新規登録
コラムニスト募集中
日経新聞
DMMコラム
蘇州たより
上海の街角で
JETRO
上海日本商工クラブ
在上海日本国総領事館
ラクト
上海人
香港リーダーズ
C.L.Mリーダーズ
経営者.マガジン読者の集い
2015稲盛和夫経営哲学上海報告会
中国ニュース
株式会社TOHOKI
人気ページランキング
  • 今週
  • 今月
  • 殿堂
  • JBSコラム Vol.3

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • 上海リーグ法律事務所 コラム vol2

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座vol4

  • 知的財産権の取得・侵害対策、企業内不正対応を中心に、中国での企業活動をワンストップで支援。

  • JBSコラム Vol.3

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座vol4

  • 知的財産権の取得・侵害対策、企業内不正対応を中心に、中国での企業活動をワンストップで支援。

  • 上海リーグ法律事務所 コラム vol2

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • “One Team, No Border” 会計税務を中心に企業のグローバル化を全力で支援しております。

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座 vol.8

  • 微博・微信を中心とする中国ソーシャルソリューションサービスをワンストップで提供しています。

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • リスク管理領域を中心に日系企業の中国事業を支援させて頂きます。

蘇州にあった日本人租界地跡を歩く 【蘇州たより 工藤和直】vol.24 (読む時間:約4分) 2015.06.15


蘇州にも日本人租界地があったと言う話を駐在まもない時期に聞いた。明清の時代、蘇州・松江・太倉に459の市鎮が存在、蘇州を中心とする都市型の商業経済ネットワークを形成していた。当時の文献にも「蘇州は東南第一の大都会、多くの商人が集まり、百貨が並ぶ。海外からの多くの人々が集まる」と記載されている。蘇州の伝統的商工活動の転換期はアヘン戦争(1840年)である。当時の輸入品のトップはアヘンで、蘇州城外の楓橋から盤門にかけての城門付近はほとんどがアヘン輸入で繁栄を極めた。


アヘン戦争で英国と戦いに敗れた「林則徐」は福州出身の官僚であるが、1831~1832年に蘇州巡撫(長官)として蘇州に赴任している。アヘン禁輸の欽差大臣となって英国に負け左遷される運命になる。彼が執務した蘇州城内十全街西にある書院巷沿い江蘇巡衙門に「海納百川有容乃大 壁立千丈無欲則剛(海は百川をおさめ容の大なる有り、壁は千丈に立ち無欲にしてすなわち剛し」の書画がある。今では習近平主席を含め多くの政治家が異口同音に言う政治規範となっている。


日清戦争後の1895年、下関条約により蘇州租界地構想が持ち上がり、当初石路周辺の繁華街を日本政府は望んだが中国側の大反対により、当時は墓場(孫策:孫権の兄、妻の大喬も供に埋葬されたと記録)になっていた盤門の南(盤門路・南門路の南)青暘地に決まった。西は現在金葉糸服有限公司の中になった在蘇州日本領事館から、東は南園路、南は東西に走る生活用運河に至る約32ヘクタールである。南園路から滅渡橋までの東29ヘクタールはアメリカなど欧米各国との共同租界地となった。共同租界地には税関交易所が作られている。杭州も同じような税関交易所(第二病院敷地内)がある。この共同租界地の南に日本陸軍の飛行場があった。蘇州領事館跡に行って思うが、玄関が東を向いている。これは東に発展する租界地の要となるべきことと、東京(皇居)方向を意識したと予想する。また南門路に面する南還小学校(幼稚園)があるが、ここが日本人学校でなかったのではないかと推定される。概略の租界地歴史は以下のようになる。


1887年:3月5日に租界成立(借用期間30年、上海総領事官珍田舎己締結)
1902年:在蘇州日本領事館建設(上海分館)
1903年:租界地に東西貫通の大道1本と南北の小道7本、路両側に桜・柳植樹
1919年:蘇州領事館代理大和久義朗がわずか24名の常駐日本人を報告
1924年:蘇州領事館領事岩崎栄蔵は租界地の繁栄のため片倉製糸建設を提案
1934年:日本人駐在者78名、蘇州日本尋常高等小学校生徒22名
1937年:日華事変による全面戦争で駐在員・領事館員は上海へ撤収
1945年:日本の敗戦により租界地は終了


kudou24-03-2


当時の記録によると、租界地内の道路には多くの桜が植えられ、毎年春は蘇州内外から多くの観賞客が来て異国情緒を満喫できる蘇州の新風物詩となったと記録がある。現在、蘇州新区から39番のバスで外堀南にかかる南園橋を渡ると南園橋南のバス停がある。その西に面する内馬路が1903年記載地図の東西貫通大路(朝日町)の一部である事が容易に推測される。添付地図から見て記載の20尺(6m)の道はそのままであり、その延長が蘇州領事館の玄関になるのではと入り口を捜した。ここが正に日本人が多く生活した場所であるが、今はその面影も感じられない。当時は旅館に郵便局などもあった。両側にある公園に桜や柳の木々はなく、石々の痕跡にも日本を思い出させる匂いも感じられない。写真は現在蘇州革命博物館にある1.7m長X36cm幅の石碑(光緒23年4月と刻印:1897年)である。


民国2年(1912年)の蘇州府城之図や民国29年(1930年)の呉県城図などから、当時の租界地の状態を書いたのが添付図である。南園路は昔の緑河街で、そこから西に一条通りから七条通りまで南北に最後に大馬路が西端になる。東西に走る道路は、北から当時としては蘇州で最大の30m幅の馬路(現在の盤門路・南門路)、その南が大和街、朝日町、桜町と4本と東西南北が区画化されている。現在も確認できる内馬路は、朝日町と四条通りの鍵形の道路である。四条通りの北延長に、南堀にかかる橋(蛇門橋となるはずだった)と蛇門があり、城内にはそこから北に蛇門路が続き、現在の竹輝路で左折していたと民国29年の地図から確認できる。大和街には、中村旅館や日本郵便があった。その東には加藤石鹸公司が確認できる。日系企業として確認できるのが、大東汽船(貨客運輸)、片倉製糸(絹織物)、吉原繁子旅館、酒作(醸造)、亜細亜石油、丸三薬店、湯浅洋行、精養軒旅館、備後屋工場(ござ製造)などである。


参考:蘇州に残る「日本国領事館」跡 【蘇州たより Vol.1】
   蘇州城門城墻(施暁平著)
   産経ニュース
   http://www.sankei.com/world/news/141027/wor1410270001-n1.html


kudou24-04


コラムニストの過去の記事も読む