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蘇州古城の大きさ「大城周り47里210歩2尺なり」 【蘇州たより 工藤和直】vol.20 (読む時間:約3分) 2015.04.10


蘇州古城は、地図を見ると北の国鉄線、東西南の高速道路に囲まれた中央にある。その歴史は2500年前に始まる。外周は水堀に囲まれ東西3.5km・南北4.5kmの長方形状であり、堀に沿って周囲16kmを高さ7mの城壁で囲まれた要塞都市であった。面積は、北京(63平方km)、南京(40平方km)に次いで第三位(14平方km)、西安(12平方km)、杭州(12平方km)、成都(11平方km)よりも広い。現在の蘇州市の中核は、この古城を基本として構成されている。


蘇州は水の流れやすい窪地に位置し、春秋時代闔閭のもとで伍子胥が自然の湖と河を利用し、八つの水門を開いて城内に水を引き入れた。戦国時代に楚国の春申公が胥門を閉じ、葑門を増設して胥江の水を城内に流れ込ませ、洪水の被害を減じることに成功した。


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西暦紀元前514年(ちょうど2500年前)に、闔閭のもとで伍子胥が計画した。城市は周囲47里(23.5km)の広大な土地の四方に城墻をまわし、各辺に八つの水陸門を設けた。城内には三横四直と呼ばれる幹線水路が通され、陸門と並んで設けられた水門から外城河に繋がっている。近郊の運河は、隋時代に煬帝によって更に拡張され、江南運河が開かれた。これが物資の集散に大きな力を発揮し、蘇州を江南一の商都に押し上げた。


蘇州城は闔閭城とも言い、最初に築かれたのは春秋時代である。紀元前514以前は現在の北の方角(現在は相城区政府あるあたり)にあったが、風水の判断から、現在見られるような「西に山並み、東に湖畔(沼地)」を基本とする姑蘇山から東北15kmの現在地に定められた。蘇州城は当初は現在の玄妙観のある周囲と極めて小さい小城であったが、最終的には戦国時代に外廊周囲68里60歩(約34km、中国1里=0.5Km)と外廊・大城・小城の3重構造と記録されている。その後、2500年の長きに渡り多くの為政者に統治され、十度に渡る戦災で興亡の憂き目にあったが基本的構造は現在に至るまで不変である事に驚きを感じ得ない。街並みを歩く度に、城壁を見る度に、呉王夫差にそして西施に会うのでないかと思わせるのが、この城郭都市の特徴である。


軍事防衛上の為に伍子胥は47里の大城に8つの水陸城門を配置した。東西南北にちょうど二つずつである。軍事学的にこの城を大軍で攻めるには、東が沼地であるので、南北から攻めるしかない。特に舟を使っての大軍には南方面から攻めるしかない。戦国時代の越王勾践もそれに従って勝利した。その前線基地となった越城跡は、盤門南3kmにある石湖北に残っている。ここは清の時代乾留帝が数度と運河を使い訪問した場所でもある。行春橋・越城橋の東に越城跡が畑の中に確認できる。その前線基地の15km南に呉江市笠澤と言う地名がある。ここは越の最初の前線基地にあたり、紀元前478年笠澤の戦いから呉の没落が始まったのである。


大城の大きさが時代とともに変わるのが奇妙である。唐の時代の記録は「大城42里30歩、小城8里260歩」、北宋時代が「大城47里210歩、小城12里」から「大城40里、小城10里」とさまざまである。清の時代となると繰り返しの修復で、周囲22.5km(45里)となっている。現在地図で見ると、長方形とすれば、縦4.5km横3.5kmであるから、周囲は16km(35里)以上になる(北部は亜の字に膨れているから)。この大城の更に外部に外廊があったわけで、単純比例計算すれば、現在の城壁から0.9km離れた所に、外廊と称する更に最外部の城壁があった事になる。堀を渡った所から700m付近にそのような城壁跡はどこも見られない。


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