明治30年)、突然ドイツ海軍陸戦隊が上陸占領したことから始まる。青島の歴史は120年前に始まった。写真左は将来青島の中心となる観海山(総督府山)から青島湾にかけての傾斜地である。おそらく現在の小魚山公園から撮影されたのであろう。草木がほとんど見当たらない、月の砂漠である。写真に見える建物は清国衙門兵営で、奥の方に天宮后のシンボルである2本の門柱が微かに見えている。衙門兵営の右方には下青島村の民家も見える。元々の青島人はここに住んだ方々である。現在の青島は山東省各地から集められた人々によって作られ、発展していった。左奥の海浜に桟橋が見える。この延長が中山路になる。


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      ドイツは1898年から僅か15年で、この何もない傾斜地に、絵のように美しい緑と赤き屋根の住宅を持つ青島(小ベルリン)を造り上げた。ドイツという国の構想力と実行力には驚きを禁じ得ない。一例が青島駅である。現在の駅は拡張して、東西と南の三つの改札口があるが、当時は写真のように東改札口のみでスタートした。斜めに落ちる褐色の屋根が青島駅の特徴である。


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      1914年の日本軍による軍政が始まると、小学校・中学校・女学校の建設がすぐに始まった。ドイツ租借時代にすでに学校の建設が進んでいたのが幸いした。日本の小学校は1913年(大正2年)に西本願寺(現在は無棣四路小学校)で開校していたが、ドイツ降伏後すぐに既存学校の利用が始まった。青島市内における日本人小学校を2校とすることを1917年(大正6年)に決定して花咲町(現武定路)に新校舎の建設に着手、1917年(大正6年)に開校。翌年1918年(大正7年)4月に落成した新校舎を青島第一尋常高等小学校とした。何と1915年(大正4年)に先に開校した青島日本小学校(佐賀町)を第二尋常小学校と定めた。


      佐賀町(広西路×常州路)の第二尋常小学校校舎(生徒数230名)は1905年(明治38年)に開校したドイツ総督府実科中学校を修理して使った。校舎の壁は全て花崗岩で覆われ、屋根裏階まで含めると4階建ての荘重な建物であった。この総統府学校は中国人富裕層向けの教育機関で、12教室・280名収容であった。第2尋常小学校には高等科は併設されなかったことと、借物でなく日本独自創建を優先したため第一尋常小学校と命名しなかったと思われる。左は、ドイツ総督府実科中学校が竣工したときの写真で、校舎は丘陵上にあった。現在は海軍関係の施設になって中に入ることは不可能であるが、玄関前の階段は昔のままであることが理解できる。卒業式・入学式の時の集合写真はこの階段を使うことが多かったという。1918年(大正7年)5月には生徒数576名となった。


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      急増する就学児童の増加に対し、民生部は1917年(大正6年)にもう一校の新設を決定した。1918年(大正7年)4月に落成した第一尋常高等小学校は、花吹町(武定路)に校庭面積17,762坪(58、600平米)、校舎は近世ゴシック式煉瓦造で建物総坪数は666坪(2,200平米)であった。後年、13,100坪(43,200平米)の大運動場が拡張され、5年後の1927年(昭和2年)に完成した。名実共に日本最大級の運動場となり、青島における各種の行事に利用されるようになった。また、合わせると10万平米を越える日本一の小学校を誇った。この第一小学校には尋常科と共に高等科が設置された。1918年5月の記録では、尋常科児童750名、高等科生徒87名とある。


      学校前に通学児童が見受けられる。また学校前の道路(武定路)はまだ舗装されていない。現在、武定路は建家に囲まれた狭い道路だ。学校跡は現在、徳愛花園大酒店として使われている。玄関から入る花崗岩の石段は当時のままで、各教室はホテルの部屋に改装されている。宿泊は可能である。正面建家は二階建てであるが、奥は三階建てとなって、かなり大規模で日本内地で考えられない蒸気設備(冬の暖房)もあったようだ。その奥に43,000平米の大グラウンド(現在は青島第二体育場)があった。日本内地の小学校が木造であったのに対し、大学並みの荘厳な建築物であることが周囲を一周することで認識できる。この小学校にあったピアノで中村八大が演奏したと言う記録もある。


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      青島守備軍第2代司令官大谷中将が青島における高等普通教育として最初に着手したのは、青島日本高等女学校の設立であった。大正5年(1916年)、青島高等女学校は旧ドイツ女学校跡に設立され、大正7年若鶴山山麓(黄台路10号)に新校舎が落成、女学校は新校舎に移動した。ちょうど設立100周年になる。写真では全校生徒が体操を練習しているが、これによると開校初期において制服はまだセーラー服ではなかったようだ。現在は、四季花園賓館になっているが、正門にある花崗岩造りの門柱は当時のままで、そこから建物の間に広がる空間で体操を行なったと思われ、黄台路側から撮った写真であろう。生徒数は152名と記録されている。人数のわりに大きな校舎である。


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      同じく大谷中将の命令で、青島日本中学校は1917年(大正6年)、旭ケ丘(ドイツ・イルティス兵営跡地)に開設された。イルティス兵営は1899年太平山南麓(今の中山公園)に作られた二階建ての建物であった。男子中学校より先に高等女学校が先に開校されると言う珍事が起こった。開設当初の制服は、冬服は紺色詰襟、夏冬は鼠霜降詰襟であった。1921年(大正10年)、旧ドイツ自動車廠跡地(ビスマルク兵営)に建設中であった新校舎が落成し、桜ケ丘校舎と呼ばれ全校生徒が新校舎に移動した。新校舎の敷地は15,892坪(52,400平米)、校舎の延坪数は1,936坪(6,400平米)で、当時の日本においては稀に見る堂々とした外観を有していた。校舎内に寄宿舎があり、膠済線沿線の生徒ばかりか全中国各地から、ここに寄宿勉学した。現在も中国海洋大学正門前にある門柱は昔のままである。


      学校内のため外部の方は入門できないが、亡父の友人に旧制青島中学の出身者が居た事を思い出し、中国語で「亡き父がここを卒業した」と守衛に言って、建屋内を案内して頂いた。建設後百年近く経つが、大きさと言いその正面玄関背後にある広い中庭と別棟の校舎建屋、北西に広がる運動場(昔の教練場)へ下りる階段は当時の花崗岩であり、遠く真正面にドイツ総監官邸(日本軍司令官邸)が見える。これが中学校とは思われない。内地の帝国大学がこれに匹敵する建屋であろう。旧制青島中学は名門であり、内地の有名官公大学・高等学校・私立大学や専門学校に多くの卒業生を輩出した。在籍記録の中に、石丸寛(九州交響楽団・東京交響楽団指揮者)や中村八大(上を向いて歩こう・こんにちは赤ちゃん等の作曲家)などの異彩児も居る。下記に校舎内部の写真を示す。日本に引揚げ後70年以上になるが、各学校卒業生は定期的に集っているようだ。青島中学は鳳雛会、青島高等女学校は若鶴会と称して、OB・OG会を開催している。


      参考文献:青島物語


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    2017.01.28

    旧青島日本総領事館跡と青島神社跡を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.64 (読む時間:約5分)

    • 1915年から1945年の30年間、2度に亘って日本の統治下に置かれた青島に4万とも5万ともいわれる日本人が住んでいた。かつて街のいたるところでは「中野町」「伊勢町」「横須賀町」「姫路町」といった日本名の道路名が名づけられ、着物を着た日本人が往来を歩いていた。昔の日本総領事館跡は太平路(旧ホーエンツオーレン通り:旧舞鶴町)と青島路(旧ウイルヘルム通り)との交差点東にある。この建物は1906年、ドイツの徳華銀行青島支店(ドイツアジア銀行)として建築された。 徳華銀行はドイツ租借地「青島」にある実質上中央銀行の役割を持ち、通貨「青島ドル」の発券銀行であった。


