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旧満州に15ヵ所あった日本国領事館 【蘇州たより 工藤和直】Vol.41 (読む時間:約5分) 2015.12.15

満州事変前、日本国は旧満州に4ヶ所の総領事館と8ヶ所の領事館、そして3ヶ所の領事分館と全部で15ヵ所の領事館があった。総領事館はハルビン・吉林・間島(延吉龍井)・奉天(瀋陽)、領事館はチチハル・長春・安東(丹東)・鉄嶺・鄭家屯(双遼)・遼陽・牛庄(営口)・赤峰(内モンゴル自治区)、分館は農安・通化・海龍(梅河口)である(図1)。戦前にあった中国内日本国領事館は、旧満州に15ヵ所、日本租界地(上海・天津・漢口・蘇州・杭州・重慶・沙市・福州・アモイ)に9ヶ所と南京・鄭州・済南・青島など合わせて28ヶ所である。


紀元前8世紀春秋時代、東北地方は粛慎族(女真族や満州族の祖先)が割拠していた。5世紀になると高句麗が台頭、長春市農安県を王都とした。明代末になるとヌルハチ率いる満州族が台頭、奉天から長春を含む東北広範囲にその領土を増やし、清朝が明朝に代わって中原を支配した。西暦1800年には長春庁ができ、これが最初の行政庁開設となる。1889年には長春府に昇格、1896年にはロシアが清朝に満州鉄道敷設権を認めさせ、長春駅の北がロシア人専用住居となった。1906年日露戦争後は日本がロシアの権利を全て譲り受け、1908年満州鉄道主要駅となる長春駅が開設された。


長春が脚光をあびるのは偽満州国成立時になる。1931年9月18日柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発、関東軍により旧満州全土が占領される。その後、関東軍の主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年3月9日偽満州国を建国。首都を新京(長春から改名)とし、元首(偽満州国執政、後に偽満州国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀がついた。


満州は本来の表記では「満洲」である。当用漢字に「洲」がないため「州」となった。満洲は本来地域の名でなく民族名である。清朝では、五行説も「水」徳を意識して、民族名・王朝名に「さんずい」を入れて、「満」「洲」「清」を選んだといわれる。


偽満洲国は建国以降、日本、特に関東軍の強い影響下にあった。当時の国際連盟加盟国の多くは、旧満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとした。このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。しかしその後、ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどの枢軸寄りの中立国も偽満洲国を承認、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦さえも領土不可侵を約束して公館を設置、当時3分の1以上の国家と国交を結んだ。アメリカやイギリス、フランスなど国交を結んでいなかったが、国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易は行なわれた。第二次世界大戦末期の1945年(康徳12年)8月8日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍による満洲侵攻と日本の太平洋戦争敗戦により、8月18日に偽満洲国皇帝・溥儀が退位して偽満洲国は滅亡。この地域はソ連の支配下となり、次いで国民党率いる中華民国の支配下へと戻った。そして解放後は、中華人民共和国の領土となった。


中華民国および中華人民共和国は、現代でも偽満洲国を独立国家とせず、「偽満洲国」と表記する。また、同地域についても「満洲」という呼称を避け、「中国東北部」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満州」と呼称する。


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1937年当時の旧満州に居る邦人は、奉天:7.0万人、新京:3.4万人、撫順:2.5万人、安東:1.6万人、鞍山:1.1万人、四平:6千人、営口・公主嶺・鄭家屯・遼陽が4千人、合計18万人と記録されている。その後1941年頃には100万人を越え、1945年終戦時は150万人がいた。


領事館の主たる業務は、在留日本人の保護と取締りである。その他中国内の政治・経済の現状調査や現地民衆の生活状況に関する情報収集、更には抗日運動に対する内偵と情報収集などが含まれる。いわゆる特高警察の機能も持っていた。特に偽満州国設立後の主な業務は、裁判権と警察権の行使で住民を管理することであった。1932年、長春は「新京」と名を替え、長春領事館は「日本国駐新京総領事館」と昇格した。


長春領事館は1912年9月17日に竣工、総工事費15万5千5百円、加藤洋行が施工した。加藤洋行は他に同時期に吉林・奉天・牛庄領事館をも施工している。また建設設計にあたっては、辰野金吾による建築設計であった。赤レンガの壁に白色の花崗岩を横に配列する自由古典式の様相建築であった。地上二階・地下1階半の地下室があり、建築面積は1800m2である。長春総領事館跡地は、上海路にある吉林省政協弁公大院となり、新大院建設にあたり折除された。ただ、上海路入口付近にある松林は当時のままである。構造は奉天にある総領事館(現瀋陽市迎賓館北苑)とほぼ同じであったと言われる。


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奉天総領事館跡は瀋陽市和平区三経街9号に現存する。1912年7月に竣工、3.4万m2の敷地を有する。三橋四郎設計による「辰野式」洋式である。1945年8月15日以降はソ連が領事館として使用、東北開放戦争の折には、宋美齢が居た。1985年以降、現在の瀋陽迎賓館北苑となってホテルとして利用されている。西隣の八一公園内には、英国・仏国領事館があったが今は建屋跡も一切ない。日本領事館の東側にはロシア領事館が現存する。奉天公園(現瀋陽市政府)の北に米国領事館があったが、現在は人民代表大会常務委員会になっている。


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現存しているもう一つの領事館、間島日本総領事館の建屋写真を紹介したい。北朝鮮との国堺に近い延吉に近い龍井市六道河路869号にある領事館跡である。中国内でも数少ない日本領事館跡が残っている。間島は北朝鮮北東部にあり、偽満州国・ソ連との境界に近いだけに軍事上非常に重要な拠点であった。


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日本人が入植すると当然のように「神社」と「お寺」が建造される。特に偽満州国においては、溥儀が清朝の祖宗と皇祖神天照大神を祀る事を宣誓した事で、偽満州国だけで300余の神社が創建された。また中国各地に拡大した日本人租界地でも同じく神社仏閣が競うように作られた。戦後、300余も神社は大半が破壊されたが、長春の新京神社北に鳥居が現存していることが分かった。また、加藤正宏氏によると、瀋陽市の北、文官屯にも鳥居が残っているとの報告もある。負の遺産である「鳥居」がなぜ残ったか、今後の調査を楽しみにしたい。写真は、長春駅から人民大街を数百m下った松江路に残る新京神社「北の鳥居」である。ここは市政府第二幼稚園となっている。ちょうど解体工事中で、次に来るときは消滅しているかも知れない。


長春と瀋陽には偽満州国時代の多くの日本建築物が残され、そして今でも現役として使われている。政府関係建屋は市政府関係庁舎として、銀行は銀行、郵便局は郵便局、ホテルはホテル、学校は学校として、電信電話局はチャイナテレコムと言った具合だ。戦後、傀儡政権の建物であるが故に折除も考えられた。文化革命時に、一部は破壊された建屋もあったが、多くは今でも使用されていることに驚きを感じる。この70年、当然ながら民族傷痕として「撤去論」と文化財としての「保存論」が交錯し現在に至っているが、幸い使用価値としての有用性が優位であったが故に、現在まで残ったと思われる。


旧満州に残る日本建築物は、西洋式と東洋式を融和した独特のもので、将来中日友好関係が進めば、世界文化遺産としての価値も出てくると信じる。次号から、遺産が多く残る「長春:新京」と「瀋陽:奉天」の二つについて建築物などを紹介する。


参考文献:吉田茂が駐在した天津日本人租界地跡を訪ねて【蘇州たより Vol.30】
     加藤正宏「中国史跡探訪


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