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時間が止まった「濰坊市坊子」日本人居留地 【青島たより 工藤和直】Vol.68 (読む時間:約3分半) 2017.03.16

ドイツは清国と「膠噢借条約」を締結した翌年の1899年に、青島から済南までの膠済鉄道の起工式を行った。膠済鉄道の敷設工事は、民間会社である山東鉄道株式会社が5,400万マルク(現在価格で1600億円)を投入して行われ、青島⇔済南間430キロメートルの本線工事、張店(淄博)⇔博山40キロメートルの支線工事を1904年に完工した。この鉄道敷設に従事した中国人労働者は1日に2万人から2万5千人と、まさに中国人民の血と汗による大突貫工事であった。1901年に青島から坊子まで、更に1902年には張店(淄博)と博山までの支線敷設が進んだ。1904年には青島⇔済南間の全線敷設が完工し、青島駅舎も建設されて盛大な開通式が挙行された。


膠済線は青島を出ると、膠州・高密を過ぎ、やや遠回りするように坊子に左折し濰県(濰坊)に向かう。遠回りする理由は石炭の採掘に関係があった。坊子駅から南西1kmの坊子炭鉱で採掘された石炭は、積み出し駅として坊子駅に持ち込まれた。坊子駅は膠済線で最も重要な駅の一つであった。現在も構内には到る所に石炭の山(ぼた山)が取り残され、石炭の臭いがする。また構内には広大な操車場があった。下記写真は今も残るその跡地である。


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坊子炭坑はドイツが山東省で最初に採掘を開始した石炭鉱山であった。1902年、この炭鉱で採掘された石炭が採炭列車で青島駅に到着した時、官民は大歓迎でこの列車を迎えたという。後年、この坊子炭鉱鉱脈の出炭量が急に減り別の鉱脈採掘に着手、結局坊子は閉山の方向に進んだ。この急な閉山によって当然坊子は忘れられ、人々が忽然と消えて濰県(濰坊)他に移住した。それが、今も残る街の廃墟とつながった。時間はその時から止まったままだ。かつての坊子駅は、今は貨物駅として営業されている。坊子駅舎正面左から駅構内に入る事ができ、昔のままの駅構内を探索することが可能である(下記写真)。


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廃墟になった坊子の街は北東の駅に始まる。東西に伸びる膠済線から南の長寧街までの2km、東側は運河から西は北海路まで4キロの約8平方キロに広がる日本人居留地があった。下図のように、駅の前から一から七までの馬路が膠済線に並行に続く。一馬路は駅前通りで、駅や鉄道関係の庁舎や倉庫が並んでいる。街のメインストリートは三馬路であった。駅前は再開発中で、かつての映画館や郵便局が作られるようだ。西に行くと蔦の葉で覆われている横田旅館があった(写真)。一馬路西端には日本家屋が多く見られる。そこから文化路を斜めに下ると三馬路の交差点に出る。南東に日本電灯公司の廃墟が見える。対面はきれいな徳建豪華住宅「坊茨(fang Tze)小鎮」が並び、その入口に「坊子徳日建築群」の石碑があった。1918年7月11日創建の坊子神社は、三馬路にあった記載されており探索したが、痕跡はなかった。戦後移設した三馬路小学校が当時の神社跡かも知れない。


坊子には日本人が1006人、戸数は399戸で、膠済線沿線では済南に次いで日本人が多かった。その人口構成は教員を含む官衙関係者が268人で、家族婦女子が520人、炭鉱勤務者は53人、その他様々な商売人が104人居た。坊子には新設の尋常高等小学校があったが、ドイツ時代はドイツ医院軍管学校であった。その施設を租借権が移った1914年以降、日本人学校とした。現在はドイツ人住宅「坊茨小鎮」の入口になっているが、玄関から中を見ると学校の教室であることが分かる。小学校の裏は現在坊子区文物局となっている。当時の教員数、児童数に関しての記録はないが、日本人婦女子520名の半分として250人ほどの児童がいたのだろうか。当時の門柱がガラスケース内に保存されているのを見て、少し異様な感じがした(写真)。


学校の北側に日軍医院跡があった。まるで野戦病院である。更に西に行くと鉄道踏み切りがある。その角の北側にメルヘンチックなドイツ軍司令部があり、ちょうど改装中であった。周囲のドイツ建築物は改装中が多いが日本建築物はそのまま放置されている。その南側に唯一改装中の日本領事館坊子出張所の建屋があった。二階建てレンガ作りである。南側が玄関となっており、車留めの前に噴水のような池があった。


参考文献:「青島物語」第19話


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