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おら、東京に行ったさ!! 【蘇州たより 工藤和直】vol.31 (読む時間:約7分半) 2015.08.31


東京は東の都を意味する語である。現在では日本の首都「東京」を指す場合が多いが、他に歴史上「東京」と呼ばれた都市は多く存在するが、「東京」は中原においては「洛陽」または「開封」を指す場合が多い(ただし北方の征服王朝[遼・金]に東京遼陽府がある)。北宋(西暦960~1127年)は、東京開封府、西京河南府(洛陽)、南京応天府(徐州) 北京大名府(濮陽)の4つの都を置く四京制を敷いた。その東京開封府は現在の河南省開封市である。現在でも雅称として開封を「東京」と呼ぶことがある。


開封の歴史は3500年ほど前、夏王朝第7国王であった予が老丘(今の開封一帯)へ遷都、以後232年間国都として栄えたことから始まる。夏王朝は4000年前、現在の洛陽市の東になる黄河流域(二里頭遺跡)に生まれた中国最古の王朝である。開封の名の由来は紀元前8世紀の春秋時代に遡り、当時この地方を支配していた鄭の荘公が現在の開封の近くに城を築き、そこに啓封と名づけた事から始まる。後に前漢の景帝(劉啓)を避諱して、同義の開の字に改められ「開封」となった。戦国時代は晋から分離した魏の領国であり、紀元前341年大梁と名づけられ首都となった。


戦国時代の青銅器による貨幣経済は、この魏(大梁)を中心に始まった。鍬の形をした布銭が良く知られているが、その中の平首布は、足部の形から橋足布・鋭角布・尖足布・三孔布などに分類される。大梁橋足布はアーチ型の足が特徴の青銅貨幣であるが、ここ開封で多く埋蔵されている。その後、環銭(円銭)が最初に作られたのも魏国であった。初期には「垣」「共」の地方名を鋳出した貨幣が造られ、その後「釿」などの秤量単位を刻印するようになった。


紀元前225年、秦の攻撃で大梁は落城し都市も荒廃した。前漢の時代に武帝の弟・梁王・劉武が封じられたこともあったが、後漢から三国時代の魏にかけての時期にはさほど重要視される都市ではなかった。東魏時代には梁州、北周時代には汴州(べんしゅう)と呼ばれた。隋代になり、大運河が開通すると一気にこの都市の重要性は高まり、南からやってくる物資の大集積地として栄えた。その後の唐末期に首都長安は荒廃し、それに代わってこの都市が全中国の中心地となり、唐から簒奪した朱全忠はここを首都として後梁を建てた。その後の五代政権も後唐を除いて全てこの地を汴京(べんけい)と称して首都とした。


その後、周より禅譲を受けた趙匡胤は、ここ宋の都を「東京開封府」と称した。これが東京の名前が使われた発端になる。東京開封府は拡張され、三重の城壁が都市を取り囲んだ。大運河の一部も引き込まれ、水運によって米を始めとした大量の物資が江南地方より運び込まれ、開封には国中の物資が集まるようになり、ここにおいて開封は空前の繁栄期を迎えることとなる。江南蘇州からは穀物の他、宋貴族が喜ぶ絹製品や石材(太湖石・武康石)など多くが大運河を通じて東京に運ばれた。蘇州の大発展の裏には、東京と言う大きな市場があったが故だ。


東京開封府の宮城では、交通の障害となる区画同士の壁は取り払われ、庶民の夜間通行も許可され、空いている土地には必ず屋台が立ち並び大道芸、講談などが行われ、昼夜を問わず飲食店には人々が集い、酒や茶を飲んだ。ここが唐の長安との大きな違いである。その繁栄振りは『東京夢華録』・『清明上河図』に記されている。


北方の金が開封を占領し南宋と対峙すると、首都の座を失うとともに南北分断によって大運河も荒廃し、3重の城壁のうち外の2つは放棄される。モンゴル帝国により攻められて領土の大半を奪われた金は、この地に遷都して抵抗を続けたが、程なく滅ぼされた。金と元は首都を北京(中都・大都)とし、開封はあくまで河南の一地域となった。


元が中国を統一すると、杭州と大都を短絡する形で大運河が再建され、南京応天府であった徐州から北に運河が作られた。開封は大運河路から外れた。明代には周王府が置かれ壮麗な建築物があったが、明末の黄河大氾濫により土中に没した。その後、清朝に周王府の跡に龍亭が建てられた。明・清でも変わらず河南省の省都とされたが、中華人民共和国が誕生すると省都の地位を鄭州に奪われた。現在の開封市は観光地として栄えている。現在の都市の下6mには明代の都市が眠っており、その下(地上から10m)には宋代の都市があり、全部で6層が積み重なっているのは、黄河がたびたび氾濫した故である。黄河は、時として開封市の南を流れた時期もあった。


