新規登録
コラムニスト募集中
日経新聞
DMMコラム
蘇州たより
上海の街角で
JETRO
上海日本商工クラブ
在上海日本国総領事館
ラクト
上海人
香港リーダーズ
C.L.Mリーダーズ
経営者.マガジン読者の集い
2015稲盛和夫経営哲学上海報告会
中国ニュース
株式会社TOHOKI
人気ページランキング
  • 今週
  • 今月
  • 殿堂
  • JBSコラム Vol.3

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • 上海リーグ法律事務所 コラム vol2

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座vol4

  • 知的財産権の取得・侵害対策、企業内不正対応を中心に、中国での企業活動をワンストップで支援。

  • JBSコラム Vol.3

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座vol4

  • 知的財産権の取得・侵害対策、企業内不正対応を中心に、中国での企業活動をワンストップで支援。

  • 上海リーグ法律事務所 コラム vol2

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • “One Team, No Border” 会計税務を中心に企業のグローバル化を全力で支援しております。

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座 vol.8

  • 微博・微信を中心とする中国ソーシャルソリューションサービスをワンストップで提供しています。

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • リスク管理領域を中心に日系企業の中国事業を支援させて頂きます。

幻に終わった沙市(荊州)日本人租界地を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】Vol.40 (読む時間:約5分) 2015.12.01

湖北省荊州市は、上海と四川省成都市を結ぶ東西の線と北京と海南島を結ぶ南北の線が交わる地点にある。まさに中国の中心部にある。現在の荊州市周辺は長江文明が栄えた地であった。6,000年前の大渓文化や屈家嶺文化の遺跡が出土している。また春秋戦国時代、楚の首都「郢」はこの周辺にあった。秦が楚を「荊」と改称したのが地名の始まりである。古代の地域名である荊州は周王朝以来いわれた九州のひとつで、「尚書」の夏書・禹貢によると冀州、兗州、青州、徐州、揚州、荊州、予州、梁州、雍州を指した。


武帝は前漢初期(紀元前106年)に全国を十三州とし、荊州もそのひとつとなった。しかも、現在の湖北省と湖南省(「荊南」)に広くまたがっていた。荊州は長江中流の水運による交通と物流の拠点で戦略上の要地でもあり、「兵家必争の地」となった。後漢末期の赤壁の戦いは荊州市域の東部の烏林で起こっている。三国時代には魏・呉・蜀(蜀漢)三国の境界の地となった。南北朝時代、南朝の「梁」は後期に建康から江陵に首都を移し、その後「後梁」は引き続き江陵を首都とした。荊州を征する者が天下をも征すると言われ、荊州牧として劉備玄徳から信任されていた関羽は、呉王孫権によって捕えられ斬首、荊州を失った劉備玄徳は結局天下を取ることは出来なかった。


kudou40-04


清朝以降、長江河港である沙市が発達した。日清戦争後、1895年下関条約で沙市は開港地となった。この条約で重慶・蘇州・杭州・沙市の4港の開港が承認され、1896年「沙市日本国領事館」が設置された。それぞれ専管租界地の準備に入り、沙市は明治31年(1898年)8月18日、17条の条約が調印された(中日沙市租借専約)。場所は、沿江大道南側で荊江大堤沿いにある文星楼を起点とし東南に1900m、端は玉和坪(洋码头)までの長方形の地域、約180,875坪と記録されている。しかし、調印前の5月8日、税関に放尿した暴漢を門番が殴打負傷させた事から、翌9日に治療費を求めに来た群衆が、ついには税関・招商局・日本領事館などに放火する事態「沙市事件」となった。この事件後に条約調印となっても、租界地運営の熱は冷め、幻の租界地となった。当時邦人は20名ほど駐留していた。写真は放火前の日本国領事館であるが、2階建て洋風建築であった。現在、文華中学がある辺りが租界地の中心になったと思われる。


kudou40-03


文星楼は康煕年間に建設され、清代中期に現在地に移転、底辺が10m四方で15m高さの楼閣である。同治3年(1864年)に焼失し1941年に再建されたが、今は廃墟に近い建築物である。又の名を「奎文閣」とも言い、奎(とかき)とは、古代中国天文28宿の一つ。奎(とかき)星は文運を司る神様である。昔、科挙の試験を受ける青年がこの楼閣に通い、幸運に合格進士となったと言う。


