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斉の国都「臨淄」を巡る 【青島たより 工藤和直】Vol.73 (読む時間:約6分) 2017.06.21

山東省「臨淄」は春秋周時代に斉都が置かれた地、現在は淄博(Zi Bo)市臨淄区になる。周の初めに太公望呂尚が封ぜられ、「営邱」といわれた。その後、紀元前859年に斉の献公がここに都を定め臨淄(Lin Zi)と名づけた。春秋時代には桓公が覇者となり、戦国時代には田氏一族が七雄の一国として、ここを中心に活躍、華北第一の都市として特に文芸の中心として栄えた。『史記』によると、春秋中期にはすでに4万2千戸の都会となり、戦国時代には7万戸(推定35万人)、男子21万人で街は肩と肩が触れ合うほどの賑わいと記録されている。


春秋戦国時代、農業や手工業の発展によって、経済の規模が点から面に広がり、あわせて貨幣経済の促進で国境を越えた広範囲な市場の発展を促した。当時、周の洛陽、斉の臨淄、趙の邯譚、魏の大梁(開封)、楚の郢(荊州)などは1万戸を越える大都市であった。その後紀元前284年には燕など5国に攻められて衰え、紀元前221年には秦によって滅ぼされた。秦は紀元前230年に東隣の韓をまず滅ぼし、翌々年に趙、紀元前225年には先進国の魏を滅ぼした。魏国は当時一番の文明国であったが、国政が衰えたところを攻められ滅んだ。その後、南方の楚を前223年に滅ぼし広大な地域を手に入れた。残るは北方の燕国と東方の斉国であった。紀元前222年に燕を滅ぼし、その帰路に斉を急襲して一気に滅ぼした。斉の弱点は、今まで隣国でなかった秦に油断したことだった。ここで秦の統一が完成するのである。


臨淄斉国故城は淄博市臨淄区の西部から北部にまたがり、東は淄河、西は系水に臨み、南に牛山と稷山がたたずみ、押し並べて平原である。『史記』によると、紀元前9世紀半ば、斉の献公が薄姑(現・博興県)から当地に遷都、春秋戦国時代から紀元前221年に秦に亡ぼされるまで630年余りにわたり姜斉と田斉の国都として東方の重要な政治・経済・文化の中心地となり、当時、最も繁栄した都市のひとつであった。斉の故城は大小両城からなり、大城は旧淄博県城北方に広がる4km長の不整長方形で城門が6ヶ所あり、城門跡・製銅・製鉄・鋳銭・骨器製造遺址が多数発見されている。また、墓地が2つと大規模な殉馬坑(写真)が発見されている。小城(東西1.4kmX南北1.2km)は大城の西南部に位置し長方形の宮殿区となっており、城門は5ヶ所あった。その西北部に桓公台という高さ20mほどの高台があり、斉の桓公が諸侯と会見したり兵馬を検閲したりしたところと伝える(写真)。小城の東には隣接する隋代の城壁があったが、周囲2キロメートルにすぎない。この斉国故城をより細かく説明すると、約4km四方の外郭をもつ外城に、南北2.2km×東西1.7kmの内城が南西角に食い込んだ形状で、大城は淄河に沿う東壁が5,209m、南壁と西壁が2,821m、北壁が3,316m、西壁幅32~43m、周囲14.16km。小城は東壁2,195m、西壁が2,274m、南・北壁は1,404m、周囲7.28Kmである。大城は役人・平民・商人が住む郭城、小城は君主の住む宮城で、二城はあわせて面積15.5平方キロ程度である。ほぼ蘇州城と同じである。城門は13座(二城をつなぐ2座を含む)あり、城内には大道が縦横に走り、多くが城門に通じる。現在究明した主要交通幹線は十条、小城に三条、大城内に七条あったと推定される。また、故城遺跡・殉馬坑・斉墓・桓公台など十数ヶ所の文化財名所がある。


