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山東「斉長城跡」から蘇州「斉門」を眺める 【蘇州たより 工藤和直】Vol.51 (読む時間:約4分半) 2016.07.06

紀元前1050年頃、周王朝「武王」は、兄弟を魯・燕・曹・衛・管・蔡などの国々に配置、実子を洛陽に近い晋に置いた。山東省「斉」には妻の実家である太公望「呂尚」、本姓姜氏を配置した。呂尚は武王の父「文王」を補佐し、武王の師として父親代わりの「師尚父」と呼ばれた。姜氏斉の始まりである。この斉国が春秋時代の最初の覇王となるのは、太公望呂尚の16代目の君主「恒公」とその宰相「管仲」の力による。紀元前656年、恒公は諸侯の連合軍と楚を巨従させ、紀元前651年には、魯・宋・曹・衛・鄭と葵丘で会盟し、覇王となった。


斉は春秋時代に長城を築いていた。北と東は海に面し、北西は黄河と済水とが天然の障壁となっていたのでその必要はなかったが、西は春秋時代には魯・晋・衞の脅威にさらされ、戦国時代は南の楚国の圧迫があった。そこで斉は、西は黄河のほとり長清県孝里鎮から泰山の北を通り、曲阜北部莱蕪、諸城、膠南、青島市西部「黄島」に至る620km余に及ぶ長城(まさに千里の長城)を築いた。斉の長城は秦始皇帝の築いた万里の長城より五百年も古い中国最古の長城で、春秋時代「恒公:紀元前685年即位」が着工、戦国時代「威王」「宣王:紀元前301年没」の頃に約四百年をかけて完成した。紀元前555年には斉国と魯国は長城を境に、まさに城壁・天険・関所・城兵営・狼煙台などを上手に利用した軍事防御システムを構築した。長城建設の目的は、周辺諸国や諸民族からの防衛というよりは、桓公の時代に急速に力をつけていた楚への警戒が大きい目的であった。斉国長城(写真1・2・3)は山を利用して建設され、大小の石塊を積み重ねたもので、秦の長城のような版築と言う製法ではなかった。また山によっているため、高山の所は自然の険峻をそのまま障壁として城壁は作ってない。当時の城壁の高さは不明だが、厚さは約7mであった。青島珠山国家森林公園内ほかに長城跡を多く見る事ができる。


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呉王「夫差」は闔閭の次男として紀元前520年頃?生まれた。長男は「波」で斉の公女を妻とした。三男に子山が居た。紀元前515年、斉の700km南の呉(姑蘇)で呉王「闔閭」が王位についた。紀元前506年には楚の亡命者「伍子胥」を登用し、楚の都を占領するが、紀元前496年の越との戦いで負傷し帰路死亡。長男波が夭折していたので、次男夫差が呉王となった。


呉は常に楚と戦っていた。楚は中原の晋と戦い、晋は東方にある斉と戦っていた。晋が斉を攻めれば楚が救援する。呉は晋と手を結び強国になったが、斉と楚は仲の良い関係を構築していた。そこで闔閭と宰相伍子胥・軍師孫武とが考えた策は、斉の姫君を太子波に嫁がせる事であった。楚と斉の関係に楔を打ち込むわけだ。時の斉「景公」は姫を呉に入輿させた。この姫君は非常に美貌であったという。春秋時代、斉都「臨淄:Lin Zi」は周都「洛陽」を凌ぐ大都市であった。しかし、呉都「姑蘇」の地は田舎臭く文化レベルも低く、姫は日夜悲泣し、ついに病気になった。闔閭は、姫のために北門(斉門)に九層の高楼を建て、「国が恋しくなれば、高楼から故郷を望見すれば良い」と慰めた。それで北門の事を「望斉門」というようになった。それにも関わらす、姫は亡くなった。太子波はこの姫をたいそう愛していたため、その死を悼むこと一方ではなかった。やがて太子波も病気になり、一年後に後を追うが如く夭折した。そのため、太子は次男「夫差」となった。


斉の姫が人質に近い状態で波の妻として700kmも真南の国に嫁いだ。斉都「臨淄(現在の淄博市)」から斉の長城を越えて来たわけだ。いったん長城を越えることは二度と斉には戻ることはない。非常につらい数ヶ月の道中であったろうと想像される。姫が最後に見たであろう長城はどこであったのか、臨淄の南「青石関」と推測される。


呉王「夫差」紀元前494年に越を攻め、越王「勾践」を従属させる。紀元前488年には魯国を攻め、その東にある斉国を紀元前484年に、艾陵にて破る。紀元前482年、黄池にて諸侯と会し、盟主となった。斉国も夫差の代には軍門に下った。


筆者が「愛と悲しみの蘇州古橋」の中で記載したのが、斉門の昔話である。その後、呉王「夫差」が霊岩山の姑蘇台で紀元前473年に自害したあと、中国四大美人の西施は越王「勾践」の宰相「范蠡」とともに、斉国に逃げたとも伝えられる城門でもある。実際は勾践が天下を取ると、「月は満れば欠け、上りつめた者は必ず落ちる」ものだと賢明な范蠡は舟で越を去ったのだ。写真5はかつての水城門であり、写真6は陸門である。平面図を見ると、円形の城壁があり、出口から3方向に道があるのが特徴である。范蠡は山東半島をまわって渤海湾から斉国に逃げ、名を「鴟夷子皮」と替えて数十万金の財をなしたという。その後、呉を破り天下を取った越王「勾践」は紀元前472年、越「会稽」から山東「琅琊」に首都を移す。そして紀元前465年、越王「勾践」は没した。


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斉の姫が登った斉門は現在なく、城内から蘇州駅に向かう大道と大橋があるだけである。ただ、山東には山並みをつなぐ石を置いた長城跡が残っている。青島(黄島経済技術開発区)にある斉長城烽火台跡は東端の終点である。斉長城路の端に写真4のような烽火台が再建されていた。ここから西の方角を見ると、夕日に映える山岳がはるか遠く美しく続いている。斉の公女が長旅に疲れ、蘇州に辿り着いてはや2500年以上になった。斉門から見える風景は、今では蘇州駅前のためか高層ビルやアパートが乱立しているが、50年前までは、広い平原が見えるだけであった。そのはるか遠くに斉国があったのだ。今では蘇州から高速鉄道を使い5時間半ほどで斉都「臨淄」に着く。


参考:愛と悲しみの蘇州古橋【蘇州たよりvol.28】


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