      第一次日本統治時代から総領事館として運営が開始され、民政部の一部局庁舎として利用されていた。日独戦争勝利後、青島は日本の軍政下におかれ、1923年1月、行政権を中華民国政府に返還、1923年3月31日になり、青島日本総領事館として再使用した。 建家はネオルネッサンス様式で円柱・アーチ・コーナーストーンを配置、1945年の敗戦までここで領事館業務が続けられた。


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      総領事館の敷地はかなり広く、東側の江蘇路との間に九水路があり、そこに領事館警察署があった。昭和12年(1937年)7月、盧溝橋事件に端を発した支那事変が勃発し、青島にも危険が迫った8月、時の総領事大鷹正次郎は、青島在留邦人に対し総引揚げを勧告した事もあった。写真正面が太平路でその前がすぐ海岸である。青島路の方向に行けば、次の交差点(広西路)でドイツ領事館になり、その奥に重厚なドイツ総監府(その後日本軍司令部)である。また、現在は迎賓館となっているが、信号山公園全体を占めるのが当時青島最大の豪邸であった総監官邸(その後日本軍司令官邸)である。黄色の壁に剥き出しの花崗岩造りの豪邸である。総監府建物内にドイツ時代の説明はあるが、日本軍司令官宅であった事は記載されてない。


      日本総領事館は現在、民家となっている。北側の広西路から内部に入ることが可能である。太平路側の玄関から入ると、床はタイル張りで内部に吹き抜け階段があり、天井にステンドグラスが貼ってあった。ここで領事館業務をしたのであろう。北隣には日本民家らしき家も見られた。日本領事館の東側に山東鉄路鉱路公司(広西路14号)がある。1902年ドイツは「租借条約」によって膠済鉄道敷設権と鉄道線路両側15kmの採掘権を得たが、その開発のためにドイツが作った会社をそのまま日本が引き継いだ。


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      青島神社は大正4年 (1915年) 、青島守備軍がモルトケ山(若鶴山)西側山腹を社地(敷地約6900坪)と定め、大正6年(1917年)5月に青島守備軍司令官から工事開始の正式認可を受け、大正7年5月には地鎮祭を執行したのち社殿その他の建物の建築工事を開始、翌大正8年(1919年)11月7日、無事に完竣した。青島神社は天照大神・大国主命・明治天皇を祭神に迎えて鎮座した。青島神社造営にあたり「山東省を大陸発展の基地とし、大陸経営の遠大なる理想の下」を基本方針とした。青島神社は若鶴山(現貯水山)の中腹に、鳥居・拝殿・幣殿・本殿からなる荘重な社殿で構成されていた。青島神社から青島大港など膠州湾沿岸、ならびに青島日本第一尋常小学校やその付近の日本人住居区(川崎町)を一望でき、素晴らしい眺望に恵まれていた。神社への入口は大鳥居のある表参道、黄台路につながる南門、北側は吉林路に出る北門の三ヶ所があった。


      青島神社を正面から見ると、高さ約15米・幅10米の明神型石造大鳥居とその両側にそれぞれ大型の石灯籠が並び立っていた。大鳥居に続く参道は坂道で、両側には桜の若木が植樹されていた。現在はヒマラヤ杉に植え替えられているが、銀杏木などは昔のままと思われる。参道を登り切ると広場があり、右手に手水場があったようだ。その先には社殿に繋がる109段の石造階段が見える。階段を登りきると社殿前の木製鳥居がかつてあった。この木製鳥居の基礎石(亀腹)が写真のように現存している事に驚いた。また、階段を登った左右に石灯篭の基礎石も残っていた。この奥に写真にあるような本殿があったが、今は青島有線電視台になっている。電視台前は広い駐車場となっており、社殿の跡はまったく見られない。この青島神社は靖国神社の2倍の面積であったという。大鳥居があった付近は現在遼寧路科技街バス停(若鶴町)の対面である。


      戦前海外に日本の神社は約1600ヶ所あったといわれ、そのうち中国内に550ヶ所が記録されている。特に旧満州には295ヶ所と一番多く、租借地であった山東青島地区には青島神社、青島台東鎮神社(台東一路35号:1915年3月創建)、坊子(濰坊市)神社(1918年創建)、張店(淄博市)神社(1919年創建)、淄川神社(1918年創建)、済南神社(1941年創建)、芝罘(煙台市)神社(1942年創建)、龍口神社(1930年創建)、威海衛神社(1940年)などが記録されている。


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      青島に駐留する日本人にとって、青島神社は「我らの鎮守様」であった。例祭では川崎町(益都路)や大和町・瀬戸町・若鶴町など日本人街にある商店を中心にして、若い衆による神輿が奉納され、109段の石段を威勢よく駆け上がる風景が見られたという。終戦の日(1945年8月15日)午後には、青島守備隊の軍人が結集し一時物騒がしくなったこともあった。最後の宮司であった宮崎氏は12月20日に青島神社を閉社し帰国、ご神体を明治神宮に奉納してその職を終えた。翌1946年4月20日、一般在留邦人が最後の引揚船で帰国にあたり、全員が神社参拝をした後、米軍トラックで桟橋に移動した。現在青島神社跡は児童公園となっているが、旧満州の新京神社(長春市)や済南神社と同じく、ここに神社があった事を感じさせる心霊スポットである。


      参考文献:青島物語


    2017.01.11

    青島の歴史概略 【青島たより 工藤和直】Vol.63 (読む時間:約5分)

    • 「ドイツがつき 日本がこねし 青島餅 汗と涙は中国人民」 青島の歴史は1897年11月14日ドイツ海軍陸戦隊が上陸してから始まった。来年で120年となる。この日の早朝、ドイツ海軍陸戦隊720名の将兵は演習するとの名目で、清の同意を得ないまま膠州湾に強行上陸した。青島はその後、ドイツの15年間、日本が二度にわたり実効支配した30年間、戦後の一時的なアメリカの5年間、その後70年間の新中国と、合計120年間の歴史がある。ドイツが上陸する前、天后宮の付近に上・下青島村の2村があった。僅か300戸余の人家であった。


      村の背後には、風台嶺(現青島山)と大石頭山(現信号山)があり、全体として傾斜地であった。山々の間に河が流れており、その下流は青島湾に流れ込んでいた。この河は青島河と呼ばれ、上・下青島村はこの河の両岸にあった。また、湾の南にあった「小青島」の存在によって、青島湾は強い風波を和らげてくれる所から、この湾は古くから漁民にとって漁船を係留するのに格好の地であった。「青島」の地名は、この村と島の名前から生まれた。正式に「青島」と呼ばれるまで、この地区は膠澳(Jiao Ao)と呼ばれていた。


      1898年3月に清独条約が結ばれ膠州湾一帯を99年間、清国から租借することとなった。ドイツはこれより30年も前から膠州湾地区を地理的・軍事的に調査していた。この条約締結後直ちに「青島をドイツ東洋艦隊の母港とすると共に、青島が本国にとって経済・貿易の面で貢献し、かつ健康的で快適、模範的な植民地を建設すること」を方針とし青島建設に入った。またドイツ政府は、1898年、十分な港湾設備も備わっていない青島を自由貿易都市として宣言した。1898年、ドイツ海軍大臣ティルビッツは青島の最高責任者としてクルト・ローゼンダールを初代総督に任命した。青島租借地は海軍省の管轄となった。ローゼンダールの職務はドイツ東洋艦隊母港の建設と軍艦燃料用石炭と水の確保、要塞の構築、植民地貿易都市の建設であった。しかし着任後、彼が当面した最大の課題は約2000人に及ぶドイツ将兵及び建設に従事するドイツ民間人の宿舎と食料の確保であった。そのために、目標を追加し、生活インフラ(電気・水)の整備・生活住宅の建築に没頭することになった。あわせて、軍艦用石炭の確保のために急ぎ膠済鉄道430kmを構築したのであった。


