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コラム「蘇州たより」

鄭州「商(殷)代遺跡」と「日本領事館跡」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.70 (読む時間:約3分)

    • 中国では、西安(かつての長安)・北京・南京・洛陽の四つの歴史的な首都を「四大古都」と呼ぶ慣わしがあった。ところが、歴史学者らの主張によって1920年代に開封(北宋の都)、1930年代には杭州(かつての南宋の都、臨安)がこれに加えられて、「六大古都」の呼称が生まれた。1988年、地理学者の譚其驤は商(殷)の都の跡である殷墟を評価してその所在地である安陽を追加するように提案した。また2004年、中国古都学会は、商(殷)の時代以降3600年の歴史を持つことから、河南省鄭州を追加した。その結果、今日では以上の8都市(西安・北京・南京・洛陽・開封・杭州・安陽・鄭州)を「八大古都」と呼称している。


      鄭州市にある二里岡遺跡は1951年に発見された。商(殷)王朝の初期の中心地と考えられており、商(殷)後期の甲骨文占卜に記された建国者天乙(湯王)の亳という都市になる。二里岡文化は商王朝の初期段階ととらえている。一方、欧米の考古学者らは、安陽市で発見された商(殷)後期の殷墟とは異なり、二里岡からほとんど文字資料が出土していないため、二里岡を商王朝初期と結びつけることに慎重である。二里岡遺跡のほとんどは現代の鄭州市街の下にあるため発掘が困難である。湯王は当初都を亳(現在の商丘)としたが、あとに鄭州に遷都した。紀元前1600頃なので、3600年も前である。この時に都名を前の亳とし、前の亳を「南亳」と改名した。


      商代遺跡は周囲約7kmの城壁に囲まれた都城で、三重構造であった。現存の内城は北東部がややつぶれた長方形であり、下図のように北壁1690m、西壁1700m、南壁1870m、東壁1740mである。東と南壁がかなり完全に保存されており、東壁部を見ると高さは5m、幅は10~17mとばらつきがある。城壁上部は散歩も可能である。南東部には高さ10m以上の土壁がある。外城は円形で内城から0.5~1.5km離れている。この城郭スタイルは奉天(瀋陽)城でも見られ、「天円地方」の世界観に結びつく。内城の東北部に宮城がある三重構造だ。東大街が東部城壁を交わる公園に、商代亳都都城遺跡の石碑があった。城壁の外に骨器や陶器を作る大きな工房群が位置していた。工房の中には、二つの青銅器工房も含まれ、大型青銅器が発掘された。商代遺跡は商当初紀元前1600年~1400年頃の湯王の都城とされ、二里岡文化と重なる。鄭州市中央には3600年前の世界最大の古代都市が埋まっているのだ。


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      3600年前の城壁を見た後に鄭州駅に向い、途中80年前に建設された「鄭州日本領事館跡」を訪問した。鄭州駅から東南700m程である。駅前の福寿街から敦睦路を南に下り、東西馬路の交差点を左折する。交差点の周囲は商業ビルが乱立している。東馬路もほとんど市場の中にある。ここは、戦前に中国内で最後に建設された日本領事館であった。1929年からの中国政府との交渉の結果、1931年2月に漢口(武漢)総領事館の管轄のもと、駅前の福寿街109号に初代領事「田中庄太郎」が開設したが、9月18日の満州事変により領事館を一時停止、その後1935年秋に再度漢口から派遣された領事館員によって設立準備、1936年1月に現在の東馬路80号に正式開館したものである。しかし、1937年7月に起こった盧溝橋事件のため8月9日には一端閉館となり、領事館員他が鄭州を去った。一年半余りしか使われなかった日本領事館であった。日本人租界地でないこの中原の地に領事館を開館した背景は資料が乏しいので詳細不明であるが、明らかに中国大陸内部への進行を意図したものであろう。領事館前はいつも買い物客で混雑している。玄関右横に石碑(領事館跡)があり、裏にはもうひとつ領事館付属の建屋があった。3600年を1mとしたら、80年間はわずか2cmになる。


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      戦前、中国大陸に日本領事館が関東州含む旧満州に18ヵ所、その他に張家口・天津・青島・煙台・済南・上海・蘇州・杭州・南京・蕪湖・九江・宣昌・漢口(武漢)・沙市(荊州)・重慶・福州・厦門・汕頭・広州、そして鄭州と20ヵ所あった。


      参考文献:旧満州に15ヵ所あった日本国領事館 【蘇州たより 工藤和直】Vol.41


    2017.04.26

    江沢民も訪れた濮陽市「戚城遺跡」 【青島たより 工藤和直】Vol.69 (読む時間:約3分半)

    • 河南省濮陽(Pu yang)市は、山東省都済南市から東南へ黄河を上ること250kmにある中堅都市である。街の中央にある戚城(Qi cheng)遺跡は古くは上古時代の五帝王「顓頊:せんぎょく」が住んでいた「帝丘」といわれ、春秋時代は「衛」の王都となった。戚城には7000年以上の歴史がり、顓頊の孫「禹」が夏王朝を開いた。衛(紀元前11世紀 ~紀元前209年)は、春秋時代から戦国時代にかけて河南省の一部を支配した春秋12諸侯のひとつ。12諸侯とは、魯・斉・晋・秦・楚・宋・衛・鄭・陳・蔡・曹・燕・呉をいう。衛の始祖は周の文王の九男の康叔である。康叔は周より衛君に封じられ、朝歌(紀元前11世紀~紀元前660)を都とした。


      懿公(いこう)は紀元前669年に即位してから鶴を好み、鶴を大夫の車に乗せ鶴に爵位を与えるなど淫楽奢侈な性格であったため、人民も大臣もみな服従しなかった。懿公9年(前660年)12月、北の異民族の翟(てき、狄)が衛を攻撃してきた。懿公は出兵しようとしたが、兵は従わず、大臣にいたっては「鶴が好きなら鶴に翟を撃たせたらよいでしょう」と言うありさまで、誰も懿公に従おうとはしなかった。懿公は少数の衛軍を率いて翟の軍勢と熒沢の地で戦ったが、懿公が旗を立て通したため集中射撃を浴びて戦死した。こうして衛は大敗、懿公は戦死後に人肉として翟人に食べられたという。鶴を愛するが故に身を滅ぼした懿公の愚行に対し、「懿公喜鶴」とか「懿公之鶴」という故事ができた。下らない物を重んじて大事を疎かにして身を滅ぼす行為のことをいう。


      国都は朝歌ののち紀元前660年に曹(滑県)、紀元前659~紀元前629年に楚丘(滑県の東)、紀元前629~紀元前241年に帝丘(濮陽)、紀元前241~紀元前209に野王(駐馬店市沁陽県)に遷都した。第8代頃侯の時、多くの財物を周王朝に献上したことから侯爵に叙された。第10代武公の時、周の幽王が犬戎に殺されると、兵を率いて犬戎討伐に駆けつけ、その功により周王室から公爵に叙された。その領土は狭いとはいえ、黄河流域の中原の中心地であり、先進地帯であった。しかし、それがため衛は周辺諸国との折衝に忙殺されることになる。紀元前660年には狄により滅ぼされたが、斉の桓公の助力により国を復活した。しかし、亡命時代の晋の文公を冷遇して他国へ去らせ、孔子を迎え入れた時にも同じく他国へ追いやるなど、優秀な人材が滞在してもすぐに出国してしまう状況であった。


