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司馬遼太郎と蘇州城門跡を探索する(その2) 【蘇州たより 工藤和直】Vol.47 (読む時間:約7分) 2016.03.09

1987年に初めて蘇州に来てから早28年、蘇州新区に住んで12年は過ぎた。蘇州の事を少しでも知ろうと読んだのが、司馬遼太郎「街道をゆく:中国江南のみち」であった。当時、筆者の蘇州に関する知識はこの本から得たものだけであった。司馬遼太郎が1981年2回目の訪問時の記録でもある。司馬先生が思った「蘇州旧城の外郭を1周したい」を12年間の駐在生活中、何度も実施して、自分なりにこの南北4.5km×東西3.5km、周囲16kmにもなる城壁と10ヶ所の城門について知見を得るに至った。


紀元前514年、蘇州城を守るように周囲16kmの城壁とその出入口に8ヶ所の城門が築かれた。城壁は2丈4尺(7.2m)の塀に更に6尺(1.8m)の馬柵があり、合計9mの高さがあったと記録されている。春秋時代呉王闔閭(紀元前 514年~496年在位)が周囲1.5kmしかなかった小さな都を周囲16kmもある「闔閭大城」に拡張してから、既に2500年経っている。闔閭は宰相の伍子胥に命じて築城の大事業に着手、そのコンセプトは風水を十分に考慮した「相土嘗水、象天法地」である。土を観察し水をなめるように試探、天を真似るように地を手本とすると言う「土・水・天・地」の4つを支配する。風水から八卦(八風)を考え、出入りの水陸門は八つとした。門からは八つの風が入る。


中国では、城壁を囲われた空間を“城”と呼ぶ、日本では敵に攻められた際の防御拠点として城が作られたが、近代に入ると日本特有の天守を持つ楼閣に対しても城と呼ぶようになった。そこに住む住民も加えた生活空間(商工業や農業が営まれる)全体が対象になる。中国で建物が作られる時、周囲を囲む壁が最初に作られ、その上に色々な旗が刺されるのは、城を意識したものであろう。春秋時代、蘇州城以外に空間を城壁で囲んだ古代都市が全国で200ほど乱立、それを統一したのが秦の始皇帝である。殷時代前の“夏”王朝は、現在の河北省「二里頭遺跡」に周囲を城壁で囲んだ「古代都市」を建設、近年その存在が確認された。更に杭州近くに、夏王朝より200~500年ほど前に繁栄した古代城郭都市国家「良渚遺跡」がある。周囲7kmの城壁を持つ中国最古の城壁・城門を有する都市国家が、ここ江南にあったのだ。


現在、蘇州城門の名前が残っているのは、北から時計廻りに平・斉・婁・相・葑・南・盤・胥・金・閶の10門である。呉王「夫差(闔閭の子)」の時代には、平・斉・婁・相・蛇・盤・胥・閶の8門があった。その後、唐の時代に赤門が増えたが、短期間であった。唐の時代は7門、北宋時代は5門(斉・婁・盤・胥・閶)、西暦1080年範仲俺が葑門を開き6門、西暦1229年の平江図には胥門を閉じ5門、太平天国時代には斉・婁・盤・胥・閶の5門になった。東門が少ないのは湿地帯が多く、不便なのが理由であろう。その後、民国時代に新閶・金・南・新胥が新設され、新閶門は金門完成後破壊。新胥門は胥門の北100mの位置(万年橋の延長)であった。1949年にはこの新胥門を入れて、11門あったと言われるが、その後新胥門は無くなり、現在の10門になっている。添付図に14門の位置を示すが、時代時代にあわせて、増えたり・減ったりした歴史がある。現在城門として現存するのは、盤・胥・金だけである。最近の蘇州都市開発計画の波で、閶門・平門・相門・婁門・赤門は最近再現されたものである。多くがまだ新しく、過去の実物と違う形に改築され、昔の面影が見られなくなったのが非常に残念である(表1)。


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相門が改築された時、その中に蘇州城墻博物館ができ、昔の城門や城壁がどうだったかを知ることができる。闔閭の祖父「寿夢」は、無錫と常州との間に現在の蘇州大城「呉大城」と同規模の大城を築いた(当時は闔閭大城と呼ばれた)。更に闔閭は現在の蘇州大城「呉大城」の前に木瀆の西、霊岩山から太湖に渡る胥口に東西6.8Km、南北6.7Km、面積にして24.8Km2と現在の大城の2倍規模の「呉故都城」を造営しているが、完成する前に伍子胥に命じ、現在の蘇州大城「呉大城」を更に造営したようだ。霊岩山から南に、多くの遺功が見られる。この時代の呉国は、二つの大城に姑蘇台(霊岩山の宮殿)を有していた事になる。加えて、蘇州大城の周囲には40もの小城が存在していた。その目的は、大城を守るための軍事基地であり、兵站基地の意味合いも強い。大城外であるのが、常熟(10城),昆山(10城)、太倉や呉江などにも小城が存在した。越城は石湖北部にあった越が呉を攻めるために利用した城であり、ここから盤門など呉大城を攻めたといわれる。同じく越は呉を攻めるために平門外に糜湖西城、婁門外に鴻城などを築いた。石城は、西施のために呉王夫差が霊岩山と常熟虞山の北に作ったといわれる。その名前から見て兵站のためと思われるのが、魚城・酒城・酢酒城・鴨城などである。