      1914年第一次世界大戦の勃発により、日本は連合国側として参戦、青島を火事場泥棒的に攻撃し租借した。日本の目的は明らかであり、朝鮮半島に続く遼東半島の租借、そこに最も近い山東半島を狙うのは明らかであり、絶好のタイミングで青島に展開するドイツ租借地をうまく略奪することが出来た。当時の日本の狙いは中国内陸部であり、大連から延びる南満州と山東半島から伸びる中国内陸は是非とも確保したい地域であった。山東には石炭・鉄鉱石と軍事上に必要な鉱物の存在もあった。その後の理不尽な対華21ヶ条に見るように狙いは中国大陸内部へ進出する突破口としての青島要塞攻撃であったといえる。


      ドイツの統治は15年間であったが、元々の構想は青島湾から大港にかけて広大な地区に模範的植民地を作り上げる計画であった。ドイツは青島駅から小魚山までの東西2kmと桟橋から北は中山路と徳県路が交わる1kmを青島区として、ドイツ人・欧米人居住区として開拓した。その北の山東路(静岡町)から市場三路が堂邑路と交わるまでを大鮑島区として、中国人富裕層の居住区とした。一般中国人は青島市街から離れた台東鎮や台西鎮に住まわせた。このわずか15年間に構築したインフラ関係は、その後の日本の統治でも有効に作用した。これが、日本が商工業の発展にのみ没頭できた要因となったと言えよう。ドイツが15年間に商工業施設として残したのは「青島麦酒」くらいであったが、その後日本は、大鮑島区の山東路(静岡町)から堂邑路(所沢町)・館陶路(葉桜町)への銀行・商社・取引所などを建設、台東地区へは豊富な水資源があったため、日清紡・鐘紡・豊田紡織などの繊維工業施設の建設などが行われ、これが現在の青島の発展に寄与した。ドイツは要塞軍事貿易都市を作り、日本が商工業貿易都市にした。すなわちドイツがついた餅をこねて黄粉をかけて食べられるように仕上げたのが日本であった。もちろん、「こねてついた」のは中国人民であり、そもそも数百人程しか居ない地域に数十万の労働者を山東省ならびに周囲の省から半ば強制的に連れて来て安い賃金で労働させた責任は、ドイツ・日本にあるのも疑えない事実である。


      青島が外国の租借・占領あるいは外国の影響下にあった期間は1897年(明治30年)から1946年(昭和21年)4月までの50年であった。1914年まではドイツによる15年、日本は1922年ワシントン条約に基づき、青島に対して有していた租借権を中国にいったん返還したものの、中国政府との細目協定により、日本は青島及び山東省に対し相当の権益を保有し続けた。青島及び山東省内において、この協定権益の下、日本の民間資本による経済活動が活発に行われた30年であった。現在の青島の状況は、ドイツ建屋は維持、日本建屋は解体にある。中国人にとって、ドイツ建屋は近代化の象徴であるが、日本建屋(特に宗教施設など)は帝国主義の象徴であるからだ。下表に青島の歴史を一覧表にした。1897年にドイツ海軍陸戦隊が上陸して、1946年(昭和21年)4月20日に在留日本人が引き揚げるまでの50年間の年表である。


      最後に山東省の有名人を調べて見た。山東省の歴史は5000年前の大汶口文化で始まり、精美な石器や骨製道具および文字の濫觴が確認され、4000年前の龍山文化では金属製品と「蛋殻陶」(卵殻の薄さの黒陶器)が発見されている。また城子崖古城と日照両城鎮遺跡は中国でもっとも古い古城遺跡だ。山東省は多くの歴史的有名人のふるさとである。思想家であり教育者であった孔子、思想家の孟子・荘子・荀子、政治家の管子・晏嬰・諸葛亮・房玄齢・劉嬰、軍事家の孫武・呉起・孫臏・戚継光、科学者や発明家の扁鵲・魯班・氾勝之・賈思勰・劉洪・王楨・何承天・燕粛、文学者や芸術家の王羲之・劉勰・顔真卿・李清照・辛弃疾・張択端・張養浩・孔尚任・蒲松齢などその数は星の如く数えきれない。特に春秋から前漢までの先賢達の思想と業績は史書に記載され、中国伝統文化を構成、今も深遠なる影響を与えている。近代文壇の季羡林、臧克家、任継愈、賀敬之、喬羽、莫言、梁暁声、劉大為などの著名作家はみな山東省出身で、中華文化に大きく寄与している。しかし、個人的には、広州空港に巨大な写真が掲載されている煙台市出身女優「范冰冰」の印象の方が強い。又、諸城出身の毛沢東第四夫人「江青」も山東人である。(参考文献:青島物語)


      【あとがき】
      筆者はこの7月より12年住み慣れた蘇州から、山東省青島市に引越した。蘇州は春秋時代「呉国」から2500年の歴史のある城郭都市であるが、山東省は更に350年も古い「斉国」がある。しかも黄河文明龍山文化から5000年の歴史があり、城郭都市としては夏・商(殷)以降4000年がある。そして、青島には日本租借時代の約100年もある。しばらくはこの山東省を舞台に歴史の旅を続けようと思う。


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    2016.12.25

    十度の荒廃から蘇った城郭都市「蘇州」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.62 (読む時間:約8分)

    • 日本と中国の外交関係を顧みると、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す」の漢書地理史が日本についての最古の公式文書である。その後、中国側正式歴史書の一つが魏志倭人伝であるが、日本と中国の外交は朝鮮半島を介しての歴史である。蘇州(当時の姑蘇)との関わりは、三国志「呉」に歴史書があれば良かったのだが、資料は現存しない。ただ日本書紀に雄略天皇が呉へ使者を送った記録もあることから、ひょっとしたら邪馬台国も魏以外に呉(姑蘇)と東シナ海を直接結ぶ外交があったかも知れない。


      ちなみに邪馬台国はどこにあったか?と九州説・畿内説が論議されているが、文字のない倭国使者が言った言葉を当時の魏(都は洛陽)人が漢字で記載したのが「邪馬壹」であるが、これは上・中古音読みでこの言葉はXie Ma YiもしくはYia Ma Duoであり、“シエマイ”とか“ヤマドウ”と発音する。この言葉は“島(シマ)”とか“山門(ヤマト)”を言った可能性が極めて高い。従って九州中部・北部全体を総じて「邪馬台国」と見るべきであろう。ただ、筆者は日向説を個人的持論にしている。その根拠は邪馬台国の入り口の「投馬」の中国語読み;Tu Maが宮崎県西都市にある都万(Tu Ma)神社と同音であることにある。筆者は都万神社の南にある都於郡(とのこおり)城にある奇妙な遺跡(高屋山上陵伝説:山幸彦の陵墓)は邪馬台国の遺跡でないかと推測している。


