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春秋戦国時代の貨幣制度 -後編- 【蘇州たより 工藤和直】Vol.60 (読む時間:約5分半) 2016.11.05

春秋時代後期、呉王「夫差」は西国の楚、北国の斉、南東の越を凌駕し、春秋時代の五覇の一つとなった。その背景には他国にない青銅器技術(刀剣)があったからだ。越国から献上された中国四大美人「西施」と霊岩山(姑蘇台)の館娃宮で国政を疎んじ、ついには越王「勾践」によって滅ぼされた(紀元前473年)。この大国「呉」がどのような貨幣を使ったのか?春秋時代の最大の謎である。文化圏としては「楚」に影響されたと思われるが、埋蔵品の中には楚国で使われた金貨や蟻鼻銭が見つかっていない。西施はどのような貨幣を日常使っていたのであろうか?


1.春秋時代末、西施が使った貨幣は金・銀


春秋時代後期、呉越の戦いの中、史記越王勾践世記に楚に「三銭之府有り」、三銭とは黄:金銭、白:銀銭、赤:銅銭である。呉に勝利した越は金・銀・銅を使っていたということである。西施の買い物のエピソードが一つある。干将橋を渡り干将西路に入ると学士街となるが、第一直河を渡ると剪金橋巷の入口になる。そこから南下して道前街近くにあったのが剪金橋である。春秋時代、呉王夫差と西施は舟遊びでこの橋で降りようとしたが、まだ化粧をしていないので急ぎ用意したが生憎口紅がなく、急ぎ女官に買うように命じたが銀両がなく、呉王夫差が頭に付けた金の簪の先を取り去って女官に買うようにと命じた。庶民は「呉王が剪(取り去った)金で口紅を買った」と称し、この橋を剪金橋というようになった。重要なことは、西施は銀貨を使っていたということであり、また金が貨幣としても使われたということである。


蘇州から無錫に抜ける国道312号線沿いに滸関鎮がある。そこに真山と言う小高い山がある。ここは真山東周墓地と言われ、呉国に流れた周王朝末裔の墓地である。ここは春秋戦国時代にかけての墓地であるので、その埋蔵品から当時使われた貨幣を推測することが出来る。多くの埋蔵品は玉器や神前に使われた青銅器や須恵器である。その中にある貨幣は貝貨が多いが、陶器の貨幣(陶冥幣)が見られる。その表面に書かれた文字には「郢爰(えいしょう:戦国時代の楚の金貨)」と記載されている。すなわち一般生活では金貨が使われていたと言う事である。不思議な事に、楚国で流通した蟻鼻銭(銅貨)が埋蔵されて無い。


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では、一般庶民はどのような貨幣を使っていたのか?実に不思議である。戦国末になると楚の影響があるのは理解できるが、春秋戦国時代に一度は中原に覇王として名を連ねた大国である。また青銅器文化に関しては、呉の銅剣は世界史上でも名刀と言われるほど進んだ国であった。従って当然ながら青銅器の貨幣があったはずだが、多くの遺跡から埋蔵される例が極めて少ない。東周以降、青銅塊(鋳造用の青銅の塊)が貨幣として使われた可能性が示唆されている。高価な銅インゴットは当然、貨幣ともなった。長江以南で見られる貨幣に“魚幣”がある。写真で見るように、魚の形か釣道具で使いそうな青銅である。楚国には見られない貨幣である。また南の越国では“戈幣”と言う武器の戈に似た貨幣が使われている。呉国の一般庶民は、この“青銅塊”・“魚幣”のいずれかを使っていたと予想される。


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2.円孔円銭から方孔円銭への変遷


西域の後進国であった秦は、紀元前359年に商鞅の政治改革策(変法)を推進し、強大な軍事力・政治力によって戦国時代を終わらせる統一国家を実現させた。その過程のなか中原主体の貨幣制度は、秦の貨幣制度に取って変わり、「半両」を主とする度量衡制へ移って行った。他国は秦国の半両を参考にして方孔円銭を発行して行く。この「方孔円銭」は秦がスタートとなり、その後2100年間に渡り中国やアジアの標準形状になった。


【斉の方孔円銭】


秦は紀元前230年頃から約10年でその圧倒的軍事力で中華統一を実現するが、最後に 滅ぼしたのが斉国である。斉は長く刀幣が使われたが、秦の勢力拡大とともに、刀幣に使われた文字をそのまま円銭に用いている。円孔円銭の例として斉陰(写真7左)があるが、数は少ない。秦の影響は戦国晩期になって大きくなったと思われる。写真7右が、「貝益(貝偏に益)化」である。貝益は宝という字だといわれていたので「宝化」に近い字である。「化」は「刀」とも言われる。小型の貨幣で直径2~2.4cm、重さ2.5g前後である。写真7中央が「貝益六化」といわれる方孔円銭で直径3.5cm重さ10gである。


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【燕の方孔円銭】


東北の地にある燕への秦の影響は同じく戦国晩期になる。「一刀」「明刀」「明四:写真2右」などである。明は刀銭から継承した文字であり、「刀」は斉と同じく「化」とか「貨」の意味であろう。明四の大きさは直径2.9cm、重さ6g程度である。


【趙の方孔円銭】


「藺」字の方孔円銭が円孔円銭の後に作られた。「離石」が無いことから山西省離石が秦に略奪される前と時代的には当たる。


【秦の方孔円銭】


秦の統一政策は郡県制を全国に拡大、法家思想(法治国家)の採用、交通網の全国整備に始まり、暦の統一・文字の統一・度量衡の統一・貨幣の統一などで中央集権政権が確立し、その後2000年間清王朝までに及ぶ政治体制基本が確立した時期でもある。「半両」による貨幣の統一(始皇帝時代に完成はせず、漢時代に完成)はその後東南アジアを含むアジア各国の貨幣が同じく方孔円銭になったと言う点でも非常に画期的な出来事になった。古代中華では宇宙は円であり、大地は四方であることからこの形状が使われ出し、青銅器鋳造時に発生する「バリ」取りには、方孔の方が一度の作業で終わると言うことで、貨幣は「方孔円銭」になった。


秦は他国に先駆けて円銭貨幣を発行、「両銖制」を採用した。一斤=16両(249.6g)、1両=24銖=15.6gとなり、半両は7.8g重さとなる度量制であった。これは魏の布銭や楚の銅貝との互換性(交換性)から貨幣に重量を記載した。写真8左は秦が統一貨幣として使用した「半両」である。半両は恵文王2年(紀元前336年)に発行始め、始皇帝が中国統一の後に貨幣制度の中心となった貨幣である。始めは重量が重要であった秤量貨幣であるが、秦が強国になるにつれ、貨幣は重さより一個あたりの価値が定まり数量で管理する個数原理性へと変わって行く。現代の国家の信用に基づく貨幣制度に統一されていくのである。写真中央が秦の近隣で使われた「両甾」である。甾とは重量を表し、12銖=両甾となり、秦の半両と同じであるということである。写真8右が文信と言う同じく地方で発行された貨幣である。文信とは秦の宰相「文信候呂不韋」でこの貨幣は文信候の封地で作られたものだ。直系2.3cm、重量2~2.5gと小さい。(写真銅銭は著者収集の貨幣)


参考文献:中国の貨幣制度「秦の半両から始まった」【蘇州たより vol.18 】
     上海博物館蔵銭幣(先秦銭幣)
     古銭文字(戴志強・戴越)
     中国貨幣の歴史(日本銀行金融研究所)


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