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青島日本人学校、「台東・四方・滄口」への拡大 【青島たより 工藤和直】Vol.79 (読む時間:約5分) 2017.11.19

大正3年(1914年)以降、青島神社(現在の貯水山児童公園)の麓に多くの日本人が住んだ。その東の台東鎮地区へ工業地帯が拡張するに連れて生徒数が増大、従来からある第一小学・第二小学だけでは収容しきれず、新たな学校の造営が新たな課題となった。青島第三国民学校(通称三小もしくは第三小)は、昭和16年(1941年)に若鶴バラック(ドイツの旧モルトケバラック:簡易兵舎)の位置に新設された在青島日本人児童向けの小学校だった。地図で見ると青島神社の東裏手になる。校舎はその後、青島医学院(現:青島大学医学院)に継承され、現在は当時の講堂だけが残っている。


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登州路にある青島ビール工場に多くの見学者が訪れている。その登州路を西に行くと、右手に多くの商店街とその奥に多くにアパート住宅が見える。当時はここも青島ビール(大日本麦酒)の工場であった。しばらく歩くと道が北に曲がり盲学校があり、その北に青島大学医学院の門がある(登州路38号)。上の写真右は1941年(昭和16年)当時の第三小の全景である。右下が第二公園(現在は体育場)で南北に松山路が走る。当時の門は現在より北側にあったようだ。そこから入ると、左手にテニスコートや校庭が見えた。その校庭の奥に学生食堂と寮があるが、その間に褐色の古い建屋が垣間見える。それが第三国民学校当時の講堂跡である。現在は使用頻度がほとんどなく、講堂以外で使用されている様だ。正面の東西に長い白い校舎は建て替えられ、教学楼として勉学の場となっている(下写真)。


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昭和16年(1941年)3月1日、教育審議会の「国民学校、師範学校及幼椎園ニ関スル件」の答申に基づいて小学校令を改正して「国民学校令」を公布し、次いで3月14日、小学校令施行規則を改正して国民学校令施行規則を公布、いずれも同年4月1日から実施することとなった。ただし、改正の義務就学期間の適用については、国民学校令附則第四十六条の規定により、昭和19年度から実施することとなっていた。すなわち国民学校では、「教育の全般にわたって皇国の道を修錬」させることを目指した。なお、「初等普通教育」とは国民学校の内容を示し、「基礎的錬成」とは、教育の方法を示したものである。第三国民学校はちょうど尋常小学校から国民学校に移る昭和16年に新設された小学校であった。


台東地区の地図を見ると、この場所は若鶴バラック(青島守備軍簡易兵舎)となっている。当時は写真のようなバラック状の兵舎が並び、1914年青島要塞陥落後はドイツ軍兵士捕虜収容所となった。


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四方(Si Fang)地区は青島ビール工場がある台東工業地区が手狭になったため、青島日本守備隊が大正7年(1918年)から本格的に日本企業向けに、台東鎮北に土地の取得・拡張を開始したことから始まる。まずは台東鎮西側の高台から土砂を青島大港北側の埋め立てに利用して、45万坪の造成地を作った。当時の地図を見ると、内外綿株式会社の右上に、苦力収容所と記載がある。第一次世界大戦時に欧州戦線に多くの中国人を荷夫として送った宿営収容所(逃げ出さないようにする)であった。その後、収容所は日清紡績青島工場となった。中央右に鉄道部四方工場があるが、ここは日本守備隊鉄道部の主力工場であった。大正11年(1922年)には日本人261名、中国人1591名が勤務、鉄道車両の製造・修理ほか鉄工所としても使われ、多くの中国人が機関車の組立技術を学んだ工場でもあった。現在でもこの四方工場は、中車四方車両有限公司として中国鉄道にとって重要な地位を占める会社となっている。


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内外綿株式会社(内外綿紗廠)は、大正5年(1916年)に日系紡績会社として初めて青島に進出した会社であり、工場敷地は11万坪になる。昭和7年(1932年)には、日本人78名・中国人4050名の記録がある。地図の右下に大日本紡績株式会社(大康紗廠)がある。大正8年(1919年)に設立、工場敷地は9万坪、日本人97名・中国人4000名が働いていた。


工場敷地の東側が住宅地となり、鉄道部四方工場の横を走る四方大馬路(現在の杭州路)に面して、大正7年(1918年)、四方尋常小学校が青島第一尋常小学校四方分校として設立された。大正12年(1923年)には四方尋常小学校として独立し、1941年には国民学校となった。戦後は、四方工人倶楽部として改装され、現在は写真のように漢庭酒店(閉館)となった(杭州路41号)。ホテルの後ろは駐車場と平安派出所になり、更に後ろは、平安路第二小学校の建屋となっている。当時の校庭は現在の第二小学校校舎にあたる。


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四方地区とほぼ並行して、更に北の滄口(Cang Kou)鎮に日系紡績工場が多く進出した。ひとつが当時日本企業最大の鐘淵紡績(カネボウ)で、国光紡績(昭和18年倉敷紡績と合併)や富士瓦斯紡績(現在の富士紡)などもあった。その規模は鐘紡で25万坪、国光で14万坪、富士坊で13万坪と群を抜く。鐘淵紡績や豊田紡織、その他の日系紡績会社については、その痕跡を調査した結果を別資料(国綿一廠~九廠の歴史)にまとめることにする。


滄口地区だけでも四方と同じ程度の日本人が居たと思われ、当然小学校が不足した。大正11年(1922年)5月に、滄口尋常高等小学校が設立された(李滄区四流中路113号)。写真のような校舎が正門前にあった。現在は、北楼にあたる校舎が現存し、玄関の門柱は昔のままと思われる。生徒数など詳細は不明だが、当時の四方・滄口工業地帯に日本人が1000名ほど勤務していた事から、500~600名近い児童が居たと予想され、二つの小学校にそれぞれ250~300名ほど在校していたのではないか。現在は貨物駅になっている滄口駅の東方600mに青島第三人民病院があるが、1931年設立の美国(アメリカ)基督教会医院の跡地に建てられた大病院である。


参考文献:青島物語(続編その18)


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