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斉国故城垣遺跡は、小城と大城が重なる付近に現存している。それは石垣を積み上げたものでなく、土を押し固めて積み上げる版築方式である。これは浙江省杭州北にある良諸遺跡や商(殷)、周時代の故城で見られる構造と同じである。この城垣遺跡から斉恒路(村道45号)を北に歩くと、すぐに晏嬰墓が右手にある。更に約2.0km歩くと排水道口に至る。写真は外城側と内城側から見たもので、その距離20mから城壁の幅が推定できる。


田氏は紀元前386年、康公を幽閉して国を奪ったが、周王より諸侯として承認された。威王とその子宣王(紀元前319~301)の時に強大となった。都の臨淄は戦国時代中国最大の都市として繁栄、小城の西門にあたる稷門(Ji men)付近に多数の学者が集まり(写真)、時には数千の学士が学問上の論争を行ったという(稷下の学)。その中には「孟子」も居たが、史記の記録によると「用うるにあたわず」と冷たい表現が残っている。「東京大学稷門賞」は大学の発展に大きく貢献した個人・法人又は団体に対し授与するもので、平成14年度より毎年行われているが、その命名はここにある。


故城は1926年に日本人が調査したという。中華人民共和国が創立した後に、山東省文物管理所が何度か調査し、1958年山東省文物幹部訓練班が遺跡を発掘・掘削、1964~1966年山東省文物管理所と北京大学が遺跡を全面的に掘削し、1971~1976年山東省文物管理所が再発掘した経緯がある。1961年に中華人民共和国国務院により全国重点文物保護単位に公布された。現在、全ての城壁は地上に存在せず、城内外とも麦畑が広がる長閑な田畑であるが、ここが当時世界1、2を争う大都会だったとは想像もできない。


淄河と係水は東西の自然の河である。大城内に幅2.3m・深さ3mの幹線下水道があり、4つの排水路となっている。その排水路は城内から淄河と係水に連結させ、城は水に囲まれ実にうまく完備した排水網となっている(写真)。あたかも蘇州城内の3横4直の運河に似ている。


城内に幹線道路が発見され、小城内に3条、大城内は7条があった。小城内の幹線道路をあげると、東門大道は約1,200m×幅8m。西門大道は長さ約650m×幅17m。北門大道は1,430m×幅6~8m。大城内の幹線道路は東西幹線道路、全長3,300m×幅20m。中部の南北幹線道路は全長4,400m×幅20m。北部の幹線道路は東門から西壁まで、長さ約3,600m×幅15mぐらい。北壁の西門大道は南・北部に650mが現存し、幅6メートルあまり。中部幹線道路は長さ2,500m×幅17m程度であった。大城の二つの南北の大通りと東西交差を形成する「井」の字付近は都の中で最もにぎやかな市井であったというが、今歩くとまさに農道でしかなく、ここが大道であったかと想像もつかない。


臨淄は当時中国五大工商業都市の一つであったため、遺跡から東周から秦漢時期の手工業の遺物、東周・秦漢時代の銅銭の鋳型が多く発見され、当時の貨幣鋳造業が発展した証拠を見ることができる。写真は有名な春秋時代「斉」の刀銭(小城で鋳造)であるが、その後、西の秦が強大になるにつれて、秦で使われた環銭と同じ円孔円銭や方孔円銭が使われた(写真)。形状こそ違うが、字体に共通性がある。筆者は蘇州で斉の古銭(円銭)を収集したが、これがこの臨淄で造られ、はるか1,000kmの距離をどうやって来たのかと思うと感激に値する。前漢の後にあった新「王莽」時期に復古ゆかしい布銭銅銭が使われ、その鋳型が発見されている(写真)。この臨淄の街は、五胡十六国時代(西暦304~439)頃に衰えていったという。


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この臨淄に行くには、山東省都済南市から高速鉄道で1時間、駅前右の張店天主堂前の三院バス停があるが、ここから辛店行き20番に乗る。臨淄駅前が辛店(この地域の昔の名)になる。ここから52番バスで臨淄城内へと向かう。高速道路を過ぎてすぐに南門入口(石碑のみ)に着く。斉都鎮を過ぎるとすぐに斉国故城遺跡博物館(現在は閉館し、太公湖の斉国文化博物館に移設)が見えて来る。


参考文献:中国の歴史散歩1(山川出版社)


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