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愛と悲しみの蘇州古橋 【蘇州たより 工藤和直】vol.28 (読む時間:約9分) 2015.07.27


唐時代、白居易の漢詩には「紅蘭390橋」とあり、宋時代1229年「平江図」には359の橋が刻まれている。そして2013年に筆者が調査するに172橋があり、その内現在も宋代から同じ位置に存在が確認できるのは85橋である。残念ながら、多くは明・清そして中華民国時代に改修が進み、当時とまったく同じとは言えないが、昔日の雄姿をわずかに残している。橋にはそれぞれ意味があるが、その中で愛と悲しみに関係ある蘇州古橋を紹介する。


蘇州城内は、大きくは三横四直の運河で構成されている。その第一横河の東端、婁門近くに張香橋がある。第一横河は西の閶門から始まる。人民路にかかる香花橋(現在地下鉄工事中)を東に行けば臨頓橋で第三直河に合流、更に東進すると蘇州博物館や拙政園を見ながら第四直河が南下する華陽橋に至る。ここから北街河となり東進すると東北街の婁門バス停の南側にあるのが「張香橋」である。この橋は唐時代(当時は木製)からある橋で、清康煕帝45年(1706年)に重建、1956年に石段式の橋から平橋に改修された。


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唐時代、この橋の近くに張という名前の大家があった。そこの娘の名前は“香”と言う。その家には多くの下僕が居たが、その一人と“香”は相愛になったと言う。何時の時代でも貧富の違いは結婚の阻害になるものだが、恋仲のうわさはついに家中に知れるところになり、下僕の男子は家を追い出されることになった。“香”にとっては二人の別れは思いがけない出来事だが、毎日毎日の心労が祟り、ついにはこの橋から身を投げるという悲しい結末になった。近所の者はその後この橋を何時の日か「張香橋」と呼ぶようになった。宋時代になると次のような逸話も語らえるようになった。「月夜の夜になうと、大きなウサギの化身がこの橋の上に現れる。その化身(兎仙)はだれも捕まえることはできない。きっと張香が、橋の上で戻って来ない愛しい人を待っているのだろうと」。今は平橋になっているが、かつては階段式でその一番上で遠くを眺めている兎の化身「張香」は、「只家人橋上等待你回家:あなたの帰りを待っています」と言っているに違いないと思うだけであった。


平江路にある胡廂使橋は宋代「平江図」にもあり、現在の橋は清乾隆帝9年(1744年)に重建、1983年に一部改装された。宋時代の官職(廂使)から名付けられたが、廂使(Xiang Shi )は相思(Xiang Si)に通じ、男女がお互いに思いやると言う意味があるので、七夕の時は橋の上で男女が密会する場所にもなった。今でもこの橋の上で結婚式用の花嫁花婿の写真を撮る光景が多く見られる。(今年の旧暦7月7日は、8月20日(木)になります)


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明時代、隣接する胡廂使巷に富商人が住んで居た。そこに毎朝、葑門外から野菜を運ぶ青年が居た。彼は非常に学問好きで、同じく富商人の聡明で美人の娘と恋仲になった。これが父親の知る事になり、野菜を運ぶのは一人の老女に代わった。娘は「終日思君不見君」と恋焦がれた気持ちを残し、庭の井戸に身を投げ短い一生を終えることになった。近隣の方は、いつしか廂使(Xiang Shi )橋と言わず、相手を思う相思(Xiang Si)橋と言うようになった。


蘇州城の南西角に盤門があるが、その南にある呉門橋については、日中戦争時の辛い歴史があることも忘れてはいけない。呉門橋は宋代元豊7年(西暦1084年)に創建され、当初は「新橋」とか「三条橋」とか呼ばれた。盤門の南に位置し、呉の国に入る入り口となったので「呉門橋」となった。現在は写真の様に単孔橋であるが、当初は3孔橋であった。明・清時代に重建され、同治11年(西暦1872年)に単孔橋となり現在に至っている。盤門路に入るにはこの橋を通るしかない。かの文豪谷崎潤一郎も蘇州訪問時は盤門南の日本人租界地で宿をとり、翌日ロバで城内に入ったと日記にある。


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国立北京女子高等師範大学の学長であった「楊蔭楡」は蘇州人であるが、日本の青山女子学院に留学、帰国後アメリカコロンビア大学へも留学した才女でもあった。魯迅との論争に破れ故郷蘇州で学校設立、その跡は城内東北部の藕園内に残る。折しも日中戦争の折、南京を陥落させ蘇州に手を伸ばした日本軍は、彼女の住む新橋巷(盤門の北)で婦女子に対する暴行を行う。楊女子は巧みな日本語で抗議を行うが認められず、呉門橋に逃れた途中で機銃掃射により落命、呉門橋は多くの中国人の死骸と血で赤く染まったと記録されている。良妻賢母を基本とする保守的な思想家ではあったが、中国初めての女性国立大学長であった功績は大きい。


橋ではないが、同じような女性の悲しみが聞こえるのが、蘇州城東北門になる「斉門」である。斉門は呉王闔閭(前 514年~496年在位)が最初に作った水陸8門の一つである。闔閭は北国の斉との戦いで勝利を治め、斉景公の王女を闔閭の長男「波:終累」(夫差の兄)と結婚させた。王女は半ば人質同然の待遇であった。しかも幸せは長くは続かなかった。突然、終累は若くして死んでしまい、その庇護の後ろ盾が無くなり、王女は毎日故郷を思い悲しみで泣くだけであった。それを見た闔閭は、現在の位置に九層の高楼を建て少しでも故郷が見えるようにと計らった。王女は毎日その高楼に登り、斉の国を思い泣いて暮らしたという。それでこの門の事を「望斉門」とも言うようになった。現在、その高楼はない。


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