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済南日本領事館跡と済南神社跡を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.71 (読む時間:約6分半) 2017.05.29

済南は山東省都で膠済鉄道(青島⇔済南)と津浦鉄道(天津⇔上海)が交わる交通の要衝である。済南市の歴史は長く、黄河文明龍山文化の発祥の地と言われ、域内で多数の新石器時代の遺跡が発掘されている(城子崖遺跡など)。舜王の治世時代(紀元前22世紀ごろ)から既に豊かな土地柄であった。こうした古代の記憶は、舜王にちなんだ地名にしっかりと刻み込まれている(舜井、舜耕路、舜華路、舜耕山など)。商(殷)王朝の時代、現在の済南市章丘市平陵城を本拠地として、譚国が建国された。ちょうど、現在の龍山街道事務局が設置されている場所がその王都跡(城子崖龍山文化遺跡)である。


西周が建国されると、各地へ国王が封じられ、分封制による間接統治体制が採用された。済南市エリアは斉国の版図下に組み込まれるも、東夷部族の一派であった譚国は、その半属国として引き続き存続した。春秋戦国時代を通じて、封建社会へと大規模な社会構造の変革が進められる。済南市一帯は引き続き、斉国の領土下にあって、濼邑(今の済南市中心部)と呼ばれ、その後に濼邑城は歴下邑城と改称される。


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春秋戦国時代に幾度も繰り広げられた斉国と晋国との戦争は、主に現在の済南市の南部にある馬鞍山の一帯で行われた。以後、斉国は国防を重視し、 斉の長城を築城することとなる。秦の始皇帝により中原が統一されると、全国に郡県制が導入された。前漢代の初期から歴下邑の一帯は済南と通称されるようになる。かつての古代四大河川(長江、黄河、淮水、済水)の一つである済水(その河川は現存せず、今の黄河の湖底に眠る)の南側に位置したことから、済南と命名された。黄河は東周の都「洛邑」から大梁(開封)を過ぎた辺りより南から済水、漯水、河水の3本に分かれ東北方向の渤海に流れ込む。前漢の時代の大洪水によって済水は現在の黄河の流れになってしまった。細かく言うと、済南市から天津市の間には9本の河があるが、黄河は常に氾濫し、その川筋はその度に変わったというのが正しい表現となろう。春秋時代、黄河は一番北西寄りの天津辺りを河口とし、かつての済水は河南省済源市西北2kmを源流とした。前漢時代、済南郡が新設され済南郡の郡役所は東平陵県城(今の済南市章丘市平陵城)となった。東平陵県城は、古代商王朝の時代に端を発する譚国の王都から続く都市で、すでに一帯の中心拠点として確固たる地域を築いていた。


清朝も末期に至ると、帝国列強による植民地化が進み、ついに1904年、済南府も開港させられ、 済南は急速に経済発展が進んだ。1911年末には津浦鉄道の黄河大橋が完成し、済南府は南北交通ルートの重要拠点となる。翌1912年に中華民国が成立し、全国的に府制から道制へ改編が進むと、済南府は当初、岱北道に帰属されるも、1914年には済南道と改称された。1928年5月3日、日本軍と国民党軍との間で済南事件が勃発する。日本軍は、蒋介石率いる国民革命軍が張作霖への北伐再開を牽制する為、居留民保護を名目にして出兵(第二次山東出兵)した。1928年(昭和3年)5月3日に済南で市街戦が起こり、8日には日中全面衝突へと発展した。日本軍は多数の中国人を殺傷し、中国国民の対日感情を極度に悪化させることとなった(済南事件)。更にこれに乗じて増派した兵力を山東省から華北全域に展開(第三次山東出兵)させたが、内外の批判を受け翌年には撤兵することとなった。攻城戦の際、日本軍は南門城壁に向けて激しい砲撃を加えた(下写真)。今日でも、この日を記念して、市内では空襲警報のサイレンが鳴らされている。