蘇州大城には、14門があり現在は10門が使われている。昔の雄姿を垣間見ることができるのが、盤・胥・金門の3門であるが、清代にあった6門には、その楼閣に題字が書いてあった。閶門:気通閶闔、胥門:姑蘇用翠、盤門:龍蟠水陸、葑門:渓流清映、婁門:江海楊華、斉門:臣心拱北である。そして昔の写真や平面図を見ることで、60数年前の状況を知ることができる。


【閶門と新閶門】
閶門は破楚門とも呼ばれ、呉国が楚国との戦いに向けて出兵した西門である。題字にある閶闔は宮城の門の意味があり、八つの風で言えば西風(閶闔風)になる。閶門周辺は大きく変わろうとしている。西暦2000年に改築されたが、最終的には図1のように元代末張士誠が門前に築いた月城を有する3重構造の城門となろうとしている。すでに北の城壁は修理を終えた。閶門周辺はアヘン戦争前後が一番繁栄した場所であった。1843年蘇州府志によると、人口211万人と北京を越える中国第一の都市であったと記録されている。その後太平天国の乱(西暦1860年)後には当時20万人足らずの人口であった上海に多くが移民(難民に近い)、現在の上海市の発展に繋がった。


新閶門(写真1)は現在の民国20年に金門ができる前、金門のすぐ南に接する門(民国10年)であった。わずか10年間であったが、その城門跡を新蘇航運有限公司内に一部見る事ができる。


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【胥門と新胥門】
胥門は姑胥門とも呼ばれ、万年橋の南にある城門である。伍子胥の住居が東にあった。建設当初は水陸両門であったが、太湖から流れる江胥川の流れを緩めるべく、戦国時代楚の春申公が水門を閉鎖した経緯がある(その代わり葑門を新設)。図2は蘇州市志にある平面図であるが、2重構造の門であったことが分かる(同じ構造が湖北省荊州城で確認できる)。写真2は万年橋の前に民国27年に作られた新胥門である(西暦1953年折除)。


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【葑門】 葑門は発音から、“豊”“風”“夫”“富”ではないかと言われる。呉が越によって滅ぶ紀元前476年、宰相伍子胥は呉王夫差から死を命じられ、史記にある「我が目を東門にかけよ、よって越が呉を滅ぼさんを見ん」と言った東門ではない(葑門は戦国時代に楚春申公が造営)が、「呉大城」が越によって崩壊する際に、完全無欠な呉大城を攻め倦んできた越軍が、台風によって決壊した城壁(当時は黒土を着き固めた土壁)がちょうど現在の葑門あたり(南の長島花園付近)といわれている。この城壁の決壊部分から越軍が城内になだれ込み、呉国の滅亡に繋がった。これを後世の司馬遷は、史記の中に「我目を東門にかけよ」と呉が滅ぶ現場を東門(葑門付近)と呼んだと思うのは、筆者だけだろうか? 写真3は昔日の葑門水城門、図3は平面図である。


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【婁門】
婁門は東北部にある城門で。水陸3重からなる堅固な城門である(写真4)。平面図4から見ても、その大きさと複雑さに驚く。2013年に新しい城門が出来た。この寮門から北東部への周回歩道が完成し、斉門まで行くことができる。南方向の動物園内と同じく、高さ5mになる昔の土塁を見ることが可能である。


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【斉門】
「愛と悲しみの古橋」の中で記載したのが、この門の昔話である。その後、呉王「夫差」が霊岩山の姑蘇台で自害したあと、4大美人の西施が越王「勾践」の宰相「范蠡」とともに、斉国に逃げたとも伝えられる城門でもある。写真5はかつての水城門であり、写真6は陸門である。平面図を見ると、円形の城壁があり、出口から3方向に道があるのが特徴である。


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【平門】
蘇州新駅が出来て、新幹線乗り口から南に見えるのが平門である。昔の平門は現在地よりもっと東に作られた(平門橋付近)。また平門は現在3孔門であるが、1995年頃は1孔門であった。百年前の写真を見ると、1920年代の1孔門から30年代には2孔門になっている(写真7)。1937年11月日中戦争時に日本陸軍が入城式を行ったのが、この平門であった。


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参考資料:司馬遼太郎と蘇州城門跡を探索する【蘇州たより vol.21】
     潘君明「蘇州古城街巷梳辨録」




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