日中戦争では1940年6月に沙市は日本軍に占領され、終戦まで続いた。中華人民共和国成立後、荊州周辺は何度も行政区分の変更、1994年には沙市市・江陵県・荊州地区が併合し、「荊沙市」が発足した。1996年に荊州市と名称変更され現在に至っている。このように、現在の荊州市は6000年前から現在まで変わらない古都であり、周王朝以降は北(紀南城・郢城)→中央(荊州城)→南(沙市)と時代を追うごとに南下したと言える。古代から近代までを一望に見ることができる都市である。


【楚の都:郢(えい)】


春秋時代、周王朝の次の覇者にならんと中原で晋と斉が戦う中、長江中流域にあった楚国は独立した王国として存在した。それは貨幣に「金」を使ったように、非常に豊かな国であったからだ(上写真)。文公14年(紀元前613年)と昭公23年(紀元前519年)に春秋左氏伝に「郢に城く」とあるように、楚はその首都を度々遷都、その都度「郢」と名付けた。その場所は現在「紀南城遺跡」として確認される。その城壁は、ほぼ方形で一辺が3.5Km~4.5Kmの長さであった。この城壁は現在の荊州市の北にあり、周辺の山々には楚王以外漢の貴族の墓などが見られる。有名な前漢時代の男性ミイラは2100年前の紀元前167年頃のもので、紀南城の南で発見され、その保存状態の良さに関心する(荊州博物館内に保存)。


戦国時代に入り強国になった秦は、紀元前278年将軍「白起」を送り、紀南城を攻めた。楚国は新たに紀南城の南に方1kmほどの新しい「郢城」を造営した。写真は、西の城壁遺構であるが、高さは3~4m、幅は15mほどの土塁であった。この「郢城」は荊州駅のすぐ北(やや北東)にある。


kudou40-05


【漢・三国・明時代の荊州城をめぐる】


三国時代、蜀の劉備玄徳の配下「関羽」が最初に城郭都市を作ったといわれる。下図にあるように、堀の周囲約11kmに渡り、城壁と城門を見ることができる。現在の高速鉄道「荊州駅」のほぼ南方向で、6つも門から構成されている。何と言っても特徴は、城壁と城門そして楼閣(東門と北門)が存在する事である。しかも城門は、二重構造(門が二つあり)になっており、中に入る敵兵を上から射殺すことが出来る。この構造を見ることで、中国内にかつてあった大半の城門は、このような設計であったと推定できる。


6つ門は、東門が迎賓門と言われ、入口になる。ここには賓陽楼と言う楼閣がある。その南に小東門(公安門)、そこをしばらく行くとちょうど南門となる。そこから西に行くと西門(安瀾門)となり、そこから北に行くと楼閣のある大北門(拱極門)となる。大北門の前にある橋が得勝橋である。常勝将軍「関羽」はこの門から出発し、常に勝って戻って来たという。そこを東に行くと小北門(遠安門)となる。1周歩いても3時間半ほどである。現在は、自動車専用に東と北に更に新門が作られている。


この荊州城内には博物館があり、6000年に渡る歴史遺産を見ることができる。その中でも前漢時代の男性のミイラと明代末の尼僧と思われる女性のミイラが展示されている。この女性の皮膚は500年後の今でも生きているが如くである(下図の左上写真)。


kudou40-06



参考文献:面影がほとんどない重慶日本人租界地【蘇州たより Vol.33】
     吉田茂が駐在した天津日本人租界地跡を訪ねて【蘇州たよりVol.30】
    武漢(漢口)にある日本国領事館跡を訪ねて【蘇州たよりVol.23】
     蘇州に残る「日本国領事館」跡 【蘇州たよりVol.1】


コラムニストの過去の記事も読む