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『清明上河図』は清明の時節、東京開封府の内外の人士が行楽して繁栄する様子を描いている。張択端の作品とされ、北宋末期の翰林待詔であり、画家としても著名であった。季節は、春たけなわであり、その絵画的な精細描写の価値とともに、当時の市街図や風俗図として、極めて資料的価値も高いものである。明代以降、この画巻の名声を受けて画題や構図などを継承し、同名の画巻が数多く描かれた。大別すると3つの系統に別れ、一つは張択端の真作系統、二つ目は明代の画家仇英が描いたとされる蘇州の風景を描いたもの(徐楊:姑蘇繁華図)、3つ目は乾隆元年(西暦1736年)12月清代の宮廷画家5人が共同制作して乾隆帝に献上した作で、現在台湾の故宮博物院に所蔵されている「清院本」と呼ばれる系統である。


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【東京開封府の城壁をめぐる】


北宋時代、東京開封府は三重の城壁に囲まれていた。新城(外城)・旧城(内城)・宮城(大内)である。これが最初の不思議である。三重構造の城郭はそれまで見られないし、その後も見られない(奉天城は三重構造だったが、宮城が確認されてない)。現在一般的見るのが旧城であるが、唐代に作られた。図で見るように宮城は南北がほぼ一直線であるが、旧城や新城(外城)の東西の城壁は東に約10度程度傾いている。旧城は周囲11kmほどであり、台形になっている(南北城壁はほぼ平行)。この傾きが二つ目の不思議である。旧城内になる宮城(大内)は唐の長安を模して作られた事と、南門が朱雀門となっていることから明確に理解できる。日本の平城京・平安京も唐の長安を模して作られている。更にもう一つの不思議が、宮城(周囲2.5km)の前に、御街という幅300mになる大道があったことだ。唐の長安も承天門街と言う街路があるが、東京開封は大道と言うより広場の感が強いことだ。以上の様に、開封の城は三つの不思議からなる。


宮城には四つの門があった。北の拱辰門、南の宣徳門、東西には東華・西華門である。旧城には12の門があった。東西南北いずれも三つずつであった。北西角から時計回りに見ると、北側には金水門(天浪門)・酸棗門(景龍門)・封邱門(安遠門)、東側が曹門(望春門)・宋門(麗景門)・角子水門、南側が保康門・朱雀門・新門(崇明門)、西側が鄭門(宣秋門)・角子水門・梁門(閭闔門)である。


新城(外城)は周囲25kmにもなる大城壁であった。五代末から北宋初期は都市空間の成長と、旧城(内城)から政府・軍部施設の拡大や一般庶民の人口増大に対応するため、さらに大きな都市空間を形成させ、それを包括するがために新しい城壁(新城)が形成された。新城が設置される事によって、旧城の城壁は防衛上の役割がなくなり、平素の生活上の治安維持を目的とした城壁となった。


新城(外城)は金滅亡後には破壊されて、なかなかその位置を明確にするのが難しくなったが、全部で22門(そのうち水門が7つ)あったようだ。同じく東北部の北側から衛州門(安粛門)・新酸棗門(通天門)・新封邱門(景陽門)・陳橋門(永泰門)、東側が東北水門(善利水門)・新曹門(含耀門)・新宋門(朝陽門)・通沢門・東水門・上善門、南側が陳州門(宣化門)・普済水門(蔡河下水門)・南薫門・広利水門(蔡河上水門)・戴楼門(安上門)、西側が新鄭門(順門)・大通門・西水門・宣沢門・万勝門(開遠門)・固子門(金耀門)・西北水門(咸豊水門)である。


洛陽から流れる大運河は西の西水門から入り、旧城(内城)西の角子水門を通って、宋門南の角子門、そして東南角の東水門に流れ徐州に流れる。この運河を汴河と言った。旧城(内城)の現在の状況は下図に示すが、北宋時代の城壁が残る東西側に一部、土で固くつき固められた跡をわずかに残すだけである。大梁門の城壁に沿って約6m掘り下げると、明代の城壁や馬路が見られる。さらに4mほど掘ると、北宋時代が現れてくる。


清明上河図の中央に大きな木造の橋「虹橋」が描かれている。この橋はどこなのかが、いつも議論になってきた。ひとつは新城(外城)の南東に虹橋があり、この橋と言われる説、同じく新城の西部にある横橋の説もある。ただ、虹橋の左に城門が画かれ、その城門に城壁がない事から、城門は旧城(内城)の城門を描いていることになる。そう見ると、虹橋は旧城の南東部にある宋門外の上土橋の可能性が一番高い。ただ、いずれの橋も明代の大洪水で地中に埋められ、現在どの地に立ってみても絵のような活気はいっさい見られない。江戸は東京の日本橋、今は高架道路の下にあるが、江戸時代の浮世絵では活気ある場所であった。


参考文献:宋都開封の旧城と旧城空間について(久保田和男)
     北京の小さい橋(妹尾達彦)


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