      孔子は50歳(天命を知る頃)にして魯の大臣となったが、政局問題で53歳の時に弟子達を連れて諸国巡遊に出た。当時の平均寿命が50歳に満たない時に旅に出ると言う事は、今で言えば85歳の高齢者が車も新幹線もない旅をすることで、非常に過酷な巡遊だったと推測される。67歳で魯に戻るが、苦労の14年間であった。その旅は、魯(曲阜市)→衛(帝丘:濮陽市)→曹(陶丘:定陶県)→宋(商丘)→鄭(新鄭)→陳(宛丘:淮陽県)→蔡(上蔡)→楚(負函:信陽市)と彷徨するが、孔子を受け入れる国はなかった。衛に5年間、陳に4年間滞在したが、両国においては官位すら得られなかった。孔子の子弟に子路(孔門十哲のひとり)がいる。彼は衛の高官に引き立てられたが、王位争いの中で謀殺され、塩漬けにされて晒されたという。戚城の北に彼の墓がある。孔子60歳(耳従う頃)の時は、衛と陳を渡り歩いていた。70歳(則を越えずの頃)には魯で教育者として「春秋左氏伝」を編纂し、子路の惨殺の翌年に天寿を全うした。


      また、公族の一人であった商鞅は魏を経て秦に仕え活躍した。衛は戦国時代には韓・魏の半属国状態となり、紀元前240年には秦に事実上滅ぼされるものの、名目的には細々と続き、最終的には最後の君主・衛君角が秦の二世皇帝(胡亥)に廃されることで滅んだ(紀元前209年)。


      2008年7月の中国通信社の報道によると、この戚城遺跡は竜山文化遺跡(約4000年前)と重なり、発見された周囲1520m、南北405m、東西390mの城壁跡(高さ8.5m、幅15m)は、春秋時代の衛国の都城跡とほぼ同じで、春秋城壁は竜山城跡を基礎に建設されたものと推定された。五帝王「顓頊」が住んでいた可能性もある。中国5000年と真にいわれる時代が来るかもしれない。今後の発掘調査が楽しみである。


      戚城は春秋時代7度の会盟が行われた「諸侯会盟」の地として知られている。紀元前626年~紀元前531年の95年間の間に、周王朝は15回の会盟を行い、そのうち7度がここ濮陽戚城で行われた。その跡は「会盟台」として現存する(高さ4.6m、長さ20m×幅16m)。この地は春秋時代交通の要所であったということだ。戚城城壁は周囲1500m程度で、そのうち北と東の城壁がほぼ完全に残されている。下記写真のように、朝の散歩に城壁を一周することで7000年前の裴李崗文化・仰韶文化・竜山文化そして商(殷)・周・漢の文化を一望に散策できるのを特徴とする。1991年2月5日、江沢民総書記が濮陽で発見された油田を視察した際に戚城遺跡も見学、「春秋時代の連合国」と称した。


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      戚城遺跡は、濮陽駅から北へ1kmほど行った石化東路×古城路に囲まれた場所にあり、正門は国道212号線側にある。正門から入ると約100mで龍に乗った「顓頊」の石造がある。その奥から約400m四方の戚城城壁が見えて来る。城壁は版築工法で作られたもので、4000年以上経過しているが、保存状態は良好である。一部は金網フェンスなので保護されているが、大半は城壁の上を散歩可能である。一周しても1500m程度、約30分でほぼ戚城に内部を探索できるほど小さい。至る所に埋蔵物の調査が行われた痕跡があり、南門付近には江沢民が来た石碑が建立されている。さすがに鶴は居ないが、ちょうど春の陽気で白梅や紅梅が満開であった。


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    2017.04.03

    時間が止まった「濰坊市坊子」日本人居留地 【青島たより 工藤和直】Vol.68 (読む時間:約3分半)

    • ドイツは清国と「膠噢借条約」を締結した翌年の1899年に、青島から済南までの膠済鉄道の起工式を行った。膠済鉄道の敷設工事は、民間会社である山東鉄道株式会社が5,400万マルク(現在価格で1600億円)を投入して行われ、青島⇔済南間430キロメートルの本線工事、張店(淄博)⇔博山40キロメートルの支線工事を1904年に完工した。この鉄道敷設に従事した中国人労働者は1日に2万人から2万5千人と、まさに中国人民の血と汗による大突貫工事であった。1901年に青島から坊子まで、更に1902年には張店(淄博)と博山までの支線敷設が進んだ。1904年には青島⇔済南間の全線敷設が完工し、青島駅舎も建設されて盛大な開通式が挙行された。


      膠済線は青島を出ると、膠州・高密を過ぎ、やや遠回りするように坊子に左折し濰県(濰坊)に向かう。遠回りする理由は石炭の採掘に関係があった。坊子駅から南西1kmの坊子炭鉱で採掘された石炭は、積み出し駅として坊子駅に持ち込まれた。坊子駅は膠済線で最も重要な駅の一つであった。現在も構内には到る所に石炭の山(ぼた山)が取り残され、石炭の臭いがする。また構内には広大な操車場があった。下記写真は今も残るその跡地である。


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      坊子炭坑はドイツが山東省で最初に採掘を開始した石炭鉱山であった。1902年、この炭鉱で採掘された石炭が採炭列車で青島駅に到着した時、官民は大歓迎でこの列車を迎えたという。後年、この坊子炭鉱鉱脈の出炭量が急に減り別の鉱脈採掘に着手、結局坊子は閉山の方向に進んだ。この急な閉山によって当然坊子は忘れられ、人々が忽然と消えて濰県(濰坊)他に移住した。それが、今も残る街の廃墟とつながった。時間はその時から止まったままだ。かつての坊子駅は、今は貨物駅として営業されている。坊子駅舎正面左から駅構内に入る事ができ、昔のままの駅構内を探索することが可能である(下記写真)。


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      廃墟になった坊子の街は北東の駅に始まる。東西に伸びる膠済線から南の長寧街までの2km、東側は運河から西は北海路まで4キロの約8平方キロに広がる日本人居留地があった。下図のように、駅の前から一から七までの馬路が膠済線に並行に続く。一馬路は駅前通りで、駅や鉄道関係の庁舎や倉庫が並んでいる。街のメインストリートは三馬路であった。駅前は再開発中で、かつての映画館や郵便局が作られるようだ。西に行くと蔦の葉で覆われている横田旅館があった(写真)。一馬路西端には日本家屋が多く見られる。そこから文化路を斜めに下ると三馬路の交差点に出る。南東に日本電灯公司の廃墟が見える。対面はきれいな徳建豪華住宅「坊茨(fang Tze)小鎮」が並び、その入口に「坊子徳日建築群」の石碑があった。1918年7月11日創建の坊子神社は、三馬路にあった記載されており探索したが、痕跡はなかった。戦後移設した三馬路小学校が当時の神社跡かも知れない。


      坊子には日本人が1006人、戸数は399戸で、膠済線沿線では済南に次いで日本人が多かった。その人口構成は教員を含む官衙関係者が268人で、家族婦女子が520人、炭鉱勤務者は53人、その他様々な商売人が104人居た。坊子には新設の尋常高等小学校があったが、ドイツ時代はドイツ医院軍管学校であった。その施設を租借権が移った1914年以降、日本人学校とした。現在はドイツ人住宅「坊茨小鎮」の入口になっているが、玄関から中を見ると学校の教室であることが分かる。小学校の裏は現在坊子区文物局となっている。当時の教員数、児童数に関しての記録はないが、日本人婦女子520名の半分として250人ほどの児童がいたのだろうか。当時の門柱がガラスケース内に保存されているのを見て、少し異様な感じがした(写真)。