      4世紀になると朝鮮半島は高句麗の台頭で、中国との外交は東シナ海を越えて南朝(六朝時代)との交易が盛んになった。宋書倭国伝や南斉・梁書に見るように南朝との外交が主である。従って日本の文化は江南との共通性が多く見られるのは道理である。特に仏教文化は梁から来たと思われる。その梁書倭人伝の中に「倭者、自謂太白之後・・・」とあるように、倭人は自ら周王朝の後胤で江南に下った「太白(泰伯)」の子孫とわざわざ言う事からして、江南地方とは邪馬台国時代から交流があったと推論される。その後、隋が中国を統一する事で再度朝鮮半島を経由した交流に戻ったが、呉服の言葉にあるように、江南地方にある三国時代の「呉」は当時の絹織品生産地域で、中国文化の原点であった。


      蘇州市は歴史の古い都市である。その起源は今から2500年前の呉王闔閭の時代であり、その後、秦、漢、唐時代から現代まで、同一の敷地が脈々として使い続けられている。都市の敷地が変らずに活用され続けたという意味では、世界で最も古い都市であるといえる。2500年も同じ場所に、ほぼ同じ道と河が存在する。この最大の理由は、水を支配したことにある。南の太湖と北の長江、そして南北を結ぶ大運河の水利が2500年途切れる事無く続いた結果と言えよう。太湖から出た水は胥江川となって京杭大運河と蘇州城内に流れ込み、城内を流れる無数の運河(3横4直)を通り北西から南東へ流れ、葑門から外部へ流れ出る。


      この2500年の王都は過去に10回もの廃墟となる危機を乗り越え現在に至っている。全てが順調に行った都市ではない。筆者は、蘇州に12年住むようになり、南宋時代の地図「平江図」が極めて現状に近いことに驚いたが、南宋時代以降も現在まで4度荒廃の危機があり、見事に復活したことに驚きを感じ得ない。まさに蘇(よみがえ)る都市「蘇州」である。では、過去10度にわたる興亡の歴史をまとめることにしたい。


      蘇州城は今から2500年前の呉王闔閭の時代(紀元前514年)が起源であるが、一度目の廃墟は呉王夫差が越王勾践に負け、霊岩山で自害した時である(紀元前476年)。二度目が秦時代に項羽が秦へ反旗を翻した時である。項羽(紀元前232~202)は詩人ではないが、ただ1首のみ伝わる詩がある。24歳にして天下を取った風雲児であったが、漢の劉邦に破れる。それが、垓下の歌である。


      力抜山兮気蓋世  力、山を抜き 気、世をおおう
      時不利兮騅不逝  時、利あらず 騅、ゆかず
      騅不逝兮可奈何  騅、逝かざる いかんすべき
      虞兮虞兮奈若何  虞や虞や なんじを 如何せん


      秦を滅びた英雄も漢軍に囲まれ、周囲から故郷の楚の歌が聞こえる、名馬騅も走らなくなった、ああ虞美人、君を如何にすべきか・・・と泣く。それに応え虞美人は次の詩を作った。


      漢兵已略地    漢兵すでに地を略し
      四方楚歌声    四方楚歌の声
      大王意気尽    大王意気つく
      賎妾何聊生    せんしょう何ぞ生にやすんぜん


      大王様(項羽)の意気はもう尽きてしまいました。この私はもはや生きておれませんと剣を持って踊り、そしてその剣で自害する。芝居で言えば一番の見せ場である。虞が流した血の跡に生えたのが、虞美人草である。秦の始皇帝が紀元前210年に南巡で建てられた太守府大殿(子城内)はその時に焼失した。子城は漢時代に再び賑わいを見せ、三国呉の時代、孫権の母が蘇州人であった事も幸いして繁栄の時代であり、仏教文化が花開いたが、西暦280年に西晋に滅ぼされて隋時代までは興亡の時代が続く。写真は孫、権が母の菩提寺として立てた瑞光寺塔(西暦247年)である。邪馬台国の卑弥呼が居た時代と重なる。


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      三度目は西暦327年東晋時代「王郭干」が攻め込み、四度目には南朝の最盛期を作った梁末期、候景軍が西暦549年攻め入った。隋になると中国は再度統一され、蘇州は呉郡から現在の「蘇州」と改名され繁栄の時代を迎えた。特に煬帝による大運河の完成で、江南の地が繁栄することに大きく貢献した(江南の開発)。ただし運河建設は民衆の酷使の対価としてできたため、反隋運動の首謀者が蜂起(蘇州人朱燮と常州人管仲)、隋軍によって破壊の憂き目にあった(五度目)。


      唐から北宋時代は白居易の漢詩にあるように繁栄を極めた。「遠近高低寺間出、東西南北橋相望」と白居易が詠ったように六朝以来多くの寺院が建てられ284寺あったとも言われるが、現在は10寺にも満たない。また「緑浪東西南北水、紅欄三百九十橋」と言うほど多くの橋が建てられた(木製橋)。唐末は一時的に杭州銭氏が建てた呉越国の支配下にはなったが、江南開発が更に進んだ。龍徳2年(西暦922)、銭氏は今までの土積みの城壁を煉瓦積みにしている。


      宋代は「蘇湖(江淅)熟すれば天下足る」と言われるほど江南地方が発展した時代であった。北宋時代(西暦960~1127年)には手工業も発展、特に絹織物・版画などが有名になった。蘇州は平江府となり、すべての路面は青石などで舗装され、空前の繁栄となった。景祐1年(西暦1034年)蘇州知事となった范仲庵は、農業治水面以外に府学を創設、中国一の学問府を築いた。城を守る上で、古くからある城門のうち閶・胥・盤・婁・斉の5門のみを開き、後に葑門を開き、宣和5年(西暦1123)には城壁の積替えを行った。宋の時代の発明に、火薬と木版印刷があるが、木版は確かに蘇州に根付いたが、火薬(西暦1044年)はその後の金の侵略時に役に立つことはなかった。北方の金が侵略を開始した靖康の乱によって北宋は滅び(西暦1127年)、臨安(杭州)に逃れた皇帝は、紹興の和約(西暦1142年)によって淮河を国境としたが、建炎4年(西暦1130年)10万の金兵の侵略を受け,街は徹底した掠奪と破壊により闔閭以来1300年の王都は廃墟になった(六度目)。


      しかし,その打撃からすぐ立直り、百年後には前にまさる繁栄を誇るようになった。当時の街の様子は紹定2年(西暦1229年)平江図として石碑に刻まれており,現在の蘇州の市街も,基本的には平江図の時代からあまり変らない。6城門のうち胥門がふさがれ、閶・盤・婁・斉・葑の5門となっている。写真は平江図であるが、寺院仏閣や古橋はもちろん、木々まで細かく彫られている。よくぞ現代まで残ってくれたと思わんばかりである。この石碑は人民路蘇州中学南の文廟、石刻博物館内にある。


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      七度目の大破壊は異民族によるもので、元朝(西暦1270年)である。平江図石碑(西暦1229)創作からわずか40年後その景色が一変したが、幸い石碑の様に復興した。元代は平江路と呼ばれ、当時の人口は蘇州歴史上最大の240万人(城外も含む)、生糸による手工業が発展した。蘇州に隣接する太倉は当時外国との貿易港として繁栄した。元末西暦1356年、紅巾の乱に乗じて挙兵したのが「張士誠」であるが、蘇州城内子城に入り王府と称し、1800年ぶりに王都を宣言したが、明王朝を築く朱元樟による10ヶ月間の攻防の後、壊滅的破壊に会い、子城も原形を留めない状態になった(八度目)。


      明時代は蘇州府となり租税免除もあったので、一時的には人口194万人までに復活、農業生産は全国の11%にもなった。合わせて繊維産業の発展により、政府は皇室のために「織染局」を設けた(西暦1574年頃)。明から清の時代には蘇州城内より閶門を越えた西方面が繁栄した。


