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コラム「蘇州たより」

青島ビールと即墨老酒 【蘇州たより 工藤和直】Vol.57 (読む時間:約3分)

    • 青島には二つの酒がある。一つは皆が思い付く青島(チンタオ)ビールである。もう一つは2300年の歴史を誇る即墨(ジーモー)老酒である。青島ビールは115年の歴史をもつ中国で一番古いビールのひとつである。主力工場は青島駅から北東に約3km行った台東地区にある(青島市登州路)。即墨老酒は、青島ビールからほぼ北に50km、春秋の時代から同じ名前を持つ「即墨」の銘酒である。即墨は青島が出来るまでは山東省東部で最大の都会であった。即墨故城は春秋時代に古硯鎮大朱毛村一帯にあった南北5km、東西2.5kmの外城と内城から成る古代都市である。その歴史は紀元前567年春秋時代になるので、2600年の歴史が漂う。


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      青島麦酒(チンタオビール)は、1903年に山東省青島で製造が始まった、ビールのブランド。中国で最も古いビールのひとつである。青島は1898年よりドイツの租借地となり、租借地経営の一環としての産業振興策としてビール生産の技術移転を行った。1903年ドイツの投資家がこの地でのゲルマンビール青島株式会社を興してビール製造を開始、ドイツのビール醸造技術を採用したのが始まりである。1914年、第一次世界大戦で日本がドイツ権益であった青島の租借権等を引き継ぐことを認められ、その一つであった青島ビールも日本の大日本麦酒が買収し経営を行うこととなった。大日本麦酒は設備を拡大して、この工場で札幌ビールと朝日ビールの製造も行なった。1922年の山東還付条約によって山東半島に関わる日本側の諸権益は中華民国に返還されたが、青島ビールの経営は引き続き大日本麦酒が行った。1945年の日本の敗戦によって青島ビールの経営権は中国側に完全に接収され、中華民国及び中華人民共和国国営企業による経営が行われた。青島ビールはドイツと日本の技術がブレンドされたものといえる。現在世界5位のシェアーであり、燕京ビールとともに中国トップシェアー銘柄であるのも不思議でない。青島では、飲食店でビールを注文する時、銘柄でいうのでなく工場のナンバーで注文を出す。第一工廠(一厂)、第二工廠(二厂)、第五工廠(五厂)と言った類だ。工場の違いが味の違い、個人の好み(辛口・甘口・にがみ・きれ・アルコール度)の違いになる。写真は第一工廠製造のビールである。そして読者の方に言いたい、「青島ビールは、青島市製造品を青島で飲むのが一番うまい」。


      老酒とは黄酒(紹興酒もその一つ)を長く寝かせた醸造酒で、長江の南の紹興酒は糯(もち)米に小麦麹を使うのに対し、北の即墨老酒は黍(きび)に米・麦麹を使う。黄酒がアルコール度15~18度に対し、即墨老酒は11度足らずと実に飲みやすい。色は薄い琥珀色から紹興酒のように醤油色があるが、濃い色にも関わらず非常にまろやかである。黍を焙煎して作るのでやや焦げ臭いのが特徴である。この即墨老酒には2300年前の経緯があるのに驚いた。


      紀元前284年戦国時代、燕の将軍「楽毅」が、5か国連合軍を率いて斉を攻めた。斉の首都「臨淄」をはじめ小城70余城がことごとく陥落する中、莒と即墨の2城のみがとともに斉側に残った拠点となった。その後数年に渡る篭城攻防の末、即墨は、将軍「田単」の登場によって落城することなく、また彼の活躍によって斉は国土を再び回復することができた。即墨老酒は将軍「田単」が燕との戦いの前に兵士と飲み、ついには燕軍を破る大勝利となったという縁起物の黄酒である。勝負事がある時或いはお祝いの時に飲む酒となった。


      さあ、今宵の中秋の名月、ドイツと日本の技術による青島ビールでまず乾杯し、戦国時代に起こった2300年前の故事を思い出しながら、家族や友と一献どうであろう。「みなさんと乾杯!」


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    2016.09.22

    京城風情「今昔物語」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.56 (読む時間:約3分)

