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面影がほとんどない重慶日本人租界地 【蘇州たより 工藤和直】Vol.33 (読む時間:約4分) 2015.09.28


宋王朝時代の西暦1189年、時の皇帝が「慶びが重なった」と言う意味で恭州が「重慶府」と改名されて825年になる。重慶の歴史は古く、夏・殷・周時代は岩塩採掘が行われ、巴国文明が誕生した。巴国は春秋戦国時代、東隣の楚国と常に戦い続けてきたが、紀元前316年秦の恵文王は巴国を滅ぼし、巴国の支城の一つであった江州城を築城した。この城跡は、北の嘉陵江と南の長江が合流する「朝天門」付近であった(写真1は現在の朝天門江州城全景)。


漢時代は江州と呼ばれ、三国時代には蜀の劉備玄徳の所領となり、諸葛孔明がここに駐屯することもあった。隋・唐時代は渝水(今の嘉陵江の名)沿いにあるという事で「渝州」と呼ばれた。以後、重慶の地は「渝」と言われるようになった。宋時代に重慶と改名されたが、最大の危機は西暦1259年南宋末にモンゴル帝国が四川方面から南下、成都城と重慶本城(江州城)を取り囲んだ時であった。この時はモンゴル皇帝の病死で一端は撤退するが、2回目の1278年には、ついに落城する運命となる。


重慶本城(江州城)は北東部「朝天門」から西部の「通遠門」間の岩山を利用した要害の地である。江州城は朝天門、東水門、太平門、通遠門など17の門から成り、支城として嘉陵江対岸になる江北城と西部の山城の三つから構成されていた(地図参照)。この岩山を長江や嘉陵江の河側から攻めるのは不可能に近く、西側から攻めるしかない。この西部にある通遠門(写真2)が最大の激戦地となった。写真3から見ても10m近い絶壁に囲まれ、攻めるに困難な城ではあったが、西暦1276年に南宋王朝はすでに広州で滅び、モンゴル軍の猛攻で重慶城もついには降伏、城内の多くの兵士・住民が惨殺されたという。


重慶は岩山の中にできた街と言っても過言ではない。どこに行っても坂・坂・坂である。ホテルのエレベータのどの階に降りても玄関前に道がある。岩山の斜めの傾きに沿ってホテルの建屋があるからである。


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清末になると、英国をスタートに諸外国の中国大陸侵略が始まる。1876年9月13日の英中間で結ばれた煙台条約により英国が領事館を開設、1890年には重慶港が開港する。1891年3月1日には、朝天門付近に税関が開設された。1896年7月の通商行船条約により、仏国・米国・日本が領事館を開設した。日本領事館はどこにできたか明確ではないが、おそらくは英米領事館付近(現在の通遠門内の渝中区領事巷)にあったと予想する。1896年2月、上海総領事の珍田舎己が重慶に赴き、日本人租界地要求の交渉に入った。1901年9月24日に重慶領事官山崎桂が、22か条の重慶日本商民租界約書を結ぶに至り、ここで日本人租界地開設の一歩となった。


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日本人租界地は、重慶府朝天門外の南岸区「王家沱」となった。写真4は当時の租界地(長江沿い)で.遠くに江北、朝天門が見える。現在は朝天門長江大橋を江北区から渡り、衛国路南北にある武警重慶総隊医院(写真5)付近である。大橋を渡った長江岸辺付近から西に1320m、南に350mの長方形の敷地(約467,000m2)である。日本租界に面した「公共通商場」跡地の南に、フランス水師営建屋(写真6)がある。今の武警医院の中にわずかであるが、日本人建屋の痕跡があったが、資料にあった税務署などはいっさい残っていない。医院内に日軍倶楽部跡があると聞き探したが、見つけることはできなかった(誰に聞いても不知道)。1937年日中戦争時に100名程引き揚げたと記録があるように、日本人街があった予想するが、その痕跡はなかった。蘇州・杭州と同じく日本の面影が乏しい租界地跡である。


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租借期間は30年で、租界地内の警察権や道路管理は日本領事館が担当することになった。租借金は一畒(666m2)あたり上等地で銀150元、中等地で145元、下等地で140元であった。おそらく長江に近い平坦地は高く、東の丘の方は安くなっていると予想する。日本国領事館もこの地に移転したとも考えられるが、蘇州や奉天で見られる重厚な石造りの建物はどこにもなかった。22か条の条約の詳細を見るも、大概が日本領事官の裁量による所が多く、治外法権の上に警察権も持っている点は、満州国に作られた日本国領事館と何ら差はない。領事館の役割の中で「警察権」が非常に大きな権力であったようだ。


契約期間は1931年の9月24日であったが、国民党政府から7月30日に強制的に没収され、重慶日本人租界地は終了することになった。最後の交渉に当たったのが清野長太郎領事であった。清野領事は中国側の記録に、在渝日本領事となっていることからして、日本領事館は渝中の領事巷にずっとあったとも考えられる。


参考文献:大陸「西遊記」(BTG城郭都市研究会)
吉田茂が駐在した天津日本人租界地跡を訪ねて【蘇州たより Vol.30】


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