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蘇州城内、古橋案内(その2) 【蘇州たより 工藤和直】vol.27 (読む時間:約9分) 2015.07.16


第一直河、北は皋(Gao)橋から始まると記載されているが、運河はその北の桃花橋からある。皋橋から南へ、唐時代から呉趨坊と言う街路がある。それに接する天庫前を100mほど西に行くと周王廟跡に着く。第一直河に戻ると平安橋(市民の希望で付けられた花崗岩平橋)、敦化橋(1927年市民重建平橋)、第二横河(干将河)南の乗騮橋(清同治13年:1874年平橋、黒毛赤馬に乗る)、第三横河南でちょうど胥門とつながる来遠橋(民国12年改建花崗岩アーチ式、論語の朋遠方入り来るに所以)があり、その後南下して盤門から城外に出て行く。盤門景区内に窺塔橋がある。唐時代は廟橋と言われ近くに五相公廟(伍子胥廟)がある。1953年に改築されたが、橋桁は往時のままである。ここからの瑞光塔の眺めは最高である。


第二直河は蘇州駅前の平門から始まり、北過軍橋・南過軍橋のあとは、埋め立てられ存在しないが、その痕跡は王天井巷に残っている。河は公園や店になっているが、東西には道を擁し、中央に河があったことが容易に推測できる。途中には天井小分などの牌門跡や範仲庵(宋時代の政治家)の私邸:範義荘が景範中学校内にある。またこの周辺から南は宋時代、呉県が置かれた(東は長州県)場所であり、兪越故士宅などが並ぶ。人民路(臥龍街)に接する当たりに平江図東呉県橋があった。干将河を横切ると東美巷・西美巷と両側に河の痕跡を見ながら、大石頭巷には3つの井戸が現存する。更に南下するに右に人民政府会議センターが見るが、左が蘇州市民病院となり、第三横河に至りようやく志成橋(平橋)となる。その南は金獅河沿になるが、同じく埋め立てられている。志成橋は民国時代1917年創建で「衆志成城」の意味がある。


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第三直河は北の斉門から始まる。南下するに臨頓橋で第一横河と交わり、臨頓河として南下する。すぐに任蒋橋になり、左折すれば潘儒巷となる。白塔子橋を越え南向するに西花橋に至るが、唐時代は花橋と言われ、白居易の詩「揚州駅里夢蘇州、夢至花橋水閣頭」にある。その南懸橋を左折して平江路に行くと清代状元であった洪釣の故居がある懸橋巷となる。この巷には1988年に亡くなった現代中国の出版・教育者でもある葉聖陶先生も輩出している。貧しい家庭で育つが、その功績は大きい。その南が現在の観前街の入り口の酢坊橋であり、北に徐貴子橋(平江図では徐鬼橋)、更に南下して碧風坊橋・落瓜橋となる。落下した瓜(スイカ)の話が言い伝えとなっているのが落瓜橋である。北宋大臣、呂豪正(西暦943~1011年)河南洛陽人は青年時代非常に貧しい生活をしていた。ここ蘇州に流れ着いてこの橋の袂で生活を始めた。ある時一人の農夫が西瓜を積んだ荷馬車でこの橋を渡ろうとした難儀を見て手伝った。そして褒賞として頂いた西瓜であったが、生活苦で持つ力なく、頂いた西瓜はあっけなく水上に落下した。その後呂青年は進士となり、時の宋皇帝に重用され、懐かしい蘇州を視察、まさに青年時代の困窮を味わったこの橋を見て、渡り易く橋を自費で改修したと言う。西瓜を落とした橋と言う事で、落瓜橋と名付けられた。


その南に、青龍橋、大郎橋(又の名を太郎、宋代建1982年修建平橋)となる。太郎がおればどこかに二郎となるが、葑門から入って左折すれば二郎巷となる。第四直河は別名平江河と呼ばれ非常に原型を留める地域である。歴史的にそのままを残しているので、是非一度は訪問される事を希望する。橋には説明碑があり、宋時代の武康石や明・新時代の青石などの石造りを確認できる。華陽橋から約2km弱の距離だが、多くの古橋を見ることができる。


