新規登録
コラムニスト募集中
日経新聞
DMMコラム
蘇州たより
上海の街角で
JETRO
上海日本商工クラブ
在上海日本国総領事館
ラクト
上海人
香港リーダーズ
C.L.Mリーダーズ
経営者.マガジン読者の集い
2015稲盛和夫経営哲学上海報告会
中国ニュース
株式会社TOHOKI
人気ページランキング
  • 今週
  • 今月
  • 殿堂
  • JBSコラム Vol.3

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • 上海リーグ法律事務所 コラム vol2

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座vol4

  • 知的財産権の取得・侵害対策、企業内不正対応を中心に、中国での企業活動をワンストップで支援。

  • JBSコラム Vol.3

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座vol4

  • 知的財産権の取得・侵害対策、企業内不正対応を中心に、中国での企業活動をワンストップで支援。

  • 上海リーグ法律事務所 コラム vol2

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • “One Team, No Border” 会計税務を中心に企業のグローバル化を全力で支援しております。

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座 vol.8

  • 微博・微信を中心とする中国ソーシャルソリューションサービスをワンストップで提供しています。

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • リスク管理領域を中心に日系企業の中国事業を支援させて頂きます。

江沢民も訪れた濮陽市「戚城遺跡」 【青島たより 工藤和直】Vol.69 (読む時間:約3分半) 2017.04.03

河南省濮陽(Pu yang)市は、山東省都済南市から東南へ黄河を上ること250kmにある中堅都市である。街の中央にある戚城(Qi cheng)遺跡は古くは上古時代の五帝王「顓頊:せんぎょく」が住んでいた「帝丘」といわれ、春秋時代は「衛」の王都となった。戚城には7000年以上の歴史がり、顓頊の孫「禹」が夏王朝を開いた。衛(紀元前11世紀 ~紀元前209年)は、春秋時代から戦国時代にかけて河南省の一部を支配した春秋12諸侯のひとつ。12諸侯とは、魯・斉・晋・秦・楚・宋・衛・鄭・陳・蔡・曹・燕・呉をいう。衛の始祖は周の文王の九男の康叔である。康叔は周より衛君に封じられ、朝歌(紀元前11世紀~紀元前660)を都とした。


懿公(いこう)は紀元前669年に即位してから鶴を好み、鶴を大夫の車に乗せ鶴に爵位を与えるなど淫楽奢侈な性格であったため、人民も大臣もみな服従しなかった。懿公9年(前660年)12月、北の異民族の翟(てき、狄)が衛を攻撃してきた。懿公は出兵しようとしたが、兵は従わず、大臣にいたっては「鶴が好きなら鶴に翟を撃たせたらよいでしょう」と言うありさまで、誰も懿公に従おうとはしなかった。懿公は少数の衛軍を率いて翟の軍勢と熒沢の地で戦ったが、懿公が旗を立て通したため集中射撃を浴びて戦死した。こうして衛は大敗、懿公は戦死後に人肉として翟人に食べられたという。鶴を愛するが故に身を滅ぼした懿公の愚行に対し、「懿公喜鶴」とか「懿公之鶴」という故事ができた。下らない物を重んじて大事を疎かにして身を滅ぼす行為のことをいう。


国都は朝歌ののち紀元前660年に曹(滑県)、紀元前659~紀元前629年に楚丘(滑県の東)、紀元前629~紀元前241年に帝丘(濮陽)、紀元前241~紀元前209に野王(駐馬店市沁陽県)に遷都した。第8代頃侯の時、多くの財物を周王朝に献上したことから侯爵に叙された。第10代武公の時、周の幽王が犬戎に殺されると、兵を率いて犬戎討伐に駆けつけ、その功により周王室から公爵に叙された。その領土は狭いとはいえ、黄河流域の中原の中心地であり、先進地帯であった。しかし、それがため衛は周辺諸国との折衝に忙殺されることになる。紀元前660年には狄により滅ぼされたが、斉の桓公の助力により国を復活した。しかし、亡命時代の晋の文公を冷遇して他国へ去らせ、孔子を迎え入れた時にも同じく他国へ追いやるなど、優秀な人材が滞在してもすぐに出国してしまう状況であった。