    • 京城府(けいじょうふ)は、朝鮮王朝の漢城府に引き継いで置かれた日本統治時代の行政区域、現在のソウル特別市にあたる。1394年11月26日、李氏朝鮮の太祖・李成桂は開城から漢陽へ遷都、1395年(太祖4年)6月6日に漢陽府を改め漢城府とし、以来およそ500年にわたって首都となった。1910年(明治43年)の韓国併合後、朝鮮総督府地方官官制に基づき「京城府」に改称された。朝鮮半島においての「府」は日本の「市」に相当する。よってしばしば誤って呼ばれるが、京城市という市は歴史上存在しない。また、「京城」は王城・皇城と同じ意味の漢語であって、朝鮮においては古くから漢城を指して使われた一般名詞の一つである。


      1945年(昭和20年)8月15日の日本敗戦(光復)後もしばらくは「京城」の名称が使われた。連合軍軍政期の1946年(昭和21年)10月18日、京畿道の管轄から離れて「ソウル自由市」が設定され、大韓民国が独立した1948年(昭和23年)には首都「ソウル特別市」が誕生、現在に至っている。「ソウル」は朝鮮固有語では「みやこ」を意味する。漢字表記(漢城・漢陽・京城・京都など)の変遷に関わらず、朝鮮民族はこの地を「ソウル」と呼んできた。李朝時代までは朝鮮語で京都などと書いてソウルと読んでいたが、現代の韓国・朝鮮語では漢字の訓読が廃止されているためハングルのみで表記する。


      1396年(太祖5年)、朝鮮王朝の都である漢城と外部との境界を示し、外部からの侵入を防ぐために城壁が築造された。全長18.627kmにも及ぶ。漢陽都城(ハニャントソン)と呼ばれ、都を囲む石造城郭(門を含む)である。李氏朝鮮時代から発展を遂げたソウルであるが、1910年(明治43年)以降の日本との併合後36年間の間、ソウル市内に多くの日本企業・政府が近代建築を作り上げ、その多くが未だに現存して昔と同じく使われている。京城風情「今昔」と言う事で表1~4で今と昔を写真比較してみた(文末参照)。


      京城の玄関は京城駅であるが、明治の煉瓦つくり駅舎は今も使われている。駅前には路面電車が走っていた。南大門から北の総督府に向かう太平通り、三越百貨店から鐘路にかけての南大門通り、三越と郵便局の間の繁華街である本町通り(現忠武路)、今のロッテ百貨店から右折すると黄金通り(現乙支路)、もう一本北の鐘路通りをそのまま東に行けば東大門に到る。地下鉄4号線になる退渓路は三越以東が昭和通りであったが、戦後になってソウル駅まで延長された。日本人観光客が宿泊・ショッピングしているロッテ百貨店やロッテホテルは、戦前は朝鮮殖産銀行と半島ホテルであった。そのロッテの対面には、京城電気(韓国電力公社)や三井物産京城支店等が今も残っている。ソウルの銀座とも言える明洞はかつて本町通りと言う一番の繁華街であったが、その地位は今も同じである。10年前は日本人観光客が多く見られたが、現在は中国人観光客の方が多いのに驚かされる。昔はよく日本語で呼び込まれたものだが、今は中国語での呼び込みと変わり、中国駐在者としてついつい誘われて中に入ってしまう。


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      現在も使われている建物としては、三越百貨店(現新世界百貨店)、隣の朝鮮貯蓄銀行(現スタンダードチャタード銀行)、その対面の朝鮮銀行(現韓国銀行)、京城府庁(現ソウル市庁)、京城電気(株)(現韓国電力公社)や明洞にある明治座(現明洞芸術劇場)などがある。10年前にあったスカラ座(旧若草座)はStay-Bホテルとなっている。朝鮮殖産銀行跡はロッテデパートになり、半島ホテル跡はロッテホテルになっている。東大門近くにあった鉄筋コンクリート水洗トイレ施設であった東大門尋常小学校は、15年ほど前までは徳寿中学校としてあったが、商業街に発展に伴い無くなった。


      同じく、名門京城中学は元々の慶煕宮に戻り、京城第一高女は整地されたが、写真中央にある大きな木は昔からあったであろうと想像できる。この貞洞には多くの外国大使館があり、ロシア領事館跡もその一つである。当時から立派な煉瓦つくりの京城郵便局は今、ツインビルのソウル中央郵便局となっている。ソウルプリンスホテルから南山小学校南山手にあった東本願寺は、現在ソウルボランティアセンターとなっているが、周囲に残る石柱に昔の寺院跡を感じる。芸術洞にソウルユースホステルがあるが、この北に日本公使舘(韓国総監官邸)があった。その玄関付近に韓国併合の裏工作を担当した会津藩出身「林権助」(男爵)の銅像があったが、今では逆さに埋め込まれ、日韓の負の歴史を様々と感じる。同じく、憲兵隊本部は南山コル公園となり、その中にソウル南山国楽堂がある。韓国併合前1896年、南大門路の三越百貨店の場所に在京城日本領事館があったが、1930年に三越百貨店が建設された。


