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十度の荒廃から蘇った城郭都市「蘇州」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.62 (読む時間:約8分) 2016.12.09

日本と中国の外交関係を顧みると、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す」の漢書地理史が日本についての最古の公式文書である。その後、中国側正式歴史書の一つが魏志倭人伝であるが、日本と中国の外交は朝鮮半島を介しての歴史である。蘇州(当時の姑蘇)との関わりは、三国志「呉」に歴史書があれば良かったのだが、資料は現存しない。ただ日本書紀に雄略天皇が呉へ使者を送った記録もあることから、ひょっとしたら邪馬台国も魏以外に呉(姑蘇)と東シナ海を直接結ぶ外交があったかも知れない。


ちなみに邪馬台国はどこにあったか?と九州説・畿内説が論議されているが、文字のない倭国使者が言った言葉を当時の魏(都は洛陽)人が漢字で記載したのが「邪馬壹」であるが、これは上・中古音読みでこの言葉はXie Ma YiもしくはYia Ma Duoであり、“シエマイ”とか“ヤマドウ”と発音する。この言葉は“島(シマ)”とか“山門(ヤマト)”を言った可能性が極めて高い。従って九州中部・北部全体を総じて「邪馬台国」と見るべきであろう。ただ、筆者は日向説を個人的持論にしている。その根拠は邪馬台国の入り口の「投馬」の中国語読み;Tu Maが宮崎県西都市にある都万(Tu Ma)神社と同音であることにある。筆者は都万神社の南にある都於郡(とのこおり)城にある奇妙な遺跡(高屋山上陵伝説:山幸彦の陵墓)は邪馬台国の遺跡でないかと推測している。


4世紀になると朝鮮半島は高句麗の台頭で、中国との外交は東シナ海を越えて南朝(六朝時代)との交易が盛んになった。宋書倭国伝や南斉・梁書に見るように南朝との外交が主である。従って日本の文化は江南との共通性が多く見られるのは道理である。特に仏教文化は梁から来たと思われる。その梁書倭人伝の中に「倭者、自謂太白之後・・・」とあるように、倭人は自ら周王朝の後胤で江南に下った「太白(泰伯)」の子孫とわざわざ言う事からして、江南地方とは邪馬台国時代から交流があったと推論される。その後、隋が中国を統一する事で再度朝鮮半島を経由した交流に戻ったが、呉服の言葉にあるように、江南地方にある三国時代の「呉」は当時の絹織品生産地域で、中国文化の原点であった。


蘇州市は歴史の古い都市である。その起源は今から2500年前の呉王闔閭の時代であり、その後、秦、漢、唐時代から現代まで、同一の敷地が脈々として使い続けられている。都市の敷地が変らずに活用され続けたという意味では、世界で最も古い都市であるといえる。2500年も同じ場所に、ほぼ同じ道と河が存在する。この最大の理由は、水を支配したことにある。南の太湖と北の長江、そして南北を結ぶ大運河の水利が2500年途切れる事無く続いた結果と言えよう。太湖から出た水は胥江川となって京杭大運河と蘇州城内に流れ込み、城内を流れる無数の運河(3横4直)を通り北西から南東へ流れ、葑門から外部へ流れ出る。


この2500年の王都は過去に10回もの廃墟となる危機を乗り越え現在に至っている。全てが順調に行った都市ではない。筆者は、蘇州に12年住むようになり、南宋時代の地図「平江図」が極めて現状に近いことに驚いたが、南宋時代以降も現在まで4度荒廃の危機があり、見事に復活したことに驚きを感じ得ない。まさに蘇(よみがえ)る都市「蘇州」である。では、過去10度にわたる興亡の歴史をまとめることにしたい。


蘇州城は今から2500年前の呉王闔閭の時代(紀元前514年)が起源であるが、一度目の廃墟は呉王夫差が越王勾践に負け、霊岩山で自害した時である(紀元前476年)。二度目が秦時代に項羽が秦へ反旗を翻した時である。項羽(紀元前232~202)は詩人ではないが、ただ1首のみ伝わる詩がある。24歳にして天下を取った風雲児であったが、漢の劉邦に破れる。それが、垓下の歌である。


力抜山兮気蓋世  力、山を抜き 気、世をおおう
時不利兮騅不逝  時、利あらず 騅、ゆかず
騅不逝兮可奈何  騅、逝かざる いかんすべき
虞兮虞兮奈若何  虞や虞や なんじを 如何せん


秦を滅びた英雄も漢軍に囲まれ、周囲から故郷の楚の歌が聞こえる、名馬騅も走らなくなった、ああ虞美人、君を如何にすべきか・・・と泣く。それに応え虞美人は次の詩を作った。


漢兵已略地    漢兵すでに地を略し
四方楚歌声    四方楚歌の声
大王意気尽    大王意気つく
賎妾何聊生    せんしょう何ぞ生にやすんぜん


大王様(項羽)の意気はもう尽きてしまいました。この私はもはや生きておれませんと剣を持って踊り、そしてその剣で自害する。芝居で言えば一番の見せ場である。虞が流した血の跡に生えたのが、虞美人草である。秦の始皇帝が紀元前210年に南巡で建てられた太守府大殿(子城内)はその時に焼失した。子城は漢時代に再び賑わいを見せ、三国呉の時代、孫権の母が蘇州人であった事も幸いして繁栄の時代であり、仏教文化が花開いたが、西暦280年に西晋に滅ぼされて隋時代までは興亡の時代が続く。写真は孫、権が母の菩提寺として立てた瑞光寺塔(西暦247年)である。邪馬台国の卑弥呼が居た時代と重なる。