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済南市槐蔭区経三路238号に日本領事館跡がある。済南事件を目の当たりに見た歴史の証人である。済南駅前の経一路を西方向に行き、緯六路から南方向に行き、経三路で右折したすぐ左である。第一次世界大戦終了後に青島の租借権をそのまま引継いた直後の1918年に建設された(左写真)。その後1928年5月の済南事件で焼かれ、1939年に再建された(右写真)。経三路から入った正面には、事務棟として使われた2号楼や山東鉄路の建屋がある。入って左にある二階建ての建屋が領事館の建屋である。正面は大きなプラタナスで覆われている。南面に庭がある。その向こうはタイル張りの噴水があった。領事館時代はここでガーデンパーティーが開かれたかもしれない。更に南方向へ行くと現在は営業をしていない済南飯店がある。解放後、毛沢東をはじめ、劉少奇、宋慶齢など多くの共産党幹部がここに泊まったという。 


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またこの付近は済南駅前に広がった旧市街地に辺り、古い建物がいくつも見える。教会や郵便局、日本軍駐在司令部(経二路162号)などもあった。経二路276号は緯五路と交差する東南角で現在公安局交通警察支隊となっているが、ここは日本の高島屋百貨店(済南出張店)の跡である。高島屋の海外進出は、1899年(明治32年)フランスリヨンに始まり、中国では1905年(明治38年)に天津事務所、1938年の南京出張店に次いで1941年に済南出張店が開業した。高島屋のHPなど見ると、現在上海地下鉄10号線伊梨路にある店舗を中国一号店と宣伝しているが、戦前中国に進出したことは書かれていない。確かに官需受注による軍の命令下であったかも知れないが、この建物の写真「高島屋」は消せない歴史である。


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済南神社は市の郊外にある梁家庄(現・英雄山)に創建された。詳細な資料写真は発見できていないが、英雄山路18号済南戦役記念館西門が当時の参道入口で、ここから東にやや登りかけた所にある記念館が本殿跡地になる。1939年(昭和14年)に建設開始され、残された石灯寵等に刻まれた年号から1942年 (昭和17年)7月頃にはかなり完成したが、一時建設が中断され1944年(昭和19年)に再開したが、翌昭和20年終戦で未完のままに終わった。境内地は済南革命烈士陵園となっている。神社の本殿があったと思われる場所には、国共内戦における共産党の勝利を記念した済南戦役記念館が建っている。神社の鳥居、灯龍、石碑などに使用された石材が公園のー画にまとめて置かれていた。鳥居の石柱と思われる二本が無造作に置かれ、その大きさ(約9m)からそれ相等に大きな鳥居であったと予想がつく。石灯籠の残骸から寄贈した人物の氏名が確認できる(残念ながら一部消されかけているが)。一つは、茨城県筑波町「廣瀬森次」であり、もう一つは岡山県「安原順吾」・長野県「山崎武源太」と読めそうである。いずれも昭和17年(1942年)の刻印があった。まるで「兵どもの夢の跡」の墓標である。


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済南東駅の前に広がる大明湖は、済南城内北半分を占める。現在堀に囲まれた跡に内城があった。済南城城壁は北宋徽宗年間(西暦1101年~1125年)にかけて土城として築城され、明代初期1391年に土城からレンガ積みの周囲12里48丈(約6.1km)、高さ3丈2尺(9.6m)、幅5丈(15m)のほぼ四角状の城壁がある。南門(舜田門もしくは歴山門)は中央にあるが、西門(濼源門)は南寄り、北門(会波門)は東寄り、東門(斉川門)は北寄りとちょっとおかしな位置で、東北と南西に偏った城門構えであった。北門は大明湖の水を排出するために水門(水陸門)になっている。この門だけでは非常に不便でもあったのか、それぞれの門の右手に、便利門があった。四方八卦の思想から、南には巽利門、西には坤順門、北には乾健門、東には艮吉門である。清代中期になると、防御の意味で内城を取巻く外城が作られた。南は経十路、西は緯十二路、北は膠済鉄道、東は歴山路に囲まれた約16km2にわたる地域である。その外城には7つの城門が作られた。東に永靖門、東南に永固門、南に岱安門(圩子門)、東南に永綏門、西北に済安門、東北に海宴門である。その後民国時代に門が4つ増設され、最終的には19の城門があったという。しかし、中華人民共和国成立の翌年1950年に他の都市と同じく城門城壁は切除された。


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参考文献:中国・華北の神社跡地(稲宮康人)


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