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奉天(瀋陽市)の街並み変遷 【蘇州たより 工藤和直】Vol.43 (読む時間:約3分半) 2016.01.04

春秋戦国時代、瀋陽の地は「燕国」であった。5世紀になると高句麗の治世が200年ほど続いた。明末1616年、後金を建国したヌルハチは明遠征軍を撃破して、瀋陽・遼陽を陥落させ、早々と新王宮(現在の瀋陽古宮)を建設。1634年、二代目皇帝ホンタイジは瀋陽を盛京と改名した。1644年フリン(順治帝)は国都を北京とし、盛京(遼陽城)は副都になった。1657年、「奉天承運」から命名して「奉天」と呼ばれ、1923年中華民国は正式に奉天市とした。1929年張学良が一時的に瀋陽に改名、1931年以降の日本統治下では、再び奉天と呼ばれた。


奉天(現在の瀋陽市)は歴史の古い城郭都市である。しかも偽満州国は新たな都市計画を行い、従来の城郭都市の西側に、奉天駅から放射状・格子状に伸びる道路網を造った。いわば新旧の都市が同居している構造である(図3)。古い城壁のある街並みは、周囲7kmの内城と周囲16kmの外城の二重構造である。内城はほぼ正方形に近いが、外城は円形と言うかハート型とも言える城壁を有する。現在は、残念ながら城壁跡を確認することは困難であるが、かつての写真からその規模は極めて大きいことが言える。


内城は東西南北にそれぞれ2つずつ合計8つの城門からなる。北は大北門・小北門、南は大南門・小南門、東が大東門・小東門、西が大西門・小西門で、大は大とつながり、小は小とつながる。現在その城壁は完全に消滅した(アパートや商店街になり、つなぎ部に城壁が残っている可能性は高い)。その城壁跡の外側は、東順城路・西順城路・南順城路・北順城路となっている。現在、観光用に大東・大西の城門が作られた。


この内城の中に宮城(瀋陽故宮)があり、ヌルハチの皇居であった。その宮城の城壁跡が東西南北で言えば、朝陽街・正陽街・瀋陽路・中街である。実は、奉天は三重の城壁からなる珍しい構造を持つ城郭都市であった可能性が高い(同じ構造は東京開封城に見られる)。


外城も同じく8つの城門からなる。内城と同じく、北は大北辺門・小北辺門、南は大南辺門・小南辺門、東が大東辺門・小東辺門、西が大西辺門・小西辺門である。20世紀になった西側に作られた新都市と旧城郭都市は、小西辺門付近で合体する。小西辺門は、現在瀋陽市政府の建屋(戦前は奉天公園)の東にあり、奉天駅から伸びる路面電車は、市府大路(十間房)を過ぎて小西辺門(市府広場)に至る。そこから更に東に小西門まで路面電車が通っていた。奉天公園の南は各国の領事館が密集している。フランス・イギリス・日本・ロシアは二偉路に並んでいる。アメリカ大使館は、初めは奉天公園の北にあったが、その後移転したようだ。


表1と表2は、かつてのその場所での写真と現在の状態を比較したものである。駅や学校、政府関係庁舎などはまったく同じ用途で使われている。城門があった場所は自動車の普及とともにすっかり変わっていることが分かる。奉天神社は鳥居もないが、ただ神殿近くは松林のような森になっていた。日露戦争で勝利した大山巌元帥は、大南門から入城式を行ったが、絵に在るような城門はまったくない。繁華街として今では歩行者天国になっている四平街(中街)には昔と同じ建物が見られた。


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奉天の新街路計画は、奉天駅を背にして、幅36mの千代田通り(瀋陽大道)を中心に、左45度に浪速通り(昭徳大街)と右45度に平安通り(現在は民主路)とし、格子状に街を作る。新京(長春市)や奉天(瀋陽市)は、都市道路衛生環境計画の点で、架空の電線を地下ケーブル埋設とし、当時の東京より数段すぐれた、他の西洋列国都市にもない非常にすばらしい都市になるべく計画された(地図3)。ちなみに西の要になる奉天駅は1910年10月1日から営業開始して105年になるが、東京駅(下写真)より4年も早く作られた。改札口に立つと分かるが、まさに古い駅舎であることが実感できる。


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参考文献:おら、東京に行ったさ!【蘇州たより Vol.31】
     福原元澄「大連と瀋陽」
     加藤正宏「中国史跡探訪」


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