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春秋戦国時代の貨幣制度 -前編- 【蘇州たより 工藤和直】Vol.59 (読む時間:約9分) 2016.10.17

中国史において、春秋戦国時代は紀元前770年に周が都を洛邑(咸陽)へ移してから紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。この時代、周が東周と称されることから、東周時代と称される。紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦国時代と分けることが一般的であるが、春秋時代の終わり・戦国時代の始まりについては諸説ある。晋の家臣であった韓・魏・趙の三国が正式に諸侯として認められた紀元前403年とする説、紀元前453年に韓・魏・趙が智氏を滅ぼして独立諸侯としての実質を得た時点を採る『資治通鑑』説の2つが主流である。


この他に、『春秋』は魯哀公十四年(紀元前481年)に「獲麟」(麒麟を獲た)の記述で終了するので、これをもって春秋時代の終わりとする説、『史記』の『六国年表』が始まる紀元前476年とする説など多々ある。清朝の歴史学者「顧炎武」によれば、春秋と戦国との時世の違いは、春秋の時はまだ礼と信を重んじたが、戦国はこれを言わないこと。春秋はなお周王を宗としたが、戦国はこれがないこと。春秋は宗姓氏族を論じたが、戦国ではまったく論じなくなったことと称している。


春秋時代に周王は政治の実権を握っていなかったが、依然として精神面の中心であり、諸侯は王に次ぐ2番目の地位たる覇者となろうとしていた。それに対して戦国時代は、諸侯自らがそれぞれ「王」を称して争うようになり、残っていた周王の権威は殆ど無くなった。この時代を「周の統一時代が終わって分裂状態になり、最後に秦によって再統一された」とする見方は間違いである。秦自体は周のはじめから存在した国ではなく、いわば後から中華という枠組みに参加してきた国家である。他にも南の楚は元々自ら王号を称える自立した国であった。また東北についても斉や晋などの国により領域が拡大され、秦が統一した領域は周が影響を及ぼした領域よりも遥かに広いものである。


周辺部だけではなく、内地に関しても大きな変化が起こった。春秋時代の半ば頃まではそれぞれの邑(村落)が国内に200以上点在し、その間の土地は必ずしもその国の領域に入っている訳ではなく、周(もしくは周の諸侯)に服属しない異民族が多数存在していた。しかし時代が下るにつれ、そうした点と線の支配から面の支配へと移行していった。政治制度においても、それまでの封建制から郡県制へと移行する段階にあり、思想においても諸子百家と呼ばれる思想家たちが登場し、様々な新しい思想が形作られた。この時代はありとあらゆる物が新しく誕生し、後に「中華」と呼ばれることになる世界がこの時代に形成されたと言える。鉄製農具の発展による大規模農業とともに、鉄や銅の鋳造技術や塩などの商工業の発展は、統一国家の出現につながった。政治の面では法治国家(秦商鞅の政治改革変法)の胎動であり、孔子・孟子・老子・孫子などの諸子百家の出現は、人間としても基本姿勢が出来上がった時代になる。要は、現代21世紀の人類にとって、科学文明をのぞく大半はこの春秋戦国時代に完成したと言っても良い。筆者はその中で貨幣経済の変遷を多くの文献から調査したが、最終的には「秦」の国家統一に繋がる過程に、辺境の西戌と言われた民族が、「中華」と言う大理念を現在まで伝える国家となったことに驚きを感じる。日本人が使う「五円玉」ですら、秦に繋がると思うと実に楽しい反面、非常に怖い一面も見るに至る。