      参考文献:京城三越百貨店を訪ねて【蘇州たより vol.32】


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    2016.09.12

    ソウル南山にあった「朝鮮神宮と京城神社」跡を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】Vol.55 (読む時間:約3分)

    • 朝鮮神宮は、京畿道京城府南山(現・大韓民国ソウル特別市)にあった神社である。社格は官幣大社で、朝鮮全土(60ヶ所)の総鎮守とされた。1919年(大正8年)7月18日、天照大神と明治天皇を祭神とする「朝鮮神社」を創立、官幣大社に列する旨が仰出された。1920年(大正9年)、南山の頂に御用地20万坪、境内7000坪、総工費150万円で殿舎造営に着手、6ヶ年で竣成した。1925年(大正14年)6月27日、「朝鮮神社」を「朝鮮神宮」と改称し、9月14日には鎮座祭の期日(同年10月15日)と例祭日(毎年10月17日)が定められた。また本社の宮司は勅任待遇であった。


      日中戦争がはじまった1937年(昭和12年)以降になると、韓国人民にも神社参拝を強要した。これに反対した約2000人の牧師・教徒が検挙、投獄された(神社参拝拒否運動)。この神社参拝拒否運動で200余りの教会が閉鎖され、50名あまりが獄死するという結末をたどった。このように朝鮮神宮は日韓の歴史の中に大きな負の遺産を持つ。日本の第二次世界大戦敗戦(光復節)に伴い、1945年(昭和20年)11月17日に廃止され、跡地には南山公園が作られた。公園の中には安重根義士記念館、Nソウルタワーなどがあり、ここに神社があったとは想像もつかない。安重根義士記念館周辺にまさに「朝鮮神宮」の社務所や本殿があった。


      ソウル南大門から南山公園に向かう素月路(ソウォルロ)は旧朝鮮神宮表参道(西参道)であった。朝鮮神宮の石段が素月路から大鳥居を通ってまっすぐに南山頂上に達した。石段は南山の西側にあった。当時、市内電車が南山西側の南大門近くを走る時、乗客は必ず車内から朝鮮神宮を拝礼するしきたりだった。


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      最近、参道があったことを示す石の手すりがあると聞き行ってみた。韓国では解放後、神社は徹底的に破壊されたので遺構はほとんど残っていない。ただ、南山周辺は多くの日本人が住み、朝鮮神宮や京城神社などを建て、その遺構が何ヶ所か残っている。素月路の一部に石の手すり(参道両側にある石柱に直角に乗せた石壁に類する)が残っている。朝鮮神宮は1925年に完工、同時期に整備されたものとしたら、90年くらい経っている手すりである。南山洞(南山町)周辺に、古い日本家屋や石灯篭のような物が庭にある家屋を見る事ができる。


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      京城神社(国幣小社:京城府倭城台、祭神:天照大神・国魂大神・大己貴命・少彦名命)は朝鮮神宮のあるソウル南山の北側の麓にある(現在はリラ初等学校と崇義女子大内)。京城神社には、摂社として「南山天満宮・南山稲荷」があり、その旧社殿跡に「宇佐八幡」があり、近くに「乃木神社」があった。つまり、京城神社境内に、天満宮、稲荷、八幡宮と乃木神社の4柱の祭神があったわけだ。一般には乃木神社と呼ばれた。また、崇義女子大正門から上がる石段は、当時の京城神社入口の登り階段と場所が一致する。乃木神社は現在黄色い建屋のリラ初等学校(私立)敷地内にある。周囲には崇義女子大などがあり、木々に覆われた静粛な場所でもある。このリラ初等学校の正門を右に行くと駐車場があり、その奥に南山院という福祉施設がある。まさにこの場所が乃木神社であった。南山院のところどころに、乃木神社の手水鉢や灯篭などの遺物が残っている。手洗石槽には寄贈者の氏名(高木徳弥)と昭和9年9月の刻印があった。本殿跡の方向に写真を撮ったが、その場所がかつての乃木神社前の橋の部分であった。灯篭台と思われる石はイスとして使われている。まさに「逆さ石灯篭」である。仁川神社跡にも不思議と石灯籠が残っていたが、なぜ現在まで破壊されずに現存するのか、実に不思議である。筆者が訪問した時、南山院から若い職員の方が出て来られ、丁寧な説明を聞きながら神社内の遺跡を案内して頂いた(但し韓国語)。


