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西暦1860年、その時日本と中国の近代史が変わった 【蘇州たより 工藤和直】Vol.50 (読む時間:約6分半) 2016.06.06

日本の近代史は1868年9月8日の明治維新から始まった。同じく中国の近代史は1911年10月10日の辛亥革命から始まる。西洋列強による侵略の前哨戦は中国ではアヘン戦争(1840年)、日本ではペリー浦賀来航(1853年)で、わずか13年の違いだが、近代化のスタートは中国が43年遅れる事態となったのは、日中とも同じ西暦1860年が歴史のターニングポイントになっているのに驚きを覚える。その西暦1860年とは、日本は桜田門外の変が起こった3月3日、中国では太平天国軍が第一次上海攻撃を開始した8月18日である。


安政7年3月3日(西暦1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件である。江戸幕府の最高の権威者が市中で惨殺される大事件は、当時では考えられない事であった。その立役者の一人、薩摩藩士・有村次左衛門(ありむらじざえもん)の顛末について述べたい。


薩摩藩士・有村次左衛門が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴み駕籠から引きずり出した。直弼は既に血まみれで息も絶え絶えであったが、無意識に地面を這おうとした。有村が発した薩摩自顕流の猿叫(キャアーッという気合い)とともに振り下ろした薩摩刀によって、直弼は斬首された。襲撃開始から直弼殺戮まで、僅か十数分の出来事だった。有村次左衛門は刀の切先に直弼の首級を突き立てて引き揚げた。有村の勝鬨の声を聞いて、浪士らは本懐を遂げた事を知った。彦根藩士小河原秀之丞は、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがり、有村の後頭部に斬りつけた。この一撃で有村は重傷を負って歩行困難となり、直弼の首を引きずり、しばらく逃走の後、若年寄・遠藤胤統 (近江三上藩)邸の門前で自決した。これにより、直弼の首は遠藤家に収容されることになった。


この暗殺事件を起した浪士は罪人となり、この桜田門外の変で長年持続した江戸幕府の権威が大きく失墜、尊王攘夷運動が激化する端緒となった。ここからわずか7年と7ヶ月後の慶応3年(1867年)10月14日、第15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が成され、同年の江戸開城により急転直下で明治維新(1868年9月8日)と成る要因に、桜田門外の変が直接的な起点となった。この3月3日が、日本近代化へのターニングポイントとなったと言っても過言ではない。


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太平天国の乱は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な社会主義革命。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織「太平天国」によって起きた。洪秀全はキリスト教の教えの中でも特に上帝が唯一神であることを強く意識し、偶像破壊を熱心に行った。中国では儒教・道教・仏教にまつわる廟が多かったが、それらを破壊し、ただ上帝だけを崇めることを求めた。1847年、太平天国の前身組織「拝上帝会」を広西省桂平県金田村に創設、拝上帝会の参加者は、炭焼き・貧農・鉱山労働者・客家などの低階層が中心であった。1850年、拝上帝会は金田村に集結して団営という軍事組織を結成した。金田村に集結する過程で、清朝の軍隊や自警団との小競り合いが発生した。金田村に集結した人々は1万から2万といわれるが、このうち成年男子は3千人ほどだったという。しかしそれでも数倍もある清軍を打ち破り、革命の火蓋を切った(金田蜂起)。1852年12月下旬には漢陽・漢口を落城させ、ついに1853年(咸豊三年)1月には武昌を落とした。武昌は太平天国軍が最初に陥落させた省都(湖北省)であって、その占領は多大な金銀財宝をもたらした。3月19日に太平天国軍は江寧(南京)を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を立てた。


4月27日、英国公使George Bonhamは「英国は、太平天国にも清国にも中立であること」を告げた。太平天国はキリスト教を信仰の中心としたので、欧米列強からは歓迎され、中国史上最初の社会主義革命が成就する方向にあったが、その後の内部での派閥争いなどで、革命は失敗に終わる。キリスト教的理想を掲げ、地上の天国を作り出そうとした洪秀全であったが、現実において社会を組織・運営する上で伝統的・土着的な考え方・価値観から逃れられるはずもなく、その理想と現実は極めて乖離したものとならざるを得なかったのだ。


