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司馬遼太郎が参考にした高倉正三「蘇州日記」 【蘇州たより 工藤和直】vol.14 (読む時間:約3分) 2015.02.12


『蘇州日記』という本がある。1938年の9月に外務省特別研究員として、呉語(蘇州語)の研究調査のために蘇州に渡り、1941年の3月に享年28歳の若さで蘇州にて客死した、若い中国語研究者の日記である。著者名は「高倉正三」、蘇州での住まいは五卅(Wu Sa)路同益里3号だった。戦前に書かれた中国旅行記は多くある。谷崎も芥川も取材中に日記の形をとり、それが江南紀行と言う事で書き直された、すなわち公開を意識した「作品」だ。しかし『蘇州日記』は著者の死後、その師、吉川幸次郎氏によって整理公開された日々の生活記録そのもので、ほかの「日記」とは性格が異なる。


蘇州繁栄の記録として、南宋時代1229年に記録された「平江図」と言う地図がある。この地図の中央に当時の官公庁にあたる「平江府」と言う地名がある。そこの南門から北に抜ける道が、現在五卅路と言う街路に変わった。五卅路は蘇州中心の観前街の南、宮巷を南下、干蒋路(南宋時代は干蒋坊)と言う東西に走る大通りにぶつかる。そこから南北に走るそれほど長くない道路だが、約30m余り下った右に同益里がある。入り口に牌坊がある。更に下った東に蘇州公園、西に体育場があり、ここが800年前の行政の中心地であった。この通りのプラタナス(中国名:法国梧桐)は蘇州1、2と言える立派な並木である。この同益里は隣の同徳里と同じく、当時としては蘇州で最初に作られた洋式住宅街である。入り口には90年に作られた蘇州市の案内がある。高倉は当時としては最新の住宅に住むことになった。


最初読んだ時は、体の弱い頻繁に風邪か下痢で寝込むが、観光は好きで毎週3日は蘇州市内をうろつく暇人の日記かと思い、気にも掛けなかった。そのうち自分なりに蘇州城内の橋や寺や街路研究をするうちに、同じような行程を歩き、今は無き橋や庭園などが、70年前はこうだったのか?と思うと、この日記をしっかり読むようになった。


彼の日常の買い物は蘇州大丸(現在の人民商場)、映画は大光明(現在大光明電影院)、レコードは9枚で2.1U$(当時は日本円をU$に両替してから使ったと思われる)、宝帯橋に霊岩山、光福を訪問してから太湖で遊ぶ、無錫経由常州へ汽車の旅、盤門南の日本人租界地にある日本領事館に度々行く。彼の行った道筋は目に浮かぶように鮮明である「・・・相門から郊外風景を満喫、鐘楼より百獅子橋(現在はない)を経て整頓された田舎道を滄浪亭に行き・・・」。またこの日記の内容は日記の領域を超えた記録書であり、28歳の青年が書いた文章とは到底思いも寄らぬ大作である。


司馬遼太郎の大連作である「街道をゆく 中国・江南のみち」で蘇州のことを詳しく紹介しているが、その基になったのは「蘇州日記」であったと理解できる。蘇州日記12月8日に蘇州志略と言う呉の歴史に関して記述した内容がある。殷の末の周文王から始まり、春秋戦国時代の城門とその後の変遷、唐から宋の時代の繁栄と没落、そして太平天国と馬関条約による日本人租界地、蘇州城壁、宝帯橋についてなど、一見して歴史的価値がある記載が多い。高倉の日記を参考にして司馬遼太郎は「江南のみち」を書き上げたのだと直感した。


下記写真のバイクが止まっている付近が同益里3号、中に入ると奥に2所帯が住んでいる。2階に上がる階段は、通行止めになっていた。幸い隣に住む(同益里2号)老婆に案内され、隣もこの構造とほぼ同じと聞いて室内を見せてもらった。昔、玄関は今の北玄関でなく、南に玄関があった(昔の裏出口を今は表玄関として使っている)。中は1L2DKで、2階は広い長四角の広間になっている。高倉はこれだけ広い洋風アパートに一人住んで居たのであろうか?老婆はここに30年以上前から住んでいるが、戦前はまったく知らない、もちろん高倉との接点はない。過去、外事弁公室が調査に来たことがあったが、日本人が尋ねてくるのは我々が初めてとの事であった。高倉の死去から73年の時間が過ぎた。訪ねに来た我々日本人に高倉正三、さぞや驚いたことだろう。


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参考文献:高倉正三「蘇州日記」1943年発行
     司馬遼太郎「街道をゆく19中国江南のみち」(朝日文庫)
     蘇州にあった大丸百貨店、大連にあった三越百貨店 【蘇州たよりvol.2】      谷崎潤一郎と芥川龍之介の上海・蘇州放浪記【蘇州たよりvol.4】


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