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中日友好を貫いた「青島学院」 【青島たより 工藤和直】Vol.66 (読む時間:約2分) 2017.02.14

鹿児島県出身の「吉利(よしとし)平次郎」氏は、日本人と中華人の共学実現の念から私立青島学院を設立、1945年(昭和20年)の敗戦までの30年の間に少なくとも1万人以上(内中華人3000名)の卒業生を送り出した。日本人と中国人を同じ教室で勉強させることで両国の相互理解を実践した。相互理解の授業は、例えば「日本」という共通の漢字を日本人には「リーベン」と読ませ、中国人には「にほん」と読ませることから始め、日中共学を実践した極めて異色の学校だった。吉利平次郎が戦前・戦後において民間レベルにおける日中関係の友好を維持向上させた功績は極めて大きい。


1.青島英学校の設立


1916年(大正5年)4月、山東省青島市馬関通(曲阜路)にあった青島基督教青年教会を教室として日本人青年を対象とした夜間英語学校が開設された。翌1917年(大正6年)4月、英語に加えて簿記・日本語を教科に組み入れて学院の名称を「青島学院実業学校」に改称すると共に、中国人との共学を開始した。初年度新入生290人、その内中国人は50人であった。当時、日本の経営下にあった山東鉄道の若い社員が多くここで学んだという。


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2.校舎を葉桜町(館陶路8号)へ移転


生徒数の増加に伴い馬関通教会教室は手狭になったので、青島守備軍軍政部と折衝の結果、1918年(大正7年)、廃校となる青島小学校葉桜分教場(現在は第12中学)の払下げを受けることとなった。青島学院実業学校の生徒はその後増加し、1920年(大正9年)の生徒数は832人、夜間授業が始まる午後6時半頃になると学院周辺の道路は通学する生徒でふさがるほどであったという。


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3.青島学院商業学校(台西鎮単県路)の設立


吉利平次郎氏は、かねてより計画していた全日制私立商業学校を1920年(大正9年)4月に開校した。初年度の新入生は60名であったが、その内30名は中国人であった。1921年(大正10年)の青島学院の総生徒数は更に増加して963人となった。吉利氏が念願してきた全日制日中共学の商業学校が、この年に初めて形となったわけだ。


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終戦後、吉利平次郎は日本各地に引揚げた日本人在学生の在学証明や卒業証書の発行と日本国内学校への転入学手続きに追われた。そして引揚げから半年後ついに病に伏した。亡くなる一週間前、孫の吉利醇に「百年後の中国は、世界を制覇する。お前はその目でしっかり確かめよ」と語ったという。そして現在中国は実質GDPで世界一の国となった。1916年(大正5年)4月の学院創設からちょうど100年を迎えた。青島学院OB会は「桜稲会」と称している。


参考文献:青島物語続編


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