その平江路は第二横河(干将河)の苑橋で終わるが、華陽橋との間には15座の古橋があり、一つ一つに故事を持つ。南宋時代の「平江図」にも同じ場所と断定できる橋が12座であることから、蘇州城内で古橋を1日で見たいなら是非とも平江路を推薦したい。宋時代から現存する12座の橋は、北から渓・慶林(平江図では慶暦)・保吉利(打急路)・胡廂使・唐・通利・朱馬交・衆安・青石(蘇軍)・勝利(慶織)・雪糕・寿安(寺後)・思婆(寺東)である。いずれも明・清時代に何度かの重建を行い、一部分に宋時代の武康石などが残っているが、基本構想は800年変わってないのが特徴である。青石橋は、高価な青石が全面に使われており必見の価値がある。胡廂使橋は宋時代の官職(廂使)から名付けられたが、廂使(Xiang Shi)は相思(Xiang Si)に通じ、男女がお互いに思いやると言う意味で、七夕の時は橋の上で男女が密会する場所にもなった。今でもこの橋の上で結婚式用の花嫁花婿の写真を撮る光景が見られる。思婆(平江図では寺東)橋は尼僧院の東にあった古橋で、尼僧の事を師(Shi)婆と呼んだが、蘇州語の曖昧な発音から思(Si)となったものだ。この通りは思婆巷と言うが、ここに住んだのが近代中国史上有名な賽金花(本名:趙彩雲)女史である。清朝末期に蘇州の官僚洪鈞(進士)の側室となったが、洪鈞と赴任したドイツで語学を習得、義和団事件では8カ国連合軍を率いたドイツの将軍を説き伏せ、市民との衝突を回避させた。また1930年代には日帝の進出に対しても同様に愛国的な行動をした女性である。


平江河が苑橋で終われば、干将河を越えた興市橋からその南下が始まり、葑門で終わる6つの橋は蘇州1級である。蘇州城内は水上輸送から陸上自動車輸送に時代が変革する中で、1980年代に入り、多くの橋はその役目を終え、破壊か平橋への改築が主になった。この望星橋巷・忠信橋巷は幸い市の南東の交通不便のままで生活が存続できたが為に、不幸中の幸いで折橋・アーチ橋がそのまま残ったと推定される。その勇士は今後とも蘇州市の財産として永久に残らん事を切に希望する。官太尉橋(宋代創建、清代数度重建、呉郡志によると官と言う太尉が住んだ)、呉王橋(呉夫差時代創建、往時は東西に両方支流があり、西:胭脂、東:仙境、呉王夫差は西施と西の錦帆渓から船に乗り、この橋で降りたので呉王橋と言われた)、寿星橋(宋創建、営橋。付近に陶器の寿命像が出た由来、その南の百獅子橋の遺功を移す、武康石)、望星橋(南宋紹定2年創建、往時から多くの外来船が寄航、手紙を望んだと言う由来で望信橋と言われたが民国時代に現在名)、忠信橋(清代創建花崗岩折橋)がある。以上が蘇州城内で是非とも訪れたい古橋である。


蘇州にある橋は宋代から石橋に架け替えられたが、宋代のままにある橋はない。明・清時代に重修されたものがせいぜい当時の往時をしのばせるにすぎない。郊外に行くと宋代のままがいくつか残っている(国家一級で文化財として登録)。そのいくつかを紹介したい。一つは同里にある思本橋である。同里はその昔は「富士」と言われ40座の橋が記録される。呉江から同里へ行く際、通るのが迎燕路であるが、その南に思本路がありその西端の工場地帯の汚くなったクリークの突然出くわすのが、「思本橋」である。南宋宝祐年間(1253~1258年)の5年の歳月でできた760年前の雄姿を見る事ができるアーチ橋である。横から見るに橋上部の梁部に彩雲の模様がうっすらと残っている。もうひとつが、呉江七都にある「東廟橋」(平橋)である。230号線から呉越路に南下した東廟橋村にあり、橋梁は武康石からなる。欄干は花崗岩が追加されている。宋紹定年間(1228~1233年)に建設、同里の思本橋に先立つ25年前の橋である。この二つを見ないと蘇州の古橋を語る資格がない。七都付近には八都もあり、調査するに909年には、1から29都まであったようだ。これらの橋の共通点は何でこんな田舎と思う点である。それが故に時代から取り残され現在まで残ったと言える。これらの橋の周囲に明・清時代の古橋も見られるが、共通して今でも生活のために使われている点がすばらしい。二つの橋はふんだんに武康石が使われ、800年の歴史の中で最高の「紫色」を呈している。まさに国宝級であろう。蘇州市南部の呉江地方には260余の古橋が記録されている。