      学校の北側に日軍医院跡があった。まるで野戦病院である。更に西に行くと鉄道踏み切りがある。その角の北側にメルヘンチックなドイツ軍司令部があり、ちょうど改装中であった。周囲のドイツ建築物は改装中が多いが日本建築物はそのまま放置されている。その南側に唯一改装中の日本領事館坊子出張所の建屋があった。二階建てレンガ作りである。南側が玄関となっており、車留めの前に噴水のような池があった。


      参考文献:「青島物語」第19話


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    2017.03.16

    青島にあった「ヤマトホテル」 【青島たより 工藤和直】Vol.67 (読む時間:約5分)

    • ヤマトホテルは、かつて南満州鉄道株式会社が経営していた高級ホテルブランドである。1907年から1945年まで満鉄線沿線の主要都市を中心にホテル網を展開していた。日露戦争後、満鉄沿線に西洋人が快適に滞在できるホテルを確保することが必須であった。初代総裁・後藤新平が掲げる「文装的武備」の思想の下で多角経営を進めた満鉄は、ホテル網の展開も率先して進めていった。こうしてできたヤマトホテルは西洋人旅客を招致するとともに、満鉄の迎賓館としても機能する西洋式高級ホテルとなった。しかし、満鉄はホテルを鉄道事業と満州開発を支える手段と考えて採算を度外視したため、ホテル事業単体では利益が出ない体質だったといわれている。


      満鉄は1945年(昭和20年)の敗戦に伴い解体されたが、一部の旧ヤマトホテルは現在もホテルとして営業を続けている。大連ヤマトホテル(大連賓館)、長春ヤマトホテル(春誼賓館)、奉天ヤマトホテル(遼寧賓館)、ハルビンヤマトホテル(龍門大厦貴賓楼)などである。その他名前を上げると、旅順ヤマトホテル、大連星ケ浦ヤマトホテル、撫順ヤマトホテル、チチハルヤマトホテル、アルシャンヤマトホテル(モンゴル自治区)、牡丹江ヤマトホテル、孫呉ヤマトホテル (黒龍江省黒河市)、東安ヤマトホテルなどがあった。


      満鉄沿線でないのが、天津ヤマトホテルと青島大和ホテルである。山東省青島も満鉄の路線外であるが、不思議なことに「大和ホテル」がある。青島湾の桟橋方面から中山路を歩いて行くと、左側に百盛というデパートがある。その先の曲阜路の角を左に曲がると最初の四つ角右奥に旧大和ホテル跡(曲阜路13号)がある。当時の写真を見ると右から「大和ホテル」と読める。日本軍が1914年に青島を占領したのに伴い、満鉄は1915年から1921年まで社員を山東鉄道に派遣して経営にあたったというので、臨時的に大和ホテルの名を使ったかもしれない。当時は麻布通りと言われ、青島駅から北東の方向になる。現在は一階が店舗で二階・三階がアパートである。写真のように、ほぼ当時のままに使われており、入口玄関に繋がる石畳は百年の歴史を感じ、石の階段の踊り場には当時のタイルがそのまま残っている。玄関から入ると木の階段が二階に通じている。これも当時のままであろうと思われる。


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      では、その他ヤマトホテルについてまとめてみる(下表参照)。大連ヤマトホテルは旗艦店である。大連は欧亜連絡鉄道と上海航路との接続点であり、日本から満州への玄関口であり、そして満鉄が本社を置いた最重要拠点である。それ故、大連ヤマトホテルには欧米の一流ホテルに伍する格式が求められた。満鉄の設立から間もない1907年(明治40年)8月1日、旧ダーリニーホテルを改装して開業。大連一の格式ホテルだったが、客室数が13室と小規模で宿泊客の増加に対応できず、1909年(明治42年)5月7日には旧満鉄本社跡(旧ダーリニー市庁舎)を改修して客室36室を確保、さらに1911年(明治44年)には社宅用建物2棟を改装し客室8室を増設、合計58室とした。1914年(大正3年)3月に大連中心部の大広場(現中山広場)前に新館が竣工、8月1日に移転開業した。現在は「大連賓館」として営業している。


      奉天ヤマトホテルは奉天駅(1910年7月竣工)に併設されたステーションホテルとして、駅の開業日と同じ1910年(明治43年)10月1日に客室数12室で開業した。1924年(大正13年)にホテル新築設計の指名コンペを実施、小野木・横井共同建築事務所が新築設計を受託した。1929年(昭和4年)5月10日、奉天大広場(現中山広場)前に完成した客室数71室の新館が営業を開始した。内外装はアール・デコ調のデザインが施され、外壁は白色のタイル貼り仕上げとされた。客室は全室浴室付き、館内にはバー・ビリヤード室・理髪室など長期滞在者向けの設備が設けられた。当時は最新かつ最高格式のホテルとして知られ、戦後も中華人民共和国の国家指導者である毛沢東や鄧小平がここに宿泊した。現在も3つ星ホテル「遼寧賓館」として営業している。客室(77室)は現代的に改装されているが、エントランスやレストランは往時のままの装飾が維持されている。エレベーターホールには上記を含め著名人の宿泊を示すプレートが標示されている。また、上階に通じる螺旋階段は必見の価値がある(写真)。


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      長春ヤマトホテルは1909年(明治42年)に帝政ロシア(東清鉄道)や清国高官との交渉の場に充てるべく、南満州鉄道と東清鉄道との接続点だった長春駅前に新築されたホテル、1910年(明治43年)2月1日に本格営業を開始した。建物の内外装はアール・ヌーヴォー様式。満州国の成立後は新京ヤマトホテルと改称し、現在は「春誼賓館」として営業中。食堂などの内装にアール・ヌーヴォー様式の装飾が残されていたが、1987年の改装で大部分が失われた。


      旅順ヤマトホテルは1908年に開業、開業当時は15部屋の小規模ホテルだった。この建物は元々ロシアと関係が深かった豪商紀鳳台の私邸を改良したものだと伝えられる。1927(昭和2年)年11月、川島芳子(愛新覚羅顯㺭/金璧輝)の結婚式があった。1928(昭和3年)年5月与謝野晶子・鉄幹夫妻が2泊、晶子は203高地等を訪れ11首残す。1931(昭和6年)年愛新覚羅溥儀が105日滞在、1932(昭和7)年2月24日には、1階レストランで板垣征四郎と満州国建国を祝って乾杯したと記録される。


      ハルビンヤマトホテルは、1903年(明治36年)ハルビン駅前に東清鉄道ホテルとして建てられた。日露戦争が勃発するとロシア軍が野戦病院や軍司令部として使用、戦後はロシア軍将校クラブ(1907年~)、中東鉄路理事会館(1921年~)として使用された。1935年より満鉄の所有となり、1937年(昭和12年)2月1日に客室数56室(浴室付き45室)のホテルとなった。第二次大戦後は哈爾濱軍事工程学院、鉄路医院を経て1968年よりハルビン鉄路局招待所として使用されたが、1996年にハルビン鉄路局が経営するホテル龍門大厦に統合・改修され、1997年より龍門大厦貴賓楼として営業している。ランクは3つ星。


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    2017.03.01

    中日友好を貫いた「青島学院」 【青島たより 工藤和直】Vol.66 (読む時間:約2分)

