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青島の風景「日本人学校の今昔」 【青島たより 工藤和直】Vol.65 (読む時間:約4分半) 2017.01.28

青島は、当時漁村に過ぎなかった青島村に1897年(明治30年)、突然ドイツ海軍陸戦隊が上陸占領したことから始まる。青島の歴史は120年前に始まった。写真左は将来青島の中心となる観海山(総督府山)から青島湾にかけての傾斜地である。おそらく現在の小魚山公園から撮影されたのであろう。草木がほとんど見当たらない、月の砂漠である。写真に見える建物は清国衙門兵営で、奥の方に天宮后のシンボルである2本の門柱が微かに見えている。衙門兵営の右方には下青島村の民家も見える。元々の青島人はここに住んだ方々である。現在の青島は山東省各地から集められた人々によって作られ、発展していった。左奥の海浜に桟橋が見える。この延長が中山路になる。


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ドイツは1898年から僅か15年で、この何もない傾斜地に、絵のように美しい緑と赤き屋根の住宅を持つ青島(小ベルリン)を造り上げた。ドイツという国の構想力と実行力には驚きを禁じ得ない。一例が青島駅である。現在の駅は拡張して、東西と南の三つの改札口があるが、当時は写真のように東改札口のみでスタートした。斜めに落ちる褐色の屋根が青島駅の特徴である。


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1914年の日本軍による軍政が始まると、小学校・中学校・女学校の建設がすぐに始まった。ドイツ租借時代にすでに学校の建設が進んでいたのが幸いした。日本の小学校は1913年(大正2年)に西本願寺(現在は無棣四路小学校)で開校していたが、ドイツ降伏後すぐに既存学校の利用が始まった。青島市内における日本人小学校を2校とすることを1917年(大正6年)に決定して花咲町(現武定路)に新校舎の建設に着手、1917年(大正6年)に開校。翌年1918年(大正7年)4月に落成した新校舎を青島第一尋常高等小学校とした。何と1915年(大正4年)に先に開校した青島日本小学校(佐賀町)を第二尋常小学校と定めた。


佐賀町(広西路×常州路)の第二尋常小学校校舎(生徒数230名)は1905年(明治38年)に開校したドイツ総督府実科中学校を修理して使った。校舎の壁は全て花崗岩で覆われ、屋根裏階まで含めると4階建ての荘重な建物であった。この総統府学校は中国人富裕層向けの教育機関で、12教室・280名収容であった。第2尋常小学校には高等科は併設されなかったことと、借物でなく日本独自創建を優先したため第一尋常小学校と命名しなかったと思われる。左は、ドイツ総督府実科中学校が竣工したときの写真で、校舎は丘陵上にあった。現在は海軍関係の施設になって中に入ることは不可能であるが、玄関前の階段は昔のままであることが理解できる。卒業式・入学式の時の集合写真はこの階段を使うことが多かったという。1918年(大正7年)5月には生徒数576名となった。


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急増する就学児童の増加に対し、民生部は1917年(大正6年)にもう一校の新設を決定した。1918年(大正7年)4月に落成した第一尋常高等小学校は、花吹町(武定路)に校庭面積17,762坪(58、600平米)、校舎は近世ゴシック式煉瓦造で建物総坪数は666坪(2,200平米)であった。後年、13,100坪(43,200平米)の大運動場が拡張され、5年後の1927年(昭和2年)に完成した。名実共に日本最大級の運動場となり、青島における各種の行事に利用されるようになった。また、合わせると10万平米を越える日本一の小学校を誇った。この第一小学校には尋常科と共に高等科が設置された。1918年5月の記録では、尋常科児童750名、高等科生徒87名とある。


学校前に通学児童が見受けられる。また学校前の道路(武定路)はまだ舗装されていない。現在、武定路は建家に囲まれた狭い道路だ。学校跡は現在、徳愛花園大酒店として使われている。玄関から入る花崗岩の石段は当時のままで、各教室はホテルの部屋に改装されている。宿泊は可能である。正面建家は二階建てであるが、奥は三階建てとなって、かなり大規模で日本内地で考えられない蒸気設備(冬の暖房)もあったようだ。その奥に43,000平米の大グラウンド(現在は青島第二体育場)があった。日本内地の小学校が木造であったのに対し、大学並みの荘厳な建築物であることが周囲を一周することで認識できる。この小学校にあったピアノで中村八大が演奏したと言う記録もある。


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青島守備軍第2代司令官大谷中将が青島における高等普通教育として最初に着手したのは、青島日本高等女学校の設立であった。大正5年(1916年)、青島高等女学校は旧ドイツ女学校跡に設立され、大正7年若鶴山山麓(黄台路10号)に新校舎が落成、女学校は新校舎に移動した。ちょうど設立100周年になる。写真では全校生徒が体操を練習しているが、これによると開校初期において制服はまだセーラー服ではなかったようだ。現在は、四季花園賓館になっているが、正門にある花崗岩造りの門柱は当時のままで、そこから建物の間に広がる空間で体操を行なったと思われ、黄台路側から撮った写真であろう。生徒数は152名と記録されている。人数のわりに大きな校舎である。


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同じく大谷中将の命令で、青島日本中学校は1917年(大正6年)、旭ケ丘(ドイツ・イルティス兵営跡地)に開設された。イルティス兵営は1899年太平山南麓(今の中山公園)に作られた二階建ての建物であった。男子中学校より先に高等女学校が先に開校されると言う珍事が起こった。開設当初の制服は、冬服は紺色詰襟、夏冬は鼠霜降詰襟であった。1921年(大正10年)、旧ドイツ自動車廠跡地(ビスマルク兵営)に建設中であった新校舎が落成し、桜ケ丘校舎と呼ばれ全校生徒が新校舎に移動した。新校舎の敷地は15,892坪(52,400平米)、校舎の延坪数は1,936坪(6,400平米)で、当時の日本においては稀に見る堂々とした外観を有していた。校舎内に寄宿舎があり、膠済線沿線の生徒ばかりか全中国各地から、ここに寄宿勉学した。現在も中国海洋大学正門前にある門柱は昔のままである。


学校内のため外部の方は入門できないが、亡父の友人に旧制青島中学の出身者が居た事を思い出し、中国語で「亡き父がここを卒業した」と守衛に言って、建屋内を案内して頂いた。建設後百年近く経つが、大きさと言いその正面玄関背後にある広い中庭と別棟の校舎建屋、北西に広がる運動場(昔の教練場)へ下りる階段は当時の花崗岩であり、遠く真正面にドイツ総監官邸(日本軍司令官邸)が見える。これが中学校とは思われない。内地の帝国大学がこれに匹敵する建屋であろう。旧制青島中学は名門であり、内地の有名官公大学・高等学校・私立大学や専門学校に多くの卒業生を輩出した。在籍記録の中に、石丸寛(九州交響楽団・東京交響楽団指揮者)や中村八大(上を向いて歩こう・こんにちは赤ちゃん等の作曲家)などの異彩児も居る。下記に校舎内部の写真を示す。日本に引揚げ後70年以上になるが、各学校卒業生は定期的に集っているようだ。青島中学は鳳雛会、青島高等女学校は若鶴会と称して、OB・OG会を開催している。


参考文献:青島物語


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