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我家に眠る貨幣「康煕通宝」 【蘇州たより 工藤和直】vol.16 (読む時間:約3分半) 2015.03.06


宮崎の実家に、なぜか多くの銅銭(穴銭)がある。小学校の時に大きな瓶にふたつ銅銭がびっしり詰まっていたのを覚えている。上のほうから数枚ずつ取っては、野山に投げていた記憶がある。子供時代、骨董品の価値が分からなかったことを反省している。大半は江戸時代鋳造された「寛永通宝」であった。鬼籍に入った父はコイン帳に一枚一枚入れ、中国の貨幣だけでも、かれこれ300種類以上はあった。日本史で鎌倉・室町時代に大量の宋・明銭を輸入していたことを学んだ。


我家に宋・明・清の穴開き銭があることは知っていたが、蘇州に駐在するようになり、この宋銭を見ながら、どういう運命で宋(南宋時代は蘇州のある江南が繁栄の中心地)から、ここ宮崎に来たのか?想像の翼をひとり楽しんでいた。これら宋・明・清の銅貨は渡来銭と言われ、遣唐使が中国から持ち帰ったのが始まりで、その多くは平安末期から鎌倉・室町時代にかけて、幕府や民間貿易によって輸入された。日本古来の皇朝12銭(708年和銅開珎に始まり958年乾元大寶の250年間)の鋳造停止後、寛文10年(1670年)の渡来銭使用禁止令がでるまでの期間、我が国の通貨として広く使われた。使われた銅銭は唐末の開元通寶、景徳元寶(北宋)、紹煕元寶(南宋)、永楽通寶(明)など120種類で800年に渡る。


ちなみに、大阪駅前の古銭ショップで貨幣価値を聞くと、皇朝12銭で10万円~600万円、渡来銭で、300円~20万円の価値があると言う。今日からでも遅くない、上海・蘇州市内あっちこっちの露天商で骨董品が売られている。偽物が多いが、お宝もある。


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ここに「康煕通宝」と言う一枚の銅銭がある(写真1)。裏右には「蘇」と書いてある。この銅銭から筆者の探求心に火がつき、細かく調査を開始する事になった。「康煕」とは清朝西暦1661~1722年に相当する。調査するに、清時代銅銭は全国で鋳造された。ここ蘇州もその一つで、江蘇省鋳造所が作った銅銭は「宝蘇」と呼ばれ、この鋳造所は「宝蘇局」と呼ばれた。正式名称は「宝蘇鋳銭局」で「宝」は銭を、「蘇」はもちろん江蘇と言う意味である。これが蘇州史上初めて作られた銅銭と言うことになる。


康煕7年(1668年)に設立、江蘇布政使が管理することになった。鋳造所は蘇州だけでなく、中国各地にあり、どこで鋳造したかを明確にするために、裏面右に「蘇」を左に満州語を記載した。蘇以外に廣・福・桂・河・同・・・など多くの地方名がある。蘇州の「宝蘇局」は、蘇州市路西北「閶門」から西中市を東に行くと中市橋に至る。その北、第24中学付近であったようだ。学校の東に「久福里」が南北に走る。


この久福里の南入口を東西に走るのが閶門内下塘である。この下塘に並行に走る第一横河には崇真宮橋や至徳橋、越えれば泰伯廟などがある(写真2)。周王朝文王の叔父にあたり、中原からこの江南の地に流れ、勾呉国を建国した(紀元前1100年)。その後胤が春秋時代の呉王闔閭でありその子夫差となる。また6世紀の梁書倭国伝では倭王武(雄略天皇)がしきりに南朝と交易を図っていたが、その梁書に「倭者、自謂太白(泰伯)之後:倭の者は自らを泰伯の子孫」と称している。口だけかもしれないが、我々日本人の祖先は泰伯だと思い、是非とも廟を訪問されたい。


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この久福里周辺にかけて16機の鋳造所があり、月間3万斤(15t)溶解した。この重量は個数にして28卯/年に相当と記録されている。「卯」と言う単位は、当時の金銭の個数の単位である。千個の銅銭が1串になる。この串を1.2万集めると1卯になる。すなわち1卯=千個/串X1.2万串=12百万個となり、年間個数にすると、28卯X12百万個=3.4億個の銅銭が造られた。「康煕通宝」以外にも「雍正通宝」もあり、200年近くここで製造されていたことになる。久福里に行っても、ここに清時代「宝蘇局」があって銅銭を造っていたなど一切の掲示物はない。人通りのない寂しい路地に古めかしい建屋を見るばかりである。


たかが銅銭1枚であるが、どういう経緯で日向宮崎まで来たか、そしてなぜ造られた場所を訪問したいと思ったのか、これが「金の縁」と言うものであろうか。


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