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北京城門を探索する 【蘇州たより 工藤和直】Vol.49 (読む時間:約3分半) 2016.05.05

北京が都市として形成されたのは約3040年前のことであり、昔は「薊:ji」と呼ばれていた。薊(アザミ)の花が多かったのだろうか。周代になると、北京は「薊」と正式に名付けられ、城が築かれ国としての形が出来上がった。戦国時代になると、当時の強国の一つであった「燕」の都となり、発展を遂げた。その後、秦漢時代は北平と称され、唐代には「幽州」と呼ばれ、遼代には国の第二の都市になった。金代の中期になると城壁が築かれ「中都」と呼ばれるようになる。元時代は「大都」と呼ばれていた。モンゴル族の支配により大都(北京)にはモンゴル風の文化と漢族文化が混在していた。


元の大都は今の北京中心部とほぼ同じ位置で明清代よりも北に位置し、内城を北に伸ばしたほぼ四角形状であった。マルコポーロもこの大都を訪れている。元朝が北京を都に定めてから、北京の修復改造が開始された。ゆえに北京古城の城壁は元の時代に由来し、明の時代に形成されたものとされる。当時、元の時代には城壁に11の城門があった。明朝初期、劉伯温が北京を修築する際に、元の11の城門のうちの9城門「正陽門・崇文門・宣武門・安定門・徳勝門・東直門・西直門・朝陽門・阜成門」を北京城の九門と定めた。つまり人々がよく口にする「内九城(内側に位置する九つの城門)」である。


明朝はもともと南京を首都としていたが、三代目永楽帝の時に北平を北京と称し、首都を移した。永楽帝は大都の南城壁を南方向に800m移動させ、中央にあった麗正門が現在の正陽門になった。今の北京の基礎は明代に作られたといっても過言ではない。清朝が再び北京へ遷都し、「北京」という名称になった。民国時代は南京を都としたため北平に戻され、解放後に再び北京と改称された経緯を持つ。


内城は、俗に言う北京城で、周囲22kmで9つの門がある。この9つの門のうち、現存するのは正陽門(前門)という故宮の真南にある門と、徳勝門という北西門である。外城には7門がある。内城南に出っ張るような形状で、言ってみれば「下町」のような場所である。周囲14kmほどである。周囲14kmの長餅の上に、22kmの角餅が乗っている「凸型形状」であるのが特徴だ。また、皇城には4つの門がある。東西南北で言えば、東安門、西安門、天安門、地安門である。


城内と城外、城内でもその場所によって町の雰囲気が全然違う。内城には紫禁城があり、官僚なども住んでいたので格式ばった雰囲気があるが、外城は商店も多く、道も込み入り、何となく繁雑とした感じがする。その城壁は解放後1953年~57年頃、地下鉄を作る為に取り壊され大街(例えば前門東大街)となり、地下が地下鉄環状線(2号線)となった。北京の地下鉄環状線は、ちょうど東京の山手線のように、北京内城をぐるりと回っている市民の足である。この環状線には駅が18ある。そのうちの11駅に最後文字「門」が付けられている。駅の上に城門があった。


東便門の角楼は、明・清の北京の城壁の角にあった四つの角楼のうち唯一残っているものである。東南角楼というだけに、北京内城の東南の角にそそり立つ四層の、高さ29メートルある中国風の砦である(写真右下)。復興門の城壁遺構は明代のもので、北京の内城の遺構である。城壁の高さは12メートルで、両側にレンガを積み上げて造られている。


北京城の九門の中でも、正陽門、崇文門、宣武門は南の城壁に位置し、総括して“前三門”と称され、安定門と徳勝門は北の城壁に位置し、東直門と朝陽門は東の城壁に、西直門と阜成門は西の城壁に位置していた。北京城の中軸線(南北の中心線)は、南から永定門・正陽門・中華門・天安門・地安門が同一線上にあるのを特徴とする。中華門は現在ないが、明代には大明門、清代は大清門と呼ばれ、現在は毛主席記念堂に位置する。正陽門の南面には箭門と言われる楼閣があるが、昔は正陽門の左右から釣鐘状の城壁が繋がり、その先端に箭門があった。また最初の北京駅は、箭門の東部に作られた(現在は、崇文門から東便門にかけてある城壁部北側にある)。


すべての城門には独特な用途があり、城門にはそれぞれ役割があった。また、異なる類型の車両が通っていたので、「九門には九車が出でる」と呼ばれていた。西直門:水を運び込む門、阜成門:石炭を運び込む門、宣武門:死刑囚が刑場に向かう門、正陽門:正門、崇文門:税関、朝陽門:穀物を運び込む門、東直門:木材を運び込む門、安定門:し尿や死体を運び出す門、徳勝門:凱旋門、が当時の役割であった。


下図の写真は1953年以前にあった城門の写真である。現存するのは、正陽門・徳勝門(いずれも部分改築されている)である。徳勝門は内城北西部に張り出した箭門として現存する門だが、なぜか門と言うが孔がない。土木の変(西暦1446年)では、よく明軍がこの門前でモンゴル軍を防いだという。また、崇文門から東便門にかけては城壁が保存されており、昔日の姿を鑑賞することができる。


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