1.殷商から西周時代の貨幣


中国で最古の貨幣は南海産の子安貝であった。殷代の墓中から多数発見されている。その後青銅器時代となり、子安貝と同形状の銅貝貨が作られるようになった。西周当初(都は鎬京)に多く見られる。西周晩期から東周初期いわゆる春秋時代になると、この銅貝貨とともに原始布「空首布」となる「銭:qiang」「鎛:bo」など農耕具に似た青銅貨幣が使われ始めた。どちらかと言うと鉄板焼きやお好み焼きで使う「ヘラ」に似た形状である。ヘラの先に穴があり、そこに木製の柄を入れるが、そこを「銎:qiong」と言う。それが「銭:qiang」になったと推定される。また鍬や鏟の「鎛:bo」と発音が似ている「布:bu」になったと言われる。原始布「空首布」は当初200g近い重さであったが、次第に形状が小さく鍬に近い形状になっていく。春秋時代に金属貨幣社会が大きく変化することになった。


刀幣は周王朝とは離れた斉や燕国で発展した。遊牧民との関係が大きいといえる。刀幣は小刀のような実用器が贈呈品となった経緯がある。小刀(約20g前後)はこの時代重要な道具であった。それは漢字と関係があり、木簡や竹簡に書いた時代、誤字の修正に用いたのが小刀(刀幣)であった。


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戦国時代は七雄が戦った時代は西の戌と言われた「秦」によって統一される。秦は戦国当初、文化レベルが低い民族で放牧(特に馬の生産で周王朝から秦王を認められた)を中心としたが、貨幣経済も見様見真似であったと思われる。紀元前359年、商鞅による政治改革(変法)以降、三晋の魏で作られた貨幣と同等に価値(重量)を持つ円銭を発行するに至り、秦独特の貨幣経済が発展して行った。最終的には秦の中国統一によって、貨幣は秦の用いた「円銭」が統一貨幣となったが、統一前に始皇帝が死亡、途中段階で終わる。そして現在に至る貨幣「円銭」は漢の時代に完成するのである。


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2.円(圓)銭の普及と地域性


円銭には中央部が円孔の「円孔円銭」と中央部が四角孔の「方孔円銭」の二種類がある。「円孔円銭」の発生は戦国中期にあたり、三晋(紀元前403年、晋が魏・韓・趙に分裂)の一つ魏で作られたのを起源にするが、東の隣国(東周)や秦にも影響した貨幣である。中央部の円孔は当初は小さいが、時代とともに大きくなっている。「方孔円銭」は戦国晩期、秦を起源とする。秦が中国を統一する過程で、東部の斉や東北部の燕においても普及した。漢字表示も場所を示したものから重量を記載するように変化していく。円銭の起源は宝石や装飾品の「璧」:ドーナツ状の玉である。玉以外に石や貝殻もあり、中央に穴をあけたもので殷の時代には富の象徴(ネックレスなど)であった。その後青銅鋳造され秤量貨幣として使われ、円穴の利便性から小型化が図られた。この円銭は三晋のひとつ魏で最初に作られた。


【魏の円孔円銭】


写真1左が代表的な「共」字円銭である。漢書地理誌によると、載河内郡に「共県」現在の河南輝県の地名、直径4.4cmで15gにもなる大型貨幣である。同じく「共屯赤金」があるが、赤金とは「銅」の意味である。「垣」字円銭は載河東郡「垣県」産である。写真中央「黍垣一釿」、黍垣とは漢書地理誌に寄ると、上郡蜀県に「漆垣」がある。直径3.7cm、重さは12gである。現在の陝西省銅川になる地域名であり、時代的には紀元前312年に当たる。写真右が「襄陰」、襄山の北、現在の山西省芮城北になる。直径3.5cm、重さ11g。


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【趙の円孔円銭】


写真2左が「焸」字円銭である。同種で「離石」字円銭もある。現在の山西省離石に当たる。直径3.5cm、重さ11g。中央が「廣坪」字円銭である。現在の河北省曲周の北に当たる。