      九度目の災難は抗清戦争によるもので、順治2年(西暦1615年)6月13日が最大の破壊を受けることになった。しかし、復興のほうもまた早く、乾隆24年(西暦1754)に徐揚が描いた姑蘇繁華図に見るように虎丘から城内西方向、南は霊岩寺に至る地域が多いに発展した。この姑蘇繁華図には50種類の産業が記載されている。まさに不死鳥の如く蘇州は復活した。


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      十度目の破壊は、太平天国の乱による。咸豊10年(西暦1860年)、忠王李秀成が拙政園に隣接する地に忠王府(写真)を作った。1863年12月清軍による破壊が蘇州の発展を止め、当時漁村であった上海が繁栄した。その後、蘇(よみがえ)る街「蘇州」は現在のようになった。1912年に呉県・長洲県・元和県が統合して呉県となり、1928年に蘇州市と改名、1930年には再度呉県にが編入されたが、解放後1949年に再び蘇州市と改名した。


      十度にわたる戦火で破壊と建設を繰り返したが、筆者が調べるに、ほぼ1960年代までは大きな変化はなく、文革後が最も大きな変化だったかもしれない。近代鉱工業の発展と経済成長、自動車の普及によって城郭は取り壊わされ、運河は埋められ、橋は平橋化され、城郭内は大きく変わって行った。つい60年前までは、姑蘇の街と同じようであった。


    2016.12.09

    太湖の南、「徳清県古橋群」を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】Vol.61 (読む時間:約2分半)

    • 徳清県は中華人民共和国浙江省湖州市に位置する県である。太湖に面する湖州市から国道25号線を南に30Km、杭州市からでは北へ25Kmの地点にある(地図参照)。武康鎮・新安鎮・新市鎮・雷甸鎮・乾元鎮・莫干山鎮などが含まれる。徳清県武康鎮には防風山・獅子山・虎山・塔山・西茅山・銅官山などの山々があり、そこから石橋に最適な凝灰岩が産出、“武康石”と呼ばれた。この徳清県の山からとれる耐久性の高い武康石は、白色の中に紫が輝くので、重宝された。武康石の名前は宋代文献に記載され、その産地名から、“湖州武康石”と呼ばれた。


      武康石は火山噴出岩に属する凝灰岩で、それの性質は適度の硬度(耐摩耗性)を有し、自然状態では藤色あるいはきつね色(黄色)を呈し、表面は風雨を経過浸食すると酸化して美しい紫となる。古代から紫は高貴の象徴で、人々はこの石を“武康の紫石”と称した。現在でも、大型の建築資材や芸術的デザイン石として使わる。武康石は適度な吸水性を備え、湿潤な岩体は古風で質朴でかつ美しい。武康石は砂岩であるので平加工ができ、表面は渋気性を備え、雨に濡れても滑ることがなく、石橋や街路石の材料となった。


      凝灰岩は、火山から噴出された火山灰が地上や水中に堆積してできた岩石。成分が火山由来であるが、生成条件から堆積岩(火山砕屑岩)に分類される。典型的な凝灰岩は数ミリ以下の細かい火山灰が固まったもので、白色・灰色・暗緑色・暗青色・赤色・薄紫色と様々な色がある。塊状で割れ方に方向性はない。凝灰岩は層状構造(層理)を持たないことも多いが、大規模な噴煙から降下した場合や水中でゆっくり堆積した場合は層状をなすこともある。細かい細工には不都合だが、塊状や切石の形で用いられる。


      特に宋の王都開封の皇族がこの湖州武康石を好んで多く使った結果、品不足となり、元代以降は太湖産の青石(どちらかと言えば黒褐色)や花崗岩(白石)が主となった。その後、同じく品不足となると清時代以降は武康黄石(黄褐色)が使われた。


      この何も無い田舎の徳清県に宋・元代の古石橋が多く点在し、国保級(全国重点文物保護単位)が七つ、省保級が五つもある(表1)。中華人民共和国が指定する全国重点文物保護単位(全国重点文物保护单位)とは、中華人民共和国の文化遺産保護制度の一つ。中華人民共和国国務院が制定した文化遺産保護制度のうち、国家級の文化遺産に対して制定される名称で、現在4296件がリストされている。蘇州市で国保級の橋は、同里の思本橋、呉江の東廟橋、呉中の宝帯橋の3つであると思えば、この狭い場所に七つもあることに驚きを覚える。その最大の特徴は、地元産とは言え貴重な“武康紫石”をふんだんに使っていることである。是非とも国道25号線沿いに展開する国宝級の古橋を訪問することをお薦めする。筆者いち押し推薦の橋は「寿昌橋」である。


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    2016.11.22

    春秋戦国時代の貨幣制度 -後編- 【蘇州たより 工藤和直】Vol.60 (読む時間:約5分半)

    • 春秋時代後期、呉王「夫差」は西国の楚、北国の斉、南東の越を凌駕し、春秋時代の五覇の一つとなった。その背景には他国にない青銅器技術(刀剣)があったからだ。越国から献上された中国四大美人「西施」と霊岩山(姑蘇台)の館娃宮で国政を疎んじ、ついには越王「勾践」によって滅ぼされた(紀元前473年)。この大国「呉」がどのような貨幣を使ったのか?春秋時代の最大の謎である。文化圏としては「楚」に影響されたと思われるが、埋蔵品の中には楚国で使われた金貨や蟻鼻銭が見つかっていない。西施はどのような貨幣を日常使っていたのであろうか?


      1.春秋時代末、西施が使った貨幣は金・銀


      春秋時代後期、呉越の戦いの中、史記越王勾践世記に楚に「三銭之府有り」、三銭とは黄:金銭、白:銀銭、赤:銅銭である。呉に勝利した越は金・銀・銅を使っていたということである。西施の買い物のエピソードが一つある。干将橋を渡り干将西路に入ると学士街となるが、第一直河を渡ると剪金橋巷の入口になる。そこから南下して道前街近くにあったのが剪金橋である。春秋時代、呉王夫差と西施は舟遊びでこの橋で降りようとしたが、まだ化粧をしていないので急ぎ用意したが生憎口紅がなく、急ぎ女官に買うように命じたが銀両がなく、呉王夫差が頭に付けた金の簪の先を取り去って女官に買うようにと命じた。庶民は「呉王が剪(取り去った)金で口紅を買った」と称し、この橋を剪金橋というようになった。重要なことは、西施は銀貨を使っていたということであり、また金が貨幣としても使われたということである。


      蘇州から無錫に抜ける国道312号線沿いに滸関鎮がある。そこに真山と言う小高い山がある。ここは真山東周墓地と言われ、呉国に流れた周王朝末裔の墓地である。ここは春秋戦国時代にかけての墓地であるので、その埋蔵品から当時使われた貨幣を推測することが出来る。多くの埋蔵品は玉器や神前に使われた青銅器や須恵器である。その中にある貨幣は貝貨が多いが、陶器の貨幣(陶冥幣)が見られる。その表面に書かれた文字には「郢爰(えいしょう:戦国時代の楚の金貨)」と記載されている。すなわち一般生活では金貨が使われていたと言う事である。不思議な事に、楚国で流通した蟻鼻銭(銅貨)が埋蔵されて無い。


