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越王「勾践」が遷都した青島「琅琊台」 【青島たより 工藤和直】Vol.78 (読む時間:約4分) 2017.10.30

青島市黄島区から南50km、海沿いにある琅琊台(lang ya tai)は、美しい自然に囲まれ、非常に風光明媚な場所で、「山、海、古、俗、仙、奇、美」が揃った独特の面白さがある。風景区には「琅琊台」、琅琊台の下にある「龍湾」、琅琊台を取り巻く「沿海風景帯」、琅琊台の前には「斎堂島」という見所がある。琅邪台には「望越楼」・「御路階段」・「徐福殿」・「観龍閣」などの歴史遺跡物がある。琅琊台付近は6000余年前から人類が居住し、琅琊文化を創生したという。


春秋時期紀元前7世紀、斉国「桓公」はここに琅琊県を置き、膠南市北西部を通る600kmに渡る斉国長城を建造した。この長城は秦の万里の長城より500年古い。


「琅琊台」は2200年以上の昔、古代人が琅琊山に土を60m押し固めて築いたもので、三面を海に囲まれ、台のような形をしているため、琅琊台と呼ばれた。海抜183mであるが、元々は60m低かったことになる。琅琊台前の古琅琊港は秦皇島・芝罘(煙台)・会稽(紹興)・寧波とあわせ中国五大古港の一つである。古琅琊港は中国古代海港として最初のものであると同時に、軍港としても当時最大規模であった。また秦の方士「徐福」が数千の少年少女を率い、不老長寿の薬を求めて日本に渡ったといわれる起港地でもある。つまり中国海洋文明の出発点とも言えよう。


秦の始皇帝(紀元前259~210年)は中国統一後も琅邪郡を置き重要視した。港の前にある「斎堂島」は、秦の始皇帝が不老不死を祈願して、斎戒を行ったことからこの名が付き、陸地からわずか0.4kmの距離である。島には三つの村落があり、最も豊かなのは「海島村」で、始皇帝の母もまた、この島にあった「娘娘堂」と呼ばれる寺院に住んでいたという。「琅琊台刻石亭」はもともと刻石(石碑)遺跡だったが、内に刻石の複製品が置かれている。琅琊台で最も貴重な文化財は秦朝刻石で、496字が刻まれ秦の始皇帝の天下統一の功績が書かれている。碑文は秦の政治家であった李斯の手によるもので、戦乱を潜り抜けてきた石碑の原物は、現在北京中国歴史博物館に保管されている。


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越王「勾践」(? ~紀元前465年)は、春秋五覇の一人に数えられた春秋後期の人物である。有能な宰相「范蠡」の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉王「夫差」を現在の蘇州市南西部にある霊岩山(姑蘇山)で自害させ、呉を滅ぼした(紀元前473年)。かつて勾践は会稽山で宰相范蠡の進言に従い呉王「夫差」(?~紀元前473年)に和を請い、夫差は伍子胥の猛烈な反対を押し切って和を受け入れた(紀元前494年)。勾践は呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、范蠡の工作で程なくして越に戻った。 勾践はこの時の悔しさを忘れず、部屋に苦い肝を吊るして毎日のようにそれを舐め、呉に対する復讐を誓った。これを「会稽の恥」と言う。呉王「夫差」が父「闔閭」の仇を討ちために、寝る時は薪の上に寝て復讐を忘れなかった事「臥薪」と並べ、「臥薪嘗胆」という故事の元となった。


呉を滅ぼした越王勾践は黄海を望む琅琊台に観台を造り、紀元前472年、諸侯と徐州(山東滕州の南)で会盟を行った。亡んだ呉王夫差が河南省封丘県南西部「黄池」で会盟を行ったのが、ちょうど10年前の紀元前482年であった。勾践は首都を会稽から琅琊台に移した。ここに覇業的基地を造り、その後8世代の君主が224年間も続いた。越王は河南省開封近く杞県にあった中華原点である夏国の末裔といわれている。先祖の故郷に近い位置に遷都したとも考えられる。しかし、勾践は遠く離れた南の故郷(会稽)を忘れられず、海辺に近い高台(望越楼)から南の方角を見ていたという(写真)。望越楼に登って見ると、そこにはブロンズ製の勾践像が南向きに置かれていた。越の国は遠く霞の中にあり、眼下には琅琊港と斎堂島が見えた。そして、勾践はここ琅琊台で亡くなったという。


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秦の始皇帝もここに琅邪郡を置き、紀元前219年の泰山封禅の後、琅邪台を設けて秦朝の頌徳碑を建てた(琅邪台刻石)。秦の始皇帝は六国を討伐平定して中国統一を完成させ、琅琊を36郡の1つとした。その後5回全国巡遊し3回琅琊を訪れ、そのうち1回は3カ月ほど滞在したと「史記」の「秦始皇本紀」に記されている。3回とは、紀元前219年・218年・210年であった。最後の訪問は死の直前紀元前210年であり、5回目の南巡の途中であった。姑蘇「呉」の直後に琅琊を訪れ、山東「芝罘」から「平原」を通過、河北省「平郷県」(現在の邢台市)で死んだという。ついに徐福の不老不死の仙薬は間に合わなかった。


前漢時代は今の諸城県に琅邪郡を置き、後漢は今の臨沂(Lin Yi)県を中心に琅邪国とした。漢武帝もまた3回ここを巡遊している。また漢の宣帝・明帝などの帝王も琅琊台に登った。唐時代は李白や白居易など多くの詩人も訪問している。


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