    • 鹿児島県出身の「吉利(よしとし)平次郎」氏は、日本人と中華人の共学実現の念から私立青島学院を設立、1945年(昭和20年)の敗戦までの30年の間に少なくとも1万人以上(内中華人3000名)の卒業生を送り出した。日本人と中国人を同じ教室で勉強させることで両国の相互理解を実践した。相互理解の授業は、例えば「日本」という共通の漢字を日本人には「リーベン」と読ませ、中国人には「にほん」と読ませることから始め、日中共学を実践した極めて異色の学校だった。吉利平次郎が戦前・戦後において民間レベルにおける日中関係の友好を維持向上させた功績は極めて大きい。


      1.青島英学校の設立


      1916年(大正5年)4月、山東省青島市馬関通(曲阜路)にあった青島基督教青年教会を教室として日本人青年を対象とした夜間英語学校が開設された。翌1917年(大正6年)4月、英語に加えて簿記・日本語を教科に組み入れて学院の名称を「青島学院実業学校」に改称すると共に、中国人との共学を開始した。初年度新入生290人、その内中国人は50人であった。当時、日本の経営下にあった山東鉄道の若い社員が多くここで学んだという。


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      2.校舎を葉桜町(館陶路8号)へ移転


      生徒数の増加に伴い馬関通教会教室は手狭になったので、青島守備軍軍政部と折衝の結果、1918年(大正7年)、廃校となる青島小学校葉桜分教場(現在は第12中学)の払下げを受けることとなった。青島学院実業学校の生徒はその後増加し、1920年(大正9年)の生徒数は832人、夜間授業が始まる午後6時半頃になると学院周辺の道路は通学する生徒でふさがるほどであったという。


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      3.青島学院商業学校(台西鎮単県路)の設立


      吉利平次郎氏は、かねてより計画していた全日制私立商業学校を1920年(大正9年)4月に開校した。初年度の新入生は60名であったが、その内30名は中国人であった。1921年(大正10年)の青島学院の総生徒数は更に増加して963人となった。吉利氏が念願してきた全日制日中共学の商業学校が、この年に初めて形となったわけだ。


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      終戦後、吉利平次郎は日本各地に引揚げた日本人在学生の在学証明や卒業証書の発行と日本国内学校への転入学手続きに追われた。そして引揚げから半年後ついに病に伏した。亡くなる一週間前、孫の吉利醇に「百年後の中国は、世界を制覇する。お前はその目でしっかり確かめよ」と語ったという。そして現在中国は実質GDPで世界一の国となった。1916年(大正5年)4月の学院創設からちょうど100年を迎えた。青島学院OB会は「桜稲会」と称している。


      参考文献:青島物語続編


    2017.02.14

    青島の風景「日本人学校の今昔」 【青島たより 工藤和直】Vol.65 (読む時間:約4分半)

    • 青島は、当時漁村に過ぎなかった青島村に1897年(明治30年)、突然ドイツ海軍陸戦隊が上陸占領したことから始まる。青島の歴史は120年前に始まった。写真左は将来青島の中心となる観海山(総督府山)から青島湾にかけての傾斜地である。おそらく現在の小魚山公園から撮影されたのであろう。草木がほとんど見当たらない、月の砂漠である。写真に見える建物は清国衙門兵営で、奥の方に天宮后のシンボルである2本の門柱が微かに見えている。衙門兵営の右方には下青島村の民家も見える。元々の青島人はここに住んだ方々である。現在の青島は山東省各地から集められた人々によって作られ、発展していった。左奥の海浜に桟橋が見える。この延長が中山路になる。


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      ドイツは1898年から僅か15年で、この何もない傾斜地に、絵のように美しい緑と赤き屋根の住宅を持つ青島(小ベルリン)を造り上げた。ドイツという国の構想力と実行力には驚きを禁じ得ない。一例が青島駅である。現在の駅は拡張して、東西と南の三つの改札口があるが、当時は写真のように東改札口のみでスタートした。斜めに落ちる褐色の屋根が青島駅の特徴である。


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      1914年の日本軍による軍政が始まると、小学校・中学校・女学校の建設がすぐに始まった。ドイツ租借時代にすでに学校の建設が進んでいたのが幸いした。日本の小学校は1913年(大正2年)に西本願寺(現在は無棣四路小学校)で開校していたが、ドイツ降伏後すぐに既存学校の利用が始まった。青島市内における日本人小学校を2校とすることを1917年(大正6年)に決定して花咲町(現武定路)に新校舎の建設に着手、1917年(大正6年)に開校。翌年1918年(大正7年)4月に落成した新校舎を青島第一尋常高等小学校とした。何と1915年(大正4年)に先に開校した青島日本小学校(佐賀町)を第二尋常小学校と定めた。


      佐賀町(広西路×常州路)の第二尋常小学校校舎(生徒数230名)は1905年(明治38年)に開校したドイツ総督府実科中学校を修理して使った。校舎の壁は全て花崗岩で覆われ、屋根裏階まで含めると4階建ての荘重な建物であった。この総統府学校は中国人富裕層向けの教育機関で、12教室・280名収容であった。第2尋常小学校には高等科は併設されなかったことと、借物でなく日本独自創建を優先したため第一尋常小学校と命名しなかったと思われる。左は、ドイツ総督府実科中学校が竣工したときの写真で、校舎は丘陵上にあった。現在は海軍関係の施設になって中に入ることは不可能であるが、玄関前の階段は昔のままであることが理解できる。卒業式・入学式の時の集合写真はこの階段を使うことが多かったという。1918年(大正7年)5月には生徒数576名となった。


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      急増する就学児童の増加に対し、民生部は1917年(大正6年)にもう一校の新設を決定した。1918年(大正7年)4月に落成した第一尋常高等小学校は、花吹町(武定路)に校庭面積17,762坪(58、600平米)、校舎は近世ゴシック式煉瓦造で建物総坪数は666坪(2,200平米)であった。後年、13,100坪(43,200平米)の大運動場が拡張され、5年後の1927年(昭和2年)に完成した。名実共に日本最大級の運動場となり、青島における各種の行事に利用されるようになった。また、合わせると10万平米を越える日本一の小学校を誇った。この第一小学校には尋常科と共に高等科が設置された。1918年5月の記録では、尋常科児童750名、高等科生徒87名とある。


      学校前に通学児童が見受けられる。また学校前の道路(武定路)はまだ舗装されていない。現在、武定路は建家に囲まれた狭い道路だ。学校跡は現在、徳愛花園大酒店として使われている。玄関から入る花崗岩の石段は当時のままで、各教室はホテルの部屋に改装されている。宿泊は可能である。正面建家は二階建てであるが、奥は三階建てとなって、かなり大規模で日本内地で考えられない蒸気設備(冬の暖房)もあったようだ。その奥に43,000平米の大グラウンド(現在は青島第二体育場)があった。日本内地の小学校が木造であったのに対し、大学並みの荘厳な建築物であることが周囲を一周することで認識できる。この小学校にあったピアノで中村八大が演奏したと言う記録もある。


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      青島守備軍第2代司令官大谷中将が青島における高等普通教育として最初に着手したのは、青島日本高等女学校の設立であった。大正5年(1916年)、青島高等女学校は旧ドイツ女学校跡に設立され、大正7年若鶴山山麓(黄台路10号)に新校舎が落成、女学校は新校舎に移動した。ちょうど設立100周年になる。写真では全校生徒が体操を練習しているが、これによると開校初期において制服はまだセーラー服ではなかったようだ。現在は、四季花園賓館になっているが、正門にある花崗岩造りの門柱は当時のままで、そこから建物の間に広がる空間で体操を行なったと思われ、黄台路側から撮った写真であろう。生徒数は152名と記録されている。人数のわりに大きな校舎である。