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    2016.09.01

    長春市で営業している「横浜正金銀行」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.54 (読む時間:約2分半)

    • 横浜正金銀行(Yokohama Specie Bank, Ltd.)は、かつて存在した日本の特殊銀行。明治時代、外国為替システムが未確立だった頃、日本の不利益軽減のため現金(正金)で貿易決済を行なうことを主な業務とし、横浜市中区に本店を置き、東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身である。貿易金融・外国為替に特化した銀行であり、やがて列強の仲間に加わっていく日本を国際金融面で支え、香港上海銀行、チャータード・マーカンタイル銀行と並ぶ外国為替銀行へと発展して行った。第二次世界大戦においては日本の軍需に必要な外国通貨収集の為の機関とみなされ、敗戦後の1946年(昭和21年)にGHQの指令により解体・清算された。


      ここに一枚の写真がある。長春市駅前から斜め左の勝利大街(旧日本橋通り)17号に横浜正金銀行のネームプレートを堂々と出して営業している長春(新京)支店である。1922年竣工(地上2階・地下1階、465坪)、最近まで雑技場として使われ、今は改装中である。1946年に解体された銀行が、どうして表札を隠さず70年間使われて来たか、実に不思議であるが、実に面白い。


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      横浜正金銀行は1894年代(明治27年代)から1900年代にかけての日本の資本主義の確立期に、輸出の増大による正貨の吸収・清国賠償金の回収・外債発行や軍用切符の取扱い業務を担当、明治政府の財政・金融政策に対応した重要な役割を担った。正金銀行は設立当初から大蔵省の監督指導のもと、日本銀行との協力関係強化が図られた。1897年(明治30年)には日本銀行は正金銀行頭取に相馬永胤、副頭取に高橋是清(前日本銀行支店長)を推薦。1898年(明治31年)には、高橋は欧米での金融事情調査のためロンドンに出張したりしている。1899年(明治32年)3月、高橋是清は日本銀行副総裁に就任、日露戦争開戦の1904年(明治37年)2月24日に外債発行の大役を担い、秘書の深井英五をともなってロンドンに赴任、ロスチャイルド家・カッセル家・ベーリング兄弟商会・アメリカのクーンロエブ商会(代表:ヤコブシフ)などの大口引き受け者と軍事外債募集に成功した経緯がある。


      中国では、日本政府は正金銀行に一覧払手形(鈔票)の発行と軍用切符の整理、満州各支店監督の任に当たらせ、元上海総領事の小田切万寿之助を顧問として採用している。中国で発行された「横浜正金銀行券」は中国大陸9店舗で発行され、中国でのみ使用可能な銀行券であった。正金銀行は中国内に21ヵ所あったとされるが、確認されるのは以下13ヶ所である。大連支店(1909年)・北京支店(1910年)・ハルビン支店(1912年)・青島支店(1919年)・漢口支店(1921年)・上海支店(1924年)・奉天支店(1925年)・天津支店(1926年)・新京(長春)支店(1922年)・牛荘(営口)支店・開原支店・広州支店・済南支店である(他に香港支店や旧満州支店がある)。天津支店は旧イギリス租界地であった解放北路80号にある。現在は中国銀行となっているが、上部の英語表示の下に、”YOKOHAMA SPECIE BANK” が、ぼんやり浮び上がって見える。まさにここが正金銀行であったことが分かる一例であろう。


      参考文献:吉田茂が駐在した天津日本人租界地を訪ねて【蘇州たよりvol.30】
           新京(長春市)の街並み変遷【蘇州たよりvol.42】


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    2016.08.16

    「范冰冰」と歩く煙台山 【蘇州たより 工藤和直】Vol.53 (読む時間:約3分半)

    • 煙台市(Yan tai)は山東省に位置し、山東半島東部にある港湾都市である。北は渤海湾に面し、東は威海に、南と西は青島に接する。山東省最大の漁港であり、最初期に対外経済開放された沿岸都市の一つで、環境の良さ、景観の良さ、投資環境の良さから、海外からも全中国からも多くの人が集まる。煙台市の西寄りにある「芝罘」(ツーフー、Zhi fu)という陸繋島に由来が始まる。今日の「煙台」という名は明の洪武帝の治世だった1398年(洪武31年)頃、煙台山に倭寇襲撃時に警報の狼煙を上げる烽火台が建設された。これが「煙台」と呼ばれる所以とも言われる。