孔子は50歳(天命を知る頃)にして魯の大臣となったが、政局問題で53歳の時に弟子達を連れて諸国巡遊に出た。当時の平均寿命が50歳に満たない時に旅に出ると言う事は、今で言えば85歳の高齢者が車も新幹線もない旅をすることで、非常に過酷な巡遊だったと推測される。67歳で魯に戻るが、苦労の14年間であった。その旅は、魯(曲阜市)→衛(帝丘:濮陽市)→曹(陶丘:定陶県)→宋(商丘)→鄭(新鄭)→陳(宛丘:淮陽県)→蔡(上蔡)→楚(負函:信陽市)と彷徨するが、孔子を受け入れる国はなかった。衛に5年間、陳に4年間滞在したが、両国においては官位すら得られなかった。孔子の子弟に子路(孔門十哲のひとり)がいる。彼は衛の高官に引き立てられたが、王位争いの中で謀殺され、塩漬けにされて晒されたという。戚城の北に彼の墓がある。孔子60歳(耳従う頃)の時は、衛と陳を渡り歩いていた。70歳(則を越えずの頃)には魯で教育者として「春秋左氏伝」を編纂し、子路の惨殺の翌年に天寿を全うした。


また、公族の一人であった商鞅は魏を経て秦に仕え活躍した。衛は戦国時代には韓・魏の半属国状態となり、紀元前240年には秦に事実上滅ぼされるものの、名目的には細々と続き、最終的には最後の君主・衛君角が秦の二世皇帝(胡亥)に廃されることで滅んだ(紀元前209年)。


2008年7月の中国通信社の報道によると、この戚城遺跡は竜山文化遺跡(約4000年前)と重なり、発見された周囲1520m、南北405m、東西390mの城壁跡(高さ8.5m、幅15m)は、春秋時代の衛国の都城跡とほぼ同じで、春秋城壁は竜山城跡を基礎に建設されたものと推定された。五帝王「顓頊」が住んでいた可能性もある。中国5000年と真にいわれる時代が来るかもしれない。今後の発掘調査が楽しみである。


戚城は春秋時代7度の会盟が行われた「諸侯会盟」の地として知られている。紀元前626年~紀元前531年の95年間の間に、周王朝は15回の会盟を行い、そのうち7度がここ濮陽戚城で行われた。その跡は「会盟台」として現存する(高さ4.6m、長さ20m×幅16m)。この地は春秋時代交通の要所であったということだ。戚城城壁は周囲1500m程度で、そのうち北と東の城壁がほぼ完全に残されている。下記写真のように、朝の散歩に城壁を一周することで7000年前の裴李崗文化・仰韶文化・竜山文化そして商(殷)・周・漢の文化を一望に散策できるのを特徴とする。1991年2月5日、江沢民総書記が濮陽で発見された油田を視察した際に戚城遺跡も見学、「春秋時代の連合国」と称した。


kudou69-03


kudou69-04


戚城遺跡は、濮陽駅から北へ1kmほど行った石化東路×古城路に囲まれた場所にあり、正門は国道212号線側にある。正門から入ると約100mで龍に乗った「顓頊」の石造がある。その奥から約400m四方の戚城城壁が見えて来る。城壁は版築工法で作られたもので、4000年以上経過しているが、保存状態は良好である。一部は金網フェンスなので保護されているが、大半は城壁の上を散歩可能である。一周しても1500m程度、約30分でほぼ戚城に内部を探索できるほど小さい。至る所に埋蔵物の調査が行われた痕跡があり、南門付近には江沢民が来た石碑が建立されている。さすがに鶴は居ないが、ちょうど春の陽気で白梅や紅梅が満開であった。


kudou69-05


コラムニストの過去の記事も読む