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      同じく大谷中将の命令で、青島日本中学校は1917年(大正6年)、旭ケ丘(ドイツ・イルティス兵営跡地)に開設された。イルティス兵営は1899年太平山南麓(今の中山公園)に作られた二階建ての建物であった。男子中学校より先に高等女学校が先に開校されると言う珍事が起こった。開設当初の制服は、冬服は紺色詰襟、夏冬は鼠霜降詰襟であった。1921年(大正10年)、旧ドイツ自動車廠跡地(ビスマルク兵営)に建設中であった新校舎が落成し、桜ケ丘校舎と呼ばれ全校生徒が新校舎に移動した。新校舎の敷地は15,892坪(52,400平米)、校舎の延坪数は1,936坪(6,400平米)で、当時の日本においては稀に見る堂々とした外観を有していた。校舎内に寄宿舎があり、膠済線沿線の生徒ばかりか全中国各地から、ここに寄宿勉学した。現在も中国海洋大学正門前にある門柱は昔のままである。


      学校内のため外部の方は入門できないが、亡父の友人に旧制青島中学の出身者が居た事を思い出し、中国語で「亡き父がここを卒業した」と守衛に言って、建屋内を案内して頂いた。建設後百年近く経つが、大きさと言いその正面玄関背後にある広い中庭と別棟の校舎建屋、北西に広がる運動場(昔の教練場)へ下りる階段は当時の花崗岩であり、遠く真正面にドイツ総監官邸(日本軍司令官邸)が見える。これが中学校とは思われない。内地の帝国大学がこれに匹敵する建屋であろう。旧制青島中学は名門であり、内地の有名官公大学・高等学校・私立大学や専門学校に多くの卒業生を輩出した。在籍記録の中に、石丸寛(九州交響楽団・東京交響楽団指揮者)や中村八大(上を向いて歩こう・こんにちは赤ちゃん等の作曲家)などの異彩児も居る。下記に校舎内部の写真を示す。日本に引揚げ後70年以上になるが、各学校卒業生は定期的に集っているようだ。青島中学は鳳雛会、青島高等女学校は若鶴会と称して、OB・OG会を開催している。


      参考文献:青島物語


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    2017.01.28

    旧青島日本総領事館跡と青島神社跡を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.64 (読む時間:約5分)

    • 1915年から1945年の30年間、2度に亘って日本の統治下に置かれた青島に4万とも5万ともいわれる日本人が住んでいた。かつて街のいたるところでは「中野町」「伊勢町」「横須賀町」「姫路町」といった日本名の道路名が名づけられ、着物を着た日本人が往来を歩いていた。昔の日本総領事館跡は太平路(旧ホーエンツオーレン通り:旧舞鶴町)と青島路(旧ウイルヘルム通り)との交差点東にある。この建物は1906年、ドイツの徳華銀行青島支店(ドイツアジア銀行)として建築された。 徳華銀行はドイツ租借地「青島」にある実質上中央銀行の役割を持ち、通貨「青島ドル」の発券銀行であった。


      第一次日本統治時代から総領事館として運営が開始され、民政部の一部局庁舎として利用されていた。日独戦争勝利後、青島は日本の軍政下におかれ、1923年1月、行政権を中華民国政府に返還、1923年3月31日になり、青島日本総領事館として再使用した。 建家はネオルネッサンス様式で円柱・アーチ・コーナーストーンを配置、1945年の敗戦までここで領事館業務が続けられた。


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      総領事館の敷地はかなり広く、東側の江蘇路との間に九水路があり、そこに領事館警察署があった。昭和12年(1937年)7月、盧溝橋事件に端を発した支那事変が勃発し、青島にも危険が迫った8月、時の総領事大鷹正次郎は、青島在留邦人に対し総引揚げを勧告した事もあった。写真正面が太平路でその前がすぐ海岸である。青島路の方向に行けば、次の交差点(広西路)でドイツ領事館になり、その奥に重厚なドイツ総監府(その後日本軍司令部)である。また、現在は迎賓館となっているが、信号山公園全体を占めるのが当時青島最大の豪邸であった総監官邸(その後日本軍司令官邸)である。黄色の壁に剥き出しの花崗岩造りの豪邸である。総監府建物内にドイツ時代の説明はあるが、日本軍司令官宅であった事は記載されてない。


      日本総領事館は現在、民家となっている。北側の広西路から内部に入ることが可能である。太平路側の玄関から入ると、床はタイル張りで内部に吹き抜け階段があり、天井にステンドグラスが貼ってあった。ここで領事館業務をしたのであろう。北隣には日本民家らしき家も見られた。日本領事館の東側に山東鉄路鉱路公司(広西路14号)がある。1902年ドイツは「租借条約」によって膠済鉄道敷設権と鉄道線路両側15kmの採掘権を得たが、その開発のためにドイツが作った会社をそのまま日本が引き継いだ。


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      青島神社は大正4年 (1915年) 、青島守備軍がモルトケ山(若鶴山)西側山腹を社地(敷地約6900坪)と定め、大正6年(1917年)5月に青島守備軍司令官から工事開始の正式認可を受け、大正7年5月には地鎮祭を執行したのち社殿その他の建物の建築工事を開始、翌大正8年(1919年)11月7日、無事に完竣した。青島神社は天照大神・大国主命・明治天皇を祭神に迎えて鎮座した。青島神社造営にあたり「山東省を大陸発展の基地とし、大陸経営の遠大なる理想の下」を基本方針とした。青島神社は若鶴山(現貯水山)の中腹に、鳥居・拝殿・幣殿・本殿からなる荘重な社殿で構成されていた。青島神社から青島大港など膠州湾沿岸、ならびに青島日本第一尋常小学校やその付近の日本人住居区(川崎町)を一望でき、素晴らしい眺望に恵まれていた。神社への入口は大鳥居のある表参道、黄台路につながる南門、北側は吉林路に出る北門の三ヶ所があった。


      青島神社を正面から見ると、高さ約15米・幅10米の明神型石造大鳥居とその両側にそれぞれ大型の石灯籠が並び立っていた。大鳥居に続く参道は坂道で、両側には桜の若木が植樹されていた。現在はヒマラヤ杉に植え替えられているが、銀杏木などは昔のままと思われる。参道を登り切ると広場があり、右手に手水場があったようだ。その先には社殿に繋がる109段の石造階段が見える。階段を登りきると社殿前の木製鳥居がかつてあった。この木製鳥居の基礎石(亀腹)が写真のように現存している事に驚いた。また、階段を登った左右に石灯篭の基礎石も残っていた。この奥に写真にあるような本殿があったが、今は青島有線電視台になっている。電視台前は広い駐車場となっており、社殿の跡はまったく見られない。この青島神社は靖国神社の2倍の面積であったという。大鳥居があった付近は現在遼寧路科技街バス停(若鶴町)の対面である。


      戦前海外に日本の神社は約1600ヶ所あったといわれ、そのうち中国内に550ヶ所が記録されている。特に旧満州には295ヶ所と一番多く、租借地であった山東青島地区には青島神社、青島台東鎮神社(台東一路35号:1915年3月創建)、坊子(濰坊市)神社(1918年創建)、張店(淄博市)神社(1919年創建)、淄川神社(1918年創建)、済南神社(1941年創建)、芝罘(煙台市)神社(1942年創建)、龍口神社(1930年創建)、威海衛神社(1940年)などが記録されている。


