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孔子の故郷「曲阜魯国故城」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.75 (読む時間:約3分) 2017.08.08

魯国故城は周代の国都遺跡、曲阜市の市街に広がり、北京から高速鉄道で3時間半程度である。周の武王が紀元前1045年、殷(商)を滅ぼして周王朝を開いた。その弟で建国の功臣だった周公旦がこの地に分封され、魯公を称した。ただし魯国は息子の伯禽に任せ、周公本人は魯にとどまらず朝廷に居て武王亡き後の不安定な政治を補佐したという。魯は戦国時代(紀元前249年)、楚に滅ぼされるまで34代・873年余り続き、周の諸侯の国都の中でもっとも長く都として存続した。阜とは丘のことであり、曲阜と名付けられたのは隋年間西暦596年のことである。


魯国故城は東西3.5km・南北2.5kmの長方形で周長は11.5km、城壁の外に30m幅の外堀があった。今も東南・東北・西の3つの部分に当時の城壁が残っている。版築という工法によって土を押し固めていく方式で、遠くは鄭州城もそうであったし、秦代の万里の長城もこの方式である。当時の資料では高さは8~10m程と記録されているが、今残るのは5m高程度である。西周初年から着工、中央に宮殿を置き、周囲を壁で囲み、宮殿の前面に朝廷、後方に市街、左に祖廟、右に社禝という周代の儀礼「周礼」に従ってつくられた。城門が東・西・南・北に各3か所の12門(北門から時計回りに、莱門・上東門・東門・石門・鹿門・南門・稜門・吏門・西門・子駒之門)があった。南門は幅15mで外から門を挟むように小高い丘となっていたようだ。大通りが東西に7本、南北に6本(幅は10~15m)あったことが分かっている。周公廟がその中央に位置する。現在の秉礼南路~迎賓大街は都の中心線であり、南門と北門を結ぶ。北門付近から東に約1kmに渡り当時の城壁(版築工法)を確認することができ、北の外堀跡は洙水河となっている。


中央部の北寄り宮殿付近に陶器や骨器の制作工房と鋳鉄工房遺跡があり、住居址は盛果寺から東に点在、西部の墓地(文津橋付近)からは貴重な文物が大量に出土された。春秋時代末期、孔子(紀元前551~紀元前479)が晩年に『詩経』『書経』『春秋』を編み、古典を整理したため、曲阜は儒家学派の発祥地となった。魯はのちに「孔孟の郷、礼儀の邦」といわれた。


魯城は前漢の後期まで使用され、その後西南部に漢城が建てられ小さくなったが、魯城の南壁・西壁の一部はそのまま使われたようだ。地図から見るに、現在の城郭(明代)は前漢時代の宮殿の跡地で、春秋の魯国城の1/4程度である。明代嘉靖元年(西暦1522年)に高さ6.6m(二丈)・厚さ3.3m(一丈)堀の深さと幅3.3m(一丈)、周囲4kmの5城門(北から延恩門・秉礼門・崇信門・仰聖門・宋魯門)が構築された。その中央部に孔廟や孔府があり、あたかも孔子宅が城内の中央にあるかの様に錯覚する。現在の城門城郭はこの明代の城を改修したものだ。


戦前、日本人による魯国故城調査発掘があり、1958年には山東省文物管理処による調査があった。1997年には国の文化財部門が魯国故城の調査を行い、魯城の地下遺跡の状況が明らかになった。魯国故城は、地上に5000m以上の城壁が残り、地下には豊富な文化財があり、先秦時期(秦より前の時代)の遺跡の一つで、1961年には国務院から全国重点文化財保護単位に指定された。


周公廟は「元聖廟」ともいい、曲阜市の秉礼南路×静軒中路交差点から北方1km、魯国故城中央部に位置する。祀られている周公は周の文王の第四子で、武王の同母弟になる。武王が殷朝を滅ぼした時に魯に封じられたが、周公は都に留まって武王を補佐し、長子の伯禽が魯に赴いた。武王の死後も、成王が幼かったので摂政として礼楽を定め、天下が大いに安定した。死後、文と諡され魯に太廟を建て祭られたが、魯が亡びると太廟も廃された。北宋の大中祥符元年(西暦1008年)に文憲王に追封され、周公廟が再興された。殿内の神龕にかつては周公と伯禽の塑像と金人(仏像)があった。また西北の壁に画像石があるが、周公の像があるのは全国でもここだけである。


参考文献:中国の時代散歩1(山川出版社)


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