      春秋戦国時代には斉の領土であった。秦代には斉郡に、前漢の時代には東莱郡に属した。始皇帝は3回、武帝は1回芝罘島を訪れたと言われている。隋の時代に莱州、唐・宋・元の時代に登州や莱州が置かれた。明・清の時代には莱州府、後に登州府が置かれている。1858年7月、清は天津条約を結び、登州は「煙台」と改名され西洋諸国に開港されることとなったのは、1856年第2次アヘン戦争の際にイギリス・フランス連合艦隊が煙台を占領したことによる。1860年6月にフランスが煙台山を占領し、ここに軍司令部を置いた。煙台は1861年5月に外国商人たちに対して開港し、煙台山周辺に17カ国が領事館を設置した。この一角は「領事館街」の様子を帯びることになった。1866年フランスが撤退するに及び、外国人と中国人による万国委員会が行政を担うようになった。1876年に芝罘条約が結ばれ、漁港だった煙台はイギリスの条約港となり急速に共同租界地化した。20世紀初頭に山東半島全域でドイツ帝国の力が増すと、煙台もドイツに支配されることとなった。また、清も北洋艦隊の拠点とし、1903年に設置された煙台海軍学校は1928年まで中国の海軍士官を育成した。1905年には、日露戦争後の講和会議の開催候補地のひとつにもなった。


      第一次世界大戦でのドイツの敗戦により、煙台はアメリカ海軍アジア艦隊の夏の駐留港となった。日本も交易のために煙台に拠点を置き、両国の影響が市内の政治や建物様式に及ぶことになった。煙台山の南にも多くの領事館や郵便局などがあり、フィンランド領事館などは今では雑貨店となっている。煙台は不思議なくらい西洋の香りがする町である。逆にイギリスの租借地であった威海市街には英国の匂いが少ない。


      煙台山は観光地化されて、入口で入場料60元を払って徒歩による観光である。入口すぐ北がアメリカ領事館、右手にイギリス領事館、その奥にデンマーク領事館と、非常にこぢんまりとした建物が続く、日本領事館はデンマーク領事館から見ると、西の端にあたる。他の領事館と異なりまったく標示がない。車2台が離合できる程度の細い路が煙台山を巡っている。ここは車より歩くのが一番似合っている。木陰に休むと煙台市街の海岸線が遠くに見ることができる。道ですれ違う女性はここ煙台出身の女優「范冰冰」でないかと思うと、一人笑ってしまう。広州空港にある巨大な范冰冰の写真を思い浮かべつつ、日傘を持って小道を歩く小姐の姿を旧日本領事館門前で見失ってしまった。


      日本を除く各国領事館は、内部が開放され展示物を確認できるが、日本領事館のみは放置され破れた窓ガラスから内部の荒れ放題を見るだけである。領事館の隣に旧職員社宅もあるが、同じく荒れ放題の態であった。


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      一番高い場所が、あの倭寇が来襲してきた時に烽火を上げたという煙台、その横には白い灯台がある。その南に、日本の「芝罘(ジーシー)神社」があった。神社は煙台山山頂に1942年 (昭和17年)10月に創建された。現在、「抗日英雄記念碑」が1964年建立された。周囲の石碑などに記載はないが、神社の台座が記念碑台座としてそのまま活用されているのを確認できる。台座に上がる石段は、周囲の記念碑の新しさにまったく似合わない古い花崗岩で、年代を感じる。抗日英雄記念碑の基壇は五角形になっており、神社基壇を改築して使ったと思われる。記念碑のうしろにつながる東屋の基壇は、1940 年(昭和15年)頃に日本が建てた戦勝記念碑基壇をそのまま使っているようであった。日本の神社跡を再利用して抗日記念碑が建立されており、歴史の矛盾を感じた。


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    2016.08.04

    韓国仁川にあった日本領事館と仁川神社 【蘇州たより 工藤和直】vol.52 (読む時間:約2分半)

    • 韓国百済の始祖伝説によれば、仁川は紀元前18年頃、沸流(ピリュ)が建国した彌鄒忽(ミチュホル)の都だった。仁川はもともと百済に属したが、5世紀以降は高句麗や統一新羅の領土となり、買召忽(メソホル)と呼ばれていた。高麗時代に仁州慶源府となった。朝鮮太祖元年(西暦1392年)に仁州と復名し、太宗13年(西暦1413年)に仁川郡になった。1876年(明治9年)、日朝修好条規(江華条約)によって1883年開港、当時の人口はわずか4700人余りの漁村であったが、その利便性の高さから大きく発展した。


