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旧青島日本総領事館跡と青島神社跡を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.64 (読む時間:約5分) 2017.01.11

1915年から1945年の30年間、2度に亘って日本の統治下に置かれた青島に4万とも5万ともいわれる日本人が住んでいた。かつて街のいたるところでは「中野町」「伊勢町」「横須賀町」「姫路町」といった日本名の道路名が名づけられ、着物を着た日本人が往来を歩いていた。昔の日本総領事館跡は太平路(旧ホーエンツオーレン通り:旧舞鶴町)と青島路(旧ウイルヘルム通り)との交差点東にある。この建物は1906年、ドイツの徳華銀行青島支店(ドイツアジア銀行)として建築された。 徳華銀行はドイツ租借地「青島」にある実質上中央銀行の役割を持ち、通貨「青島ドル」の発券銀行であった。


第一次日本統治時代から総領事館として運営が開始され、民政部の一部局庁舎として利用されていた。日独戦争勝利後、青島は日本の軍政下におかれ、1923年1月、行政権を中華民国政府に返還、1923年3月31日になり、青島日本総領事館として再使用した。 建家はネオルネッサンス様式で円柱・アーチ・コーナーストーンを配置、1945年の敗戦までここで領事館業務が続けられた。


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総領事館の敷地はかなり広く、東側の江蘇路との間に九水路があり、そこに領事館警察署があった。昭和12年(1937年)7月、盧溝橋事件に端を発した支那事変が勃発し、青島にも危険が迫った8月、時の総領事大鷹正次郎は、青島在留邦人に対し総引揚げを勧告した事もあった。写真正面が太平路でその前がすぐ海岸である。青島路の方向に行けば、次の交差点(広西路)でドイツ領事館になり、その奥に重厚なドイツ総監府(その後日本軍司令部)である。また、現在は迎賓館となっているが、信号山公園全体を占めるのが当時青島最大の豪邸であった総監官邸(その後日本軍司令官邸)である。黄色の壁に剥き出しの花崗岩造りの豪邸である。総監府建物内にドイツ時代の説明はあるが、日本軍司令官宅であった事は記載されてない。


日本総領事館は現在、民家となっている。北側の広西路から内部に入ることが可能である。太平路側の玄関から入ると、床はタイル張りで内部に吹き抜け階段があり、天井にステンドグラスが貼ってあった。ここで領事館業務をしたのであろう。北隣には日本民家らしき家も見られた。日本領事館の東側に山東鉄路鉱路公司(広西路14号)がある。1902年ドイツは「租借条約」によって膠済鉄道敷設権と鉄道線路両側15kmの採掘権を得たが、その開発のためにドイツが作った会社をそのまま日本が引き継いだ。


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青島神社は大正4年 (1915年) 、青島守備軍がモルトケ山(若鶴山)西側山腹を社地(敷地約6900坪)と定め、大正6年(1917年)5月に青島守備軍司令官から工事開始の正式認可を受け、大正7年5月には地鎮祭を執行したのち社殿その他の建物の建築工事を開始、翌大正8年(1919年)11月7日、無事に完竣した。青島神社は天照大神・大国主命・明治天皇を祭神に迎えて鎮座した。青島神社造営にあたり「山東省を大陸発展の基地とし、大陸経営の遠大なる理想の下」を基本方針とした。青島神社は若鶴山(現貯水山)の中腹に、鳥居・拝殿・幣殿・本殿からなる荘重な社殿で構成されていた。青島神社から青島大港など膠州湾沿岸、ならびに青島日本第一尋常小学校やその付近の日本人住居区(川崎町)を一望でき、素晴らしい眺望に恵まれていた。神社への入口は大鳥居のある表参道、黄台路につながる南門、北側は吉林路に出る北門の三ヶ所があった。


青島神社を正面から見ると、高さ約15米・幅10米の明神型石造大鳥居とその両側にそれぞれ大型の石灯籠が並び立っていた。大鳥居に続く参道は坂道で、両側には桜の若木が植樹されていた。現在はヒマラヤ杉に植え替えられているが、銀杏木などは昔のままと思われる。参道を登り切ると広場があり、右手に手水場があったようだ。その先には社殿に繋がる109段の石造階段が見える。階段を登りきると社殿前の木製鳥居がかつてあった。この木製鳥居の基礎石(亀腹)が写真のように現存している事に驚いた。また、階段を登った左右に石灯篭の基礎石も残っていた。この奥に写真にあるような本殿があったが、今は青島有線電視台になっている。電視台前は広い駐車場となっており、社殿の跡はまったく見られない。この青島神社は靖国神社の2倍の面積であったという。大鳥居があった付近は現在遼寧路科技街バス停(若鶴町)の対面である。


戦前海外に日本の神社は約1600ヶ所あったといわれ、そのうち中国内に550ヶ所が記録されている。特に旧満州には295ヶ所と一番多く、租借地であった山東青島地区には青島神社、青島台東鎮神社(台東一路35号:1915年3月創建)、坊子(濰坊市)神社(1918年創建)、張店(淄博市)神社(1919年創建)、淄川神社(1918年創建)、済南神社(1941年創建)、芝罘(煙台市)神社(1942年創建)、龍口神社(1930年創建)、威海衛神社(1940年)などが記録されている。


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青島に駐留する日本人にとって、青島神社は「我らの鎮守様」であった。例祭では川崎町(益都路)や大和町・瀬戸町・若鶴町など日本人街にある商店を中心にして、若い衆による神輿が奉納され、109段の石段を威勢よく駆け上がる風景が見られたという。終戦の日(1945年8月15日)午後には、青島守備隊の軍人が結集し一時物騒がしくなったこともあった。最後の宮司であった宮崎氏は12月20日に青島神社を閉社し帰国、ご神体を明治神宮に奉納してその職を終えた。翌1946年4月20日、一般在留邦人が最後の引揚船で帰国にあたり、全員が神社参拝をした後、米軍トラックで桟橋に移動した。現在青島神社跡は児童公園となっているが、旧満州の新京神社(長春市)や済南神社と同じく、ここに神社があった事を感じさせる心霊スポットである。


参考文献:青島物語


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