【東・西周の円孔円銭】


周王朝は紀元前771年に幽王が敗死した後、都を西の鎬京から東の洛邑に遷都した年を境に、それ以前を西周その後を東周と呼ぶ。いわゆる春秋時代に突入するのである。中原にあり中華文明の発祥の地であり、当初は「布銭」を中心とした貨幣経済であったが、その便宜性により「円銭」が普及始めた。写真3左は「東周」字円銭である。現在の河南省「鞏県」付近で作られた。直径2.5cm、重さ4gと小ぶりである。紀元前367年、西周の恵王が末子班を封じて東周と称した時代である。右が「安蔵」字円銭である。洛陽付近で作られ、元々は空首布(布銭の前に作られた原始布)であったが、円銭にも同じく「安蔵」字が付けられた。直径4cm、重さ11g。


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【秦の円孔円銭】


秦の銭発行は「史記」によると、秦始皇本記に恵文王「立二年初行銭」とある。恵文2年は紀元前336年になる。その後始皇帝37年(紀元前220年)に複行銭とあるから、秦始皇帝は初めて貨幣発行でなく、その以前から半両銭の前に銅貨の発行が国を挙げて行われていたということである。秦は西の辺境にあったがため、中原の貨幣経済からかなり遅れ、その制度は借り物でスタートした。写真4の左から「重一両・十四・一珠」「重一両・十二・一珠」であるが、十四・一珠は楚の銅貝10個と十二・一珠は魏の二釿布と交換を可能とした。その上、隣国との互換性があるように重量を記載した貨幣であった。他国の貨幣が多くは発行の地名を刻印するのと違い、秦はその遅れた制度のため重量単位を刻印して他国との同等であることを証明しようとしたものである。いずれも直径3.8~4.0cm、重さ12~15gになる大銭である。右は「半圜」である(□を省略した文字)。直径3cm、重さ10g以下の小銭もある。


3.楚の蟻鼻銭


青銅貨幣の前は子安貝などの南海産の貝殻であったが、その形状をそのまま青銅にしたのが、銅貝貨といわれる「蟻鼻銭」である。春秋時代の布銭より実用化された貨幣である(写真5)。貝の貨幣以降一番原始的な銅鋳造貨幣とも言われる。現在、楚国の中心であった湖北省、安徽省、湖南省、江蘇省の北部、山東省などに多く見られる。楚の国に限定した非常に地域性の強い貨幣である。表面には無地から君・均・金・行など土地の名前ほかが記載され、しかも非常に重さにばらつきが大きいことから秤量貨幣(重さを基準にした)として使われたと思われる。呉王「夫差」時代に呉国の貨幣制度は不明点が多いが、楚と同じ蟻鼻銭を使った可能性は埋蔵品からみて稀有と予想される。


4.楚の金版と金餅


楚国は春秋戦国時代一番金が採掘された地域である。楚は長江中流域を中心に中原とは異なる独自の文化を有した強国であった。現在の河南省、山東省、江蘇省、安徽省、湖南省に中心となった湖北省と非常に広い地域である。中国歴史上、金を唯一貨幣に使った国であり、その後も歴代王朝は金を貨幣として使うことはなかった。それは、金を有する者が王位に着く可能性が高く、商人から王になることが可能になるからである。日本は、室町時代後期豊臣秀吉の時代が世界で一番金が採掘された時代であった。その財源にて朝鮮国・明国への遠征など、途方もない計画を推進し失敗した。背景には当時世界一の採掘量の佐渡金山があったからである。その後江戸時代も慶長小判など金貨が銅貨と同じく貨幣として使われた。楚は最終的に秦に滅ぼされるが、秦の目的は楚の金であったともいえる。その秦王朝に反旗を翻したのが楚人の「項羽」であった。


中国最古の金貨「郢爰(えいしょう)」は、写真6のように小さい刻印を連ねた板チョコレート状に作られ、一個一個切り離して使われた。郢は楚の都の名前で、現在の湖北省江陵市・沙市付近である。爰とは重量単位を表す。また銅貝「蟻鼻銭」が普及した範囲と重なる。


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(写真銅銭は著者収集の貨幣)


参考文献:上海博物館蔵銭幣(先秦銭幣)
中国銅銭の世界(宮澤知之)
中国の貨幣制度(秦の半両から始まった)【蘇州たより vol.18 】


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