1860年2月~5月、第二次江南大営攻略では、干王「洪仁玕」・忠王「李秀成」・輔王「楊輔清」・侍王「李世賢」・英王「陳玉成」らが好く呼応して清軍を撃破。1860年6月、李秀成は蘇州を占領し「蘇福省」の省都とした。現在の蘇州博物館東で拙政園西に「太平天国忠王府」(写真)を建てた。洪仁玕の加入に洪秀全は大いに安堵を覚えたのであろうが、李秀成らは不満を抱かざるを得なかった。初期からの信者とはいえ、洪仁玕の改革が現実離れしていることや、さして戦功をたてていないのに、彼が王に封じられるのは洪秀全の身内びいきとしか思えなかったからである。このため、李秀成らを新たに王としたものの、洪仁玕との溝は深まるばかりで、再び太平天国は内紛の様相を帯びてきた。特に李秀成・李世賢は洪一族に対し李氏閥を形成し、独断専行が徐々に増えていくことになる。


1860年8月18日における第一次上海攻略はその好例であろう。江南地方の制圧を進めていたのは李秀成軍であったが、上海だけは西洋列強の租界(キリスト教)があるため攻撃が控えられていた。この時洪仁玕は西欧と交渉し、少なくとも清朝に荷担しないよう画策していた。しかし交渉に業を煮やした李秀成は、一転攻撃を仕掛け、逆に手痛い反撃を受け、自らも負傷したのである。これなどは洪仁玕・李秀成両者の西欧体験の有無が大きく影響した結果生じた齟齬と言える。


この時、歴史が変わったと言える。この二人の仲の悪さが、太平天国の運命を変えたのである。その後太平天国は没落方向に流れていく。この1860年8月18日が、中国の近代化を更に50年遅らした月日となった。


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北京条約は、1860年(咸豊10年)に清朝とイギリス(10月24日)・フランス(10月25日)連合軍、および清朝とロシア帝国(11月14日)が締結した条約。天津条約の批准交換と追加条約である。アロー号事件後に天津条約が結ばれ英仏軍が引き上げたが、この条約の結果では英仏は満足していなかった。また、清の朝廷内部でも条約に対する非難が高まり、清は条約に定められた1年以内の批准を拒んだ。このため英仏軍は再び天津に上陸、咸豊帝は熱河へ撤退、北京を任された恭親王も英仏連合軍の侵攻が始まると表に出て来なくなった。北京を占領した連合軍は円明園を略奪し焼き払い、恭親王に最後通牒を送った。結局、ロシアの仲介で北京にあった礼部衙門において清と英仏連合軍との交渉が行われ、清とイギリス、清とフランスとの間に新たな条約が結ばれた。また仲介したことを口実に清とロシアとの間でも新たな条約が結ばれた。いずれも不平等条約であった。


ロシアは、まず清が認めていない1858年のアイグン条約の条文を出すことで、豆満江~ハンカ湖~ウスリー川以東アムール川以南の地域が割譲された。アイグン条約では清とロシアの共同管理地となった地域であったが、この条約によってロシア領となった。ロシアは、沿海地方に軍港ウラジオストックを建設してロシア太平洋艦隊を常駐させ、シベリア鉄道建設によって大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画したため、日露戦争の原因ともなった。その後もロシア革命時のシベリア出兵(1919年)では極東共和国の帰属を巡って日露間で紛争地となった。ロシアは清朝の内憂外患のドサクサをうまく利用して、現在の沿海州(ウラジオストック)を手に入れたのである。


1860年末の北京条約で、英・仏・露は上海租界地を攻撃した太平天国を清朝とともに討伐する立場と変貌した。要は、この条約で太平天国は「賊軍」となったのである。この条約の後、清朝は洋務運動(西洋の近代技術を積極的に取り入れる)に着手したが、魂のない西洋化はその後の日清戦争などで化けの皮が剥がされる結果となった(洋務運動は失敗に終わる)。辛亥革命が遅れた理由は、1860年8月18日の第一次上海攻撃にあったのだ。

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