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      青島に駐留する日本人にとって、青島神社は「我らの鎮守様」であった。例祭では川崎町(益都路)や大和町・瀬戸町・若鶴町など日本人街にある商店を中心にして、若い衆による神輿が奉納され、109段の石段を威勢よく駆け上がる風景が見られたという。終戦の日(1945年8月15日)午後には、青島守備隊の軍人が結集し一時物騒がしくなったこともあった。最後の宮司であった宮崎氏は12月20日に青島神社を閉社し帰国、ご神体を明治神宮に奉納してその職を終えた。翌1946年4月20日、一般在留邦人が最後の引揚船で帰国にあたり、全員が神社参拝をした後、米軍トラックで桟橋に移動した。現在青島神社跡は児童公園となっているが、旧満州の新京神社(長春市)や済南神社と同じく、ここに神社があった事を感じさせる心霊スポットである。


      参考文献:青島物語


    2017.01.11

    青島の歴史概略 【青島たより 工藤和直】Vol.63 (読む時間:約5分)

    • 「ドイツがつき 日本がこねし 青島餅 汗と涙は中国人民」 青島の歴史は1897年11月14日ドイツ海軍陸戦隊が上陸してから始まった。来年で120年となる。この日の早朝、ドイツ海軍陸戦隊720名の将兵は演習するとの名目で、清の同意を得ないまま膠州湾に強行上陸した。青島はその後、ドイツの15年間、日本が二度にわたり実効支配した30年間、戦後の一時的なアメリカの5年間、その後70年間の新中国と、合計120年間の歴史がある。ドイツが上陸する前、天后宮の付近に上・下青島村の2村があった。僅か300戸余の人家であった。


      村の背後には、風台嶺(現青島山)と大石頭山(現信号山)があり、全体として傾斜地であった。山々の間に河が流れており、その下流は青島湾に流れ込んでいた。この河は青島河と呼ばれ、上・下青島村はこの河の両岸にあった。また、湾の南にあった「小青島」の存在によって、青島湾は強い風波を和らげてくれる所から、この湾は古くから漁民にとって漁船を係留するのに格好の地であった。「青島」の地名は、この村と島の名前から生まれた。正式に「青島」と呼ばれるまで、この地区は膠澳(Jiao Ao)と呼ばれていた。


      1898年3月に清独条約が結ばれ膠州湾一帯を99年間、清国から租借することとなった。ドイツはこれより30年も前から膠州湾地区を地理的・軍事的に調査していた。この条約締結後直ちに「青島をドイツ東洋艦隊の母港とすると共に、青島が本国にとって経済・貿易の面で貢献し、かつ健康的で快適、模範的な植民地を建設すること」を方針とし青島建設に入った。またドイツ政府は、1898年、十分な港湾設備も備わっていない青島を自由貿易都市として宣言した。1898年、ドイツ海軍大臣ティルビッツは青島の最高責任者としてクルト・ローゼンダールを初代総督に任命した。青島租借地は海軍省の管轄となった。ローゼンダールの職務はドイツ東洋艦隊母港の建設と軍艦燃料用石炭と水の確保、要塞の構築、植民地貿易都市の建設であった。しかし着任後、彼が当面した最大の課題は約2000人に及ぶドイツ将兵及び建設に従事するドイツ民間人の宿舎と食料の確保であった。そのために、目標を追加し、生活インフラ(電気・水)の整備・生活住宅の建築に没頭することになった。あわせて、軍艦用石炭の確保のために急ぎ膠済鉄道430kmを構築したのであった。


      1914年第一次世界大戦の勃発により、日本は連合国側として参戦、青島を火事場泥棒的に攻撃し租借した。日本の目的は明らかであり、朝鮮半島に続く遼東半島の租借、そこに最も近い山東半島を狙うのは明らかであり、絶好のタイミングで青島に展開するドイツ租借地をうまく略奪することが出来た。当時の日本の狙いは中国内陸部であり、大連から延びる南満州と山東半島から伸びる中国内陸は是非とも確保したい地域であった。山東には石炭・鉄鉱石と軍事上に必要な鉱物の存在もあった。その後の理不尽な対華21ヶ条に見るように狙いは中国大陸内部へ進出する突破口としての青島要塞攻撃であったといえる。


      ドイツの統治は15年間であったが、元々の構想は青島湾から大港にかけて広大な地区に模範的植民地を作り上げる計画であった。ドイツは青島駅から小魚山までの東西2kmと桟橋から北は中山路と徳県路が交わる1kmを青島区として、ドイツ人・欧米人居住区として開拓した。その北の山東路(静岡町)から市場三路が堂邑路と交わるまでを大鮑島区として、中国人富裕層の居住区とした。一般中国人は青島市街から離れた台東鎮や台西鎮に住まわせた。このわずか15年間に構築したインフラ関係は、その後の日本の統治でも有効に作用した。これが、日本が商工業の発展にのみ没頭できた要因となったと言えよう。ドイツが15年間に商工業施設として残したのは「青島麦酒」くらいであったが、その後日本は、大鮑島区の山東路(静岡町)から堂邑路(所沢町)・館陶路(葉桜町)への銀行・商社・取引所などを建設、台東地区へは豊富な水資源があったため、日清紡・鐘紡・豊田紡織などの繊維工業施設の建設などが行われ、これが現在の青島の発展に寄与した。ドイツは要塞軍事貿易都市を作り、日本が商工業貿易都市にした。すなわちドイツがついた餅をこねて黄粉をかけて食べられるように仕上げたのが日本であった。もちろん、「こねてついた」のは中国人民であり、そもそも数百人程しか居ない地域に数十万の労働者を山東省ならびに周囲の省から半ば強制的に連れて来て安い賃金で労働させた責任は、ドイツ・日本にあるのも疑えない事実である。


      青島が外国の租借・占領あるいは外国の影響下にあった期間は1897年(明治30年)から1946年(昭和21年)4月までの50年であった。1914年まではドイツによる15年、日本は1922年ワシントン条約に基づき、青島に対して有していた租借権を中国にいったん返還したものの、中国政府との細目協定により、日本は青島及び山東省に対し相当の権益を保有し続けた。青島及び山東省内において、この協定権益の下、日本の民間資本による経済活動が活発に行われた30年であった。現在の青島の状況は、ドイツ建屋は維持、日本建屋は解体にある。中国人にとって、ドイツ建屋は近代化の象徴であるが、日本建屋(特に宗教施設など)は帝国主義の象徴であるからだ。下表に青島の歴史を一覧表にした。1897年にドイツ海軍陸戦隊が上陸して、1946年(昭和21年)4月20日に在留日本人が引き揚げるまでの50年間の年表である。


      最後に山東省の有名人を調べて見た。山東省の歴史は5000年前の大汶口文化で始まり、精美な石器や骨製道具および文字の濫觴が確認され、4000年前の龍山文化では金属製品と「蛋殻陶」(卵殻の薄さの黒陶器)が発見されている。また城子崖古城と日照両城鎮遺跡は中国でもっとも古い古城遺跡だ。山東省は多くの歴史的有名人のふるさとである。思想家であり教育者であった孔子、思想家の孟子・荘子・荀子、政治家の管子・晏嬰・諸葛亮・房玄齢・劉嬰、軍事家の孫武・呉起・孫臏・戚継光、科学者や発明家の扁鵲・魯班・氾勝之・賈思勰・劉洪・王楨・何承天・燕粛、文学者や芸術家の王羲之・劉勰・顔真卿・李清照・辛弃疾・張択端・張養浩・孔尚任・蒲松齢などその数は星の如く数えきれない。特に春秋から前漢までの先賢達の思想と業績は史書に記載され、中国伝統文化を構成、今も深遠なる影響を与えている。近代文壇の季羡林、臧克家、任継愈、賀敬之、喬羽、莫言、梁暁声、劉大為などの著名作家はみな山東省出身で、中華文化に大きく寄与している。しかし、個人的には、広州空港に巨大な写真が掲載されている煙台市出身女優「范冰冰」の印象の方が強い。又、諸城出身の毛沢東第四夫人「江青」も山東人である。(参考文献:青島物語)


