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蘇州市高新区28年の歴史 【蘇州たより 工藤和直】vol.7 (読む時間:約4分) 2014.12.16


蘇州に初めて来たのは1987年の冬であった。冬のせいもあるが男女とも紺か黒の人民服で、上海南京西路には異常なくらい自転車があふれていた。上海から蘇州まで車で5時間近くかかった。大運河を越えて蘇州高新区へ渡る獅山橋は当時まだ無く、寒山寺付近から渡し船で渡り、政府のマイクロバスで運河沿いを南下、蘇州高新区開発地域の将来について「見渡す限りの野原が、5年後には大工業団地となる」と拝聴した。半分嘘だろうと思ったが、20年後には大規模な日本企業団地&日本人村になったのは本当に脅威に値する。


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写真は1990年頃のまだ無いカルフール付近から見た新区(獅山橋が完成後)である。高新区管理委員会や金獅大廈ビルが建築中である。体育館やサッカー場はまだない。1994年くらいからか、ぼちぼち高新区商業街(日本人街)に日本料理屋らしきものができた(現在500m両脇に日本料理屋57軒、スナック32軒が密集)。商業街出口には蘇州日本人学校もある。この辺りに8千人の日本人が住み、海外での日本人密集度が世界一とか言われている。


2013年実績を見ると、中国に進出した外資系企業は44万社と言われる。その内日系企業は3.7万社(約8%)である。蘇州市進出の日系企業は2500社で全日系の7%、日系企業に従事する全中国人は1000万人とも言われる中、蘇州は製造業主体であるため100万人(10%)を雇用。長期ビザ取得の日本人は1万人を超え、上海5.6万人に次ぐ。また、日本との輸出入貿易額は200億ドルを越え、同じく約10%規模、蘇州は日中両国の国益を考えると、この四半世紀で非常に重要な都市になったと言える。


筆者が蘇州で新会社を作りいよいよ土地購入などに入った2003年春、SARSが起こった。家族に馬鹿と言われながらも中国へ片道切符で来た(当時、日本に帰国しても1週間は発病可否を見るためホテルに缶詰め)。上海から江蘇省の入口になる花橋インターで数時間検査待ち、6時間後ようやく蘇州市内に到着した。政府との交渉や銀行回りを昼間行い、夕方からは新区商業街にひとり繰り出した。当時の商業街は、今の半分の広さの泥道であった。SARS騒ぎで人影も少なくどの店も客はほとんど居ない、いつも行くのは川淵にある日本料理伊藤園2階にあった「蝶」と言うスナック、夕方6時過ぎに入り、下の日本料理屋からのご飯を小姐数名といっしょに食事、バックミュージック代わりに流れるカラオケに知る歌があれば歌い、無ければ世間話、夜も10時になり帰ろうとすると「次のお客さんが来るまで」と止められ、結局真夜中12時まで誰も来ず、小生一人が今日のお客と言う有様であった。最後に150元を払って6時間に及ぶ滞在が終了、これが毎日の日課であった。その後、2004年2月から正式に蘇州駐在となった。


日本人が多く住む高新区の歴史を調べてみた。高新区建設が始まったのは1986年6月13日である。筆者が中国に初めて来た時の1年前になる。そして1992年11月12日に「蘇州国家高新技術産業開発区」と命名された。面積は223km2である。当然開発するにあたり多くの道路工事が着工、今では当然のようにある道路名もそれぞれ謂れがある。開発区政府が出したコンセプトは「真山真水園中城」である。南北の道は「水」に関係し、東西の道は「山」に関係する名称になっている。


高新区管理委員会があった運河路、京杭大運河の西に南北に走る。原名は北河路・創業路と言い1994年に現在の名前になった。濱河路、馬運路から南に運河路に並行して南北に走る。獅山路、蘇州駐在者が一番歩くメイン通路である。大運河を渡る獅山大橋が出来て、東の三香路と一直線につながり、西の獅子山の麓にある蘇州楽園を結ぶ東西の幹線となった。獅子山は、まさに獅子が臥しているかのように見える。岝山とか岝崿山が原名である。獅子山に行ったら分かるが花崗岩の山である(昔は火山であった)。金山路、旧日本人学校・建築中の日航ホテル前を東西に走る。西で天平山にぶつかるが、昔は金を掘る山と言う事で金山と呼ばれた。宋の時代からは金より花崗岩を切り出す。蘇州城内西に金門があるが、そこから金山が見えたから金門と命名された。鄭尉路、金山路の1本北を東西に走る。鄭尉と言う小山あり、官職が大尉であった鄭禹(明時代)が住む。漢詩に優れ、観梅の季節に近所の山での宴で多くの漢詩を作った。「早春二月、花は雪の如し」と言う事で、「香雪海」と言うレストランが蘇州市内他に多く点在する。華山路、老子の「枕中記」に、華山は呉県の西にあり、近くに天池山ありと記載、馬運路と何山路の中間を東西に走る。玉山路、獅山路の1本南を東西に走る。フリップスの跡地が日本人学校(現在500名規模)となった。昆山市玉山(玉峰山)から命名した。下の写真はいずれも1990年代の高新区、懐かしい風景である。ここから、今の大蘇州高新区が出来上がったのだ。


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