      当時は済物浦(チェームルポ)と呼ばれ、1882年1月、条規に基づいて日本領事館が建設された(現在中区庁舎)。日本統治時代に仁川府(当時の読み方、じんせんふ)が設置され、1949年に仁川府は仁川市と改称した。1950年9月、国際連合軍は仁川上陸作戦を敢行し、朝鮮戦争の戦局が一変した。現在は、首都ソウルから40キロ圏に位置する港湾都市であり、内陸にあるソウルの外港として発展している。


      日朝友好条規(江華条約)を契機に、1883年に日本人が居住するために設けられた租界が発展、日本からの移住者で人口が増え、近代的な街が築かれた。租界制度は日本植民地時代(1910年)に廃止されたが、太平洋戦争時には約1万人の日本人が仁川に住んでいた。1945年、日本の敗戦によって韓国に戻されたが、伝統的な建物は、老朽化などで解体されたものを除いて残った。この日本租界地の西に1884年から清国租界地(現在のチャイナタウン)が広がり、その後東部と東北部に共同租界地が発展して行った。仁川は日本人が最初に作った町であった。その日清租界地堺にある階段が歴史の生き証人である。東側に日本の灯篭、西側には中国の石塔と、ここが境目の階段であることが分かる。現在の中区庁舎が1882年に作られた日本領事館跡である。戦後は仁川府庁舎になり、現在の区役所になった。玄関から入ると二階に上がる石の階段があるが、玄関付近の石造りとあわせ日本建築であることが分かる。


      区庁舎の一本南手前にある路が、当時の日本人街である。第一銀行(現みずほ銀行)・第十ハ銀行・第五十八銀行などがあった。その日本人街をほぼまっすぐ東南に向かうと仁川公園と仁川神社があった。現在は仁川女子商業高等学校の敷地内にあたる。そこに、写真の様な二本の鳥居石柱の痕跡と石灯篭が現存することに驚いた。しかも灯篭には昭和19年2月の刻印があり、周辺には石壁跡の石柱が無造作に置かれていた。まさにここが、日本の仁川神社であった。地図を見ると仁川神社の北には東本願寺もある。海外にある日本人租界地に共通している「神社とお寺」のツーセットは冠婚葬祭を重んじる日本人の特質であろう。写真は1930年代の日本人街の絵画である。当時の夕方の風景が偲ばれる。


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      (クリックすると大きな画像が出ます)


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      【李朝朝鮮から大韓帝国時代にあった租界地】 日本統治下になる前に、朝鮮国には八ヶ所の租界地があった。その場所を下記の地図に記載する。


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    2016.07.25

    山東「斉長城跡」から蘇州「斉門」を眺める 【蘇州たより 工藤和直】Vol.51 (読む時間:約4分半)

    • 紀元前1050年頃、周王朝「武王」は、兄弟を魯・燕・曹・衛・管・蔡などの国々に配置、実子を洛陽に近い晋に置いた。山東省「斉」には妻の実家である太公望「呂尚」、本姓姜氏を配置した。呂尚は武王の父「文王」を補佐し、武王の師として父親代わりの「師尚父」と呼ばれた。姜氏斉の始まりである。この斉国が春秋時代の最初の覇王となるのは、太公望呂尚の16代目の君主「恒公」とその宰相「管仲」の力による。紀元前656年、恒公は諸侯の連合軍と楚を巨従させ、紀元前651年には、魯・宋・曹・衛・鄭と葵丘で会盟し、覇王となった。


      斉は春秋時代に長城を築いていた。北と東は海に面し、北西は黄河と済水とが天然の障壁となっていたのでその必要はなかったが、西は春秋時代には魯・晋・衞の脅威にさらされ、戦国時代は南の楚国の圧迫があった。そこで斉は、西は黄河のほとり長清県孝里鎮から泰山の北を通り、曲阜北部莱蕪、諸城、膠南、青島市西部「黄島」に至る620km余に及ぶ長城(まさに千里の長城)を築いた。斉の長城は秦始皇帝の築いた万里の長城より五百年も古い中国最古の長城で、春秋時代「恒公:紀元前685年即位」が着工、戦国時代「威王」「宣王:紀元前301年没」の頃に約四百年をかけて完成した。紀元前555年には斉国と魯国は長城を境に、まさに城壁・天険・関所・城兵営・狼煙台などを上手に利用した軍事防御システムを構築した。長城建設の目的は、周辺諸国や諸民族からの防衛というよりは、桓公の時代に急速に力をつけていた楚への警戒が大きい目的であった。斉国長城(写真1・2・3)は山を利用して建設され、大小の石塊を積み重ねたもので、秦の長城のような版築と言う製法ではなかった。また山によっているため、高山の所は自然の険峻をそのまま障壁として城壁は作ってない。当時の城壁の高さは不明だが、厚さは約7mであった。青島珠山国家森林公園内ほかに長城跡を多く見る事ができる。


