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蘇州城内、古橋案内(その1) 【蘇州たより 工藤和直】vol.26 (読む時間:約8分) 2015.07.07


唐代の詩人白居易(西暦772~846年)は「遠近高低寺間出、東西南北橋相望」「緑浪東西南北水、紅欄三百九十橋」と詠い、劉馬蹄も「春城三宮七十橋、爽岸朱楼來柳茶」と詠むように、蘇州は橋が多いことで知られる。宋代に石碑刻された「平江図」には三百五十九橋が描かれている。杜荀鶴(846~904)は、送人遊呉(人の呉に遊ぶを送る)の中で蘇州の街の情景を下記のように詠っている。


君至姑蘇見  君、姑蘇(蘇州)に至りて見れば
人家尽枕河  人家尽く河を枕とする
古宮閑地少  古宮に閑地少なく
水巷小橋多  水巷小橋多し
夜市売菱藕  夜市、菱と藕(蓮根)を売り
春船載綺羅  春船綺羅を載せる


蘇州の橋は宋の時代に石橋となった。唐の時代は木造であったことが白居易の漢詩「紅欄三百九十橋」から伺える。木は赤く塗られていた。唐の時代390座あったが、北宋時代から石つくりへと大改修が始まり、至和2年(1055年)には52座が修理、中呉記聞には360座となり南宋紹定2年(1229年)平江図によると359座となっている。その後明代には311、清代には510、民国時代には349座が記録されている。そして現在地下鉄工事で、破壊され消滅した橋も多くあるが、アパート間の移動、銀行への通路として新規の橋もでき、その結果2013年末段階で172座があると、筆者の脚で踏破し出した結論である。


6~7千年前、現在の呉江梅堰龍南当たりの川沿いに原始部落が有り、川沿いに建てられた村間と村間の間に木板を敷いたことで、簡易な橋ができた。これが蘇州で一番初期の橋と認定されている。春秋後期(前512)蘇州城は周囲48里、陸門8・水門8があり、城内には臨頓橋・烏鵲橋・帯城橋・苑橋・憩橋が記録され、その後秦代には昇平橋・織里橋・乗魚橋・剪金橋・呉王橋、漢代には皋(Gao)橋・顧家橋、三国呉時代には楽橋(市の中心)が記録されている。橋の大きさで言えば、蘇州城外ではあるが隋代趙州橋(安済橋)橋長50.82m、宋代1047年創建の呉江「垂虹橋」は1325年には全長450mに渡る江淅古代最長の石橋であったことが記録されている。残念ながら、現在は3つに分断し、最長40~50mとなっている。呉中区に317mの宝帯橋があるが、現存では中国最長である。ちなみに、蘇州内で一番短い橋は、網師園の引静橋(三歩橋)である。


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蘇州城内の水の流れは西の閶門、北の平・斉門から入り、城内を西そして南に緩やかに流れ、東の婁門・葑門および南の盤門に向けて流れ城外に出る構造になっている。では、蘇州城内一度は見ておくべき必見の橋を三横四直の運河にあわせ記載する。


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第一横河は、城北西閶門の水関橋を東行して至徳(泰伯廟)橋:民国13年重修後現在改修、皋(Gao)橋で一直河にぶつかるが、皋橋周辺の建物に日本風石作り建築が見られる。皋橋の北に張広橋と言う市場の荷で汚い橋として見えないが、この周辺は千年変わらず生活にマッチした市場の舞台であったと想像できる。崇真宮橋(平江図:宮橋)1982年重建の平橋だが歴史を感じる。水関橋から北行して尚義橋(花崗岩平橋1747年改修)、板橋(花崗岩折橋)と東行し、第二直河日輝橋(平江図では北過軍橋:花崗岩平橋1987年重修)、そこから北行すれば平門に至る。単家橋を東行すれば、地下鉄工事で破壊された香花橋の痕跡に遭遇するが、工事終了後の往古の橋に期待したいが無理であろう。香花橋は人民路を渡る当時のメイン橋(その南の楽橋も)で、人の交通量の多い橋であったがため公開刑場ともなった記録がある。その後北塔寺を見ながら東行、この第一横河は桃塢河と呼ばれる。臨頓橋で第三直河(臨頓河)に合流、北行すれば斉門に至り、東行すれば拙政園と見ながら華陽橋を通過、婁門に至るが、その直前婁門バス停の南にある城東橋と西の張香橋(昔姓は張名は香という少女との月夜の物語が宋代に記録される)は必見に値する。この張香橋の南に徐鯉魚橋(平江図:麒麟橋)1944年顧・兪両氏が重修、百の鯉が来た由来あり。拙政園の前に拙政園橋(園林橋)がある。そこから東方向に見えるのが周通橋である。平江図にも記載があり清時代・民国時代に重建された。ただ今は駐車場内からしか見物できない。橋はゴミ箱のような状況にある。拙政園は明時代、近くの忠王府(太平天国時に置かれた)は清時代、文化財としての価値は、周通橋の方が上である。


