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春秋時代、1500年間さまよった杞憂の国「杞国」 【青島たより 工藤和直】Vol.77 (読む時間:約4分) 2017.10.12

膠済鉄道濰坊駅から南へ車で40分、山東省濰坊市坊子区黄旗堡道杞城村に「皇城頂遺跡」という石碑が畑の中にぽつんとある。この一体約20万平米にかつて杞国王城があった。杞国王は中国最古の「夏」王朝(紀元前2070年頃~紀元前1600年頃)につながり、国姓は「姒」であり、五帝のひとり「禹」の末裔と称した。商(殷)王朝(紀元前1600年頃~紀元前1046年頃)末に一度滅びるが、新興の「周」王朝により再興を果たした。「夏」王朝遺民が多く集う、弱小国「杞国」でもあった。


杞国は、現在の河南省杞県(開封市)を起点とし、宋国→淮夷→徐国→曲阜南の滕県付近の邾国(鄒城市南東10kmで一辺2.5kmの城郭都市、紀王城ともいう)へと遷都(実態は夜逃げ同然)を重ね、紀元前751年頃に現在の泰安市に属する新泰市、紀元前646年には濰坊市に属する昌楽県へ、最終的には紀元前544年に安丘市付近濰坊市坊子区黄旗堡道杞城村へと都城を7回移し、距離にして約600km移動したとされる。「杞」国は国力に乏しく、周辺諸国との外交関係のなか、東楼公より20代の王が記録されている。この国は浮き草のように1500年間翻弄され、紀元前445年、楚によって滅ぼされた。漢代に編集された『史記』に「陳杞世家」の記述があるが、杞についての記述は僅か270字であり、「杞小微、其事不足称述(杞は小微にして、其の事称述するに足らず)」と扱われている。


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「杞憂」(きゆう)という故事がある。無用の心配をすること、取り越し苦労をすることの意味に使われる。中国では昔、大地は正方形で、四隅を天柱という柱が支えていると考えられていた。杞国の人は「天が落ち地も崩れたら身の置き所がなくなると心配し、夜も眠れず食べ物も喉を通らない」状況になったことに由来する。くだらない話と言えばそれまであるが「天地が崩れるなどと、余りにも先の事を心配することより心を乱されない無心の境地が大切である」と言ったのが、この寓話に対する老子の後継者「列子」である。杞国は商(殷)王朝、周王朝と続く統治の下で耐え忍びながら存続していくために、民衆のなかに「杞憂」のような極度に思い悩む心配性の高い人物が現れたのであろう。残念ながらその杞国も、南方の強国「楚」に攻撃を受け、紀元前445年に攻め滅ぼされた。中国最古の「夏」王朝を起源とする国の終焉の地が、ここ山東省にあったのだ(下図)。


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小国の杞であるが、夏王室の末裔であり夏礼を保存していることから儒家にとっては大きな意義があった。孔子も夏礼を学ぶために杞を訪問した記録がある。殷墟より発掘された甲骨文字の中に杞の文字を記したものが発見されており、殷代には杞が存在していた証拠とされるが、杞県(開封市)での考古学上の発見は未だなされていない。新泰において清代の道光年間及び光緒年間及び2002年に、周家庄「杞の貴族墓葬群」で杞国の青銅器が発見され、新泰に杞が存在していたことが証明された。


山東省の大半を領した斉国に、後年杞国公子の一人が鮑の地を与えられ、鮑氏と名を変えた。鮑氏は「斉」国内で徐々に重きをなし、その一族のなかから鮑叔(ほうしゅく)という賢臣が現れ、斉国の隆盛を支えることになる。鮑叔は、利害によって変わることのない親密な交際を表す「管鮑の交わり」の故事で有名である。鮑叔が後見人になり王として推す太子を、かつて鮑叔の友人であった管仲は暗殺しようとした。管仲自らが擁立する太子を、王位継承レースで勝ち抜かせるためである。その難を逃れ、鮑叔の活躍により晴れて彼が守り役であった太子が新王「桓公:紀元前685~紀元前643」として即位するや、鮑叔は管仲を許したばかりか、命までをも狙われた新王に対し、助命の嘆願のみならず一国の国政を委ねる宰相へと推薦したのである。管仲(?~紀元前645)はその後、寛大なる名君「桓公」のもと、名宰相としての評価を不動のものにし、「斉国」を東方の強国に押し上げ、「桓公」を数カ国の諸侯を束ねる覇者として君臨させたと「史記」が伝えている。鮑一族は「夏」王朝に連なる名族ながら、臣下となり仕える身に立場は変わっても歴史の波に埋もれることなく、連綿とさらにその名を高めていった。


「衣食足りて礼節を知る」これは管仲の言葉である。斉の経済政策を進めた名宰相である。彼が言ったことをまとめたのが「管子」である。その中に筆者が一番好きな言葉を最後に述べたい(管子形勢篇)。「洞察力や先見力を磨こうとすれば、歴史に学べ」ということである。「疑今者察之古、不知来者視之往。万事之生也、異趣而同帰、古今一也:今を疑う者はこれを古に察し、来を知らざる者はこれを往に視る。万事の生ずるや趣を異にして帰を同じくするは、古今一つなり」。歴史を学ぶ者にとってバイブルのような言葉である。「現状を理解できない時は、昔の事から推測するが良い。未来を予測できない時は過去を振り返ってみるが良い。万物は現われ方が異なっていても、その法則性は古今を通じて変わりがない」。2700年も前に言った言葉であるが、人類が続く限り色あせることはない。



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