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鄭州「商(殷)代遺跡」と「日本領事館跡」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.70 (読む時間:約3分) 2017.04.26

中国では、西安(かつての長安)・北京・南京・洛陽の四つの歴史的な首都を「四大古都」と呼ぶ慣わしがあった。ところが、歴史学者らの主張によって1920年代に開封(北宋の都)、1930年代には杭州(かつての南宋の都、臨安)がこれに加えられて、「六大古都」の呼称が生まれた。1988年、地理学者の譚其驤は商(殷)の都の跡である殷墟を評価してその所在地である安陽を追加するように提案した。また2004年、中国古都学会は、商(殷)の時代以降3600年の歴史を持つことから、河南省鄭州を追加した。その結果、今日では以上の8都市(西安・北京・南京・洛陽・開封・杭州・安陽・鄭州)を「八大古都」と呼称している。


鄭州市にある二里岡遺跡は1951年に発見された。商(殷)王朝の初期の中心地と考えられており、商(殷)後期の甲骨文占卜に記された建国者天乙(湯王)の亳という都市になる。二里岡文化は商王朝の初期段階ととらえている。一方、欧米の考古学者らは、安陽市で発見された商(殷)後期の殷墟とは異なり、二里岡からほとんど文字資料が出土していないため、二里岡を商王朝初期と結びつけることに慎重である。二里岡遺跡のほとんどは現代の鄭州市街の下にあるため発掘が困難である。湯王は当初都を亳(現在の商丘)としたが、あとに鄭州に遷都した。紀元前1600頃なので、3600年も前である。この時に都名を前の亳とし、前の亳を「南亳」と改名した。


商代遺跡は周囲約7kmの城壁に囲まれた都城で、三重構造であった。現存の内城は北東部がややつぶれた長方形であり、下図のように北壁1690m、西壁1700m、南壁1870m、東壁1740mである。東と南壁がかなり完全に保存されており、東壁部を見ると高さは5m、幅は10~17mとばらつきがある。城壁上部は散歩も可能である。南東部には高さ10m以上の土壁がある。外城は円形で内城から0.5~1.5km離れている。この城郭スタイルは奉天(瀋陽)城でも見られ、「天円地方」の世界観に結びつく。内城の東北部に宮城がある三重構造だ。東大街が東部城壁を交わる公園に、商代亳都都城遺跡の石碑があった。城壁の外に骨器や陶器を作る大きな工房群が位置していた。工房の中には、二つの青銅器工房も含まれ、大型青銅器が発掘された。商代遺跡は商当初紀元前1600年~1400年頃の湯王の都城とされ、二里岡文化と重なる。鄭州市中央には3600年前の世界最大の古代都市が埋まっているのだ。


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3600年前の城壁を見た後に鄭州駅に向い、途中80年前に建設された「鄭州日本領事館跡」を訪問した。鄭州駅から東南700m程である。駅前の福寿街から敦睦路を南に下り、東西馬路の交差点を左折する。交差点の周囲は商業ビルが乱立している。東馬路もほとんど市場の中にある。ここは、戦前に中国内で最後に建設された日本領事館であった。1929年からの中国政府との交渉の結果、1931年2月に漢口(武漢)総領事館の管轄のもと、駅前の福寿街109号に初代領事「田中庄太郎」が開設したが、9月18日の満州事変により領事館を一時停止、その後1935年秋に再度漢口から派遣された領事館員によって設立準備、1936年1月に現在の東馬路80号に正式開館したものである。しかし、1937年7月に起こった盧溝橋事件のため8月9日には一端閉館となり、領事館員他が鄭州を去った。一年半余りしか使われなかった日本領事館であった。日本人租界地でないこの中原の地に領事館を開館した背景は資料が乏しいので詳細不明であるが、明らかに中国大陸内部への進行を意図したものであろう。領事館前はいつも買い物客で混雑している。玄関右横に石碑(領事館跡)があり、裏にはもうひとつ領事館付属の建屋があった。3600年を1mとしたら、80年間はわずか2cmになる。


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戦前、中国大陸に日本領事館が関東州含む旧満州に18ヵ所、その他に張家口・天津・青島・煙台・済南・上海・蘇州・杭州・南京・蕪湖・九江・宣昌・漢口(武漢)・沙市(荊州)・重慶・福州・厦門・汕頭・広州・徐州、そして鄭州と21ヵ所あった。


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参考文献:旧満州に15ヵ所あった日本国領事館 【蘇州たより 工藤和直】Vol.41


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