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第二横河は干将河といわれ、現在地下鉄一号線の上にあり、西は渡子橋とその北の昇平橋から東に流れるが、昇平橋の北西から城外への支流もある。渡子橋の東にかつて状元橋があったが地下鉄工事でなくなった。渡子橋は第一直河と重なるが、その第一直河と並行して「学士街」が南北に走る。そこに明代大学士「王鏊:1450-1524)」が住んで居た。科挙制度は中国人材登用試験で、殿試の前に会試があり、その前に郷試がある。各試験でトップの者を郷試では解元、会試では会元、そして殿試では状元と呼んだ。この3つをもトップ合格した者は三元と呼ばれる。王鏊は審査官の妬みにより殿試で第3位の「探花」となったが、実力三元と言われた極めて博学な人物であった。


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かつて干将河には17座があったと記録されたが、現在は19座となっている。歴史のある河ではあるが、今は市内のメイン道路となり橋はいずれも新しい。東行するに蘇州城内一番の繁華街であった楽橋に至る。現在地下鉄1号線工事で大きく変化し、橋の下を道が走りその下に地下鉄がある。かつて呉の時代から存在した歴史ある橋である。1950年代写真は人民路を北に見たもの、鶏が二羽の風情が実に面白い。またここは北の香花橋と同じく公開処刑場でもあった。処刑所の下を走る地下鉄と言う組みである。この楽橋の東に言橋があるが、ここは平江府の南門の延長にあり、その北が宮巷になる重要な橋となる。言(Yan)橋:平江図では閻(Yan)橋、清代に改名、近くに孔子の弟子言子の廟があった。春秋時代に創建1954年に改建。更に東行するに第3直行と交わる馬津橋、そして呉の夫差の離宮あった苑橋で第4直行と交わる。干将河であえて昔日を思い出させるのは昇龍橋(平江図:万寿寺東橋)1981年重建花崗岩アーチ橋程度であろう。宋代創建、禅寺の万寿寺東橋と呼ばれ明代に現名となる。


第三横河は姑胥橋を渡った歌薫橋から始まる。その南の第一直河にかかる孫老橋(宋代の蘇州太守孫氏が作り、白居易が唐時代に改修)がある。東行するに第二直河と合流する志成橋も重建されたが昔日を感じる橋である。東行するに現在の人民路(かつては臥龍街)とぶつかる所が飲馬橋(引馬橋)である。写真は民国時代のものであるが、その大きさから城内屈指の橋であったことがわかる。晋時代に高僧が馬にこの橋の下で水の飲ませた由来、橋の南西部に関帝廟があった。その東に今は現存しない夏候橋があったが、その北は、錦帆路となっている。かつて子城の西堀になった渓があった。呉王夫差は西施とここから船にのり、東の呉王橋で降りた記録がある。


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第三横河は更に東行するがその道は既に十梓街となっているため、第四直河にぶつかる望星橋まで橋は存在しない。夏候橋(存在しない)から南下した支流は、帝賜蓮橋(アーチ式1984改築、元末期の明に対抗した張士誠が母のために作る)や福民橋(平橋)が長洲路に面してある。東行するに烏鵲橋、船場橋(北は現在も南林飯店であるが当時は造船所であった)、南林橋(その南が南園ホテル)に至る。第三横河に並行して網師園という南宋時代の庭園があり、こじんまりして留園と同じく当時の庭園&建築物を一望に見ることができる。


現在第10中学の前進が清時代の織造署であったが、その前にあったのが織造橋(紅板橋:木製)である。清時代、乾隆帝が巡行した折、訪問した場所でもある。その東の大通りに掛かる帯城(Dai Cheng)橋は春秋時代からの橋である。子城の南部に位置し、呉が越に負けた時、西施が袋に入れられてこの川に投げ込まれた。その時、袋(Dai)が沈(Chen)と言う韻から命名。その後東行して星造橋(アーチ式花崗岩1984年修理、隕石で作ったとも言われる)、東呉賓館前の呉衛橋などある。星造橋の北に迎楓橋巷がある。迎楓橋は第四直河の望星橋近くにあった。呉衛橋を越えると百歩橋(平江図では磚橋:レンガ)があるが、その北に望門橋(蘇州大学の南門)があり、距離にして50m、歩いて百歩であるのでこの名で呼ばれている。この50m長の街路東に古い住居があるが、蘇州大学教授の方々の住居であった。


十全街はプラタナス(法国梧桐)が実に美しく植えられた街路であるが、東呉賓館前の梓樹は必見の価値がある。平江図に描かれた樹木も梓樹(きささげ)であると推定する。烏鵲橋は第三横河で最大の橋である。その在りし日の写真から、規模といい重要な橋であることが明確である。呉王夫差の時代には烏鵲館が近隣にあり、その北は呉王時代の子城、宋時代の平江府の南門延長になり、南行するに城門(蛇門)にあたる、蛇門はその所在が明らかでないと言われるが、蘇州城のちょうど南の位置(平城京羅城門にあたる)で、ちょっと前まで杭州に行く観光船の発着場あたりが蛇門と断定する(民国時代に蛇門路の記載があるが、この位置は呉王夫差時代の蛇門の東50mの位置である)。烏鵲橋がどれだけの橋であったか、今では知ることもできないが、白居易の漢詩に、ひとつは「烏鵲橋は紅く夕日を帯びる」と言う夕方の詩であり、もうひとつは「烏鵲橋の端の氷がまだ消えず」と言う冬の詩に書かれた橋であった。


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参考文献:蘇州古橋文化(古呉軒出版社)
     蘇郡城河三横四直図説(嘉慶二年:1797年)


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