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      では、一般庶民はどのような貨幣を使っていたのか?実に不思議である。戦国末になると楚の影響があるのは理解できるが、春秋戦国時代に一度は中原に覇王として名を連ねた大国である。また青銅器文化に関しては、呉の銅剣は世界史上でも名刀と言われるほど進んだ国であった。従って当然ながら青銅器の貨幣があったはずだが、多くの遺跡から埋蔵される例が極めて少ない。東周以降、青銅塊(鋳造用の青銅の塊)が貨幣として使われた可能性が示唆されている。高価な銅インゴットは当然、貨幣ともなった。長江以南で見られる貨幣に“魚幣”がある。写真で見るように、魚の形か釣道具で使いそうな青銅である。楚国には見られない貨幣である。また南の越国では“戈幣”と言う武器の戈に似た貨幣が使われている。呉国の一般庶民は、この“青銅塊”・“魚幣”のいずれかを使っていたと予想される。


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      2.円孔円銭から方孔円銭への変遷


      西域の後進国であった秦は、紀元前359年に商鞅の政治改革策(変法)を推進し、強大な軍事力・政治力によって戦国時代を終わらせる統一国家を実現させた。その過程のなか中原主体の貨幣制度は、秦の貨幣制度に取って変わり、「半両」を主とする度量衡制へ移って行った。他国は秦国の半両を参考にして方孔円銭を発行して行く。この「方孔円銭」は秦がスタートとなり、その後2100年間に渡り中国やアジアの標準形状になった。


      【斉の方孔円銭】


      秦は紀元前230年頃から約10年でその圧倒的軍事力で中華統一を実現するが、最後に 滅ぼしたのが斉国である。斉は長く刀幣が使われたが、秦の勢力拡大とともに、刀幣に使われた文字をそのまま円銭に用いている。円孔円銭の例として斉陰(写真7左)があるが、数は少ない。秦の影響は戦国晩期になって大きくなったと思われる。写真7右が、「貝益(貝偏に益)化」である。貝益は宝という字だといわれていたので「宝化」に近い字である。「化」は「刀」とも言われる。小型の貨幣で直径2~2.4cm、重さ2.5g前後である。写真7中央が「貝益六化」といわれる方孔円銭で直径3.5cm重さ10gである。


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      【燕の方孔円銭】


      東北の地にある燕への秦の影響は同じく戦国晩期になる。「一刀」「明刀」「明四:写真2右」などである。明は刀銭から継承した文字であり、「刀」は斉と同じく「化」とか「貨」の意味であろう。明四の大きさは直径2.9cm、重さ6g程度である。


      【趙の方孔円銭】


      「藺」字の方孔円銭が円孔円銭の後に作られた。「離石」が無いことから山西省離石が秦に略奪される前と時代的には当たる。


      【秦の方孔円銭】


      秦の統一政策は郡県制を全国に拡大、法家思想(法治国家)の採用、交通網の全国整備に始まり、暦の統一・文字の統一・度量衡の統一・貨幣の統一などで中央集権政権が確立し、その後2000年間清王朝までに及ぶ政治体制基本が確立した時期でもある。「半両」による貨幣の統一(始皇帝時代に完成はせず、漢時代に完成)はその後東南アジアを含むアジア各国の貨幣が同じく方孔円銭になったと言う点でも非常に画期的な出来事になった。古代中華では宇宙は円であり、大地は四方であることからこの形状が使われ出し、青銅器鋳造時に発生する「バリ」取りには、方孔の方が一度の作業で終わると言うことで、貨幣は「方孔円銭」になった。


      秦は他国に先駆けて円銭貨幣を発行、「両銖制」を採用した。一斤=16両(249.6g)、1両=24銖=15.6gとなり、半両は7.8g重さとなる度量制であった。これは魏の布銭や楚の銅貝との互換性(交換性)から貨幣に重量を記載した。写真8左は秦が統一貨幣として使用した「半両」である。半両は恵文王2年(紀元前336年)に発行始め、始皇帝が中国統一の後に貨幣制度の中心となった貨幣である。始めは重量が重要であった秤量貨幣であるが、秦が強国になるにつれ、貨幣は重さより一個あたりの価値が定まり数量で管理する個数原理性へと変わって行く。現代の国家の信用に基づく貨幣制度に統一されていくのである。写真中央が秦の近隣で使われた「両甾」である。甾とは重量を表し、12銖=両甾となり、秦の半両と同じであるということである。写真8右が文信と言う同じく地方で発行された貨幣である。文信とは秦の宰相「文信候呂不韋」でこの貨幣は文信候の封地で作られたものだ。直系2.3cm、重量2~2.5gと小さい。(写真銅銭は著者収集の貨幣)


      参考文献:中国の貨幣制度「秦の半両から始まった」【蘇州たより vol.18 】
           上海博物館蔵銭幣(先秦銭幣)
           古銭文字(戴志強・戴越)
           中国貨幣の歴史(日本銀行金融研究所)


    2016.11.05

    春秋戦国時代の貨幣制度 -前編- 【蘇州たより 工藤和直】Vol.59 (読む時間:約9分)

    • 中国史において、春秋戦国時代は紀元前770年に周が都を洛邑(咸陽)へ移してから紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。この時代、周が東周と称されることから、東周時代と称される。紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦国時代と分けることが一般的であるが、春秋時代の終わり・戦国時代の始まりについては諸説ある。晋の家臣であった韓・魏・趙の三国が正式に諸侯として認められた紀元前403年とする説、紀元前453年に韓・魏・趙が智氏を滅ぼして独立諸侯としての実質を得た時点を採る『資治通鑑』説の2つが主流である。


      この他に、『春秋』は魯哀公十四年(紀元前481年)に「獲麟」(麒麟を獲た)の記述で終了するので、これをもって春秋時代の終わりとする説、『史記』の『六国年表』が始まる紀元前476年とする説など多々ある。清朝の歴史学者「顧炎武」によれば、春秋と戦国との時世の違いは、春秋の時はまだ礼と信を重んじたが、戦国はこれを言わないこと。春秋はなお周王を宗としたが、戦国はこれがないこと。春秋は宗姓氏族を論じたが、戦国ではまったく論じなくなったことと称している。


      春秋時代に周王は政治の実権を握っていなかったが、依然として精神面の中心であり、諸侯は王に次ぐ2番目の地位たる覇者となろうとしていた。それに対して戦国時代は、諸侯自らがそれぞれ「王」を称して争うようになり、残っていた周王の権威は殆ど無くなった。この時代を「周の統一時代が終わって分裂状態になり、最後に秦によって再統一された」とする見方は間違いである。秦自体は周のはじめから存在した国ではなく、いわば後から中華という枠組みに参加してきた国家である。他にも南の楚は元々自ら王号を称える自立した国であった。また東北についても斉や晋などの国により領域が拡大され、秦が統一した領域は周が影響を及ぼした領域よりも遥かに広いものである。


      周辺部だけではなく、内地に関しても大きな変化が起こった。春秋時代の半ば頃まではそれぞれの邑(村落)が国内に200以上点在し、その間の土地は必ずしもその国の領域に入っている訳ではなく、周(もしくは周の諸侯)に服属しない異民族が多数存在していた。しかし時代が下るにつれ、そうした点と線の支配から面の支配へと移行していった。政治制度においても、それまでの封建制から郡県制へと移行する段階にあり、思想においても諸子百家と呼ばれる思想家たちが登場し、様々な新しい思想が形作られた。この時代はありとあらゆる物が新しく誕生し、後に「中華」と呼ばれることになる世界がこの時代に形成されたと言える。鉄製農具の発展による大規模農業とともに、鉄や銅の鋳造技術や塩などの商工業の発展は、統一国家の出現につながった。政治の面では法治国家(秦商鞅の政治改革変法)の胎動であり、孔子・孟子・老子・孫子などの諸子百家の出現は、人間としても基本姿勢が出来上がった時代になる。要は、現代21世紀の人類にとって、科学文明をのぞく大半はこの春秋戦国時代に完成したと言っても良い。筆者はその中で貨幣経済の変遷を多くの文献から調査したが、最終的には「秦」の国家統一に繋がる過程に、辺境の西戌と言われた民族が、「中華」と言う大理念を現在まで伝える国家となったことに驚きを感じる。日本人が使う「五円玉」ですら、秦に繋がると思うと実に楽しい反面、非常に怖い一面も見るに至る。