      【あとがき】
      筆者はこの7月より12年住み慣れた蘇州から、山東省青島市に引越した。蘇州は春秋時代「呉国」から2500年の歴史のある城郭都市であるが、山東省は更に350年も古い「斉国」がある。しかも黄河文明龍山文化から5000年の歴史があり、城郭都市としては夏・商(殷)以降4000年がある。そして、青島には日本租借時代の約100年もある。しばらくはこの山東省を舞台に歴史の旅を続けようと思う。


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    2016.12.25

    十度の荒廃から蘇った城郭都市「蘇州」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.62 (読む時間:約8分)

    • 日本と中国の外交関係を顧みると、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す」の漢書地理史が日本についての最古の公式文書である。その後、中国側正式歴史書の一つが魏志倭人伝であるが、日本と中国の外交は朝鮮半島を介しての歴史である。蘇州(当時の姑蘇)との関わりは、三国志「呉」に歴史書があれば良かったのだが、資料は現存しない。ただ日本書紀に雄略天皇が呉へ使者を送った記録もあることから、ひょっとしたら邪馬台国も魏以外に呉(姑蘇)と東シナ海を直接結ぶ外交があったかも知れない。


      ちなみに邪馬台国はどこにあったか?と九州説・畿内説が論議されているが、文字のない倭国使者が言った言葉を当時の魏(都は洛陽)人が漢字で記載したのが「邪馬壹」であるが、これは上・中古音読みでこの言葉はXie Ma YiもしくはYia Ma Duoであり、“シエマイ”とか“ヤマドウ”と発音する。この言葉は“島(シマ)”とか“山門(ヤマト)”を言った可能性が極めて高い。従って九州中部・北部全体を総じて「邪馬台国」と見るべきであろう。ただ、筆者は日向説を個人的持論にしている。その根拠は邪馬台国の入り口の「投馬」の中国語読み;Tu Maが宮崎県西都市にある都万(Tu Ma)神社と同音であることにある。筆者は都万神社の南にある都於郡(とのこおり)城にある奇妙な遺跡(高屋山上陵伝説:山幸彦の陵墓)は邪馬台国の遺跡でないかと推測している。


      4世紀になると朝鮮半島は高句麗の台頭で、中国との外交は東シナ海を越えて南朝(六朝時代)との交易が盛んになった。宋書倭国伝や南斉・梁書に見るように南朝との外交が主である。従って日本の文化は江南との共通性が多く見られるのは道理である。特に仏教文化は梁から来たと思われる。その梁書倭人伝の中に「倭者、自謂太白之後・・・」とあるように、倭人は自ら周王朝の後胤で江南に下った「太白(泰伯)」の子孫とわざわざ言う事からして、江南地方とは邪馬台国時代から交流があったと推論される。その後、隋が中国を統一する事で再度朝鮮半島を経由した交流に戻ったが、呉服の言葉にあるように、江南地方にある三国時代の「呉」は当時の絹織品生産地域で、中国文化の原点であった。


      蘇州市は歴史の古い都市である。その起源は今から2500年前の呉王闔閭の時代であり、その後、秦、漢、唐時代から現代まで、同一の敷地が脈々として使い続けられている。都市の敷地が変らずに活用され続けたという意味では、世界で最も古い都市であるといえる。2500年も同じ場所に、ほぼ同じ道と河が存在する。この最大の理由は、水を支配したことにある。南の太湖と北の長江、そして南北を結ぶ大運河の水利が2500年途切れる事無く続いた結果と言えよう。太湖から出た水は胥江川となって京杭大運河と蘇州城内に流れ込み、城内を流れる無数の運河(3横4直)を通り北西から南東へ流れ、葑門から外部へ流れ出る。


      この2500年の王都は過去に10回もの廃墟となる危機を乗り越え現在に至っている。全てが順調に行った都市ではない。筆者は、蘇州に12年住むようになり、南宋時代の地図「平江図」が極めて現状に近いことに驚いたが、南宋時代以降も現在まで4度荒廃の危機があり、見事に復活したことに驚きを感じ得ない。まさに蘇(よみがえ)る都市「蘇州」である。では、過去10度にわたる興亡の歴史をまとめることにしたい。


      蘇州城は今から2500年前の呉王闔閭の時代(紀元前514年)が起源であるが、一度目の廃墟は呉王夫差が越王勾践に負け、霊岩山で自害した時である(紀元前476年)。二度目が秦時代に項羽が秦へ反旗を翻した時である。項羽(紀元前232~202)は詩人ではないが、ただ1首のみ伝わる詩がある。24歳にして天下を取った風雲児であったが、漢の劉邦に破れる。それが、垓下の歌である。


      力抜山兮気蓋世  力、山を抜き 気、世をおおう
      時不利兮騅不逝  時、利あらず 騅、ゆかず
      騅不逝兮可奈何  騅、逝かざる いかんすべき
      虞兮虞兮奈若何  虞や虞や なんじを 如何せん


      秦を滅びた英雄も漢軍に囲まれ、周囲から故郷の楚の歌が聞こえる、名馬騅も走らなくなった、ああ虞美人、君を如何にすべきか・・・と泣く。それに応え虞美人は次の詩を作った。


      漢兵已略地    漢兵すでに地を略し
      四方楚歌声    四方楚歌の声
      大王意気尽    大王意気つく
      賎妾何聊生    せんしょう何ぞ生にやすんぜん


      大王様(項羽)の意気はもう尽きてしまいました。この私はもはや生きておれませんと剣を持って踊り、そしてその剣で自害する。芝居で言えば一番の見せ場である。虞が流した血の跡に生えたのが、虞美人草である。秦の始皇帝が紀元前210年に南巡で建てられた太守府大殿(子城内)はその時に焼失した。子城は漢時代に再び賑わいを見せ、三国呉の時代、孫権の母が蘇州人であった事も幸いして繁栄の時代であり、仏教文化が花開いたが、西暦280年に西晋に滅ぼされて隋時代までは興亡の時代が続く。写真は孫、権が母の菩提寺として立てた瑞光寺塔(西暦247年)である。邪馬台国の卑弥呼が居た時代と重なる。


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      三度目は西暦327年東晋時代「王郭干」が攻め込み、四度目には南朝の最盛期を作った梁末期、候景軍が西暦549年攻め入った。隋になると中国は再度統一され、蘇州は呉郡から現在の「蘇州」と改名され繁栄の時代を迎えた。特に煬帝による大運河の完成で、江南の地が繁栄することに大きく貢献した(江南の開発)。ただし運河建設は民衆の酷使の対価としてできたため、反隋運動の首謀者が蜂起(蘇州人朱燮と常州人管仲)、隋軍によって破壊の憂き目にあった(五度目)。


      唐から北宋時代は白居易の漢詩にあるように繁栄を極めた。「遠近高低寺間出、東西南北橋相望」と白居易が詠ったように六朝以来多くの寺院が建てられ284寺あったとも言われるが、現在は10寺にも満たない。また「緑浪東西南北水、紅欄三百九十橋」と言うほど多くの橋が建てられた(木製橋)。唐末は一時的に杭州銭氏が建てた呉越国の支配下にはなったが、江南開発が更に進んだ。龍徳2年(西暦922)、銭氏は今までの土積みの城壁を煉瓦積みにしている。