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      呉王「夫差」は闔閭の次男として紀元前520年頃?生まれた。長男は「波」で斉の公女を妻とした。三男に子山が居た。紀元前515年、斉の700km南の呉(姑蘇)で呉王「闔閭」が王位についた。紀元前506年には楚の亡命者「伍子胥」を登用し、楚の都を占領するが、紀元前496年の越との戦いで負傷し帰路死亡。長男波が夭折していたので、次男夫差が呉王となった。


      呉は常に楚と戦っていた。楚は中原の晋と戦い、晋は東方にある斉と戦っていた。晋が斉を攻めれば楚が救援する。呉は晋と手を結び強国になったが、斉と楚は仲の良い関係を構築していた。そこで闔閭と宰相伍子胥・軍師孫武とが考えた策は、斉の姫君を太子波に嫁がせる事であった。楚と斉の関係に楔を打ち込むわけだ。時の斉「景公」は姫を呉に入輿させた。この姫君は非常に美貌であったという。春秋時代、斉都「臨淄:Lin Zi」は周都「洛陽」を凌ぐ大都市であった。しかし、呉都「姑蘇」の地は田舎臭く文化レベルも低く、姫は日夜悲泣し、ついに病気になった。闔閭は、姫のために北門(斉門)に九層の高楼を建て、「国が恋しくなれば、高楼から故郷を望見すれば良い」と慰めた。それで北門の事を「望斉門」というようになった。それにも関わらす、姫は亡くなった。太子波はこの姫をたいそう愛していたため、その死を悼むこと一方ではなかった。やがて太子波も病気になり、一年後に後を追うが如く夭折した。そのため、太子は次男「夫差」となった。


      斉の姫が人質に近い状態で波の妻として700kmも真南の国に嫁いだ。斉都「臨淄(現在の淄博市)」から斉の長城を越えて来たわけだ。いったん長城を越えることは二度と斉には戻ることはない。非常につらい数ヶ月の道中であったろうと想像される。姫が最後に見たであろう長城はどこであったのか、臨淄の南「青石関」と推測される。


      呉王「夫差」紀元前494年に越を攻め、越王「勾践」を従属させる。紀元前488年には魯国を攻め、その東にある斉国を紀元前484年に、艾陵にて破る。紀元前482年、黄池にて諸侯と会し、盟主となった。斉国も夫差の代には軍門に下った。


      筆者が「愛と悲しみの蘇州古橋」の中で記載したのが、斉門の昔話である。その後、呉王「夫差」が霊岩山の姑蘇台で紀元前473年に自害したあと、中国四大美人の西施は越王「勾践」の宰相「范蠡」とともに、斉国に逃げたとも伝えられる城門でもある。実際は勾践が天下を取ると、「月は満れば欠け、上りつめた者は必ず落ちる」ものだと賢明な范蠡は舟で越を去ったのだ。写真5はかつての水城門であり、写真6は陸門である。平面図を見ると、円形の城壁があり、出口から3方向に道があるのが特徴である。范蠡は山東半島をまわって渤海湾から斉国に逃げ、名を「鴟夷子皮」と替えて数十万金の財をなしたという。その後、呉を破り天下を取った越王「勾践」は紀元前472年、越「会稽」から山東「琅琊」に首都を移す。そして紀元前465年、越王「勾践」は没した。


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      斉の姫が登った斉門は現在なく、城内から蘇州駅に向かう大道と大橋があるだけである。ただ、山東には山並みをつなぐ石を置いた長城跡が残っている。青島(黄島経済技術開発区)にある斉長城烽火台跡は東端の終点である。斉長城路の端に写真4のような烽火台が再建されていた。ここから西の方角を見ると、夕日に映える山岳がはるか遠く美しく続いている。斉の公女が長旅に疲れ、蘇州に辿り着いてはや2500年以上になった。斉門から見える風景は、今では蘇州駅前のためか高層ビルやアパートが乱立しているが、50年前までは、広い平原が見えるだけであった。そのはるか遠くに斉国があったのだ。今では蘇州から高速鉄道を使い5時間半ほどで斉都「臨淄」に着く。