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三度目は西暦327年東晋時代「王郭干」が攻め込み、四度目には南朝の最盛期を作った梁末期、候景軍が西暦549年攻め入った。隋になると中国は再度統一され、蘇州は呉郡から現在の「蘇州」と改名され繁栄の時代を迎えた。特に煬帝による大運河の完成で、江南の地が繁栄することに大きく貢献した(江南の開発)。ただし運河建設は民衆の酷使の対価としてできたため、反隋運動の首謀者が蜂起(蘇州人朱燮と常州人管仲)、隋軍によって破壊の憂き目にあった(五度目)。


唐から北宋時代は白居易の漢詩にあるように繁栄を極めた。「遠近高低寺間出、東西南北橋相望」と白居易が詠ったように六朝以来多くの寺院が建てられ284寺あったとも言われるが、現在は10寺にも満たない。また「緑浪東西南北水、紅欄三百九十橋」と言うほど多くの橋が建てられた(木製橋)。唐末は一時的に杭州銭氏が建てた呉越国の支配下にはなったが、江南開発が更に進んだ。龍徳2年(西暦922)、銭氏は今までの土積みの城壁を煉瓦積みにしている。


宋代は「蘇湖(江淅)熟すれば天下足る」と言われるほど江南地方が発展した時代であった。北宋時代(西暦960~1127年)には手工業も発展、特に絹織物・版画などが有名になった。蘇州は平江府となり、すべての路面は青石などで舗装され、空前の繁栄となった。景祐1年(西暦1034年)蘇州知事となった范仲庵は、農業治水面以外に府学を創設、中国一の学問府を築いた。城を守る上で、古くからある城門のうち閶・胥・盤・婁・斉の5門のみを開き、後に葑門を開き、宣和5年(西暦1123)には城壁の積替えを行った。宋の時代の発明に、火薬と木版印刷があるが、木版は確かに蘇州に根付いたが、火薬(西暦1044年)はその後の金の侵略時に役に立つことはなかった。北方の金が侵略を開始した靖康の乱によって北宋は滅び(西暦1127年)、臨安(杭州)に逃れた皇帝は、紹興の和約(西暦1142年)によって淮河を国境としたが、建炎4年(西暦1130年)10万の金兵の侵略を受け,街は徹底した掠奪と破壊により闔閭以来1300年の王都は廃墟になった(六度目)。


しかし,その打撃からすぐ立直り、百年後には前にまさる繁栄を誇るようになった。当時の街の様子は紹定2年(西暦1229年)平江図として石碑に刻まれており,現在の蘇州の市街も,基本的には平江図の時代からあまり変らない。6城門のうち胥門がふさがれ、閶・盤・婁・斉・葑の5門となっている。写真は平江図であるが、寺院仏閣や古橋はもちろん、木々まで細かく彫られている。よくぞ現代まで残ってくれたと思わんばかりである。この石碑は人民路蘇州中学南の文廟、石刻博物館内にある。


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七度目の大破壊は異民族によるもので、元朝(西暦1270年)である。平江図石碑(西暦1229)創作からわずか40年後その景色が一変したが、幸い石碑の様に復興した。元代は平江路と呼ばれ、当時の人口は蘇州歴史上最大の240万人(城外も含む)、生糸による手工業が発展した。蘇州に隣接する太倉は当時外国との貿易港として繁栄した。元末西暦1356年、紅巾の乱に乗じて挙兵したのが「張士誠」であるが、蘇州城内子城に入り王府と称し、1800年ぶりに王都を宣言したが、明王朝を築く朱元樟による10ヶ月間の攻防の後、壊滅的破壊に会い、子城も原形を留めない状態になった(八度目)。


明時代は蘇州府となり租税免除もあったので、一時的には人口194万人までに復活、農業生産は全国の11%にもなった。合わせて繊維産業の発展により、政府は皇室のために「織染局」を設けた(西暦1574年頃)。明から清の時代には蘇州城内より閶門を越えた西方面が繁栄した。


九度目の災難は抗清戦争によるもので、順治2年(西暦1615年)6月13日が最大の破壊を受けることになった。しかし、復興のほうもまた早く、乾隆24年(西暦1754)に徐揚が描いた姑蘇繁華図に見るように虎丘から城内西方向、南は霊岩寺に至る地域が多いに発展した。この姑蘇繁華図には50種類の産業が記載されている。まさに不死鳥の如く蘇州は復活した。


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十度目の破壊は、太平天国の乱による。咸豊10年(西暦1860年)、忠王李秀成が拙政園に隣接する地に忠王府(写真)を作った。1863年12月清軍による破壊が蘇州の発展を止め、当時漁村であった上海が繁栄した。その後、蘇(よみがえ)る街「蘇州」は現在のようになった。1912年に呉県・長洲県・元和県が統合して呉県となり、1928年に蘇州市と改名、1930年には再度呉県にが編入されたが、解放後1949年に再び蘇州市と改名した。


十度にわたる戦火で破壊と建設を繰り返したが、筆者が調べるに、ほぼ1960年代までは大きな変化はなく、文革後が最も大きな変化だったかもしれない。近代鉱工業の発展と経済成長、自動車の普及によって城郭は取り壊わされ、運河は埋められ、橋は平橋化され、城郭内は大きく変わって行った。つい60年前までは、姑蘇の街と同じようであった。


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