      1.殷商から西周時代の貨幣


      中国で最古の貨幣は南海産の子安貝であった。殷代の墓中から多数発見されている。その後青銅器時代となり、子安貝と同形状の銅貝貨が作られるようになった。西周当初(都は鎬京)に多く見られる。西周晩期から東周初期いわゆる春秋時代になると、この銅貝貨とともに原始布「空首布」となる「銭:qiang」「鎛:bo」など農耕具に似た青銅貨幣が使われ始めた。どちらかと言うと鉄板焼きやお好み焼きで使う「ヘラ」に似た形状である。ヘラの先に穴があり、そこに木製の柄を入れるが、そこを「銎:qiong」と言う。それが「銭:qiang」になったと推定される。また鍬や鏟の「鎛:bo」と発音が似ている「布:bu」になったと言われる。原始布「空首布」は当初200g近い重さであったが、次第に形状が小さく鍬に近い形状になっていく。春秋時代に金属貨幣社会が大きく変化することになった。


      刀幣は周王朝とは離れた斉や燕国で発展した。遊牧民との関係が大きいといえる。刀幣は小刀のような実用器が贈呈品となった経緯がある。小刀(約20g前後)はこの時代重要な道具であった。それは漢字と関係があり、木簡や竹簡に書いた時代、誤字の修正に用いたのが小刀(刀幣)であった。


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      戦国時代は七雄が戦った時代は西の戌と言われた「秦」によって統一される。秦は戦国当初、文化レベルが低い民族で放牧(特に馬の生産で周王朝から秦王を認められた)を中心としたが、貨幣経済も見様見真似であったと思われる。紀元前359年、商鞅による政治改革(変法)以降、三晋の魏で作られた貨幣と同等に価値(重量)を持つ円銭を発行するに至り、秦独特の貨幣経済が発展して行った。最終的には秦の中国統一によって、貨幣は秦の用いた「円銭」が統一貨幣となったが、統一前に始皇帝が死亡、途中段階で終わる。そして現在に至る貨幣「円銭」は漢の時代に完成するのである。


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      2.円(圓)銭の普及と地域性


      円銭には中央部が円孔の「円孔円銭」と中央部が四角孔の「方孔円銭」の二種類がある。「円孔円銭」の発生は戦国中期にあたり、三晋(紀元前403年、晋が魏・韓・趙に分裂)の一つ魏で作られたのを起源にするが、東の隣国(東周)や秦にも影響した貨幣である。中央部の円孔は当初は小さいが、時代とともに大きくなっている。「方孔円銭」は戦国晩期、秦を起源とする。秦が中国を統一する過程で、東部の斉や東北部の燕においても普及した。漢字表示も場所を示したものから重量を記載するように変化していく。円銭の起源は宝石や装飾品の「璧」:ドーナツ状の玉である。玉以外に石や貝殻もあり、中央に穴をあけたもので殷の時代には富の象徴(ネックレスなど)であった。その後青銅鋳造され秤量貨幣として使われ、円穴の利便性から小型化が図られた。この円銭は三晋のひとつ魏で最初に作られた。


      【魏の円孔円銭】


      写真1左が代表的な「共」字円銭である。漢書地理誌によると、載河内郡に「共県」現在の河南輝県の地名、直径4.4cmで15gにもなる大型貨幣である。同じく「共屯赤金」があるが、赤金とは「銅」の意味である。「垣」字円銭は載河東郡「垣県」産である。写真中央「黍垣一釿」、黍垣とは漢書地理誌に寄ると、上郡蜀県に「漆垣」がある。直径3.7cm、重さは12gである。現在の陝西省銅川になる地域名であり、時代的には紀元前312年に当たる。写真右が「襄陰」、襄山の北、現在の山西省芮城北になる。直径3.5cm、重さ11g。


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      【趙の円孔円銭】


      写真2左が「焸」字円銭である。同種で「離石」字円銭もある。現在の山西省離石に当たる。直径3.5cm、重さ11g。中央が「廣坪」字円銭である。現在の河北省曲周の北に当たる。


      【東・西周の円孔円銭】


      周王朝は紀元前771年に幽王が敗死した後、都を西の鎬京から東の洛邑に遷都した年を境に、それ以前を西周その後を東周と呼ぶ。いわゆる春秋時代に突入するのである。中原にあり中華文明の発祥の地であり、当初は「布銭」を中心とした貨幣経済であったが、その便宜性により「円銭」が普及始めた。写真3左は「東周」字円銭である。現在の河南省「鞏県」付近で作られた。直径2.5cm、重さ4gと小ぶりである。紀元前367年、西周の恵王が末子班を封じて東周と称した時代である。右が「安蔵」字円銭である。洛陽付近で作られ、元々は空首布(布銭の前に作られた原始布)であったが、円銭にも同じく「安蔵」字が付けられた。直径4cm、重さ11g。


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      【秦の円孔円銭】


      秦の銭発行は「史記」によると、秦始皇本記に恵文王「立二年初行銭」とある。恵文2年は紀元前336年になる。その後始皇帝37年(紀元前220年)に複行銭とあるから、秦始皇帝は初めて貨幣発行でなく、その以前から半両銭の前に銅貨の発行が国を挙げて行われていたということである。秦は西の辺境にあったがため、中原の貨幣経済からかなり遅れ、その制度は借り物でスタートした。写真4の左から「重一両・十四・一珠」「重一両・十二・一珠」であるが、十四・一珠は楚の銅貝10個と十二・一珠は魏の二釿布と交換を可能とした。その上、隣国との互換性があるように重量を記載した貨幣であった。他国の貨幣が多くは発行の地名を刻印するのと違い、秦はその遅れた制度のため重量単位を刻印して他国との同等であることを証明しようとしたものである。いずれも直径3.8~4.0cm、重さ12~15gになる大銭である。右は「半圜」である(□を省略した文字)。直径3cm、重さ10g以下の小銭もある。


      3.楚の蟻鼻銭


      青銅貨幣の前は子安貝などの南海産の貝殻であったが、その形状をそのまま青銅にしたのが、銅貝貨といわれる「蟻鼻銭」である。春秋時代の布銭より実用化された貨幣である(写真5)。貝の貨幣以降一番原始的な銅鋳造貨幣とも言われる。現在、楚国の中心であった湖北省、安徽省、湖南省、江蘇省の北部、山東省などに多く見られる。楚の国に限定した非常に地域性の強い貨幣である。表面には無地から君・均・金・行など土地の名前ほかが記載され、しかも非常に重さにばらつきが大きいことから秤量貨幣(重さを基準にした)として使われたと思われる。呉王「夫差」時代に呉国の貨幣制度は不明点が多いが、楚と同じ蟻鼻銭を使った可能性は埋蔵品からみて稀有と予想される。


      4.楚の金版と金餅


      楚国は春秋戦国時代一番金が採掘された地域である。楚は長江中流域を中心に中原とは異なる独自の文化を有した強国であった。現在の河南省、山東省、江蘇省、安徽省、湖南省に中心となった湖北省と非常に広い地域である。中国歴史上、金を唯一貨幣に使った国であり、その後も歴代王朝は金を貨幣として使うことはなかった。それは、金を有する者が王位に着く可能性が高く、商人から王になることが可能になるからである。日本は、室町時代後期豊臣秀吉の時代が世界で一番金が採掘された時代であった。その財源にて朝鮮国・明国への遠征など、途方もない計画を推進し失敗した。背景には当時世界一の採掘量の佐渡金山があったからである。その後江戸時代も慶長小判など金貨が銅貨と同じく貨幣として使われた。楚は最終的に秦に滅ぼされるが、秦の目的は楚の金であったともいえる。その秦王朝に反旗を翻したのが楚人の「項羽」であった。


