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外灘に残る日本国総領事館と芥川龍之介との出会い 【蘇州たより 工藤和直】Vol.44 (読む時間:約4分半) 2016.01.18

上海にあった日本国領事館は執筆しないのですか、黄浦飯店が日本領事館跡なのですねと上海駐在の方々から質問がある。上海にあった日本租界地(正確には欧米各国を含めた共同租界地)については、多くの資料があるのでご参考頂きたい。最近、再開発という名目で昔の租界地の面影がなくなり、高層建築群の中に古い日本家屋や赤レンガ、そして日本人学校が徐々に消え行く状況だ。上海には5万人近い日本人が駐在し、多くの日本人観光客が訪問する。外灘の北に戦前10万人の日本人が住み、そこに古き良き日本が残っていた事を記録として残したいと考えた。
上海の歴史は極めて新しく、アヘン戦争のあと1842年の南京条約によって当時漁村に過ぎなかった上海港を欧米列国に開港したことから始まる。もちろん春秋戦国時代からの歴史もあるが、この2400万人が住む大都会が誕生するきっかけは1842年であり、まだ170年の歴史しかない(蘇州たよりVol.3)。


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1930年代の上海が地図1である。中央部東西に共同租界、その南にフランス租界、北側の閘北や南側の城内、南市は中国側の上海市。「日本租界」というのは存在せず、共同租界の虹口地区(日本郵船埠頭のあたり)から閘北の新公園にかけて日本人住民の多かった地区を、勝手にそう呼んだ。地図中央に上海競馬場があるが、これは現在人民広場になっている(下写真)。当時の上海の玄関口は1987年まであった上海北駅で、現在の上海駅の東にあった。今の地下鉄3号線沿いである。1909年に上海駅として開業、1916年に上海北駅と改名、駅舎は4階建て洋風建築であったが、1937年日中戦争時に日本軍により空爆され、その後1950年に再建、現在は鉄路博物館となっている。現在の上海駅は当時の操車場跡地であった。


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黄浦江が南から流れ、ちょうど東に向きを変える付近に蘇州河がある。その河を渡る外白渡橋(橋の左岸の洋風建築物が英国領事館跡:写真1)を過ぎると交差点がある。正面右がチャップリン他が泊まったアスターホテル(浦江飯店)、正面左が高級マンションだったブロードウエイマンション(現上海大厦)である。この黄浦路を右に行くとすぐにロシア領事館があり、80年前はソ連領事館である。その横にドイツ領事館があったが今は広場になっている。その横が米国領事館(現海鴎飯店)で、その東横に赤レンガの日本国総領事館(紅楼)が現存する。現在は海軍関係の施設になって内部には入れないが、その北が日本総領事館新館(灰楼)であり、連合国救済総署として使われ、現在もホテルとして利用(現在外国人は宿泊不可)できる黄浦飯店(黄浦路106号)となった(写真2)。正式な日本国総領事館跡は黄浦飯店の奥にある赤レンガ建屋である(黄浦路15号)。


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写真3は、総領事館の東にあった日本郵船埠頭(虹口码头)である。奥に見えるのが日本国総領事館で、左上が絵葉書に残る当時の姿である。明治初年、外務省上海出張所が1873年正式に日本領事館と改称、南蘇州路から虹口に移転して、1891年総領事館に昇格。現存建築は1911年竣工の二代目で、平野勇造設計の3階建煉瓦造。優美な曲線を描くマンサード屋根は黄浦江の遊覧船から、今も眼にすることができる。また虹口码头は、かの毛沢東がフランスに行く時に利用した埠頭でもある。この日本郵船埠頭から多くの日本人が上陸し、まっすぐ北に300mほど行くと萬歳館などの旅館街が待っていた。多くの日本人は現在のハイアットホテルから閔行路を通り、大きな夢を持って日本人租界地に向かった。


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萬歳館(閔行路181号)は1904年創業の旅館、芥川龍之介や佐藤春夫も泊まった当時著名な日本旅館であった。付近の日本旅館としては、豊陽館、東和洋行、常磐館などが一流どころだ。写真4は当時の萬歳館(旧館)であり、写真5が現在の姿である。写真6は閔行路対面の新館入り口付近である。周辺の再開発が進み、次に来るときは新しいビルになっているかもしれない。この旧館3階に芥川龍之介が逗留したのだ。芥川に会いに3階に上ったが、昔のホテルの各部屋は分譲アパートになっており、彼がどこに居たか分からない。ただ、暗い通路や階段に細かい細工を施した手すりや欄間などがあり、かつて芥川が居た痕跡は見られた(蘇州たよりVol.4)。


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魯迅公園の南門を東西に四川北路が走る。この道路はしばらく東に行くと二股に分かれ右に曲がり南進するが、この東側に上海神社があった。北は華夏銀行から南は天興百貨にかけて南北にひょろ長くあり、1933年(昭和8年)11月1日に設立された。写真7は現在の天興百貨であるが、この付近に上海神社があった。写真8は当時の鳥居と藤井資也氏所蔵の本殿前での家族集合写真9である。ごく普通の日本の風景が、ここ上海にもあったのだ。


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四川北路を南進すると、上海第一人民病院が東側にあるが、ここは1924年に日本人が開業した総合病院「福民病院」であり(写真10)、魯迅が通訳していたという。その福民病院を過ぎて商店街の間に正門があるのが、高等尋常小学校(北部小学校)である(四川北路1838号、虹口区教育学院実験校)。日本国内ではまだ木造校舎が一般的であった時代、ドイツ人設計による鉄筋4階建て校舎を1917年に建てた。守衛に許可を得て校庭に入れてもらい、100年前に建てられた建物を拝見(写真11)。ちなみに筆者が1959年に入学した宮崎県高鍋町立高鍋東小学校(蘇州たよりVol.12)は木造平屋建であった。1934年に母が入学したソウル市(京城府)東大門小学校は鉄筋で水洗トイレであったという。海外にあった日本人学校は極めて最新なコンクリート造りが多かった。


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参考文献:エキスブロア上海「上海の旧租界地・歴史関連特集」
木之内誠「上海歴史ガイドマップ」


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