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徐州日本領事館跡を訪ねる 【青島たより 工藤和直】Vol.76 (読む時間:約3分) 2017.09.07

徐州(江蘇省)は古代、彭城と呼ばれ、五帝の一人「黄帝」が最初に都を置いたといわれる。春秋時代は宋国の一つの都市として繁栄し、悼公の後に商丘から彭城に遷都したこともあった。明の天啓4年(1624年)黄河が大洪水を起し、4年後に水が引いたがそれまでの古代都市は5m地下に埋没した。清の康煕7年(1668年)には大地震が発生し、56年後に復旧した。現在の城郭は清の嘉慶年間に作られ、古代から継承した四つの門(東西南北)があり、東門は河清門、西門は通汴門、南門は迎恩門、北は武寧門と称し、城壁は2丈3尺(7.5m)、幅は1丈1尺(3.6m)、堀は3丈(9.9m)あった。


清の嘉慶5年(1797年)に、周囲は14里半(7.3Km)となり、下記の地図を見ると、徐州城中央は半円形(南部が直線)の形状をしている。その周囲に増設された土城が外城の様につながっている。東門は現在の大同街東端「徐州市人民舞台」の東側にあった。東門の外に黄河があったので「河清門」とも呼ばれた。徐州府外城図から見ると、4門の外に半月状の出城がそれぞれあり、現在の老東門はその出城門のひとつで、出城内に現在の老東門商業施設がある。また、東南角には快哉楼、南西角には燕子楼を造営した。太平天国の乱(1851年)には砲台を各所に設けた。1928年、国民党軍が城壁城門を軍事上の理由で破壊したが、現在東南部「快哉亭公園内」に150mの城壁が残っている。


徐州老東門(淮海東路104号)は、当時の地図で見ると半月状出城の北門にあたる。1939年7月、老東門から入った正面約100mの位置に日本徐州領事館(中野高一領事)が設立された。その左に憲兵隊本部(老東門4号楼)があった。1945年終戦後、国民党軍作戦指揮部となり、解放後は軍管大院軍隊某部隊機関が駐留した。軍事施設のため2011年までは内部に入ることはできなかったが、現在は商業街(門の左がケンタッキー)となり、当時のままの日本式洋風楼、礼拝堂、ヒマラヤ杉や楠木の大木が残っている。また大同街に隣接する辺りに、清代の煉瓦造り城壁跡を確認できる。老東門内には、終戦後の国民党・共産党軍の軍事建屋遺跡などを見ることができる(下記写真)。領事館前に立つ大きなヒマラヤ杉を見上げるだけで、当時の風景を想像しうるに足りる。


大同街は当時、東門から入る繁華街であり、西に向かうと「鐘鼓楼」が立っている。4面5層で高さ18.8mで、1930年創建当時は徐州一の高層建築であった。1938年5月の徐州会戦時に日本軍により破壊され、すぐに再建された。防空警報器が取り付けられ、ここから空襲警報などが緊急発令された。戦前、徐州市管轄内の日本人(朝鮮・韓国人含む)は28,000名、城内だけでも10,000名になろうとしていた。日系企業は、現在の文化路に132社ほどが進出し、横浜正金銀行・華興銀行・三菱洋行などの名前が見られる。大同街に花園飯店がある(老東門近く)。ここは徐州一の老舗旅館であったが、1938年徐州陥落後に日本軍が占拠、1948年12月1日に徐州解放後に毛沢東や朱徳が宿泊している。大同街を更に西へ行くと、中山南路になるが、その右手に中央百貨大楼があるが、この西北部に「東亜新秩序記念碑」があった。


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1940年2月10日、皇紀2600年紀元節に合わせて徐州神社(旧豊財県)が創建された。旧民衆草堂跡地に建立され、現在は第三人民医院の北になり、環城路から閘口東路を北に向かいカーブになった箇所であったが、神社があった痕跡は一切見られない。徐州神社と同時に「忠魂塔」も同時に建立された。ちょうど1938年8月、日本陸軍華北方面軍がこの地を通り入城した。高碑には「興亜建設之先駆」と刻まれていたが、終戦の折に神社共々切除された。


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