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同里までの時間がない方々にとって明清時代に改築されたが、宋元時代の面影を持ちのが、城内東南角にある滅渡橋と寒山寺内にある楓橋(封橋)が挙げられる。楓橋は古来水上交通の関所(鉄嶺関)たるべき重要な橋であったがため太平天国の乱で1860年破壊され再建された花崗岩単孔アーチ式である。また寒山寺門前にあるのが江村橋であるが同じく唐時代に創建され、現在は花崗岩単孔アーチ型である。


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滅渡橋は蘇州城東南角にある楼閣(2000年代建設)の対面にある橋で、花崗岩からなる単孔アーチ式である。その南2kmに宝帯橋がある。更にもう一つ挙げるとすると盤門南の呉門橋である。宋代1084年創建の三孔アーチ式で、盤門路に入るにはこの橋を通るしかない。かの文豪谷崎潤一郎も蘇州訪問時は盤門南の日本人租界地で宿をとり、翌日ロバで城内に入ったと日記にある。以上の4つは蘇州に来ればすぐ見られる橋であるので必見を薦めたい。


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よく万年橋(姑胥橋の南)について問われる事が多いが、今の万年橋は2010年頃に三孔アーチ式に建て替えられた橋であり、清代乾隆帝時代1740年に創建、当時の姑蘇繁栄図からみても三孔折橋であり現在のアーチ式と異なる様式に変更された。これも観光船を通すためで歴史の歪曲の例であるので、お薦めはしない。あわせて言えば、姑胥橋北には2500年前の土塁の城壁跡があり、黒く固い土塁にその後の石や煉瓦にない時代を感じさせる価値ある土塁溝が存在したが、2013年の工事できれいな観光受けする石の城壁になった。歴史とは過去の遺物をいかに史実のように残すかであり、観光(お金)のためだけではない。


滅渡橋から真南に3km下ったところにあるのが宝帯橋である。この橋は元々の目的が道と道をつなぐ2次空間の接合でなく、船を縄で引く労働のために作った橋であるのが特長である。杭州から嘉興・呉江と北上した大運河は蘇州城東南部3kmの所で、右折すれば上海、左折すれば大運河で蘇州城外寒山寺を通り無錫へ、直進すれば3kmで滅渡橋から蘇州城内に入る事ができる交通の要所にある。別名長橋と言われるように317m長さで53のアーチ式であるが、上部は平坦である。創建は唐代(西暦816年)蘇州刺史の王仲舒が宝の帯を売って作ったといわれる。現代の橋は明代(西暦1442年)に再建されたものである。中国に現存する一番長い古橋である。杭州から来た船をただひたすら北に縄で引っ張る労働者の姿をかの日本からの遣唐使一行も見たであろうと思う。現代では日中戦争で日本陸軍の空爆で、南6孔が破壊された。この宝帯橋の大運河に沿った西部に行くと、西塘河が北上するが、そこにあるのが五龍橋(5孔アーチ式)であり、宋時代の趣がある。


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参考文献:蘇州古橋文化(古呉軒出版社)
     蘇州古石橋(東南大学出版社)
     蘇郡城河三横四直図説(嘉慶二年:1797年)
     姑蘇城図(清乾隆十年:1745年古城図)


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