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武漢(漢口)にある日本国領事館跡を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】vol.23 (読む時間:約3分) 2015.05.29


武漢三鎮(武昌・漢陽・漢口)は中国の要(かなめ)の位置にある。北京と広州を結ぶ南北直線と上海と重慶を結ぶ東西直線の交差点がちょうど武漢である。長江の支流は武漢に集まり、南京から上海に流れる大長江となる。中国四千年の歴史の中、政治・軍事面で「中京事あれば武漢の地先ず乱る」とか「之(武漢)を得る者は興り、之を失う者は亡ぶ」といわれた様に、あの辛亥革命(1911年10月10日)も武昌蜂起が発端とする。遠く三国時代に呉王「孫権」が武昌に都を移したのは、ここを制する者が中華(天下)を制するという考えであったからだ。


貴州や雲南の多く住む少数民族「苗(ミャオ)族」は、遠く四千年前の夏時代(二里頭遺跡の発掘調査により殷時代の前の都市国家王朝が実証された)に、武漢三鎮で居住した民族であったが、夏王朝の拡大と南進政策で、苗族を含む長江流域に一万年以上前からあった長江文明国家が突然消滅(南方に移住)したといわれる。


アヘン戦争後の南京条約(1942年)によって、上海・寧波・福州・アモイ・広州の5港が開港、天津条約(1958年)により内部の南京・漢口・鎮江・蕪湖を含む10港が開港するに至り、当時漢口は対岸の武昌に比べれば漁村に過ぎない地域だったが、その後80万人が居住する大都会へ変貌して行く事になった。


いわゆる半植民地化の例が租界であるが、日本は戦前中国内に日清戦争後8つの租界地を持った。杭州(1897年開設)、蘇州(1897年開設)、漢口(1898年開設)、天津(1898年開設)、重慶(1901年開設)、沙市(調印後未開設)、福州(調印後未開設)、アモイ(調印後未開設)の租界地である(上海租界地は海外列国との共同租界地であり日本人租界地ではない)。漢口租界地は、英国が1861年に当時の清国に対し半永久的に土地の割譲を実施したのが始まりである。その後独国が1895年(三国干渉のお礼として清国が提供)、仏国・露国が1896年に、最後に日本が1898年に租界地の開設に至った。


漢口日本人租界地は諸国に遅れた事もあり、独国租界地の北に沿った荒地であった。東は長江、西は京漢鉄道までの長方形の領域である。1906(明治39)年当時、邦人の数は660名、1914年(大正3)年には1380名となり、他の4カ国に比べても最も多い外国人であった。遅れて発展した事もあり、主要銀行や商社などは英国租界地にあった(最初の日本国領事館は仏国租界地に設立)が、住居として多くの日本式建屋が建設された。現在、中央部を走る勝利街の両側に多くの日本人が住んでいた建屋が確認できる。居住の建屋以外に、地図で郵便局やマッチ工場、西本願寺・漢口神社に日本人学校など確認できる(写真)。漢口に1年早く開設された杭州・蘇州の日本人租界地跡に行っても、日本人が住んでいたと言う痕跡が見られないが、ここ漢口にはレンガ造りの建屋や日本人の住んだ家屋など多くが保存されており、当時の街の風景を想像できる。


日本国領事館は独国の租界地に面し長江に近い場所に造られた。現在の住所は沿江大道234号で武漢匯申大酒店(Wesun hotel)となっている(写真)。また隣の独国領事館は現在武漢市政府の敷地内、仏国領事館もホテルになり現存する。1938(昭和13)年10月27日日本軍による武漢占領となる直前、国民党軍は日本人租界地にあった重要施設を爆破した。領事館は鉄柵の門以外爆破、同じく本願寺や漢口神社なども崩壊した。その後再建が進むが、1943年に日本人租界地は汪兆銘政権に引き継ぐこととなった。日本以外の列国の租界地は、日露戦争後強国となった日本租界地を除き、独国は1914年、露国は1924年、英国は1927年の順に回収され、特別1区・2区・3区と変名し、武漢市に編入された。仏国は日本と同じく1943年に汪兆銘政権に引き継がれた。


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上海を除けば(当時上海の邦人は10万人といわれ、現在の2倍)漢口には1380名の邦人が居住した結果、日本人学校(当時の中街6号)も設立された。1913年10月には「漢口居留民団立漢口明治尋常高等小学校並同校付属幼稚園」が設立され、1918(大正7)年には幼稚園34名・尋常科84名・高等科6名の合計124名、1925(大正14)年には、幼稚園50名・尋常科180名・高等科19名の合計249名に教員数10名と記録されている。また上級の「中学校高等女学校商業学校」などの設立にも奔走し、1940(昭和15)年には青年学校、翌年には高等女学校が設立された。蘇州尋常高等学校が22名と記録されているに比べ、当時の漢口は上海・天津に次ぐ規模であったと思われる。


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