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福州にあった日本領事館 【蘇州たより 工藤和直】vol.29 (読む時間:約2分) 2015.08.06


アヘン戦争後の南京条約(西暦1842年)により西洋列強は、広州・アモイ・福州・寧波・上海5港を開港させ、最初にイギリス、次にフランス、次にアメリカが上海に租界地を置いた。その後天津条約(西暦1858年)で、漢口・九江・南京など10港を開港、北京条約(西暦1860年)によって天津を開港させた。西洋列強は戦勝国の立場で特権を中国に強いる傾向が強く、あわせて中国内の内乱をもうまく利用し、租界地の拡大を図った。


福州市は福建省の省都だが、南京条約で開港場となり、閩河沿いの倉前山一帯にイギリス人が住み着くようになった。1844年にイギリス領事館(現在の楽郡路“紅軍園”)が建設されると、他の列強各国も領事館や商館、学校、教会などを付近に建設、倉前山は外国人の居住区と化していった。この倉前山(現在の煙台山公園)に英・米・フランス・ドイツ・ロシア・日本・イタリア・オランダなど17の領事館が出来た。写真は現在もある各国の領事館跡である。日本領事館は1872年に愛国路南の対湖路2号の丘陵地にできた。アメリカ領事館郵便局宿舎(愛国路2号)そこから見下ろすと、閩河南岸までの日本人租界予定地を手に取るように見える一等地であることが分かる。現在は一般の方の民家として使われている。


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福州に住む外国人たちは、1862年に「福州公路信託部」という自治組織を結成し、倉前山で道路や墓地の建設、環境整備を行ったほか、一時は自分たちの警察も設置した。しかし未公認の「租界もどき」なので、住民から税金を徴収するわけにはいかず、インフラ建設の財源は倉前山の道路を通る人から年3元(乗馬する人は6元)、沿道の企業からは年25元を徴収して充てていたようだ。


1860年代にイギリスの教会が中国人に焼き討ちされる事件が起きると、外国人の怒りを静めるために福州の中国側役人は倉前山の麓に70万坪の敷地を提供し、外国人住民はここに競馬場を開設。当初、中国側に地代として年1000両を払っていたが、外国人たちが福州の中国人将軍を競馬観戦に招いて歓待したところ、ご機嫌になった将軍は地代を免除したうえ、競馬場は「一般中国人立ち入り禁止」の治外法権エリアとすることを認めた。


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1897年の条約で、福州に日本租界の設置が認められ、1899年4月28日に規定を定めた。その内容は、天主堂码头から西で、閩河南岸から丘陵地にかけての土地であったが、結局作られずじまいであった。外国人による“共同租界もどき”は太平洋戦争勃発でイギリス人らが引き揚げる1942年まで続いた。同じくアモイ(厦門)の租界地もまた、1900年の調印後実際に租界地は設置されなかった。広州も同じく1902~03年にかけて租界地の交渉は進めたが、それ以上は進展がなかった。


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参考:蘇州にあった日本人租界地跡を歩く【蘇州たより Vol.24】


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