      宋代は「蘇湖(江淅)熟すれば天下足る」と言われるほど江南地方が発展した時代であった。北宋時代(西暦960~1127年)には手工業も発展、特に絹織物・版画などが有名になった。蘇州は平江府となり、すべての路面は青石などで舗装され、空前の繁栄となった。景祐1年(西暦1034年)蘇州知事となった范仲庵は、農業治水面以外に府学を創設、中国一の学問府を築いた。城を守る上で、古くからある城門のうち閶・胥・盤・婁・斉の5門のみを開き、後に葑門を開き、宣和5年(西暦1123)には城壁の積替えを行った。宋の時代の発明に、火薬と木版印刷があるが、木版は確かに蘇州に根付いたが、火薬(西暦1044年)はその後の金の侵略時に役に立つことはなかった。北方の金が侵略を開始した靖康の乱によって北宋は滅び(西暦1127年)、臨安(杭州)に逃れた皇帝は、紹興の和約(西暦1142年)によって淮河を国境としたが、建炎4年(西暦1130年)10万の金兵の侵略を受け,街は徹底した掠奪と破壊により闔閭以来1300年の王都は廃墟になった(六度目)。


      しかし,その打撃からすぐ立直り、百年後には前にまさる繁栄を誇るようになった。当時の街の様子は紹定2年(西暦1229年)平江図として石碑に刻まれており,現在の蘇州の市街も,基本的には平江図の時代からあまり変らない。6城門のうち胥門がふさがれ、閶・盤・婁・斉・葑の5門となっている。写真は平江図であるが、寺院仏閣や古橋はもちろん、木々まで細かく彫られている。よくぞ現代まで残ってくれたと思わんばかりである。この石碑は人民路蘇州中学南の文廟、石刻博物館内にある。


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      七度目の大破壊は異民族によるもので、元朝(西暦1270年)である。平江図石碑(西暦1229)創作からわずか40年後その景色が一変したが、幸い石碑の様に復興した。元代は平江路と呼ばれ、当時の人口は蘇州歴史上最大の240万人(城外も含む)、生糸による手工業が発展した。蘇州に隣接する太倉は当時外国との貿易港として繁栄した。元末西暦1356年、紅巾の乱に乗じて挙兵したのが「張士誠」であるが、蘇州城内子城に入り王府と称し、1800年ぶりに王都を宣言したが、明王朝を築く朱元樟による10ヶ月間の攻防の後、壊滅的破壊に会い、子城も原形を留めない状態になった(八度目)。


      明時代は蘇州府となり租税免除もあったので、一時的には人口194万人までに復活、農業生産は全国の11%にもなった。合わせて繊維産業の発展により、政府は皇室のために「織染局」を設けた(西暦1574年頃)。明から清の時代には蘇州城内より閶門を越えた西方面が繁栄した。


      九度目の災難は抗清戦争によるもので、順治2年(西暦1615年)6月13日が最大の破壊を受けることになった。しかし、復興のほうもまた早く、乾隆24年(西暦1754)に徐揚が描いた姑蘇繁華図に見るように虎丘から城内西方向、南は霊岩寺に至る地域が多いに発展した。この姑蘇繁華図には50種類の産業が記載されている。まさに不死鳥の如く蘇州は復活した。


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      十度目の破壊は、太平天国の乱による。咸豊10年(西暦1860年)、忠王李秀成が拙政園に隣接する地に忠王府(写真)を作った。1863年12月清軍による破壊が蘇州の発展を止め、当時漁村であった上海が繁栄した。その後、蘇(よみがえ)る街「蘇州」は現在のようになった。1912年に呉県・長洲県・元和県が統合して呉県となり、1928年に蘇州市と改名、1930年には再度呉県にが編入されたが、解放後1949年に再び蘇州市と改名した。


      十度にわたる戦火で破壊と建設を繰り返したが、筆者が調べるに、ほぼ1960年代までは大きな変化はなく、文革後が最も大きな変化だったかもしれない。近代鉱工業の発展と経済成長、自動車の普及によって城郭は取り壊わされ、運河は埋められ、橋は平橋化され、城郭内は大きく変わって行った。つい60年前までは、姑蘇の街と同じようであった。


    2016.12.09

    太湖の南、「徳清県古橋群」を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】Vol.61 (読む時間:約2分半)

    • 徳清県は中華人民共和国浙江省湖州市に位置する県である。太湖に面する湖州市から国道25号線を南に30Km、杭州市からでは北へ25Kmの地点にある(地図参照)。武康鎮・新安鎮・新市鎮・雷甸鎮・乾元鎮・莫干山鎮などが含まれる。徳清県武康鎮には防風山・獅子山・虎山・塔山・西茅山・銅官山などの山々があり、そこから石橋に最適な凝灰岩が産出、“武康石”と呼ばれた。この徳清県の山からとれる耐久性の高い武康石は、白色の中に紫が輝くので、重宝された。武康石の名前は宋代文献に記載され、その産地名から、“湖州武康石”と呼ばれた。


      武康石は火山噴出岩に属する凝灰岩で、それの性質は適度の硬度(耐摩耗性)を有し、自然状態では藤色あるいはきつね色(黄色)を呈し、表面は風雨を経過浸食すると酸化して美しい紫となる。古代から紫は高貴の象徴で、人々はこの石を“武康の紫石”と称した。現在でも、大型の建築資材や芸術的デザイン石として使わる。武康石は適度な吸水性を備え、湿潤な岩体は古風で質朴でかつ美しい。武康石は砂岩であるので平加工ができ、表面は渋気性を備え、雨に濡れても滑ることがなく、石橋や街路石の材料となった。


      凝灰岩は、火山から噴出された火山灰が地上や水中に堆積してできた岩石。成分が火山由来であるが、生成条件から堆積岩(火山砕屑岩)に分類される。典型的な凝灰岩は数ミリ以下の細かい火山灰が固まったもので、白色・灰色・暗緑色・暗青色・赤色・薄紫色と様々な色がある。塊状で割れ方に方向性はない。凝灰岩は層状構造(層理)を持たないことも多いが、大規模な噴煙から降下した場合や水中でゆっくり堆積した場合は層状をなすこともある。細かい細工には不都合だが、塊状や切石の形で用いられる。


      特に宋の王都開封の皇族がこの湖州武康石を好んで多く使った結果、品不足となり、元代以降は太湖産の青石(どちらかと言えば黒褐色)や花崗岩(白石)が主となった。その後、同じく品不足となると清時代以降は武康黄石(黄褐色)が使われた。


      この何も無い田舎の徳清県に宋・元代の古石橋が多く点在し、国保級(全国重点文物保護単位)が七つ、省保級が五つもある(表1)。中華人民共和国が指定する全国重点文物保護単位(全国重点文物保护单位)とは、中華人民共和国の文化遺産保護制度の一つ。中華人民共和国国務院が制定した文化遺産保護制度のうち、国家級の文化遺産に対して制定される名称で、現在4296件がリストされている。蘇州市で国保級の橋は、同里の思本橋、呉江の東廟橋、呉中の宝帯橋の3つであると思えば、この狭い場所に七つもあることに驚きを覚える。その最大の特徴は、地元産とは言え貴重な“武康紫石”をふんだんに使っていることである。是非とも国道25号線沿いに展開する国宝級の古橋を訪問することをお薦めする。筆者いち押し推薦の橋は「寿昌橋」である。


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    2016.11.22
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