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18世紀の清代蘇州都市「姑蘇繁華図」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.37 (読む時間:約3分) 2015.11.10

初めてこの絵巻物を見たのは8年以上も前、蘇州博物館であった。縦20cm余りで、長さは7mにもなる図巻である。驚いたのはその精巧な書き方と店先にかけた看板の字が読めること、そして一人ひとりの人間にそれぞれ動きがあり、表情がある事であった。この絵巻物は西暦1759年、時の清朝皇帝乾隆帝に献上されたものである。作者は徐揚、蘇州呉県出身の宮廷画家である。当初この絵巻物は「盛世滋生図」と呼ばれたが、1950年に「姑蘇繁華図」と改名された。乾隆帝の治下の時代は、その祖父・康煕帝の時代と共に「康乾盛世」と称され、清が最も国力が強く、社会が安定し豊かな時代であった。


この姑蘇(蘇州の古い言い方)繁華図は、まさに18世紀の蘇州城外の繁栄した風景を現した一級品である。当時の蘇州は、北京に次ぐ中国第二の大都会であったという。絵の巻末に作者自身の書き込みがある(最後の絵)。その図は霊岩山より木讀(Mu Du)を経て東に行き、横山、石湖を渡り、上方山を通り過ぎ、獅子山を西に見ながら姑蘇郡の城に至る。葑・盤・胥の三門を経由して、閶門から山塘橋を曲がり虎丘に至る。この絵のすばらしさは、現在の蘇州風景と比較できる点にある。


作者の徐揚は、代々閶門専諸巷に住み、乾隆帝南巡(西暦1751年)に際し自分が描いた冊子を献上、その才能を認められて北京の宮廷画家となったと言われている。この姑蘇繁栄図は清朝崩壊後、廃帝溥儀によって北京故宮から長春(新京)に持ち出され、偽満州国が滅ぶ間際に民間に流出、1945年から遼寧博物館所蔵、現在国家第一級文物と指定されている。


ではこの絵巻物を大きく八つに分けてその絵画とともに紹介したい。大きく、霊岩山・木瀆鎮・石湖・盤門・万年橋・閶門・山塘橋・虎丘山に分けて説明する。


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蘇州城の西三十里にある著名な景勝地・霊岩山の前にある小さな村の情景である。霊岩山には呉王夫差が西施のために作った離宮があったが、越に滅ぼされ離宮は消滅した。


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霊岩山より東に向かうと、著名な木瀆鎮に入る。呉王夫差は姑蘇台を築くため、ここに木を積み水路を満たしたことから木瀆と呼ばれるようになったと伝えられる。一女性のために、運河や街をつくる。これこそ西施が傾城の美女と言われる所以であろう。


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石湖は蘇州の盤門の西南十里にある。周囲は数十里あり、茶磨峰、上方山、呉山の諸峰が湖と映えあっている。北は越来渓へと連なり、横塘へと続く。ここに見える越城橋(手前)と行春橋(奥)は現存する。


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  盤門は城の西南の隅にあり、胥門は城の西側にある二門のうちの南の門にあたる。門外から京杭(北京ー杭州)大運河に向かうには、呉門橋から南下して五龍橋を抜ける。


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三つの橋孔を持つ大規模な橋、万年橋がある。現在の橋は3孔アーチ式となっている。かつては折橋だった。なぜか、万年橋の右に存在する胥門が描かれてない。歴史上の不思議である。この付近は清朝では閶門と同じく非常に繁栄した。解放後の1960年代には一時貧民街のようになったが、地域開発の過程で昔からあった胥門が発見された経緯がある。


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閶門は蘇州の西の城壁の北側の門で、門の内外はともに商業の盛んな地域である。現在、閶門はこの絵のようになってない。1840年代はアヘンで汚れた街ともなったが、蘇州で一番賑わった界隈である。遠くに北塔寺が見える。


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閶門を過ぎたところに「山塘橋」と書かれたアーチ型の橋がある。その左側が山塘街である。現在は観光客で昼夜繫盛する街路となったが、10年前は汚い路地裏であった。虎丘までの道を歩いて見ませんか?


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虎丘山は蘇州城の西北七里の地に位置し、標高約30m余りの小高い丘である。春秋のころ、呉王夫差は父闔閭をここに葬った。


どうでしょう、現在も同じ道を歩いて、270年前の蘇州と比較して見ては如何ですか?きっと新たな発見が待っています。


参考文献:姑蘇繁華図(中国書店)

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