      中国最古の金貨「郢爰(えいしょう)」は、写真6のように小さい刻印を連ねた板チョコレート状に作られ、一個一個切り離して使われた。郢は楚の都の名前で、現在の湖北省江陵市・沙市付近である。爰とは重量単位を表す。また銅貝「蟻鼻銭」が普及した範囲と重なる。


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      (写真銅銭は著者収集の貨幣)


      参考文献:上海博物館蔵銭幣(先秦銭幣)
      中国銅銭の世界(宮澤知之)
      中国の貨幣制度(秦の半両から始まった)【蘇州たより vol.18 】


    2016.10.17

    ソウル城門城壁跡「漢陽都城」を歩く 【蘇州たより 工藤和直】Vol.58 (読む時間:約2分)

    • 「ソウル」は固有語で「みやこ」を意味する。李朝時代までは漢字で漢陽・漢城・京都と書いて「ソウル」と読んでいたが、現代の韓国・朝鮮語では漢字の訓読が廃止されたためハングルのみで表記する。西暦1396年(太祖5年)、朝鮮王朝の都である漢城と外部との境界を示し外部からの侵入を防ぐために、全長18.6kmにも及ぶ城壁が築造された。漢陽都城(ハニャントソン)と呼ばれ、現存する世界の都城のなかで最も長く都城としての役割を果たしてきた一つといわれる。日本統治時代と光復後の開発のため、かなりの部分が破損されたが、発掘と復元事業により以前の姿を取り戻しつつある。最近では、都城全体の約70%が復元された。


      1396年、李成桂がまず着手したのが城郭の建設であった。当初、土の城壁であったが、15世紀になって石城に改修された。下に南大門が見える写真があるが、城壁としては厚みもなく、人の侵入を防止する程度であった。その後、長い歴史の中で城壁は発展の妨げになり次第に荒廃していく。20世紀に入ると、ソウル近代化計画の一環として平地の城壁は撤去されてしまった。


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      ソウルの都市中心部は、内四山と呼ばれる山々によって囲まれている。内四山というのは、北に北岳山(342m)、東に駱山(125m)、南に南山(262m)、そして西に仁王山(338m)の4つの山を指す。ソウル城郭はこの4つの山を結んで、一周するように建造されており、全長18.6kmに及ぶ。そして、城郭の内部と外部とが通行できるよう東西南北に四大門を築き、更にそれぞれの四大門の間に四小門が建造された。四大門は、真北に北大門(粛靖門)、真東に東大門(興仁之門)、真南に南大門(崇礼門)、真西に西大門(敦義門)からなる。四小門は、西北に北小門(彰義門)、東北に東小門(恵化門)、東南に南小門(光熙門)、西南に西小門(昭義門/昭徳門)から構成される。


      これら4つの대문(大門)と4つの소문(小門)を結んだ城郭歩きのコースがソウル城郭道(漢陽都城)である。ほとんどの門と城郭は、その跡地を残すのみであるが、城壁の上からは、600年前の王朝時代の面影と現代の大都市の姿とを併せ持ったソウルの姿を垣間見ることができる。下の城門写真はかつてあった昔日の姿である(北大門は新築された現在の写真)。


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    2016.10.03

    青島ビールと即墨老酒 【蘇州たより 工藤和直】Vol.57 (読む時間:約3分)

    • 青島には二つの酒がある。一つは皆が思い付く青島(チンタオ)ビールである。もう一つは2300年の歴史を誇る即墨(ジーモー)老酒である。青島ビールは115年の歴史をもつ中国で一番古いビールのひとつである。主力工場は青島駅から北東に約3km行った台東地区にある(青島市登州路)。即墨老酒は、青島ビールからほぼ北に50km、春秋の時代から同じ名前を持つ「即墨」の銘酒である。即墨は青島が出来るまでは山東省東部で最大の都会であった。即墨故城は春秋時代に古硯鎮大朱毛村一帯にあった南北5km、東西2.5kmの外城と内城から成る古代都市である。その歴史は紀元前567年春秋時代になるので、2600年の歴史が漂う。


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      青島麦酒(チンタオビール)は、1903年に山東省青島で製造が始まった、ビールのブランド。中国で最も古いビールのひとつである。青島は1898年よりドイツの租借地となり、租借地経営の一環としての産業振興策としてビール生産の技術移転を行った。1903年ドイツの投資家がこの地でのゲルマンビール青島株式会社を興してビール製造を開始、ドイツのビール醸造技術を採用したのが始まりである。1914年、第一次世界大戦で日本がドイツ権益であった青島の租借権等を引き継ぐことを認められ、その一つであった青島ビールも日本の大日本麦酒が買収し経営を行うこととなった。大日本麦酒は設備を拡大して、この工場で札幌ビールと朝日ビールの製造も行なった。1922年の山東還付条約によって山東半島に関わる日本側の諸権益は中華民国に返還されたが、青島ビールの経営は引き続き大日本麦酒が行った。1945年の日本の敗戦によって青島ビールの経営権は中国側に完全に接収され、中華民国及び中華人民共和国国営企業による経営が行われた。青島ビールはドイツと日本の技術がブレンドされたものといえる。現在世界5位のシェアーであり、燕京ビールとともに中国トップシェアー銘柄であるのも不思議でない。青島では、飲食店でビールを注文する時、銘柄でいうのでなく工場のナンバーで注文を出す。第一工廠(一厂)、第二工廠(二厂)、第五工廠(五厂)と言った類だ。工場の違いが味の違い、個人の好み(辛口・甘口・にがみ・きれ・アルコール度)の違いになる。写真は第一工廠製造のビールである。そして読者の方に言いたい、「青島ビールは、青島市製造品を青島で飲むのが一番うまい」。


      老酒とは黄酒(紹興酒もその一つ)を長く寝かせた醸造酒で、長江の南の紹興酒は糯(もち)米に小麦麹を使うのに対し、北の即墨老酒は黍(きび)に米・麦麹を使う。黄酒がアルコール度15~18度に対し、即墨老酒は11度足らずと実に飲みやすい。色は薄い琥珀色から紹興酒のように醤油色があるが、濃い色にも関わらず非常にまろやかである。黍を焙煎して作るのでやや焦げ臭いのが特徴である。この即墨老酒には2300年前の経緯があるのに驚いた。


      紀元前284年戦国時代、燕の将軍「楽毅」が、5か国連合軍を率いて斉を攻めた。斉の首都「臨淄」をはじめ小城70余城がことごとく陥落する中、莒と即墨の2城のみがとともに斉側に残った拠点となった。その後数年に渡る篭城攻防の末、即墨は、将軍「田単」の登場によって落城することなく、また彼の活躍によって斉は国土を再び回復することができた。即墨老酒は将軍「田単」が燕との戦いの前に兵士と飲み、ついには燕軍を破る大勝利となったという縁起物の黄酒である。勝負事がある時或いはお祝いの時に飲む酒となった。


      さあ、今宵の中秋の名月、ドイツと日本の技術による青島ビールでまず乾杯し、戦国時代に起こった2300年前の故事を思い出しながら、家族や友と一献どうであろう。「みなさんと乾杯!」


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    2016.09.22
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