      参考:愛と悲しみの蘇州古橋【蘇州たよりvol.28】


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    2016.07.06

    西暦1860年、その時日本と中国の近代史が変わった 【蘇州たより 工藤和直】Vol.50 (読む時間:約6分半)

    • 日本の近代史は1868年9月8日の明治維新から始まった。同じく中国の近代史は1911年10月10日の辛亥革命から始まる。西洋列強による侵略の前哨戦は中国ではアヘン戦争(1840年)、日本ではペリー浦賀来航(1853年)で、わずか13年の違いだが、近代化のスタートは中国が43年遅れる事態となったのは、日中とも同じ西暦1860年が歴史のターニングポイントになっているのに驚きを覚える。その西暦1860年とは、日本は桜田門外の変が起こった3月3日、中国では太平天国軍が第一次上海攻撃を開始した8月18日である。


      安政7年3月3日(西暦1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件である。江戸幕府の最高の権威者が市中で惨殺される大事件は、当時では考えられない事であった。その立役者の一人、薩摩藩士・有村次左衛門(ありむらじざえもん)の顛末について述べたい。


      薩摩藩士・有村次左衛門が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴み駕籠から引きずり出した。直弼は既に血まみれで息も絶え絶えであったが、無意識に地面を這おうとした。有村が発した薩摩自顕流の猿叫(キャアーッという気合い)とともに振り下ろした薩摩刀によって、直弼は斬首された。襲撃開始から直弼殺戮まで、僅か十数分の出来事だった。有村次左衛門は刀の切先に直弼の首級を突き立てて引き揚げた。有村の勝鬨の声を聞いて、浪士らは本懐を遂げた事を知った。彦根藩士小河原秀之丞は、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがり、有村の後頭部に斬りつけた。この一撃で有村は重傷を負って歩行困難となり、直弼の首を引きずり、しばらく逃走の後、若年寄・遠藤胤統 (近江三上藩)邸の門前で自決した。これにより、直弼の首は遠藤家に収容されることになった。


      この暗殺事件を起した浪士は罪人となり、この桜田門外の変で長年持続した江戸幕府の権威が大きく失墜、尊王攘夷運動が激化する端緒となった。ここからわずか7年と7ヶ月後の慶応3年(1867年)10月14日、第15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が成され、同年の江戸開城により急転直下で明治維新(1868年9月8日)と成る要因に、桜田門外の変が直接的な起点となった。この3月3日が、日本近代化へのターニングポイントとなったと言っても過言ではない。


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      太平天国の乱は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な社会主義革命。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織「太平天国」によって起きた。洪秀全はキリスト教の教えの中でも特に上帝が唯一神であることを強く意識し、偶像破壊を熱心に行った。中国では儒教・道教・仏教にまつわる廟が多かったが、それらを破壊し、ただ上帝だけを崇めることを求めた。1847年、太平天国の前身組織「拝上帝会」を広西省桂平県金田村に創設、拝上帝会の参加者は、炭焼き・貧農・鉱山労働者・客家などの低階層が中心であった。1850年、拝上帝会は金田村に集結して団営という軍事組織を結成した。金田村に集結する過程で、清朝の軍隊や自警団との小競り合いが発生した。金田村に集結した人々は1万から2万といわれるが、このうち成年男子は3千人ほどだったという。しかしそれでも数倍もある清軍を打ち破り、革命の火蓋を切った(金田蜂起)。1852年12月下旬には漢陽・漢口を落城させ、ついに1853年(咸豊三年)1月には武昌を落とした。武昌は太平天国軍が最初に陥落させた省都(湖北省)であって、その占領は多大な金銀財宝をもたらした。3月19日に太平天国軍は江寧(南京)を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を立てた。


      4月27日、英国公使George Bonhamは「英国は、太平天国にも清国にも中立であること」を告げた。太平天国はキリスト教を信仰の中心としたので、欧米列強からは歓迎され、中国史上最初の社会主義革命が成就する方向にあったが、その後の内部での派閥争いなどで、革命は失敗に終わる。キリスト教的理想を掲げ、地上の天国を作り出そうとした洪秀全であったが、現実において社会を組織・運営する上で伝統的・土着的な考え方・価値観から逃れられるはずもなく、その理想と現実は極めて乖離したものとならざるを得なかったのだ。


      1860年2月~5月、第二次江南大営攻略では、干王「洪仁玕」・忠王「李秀成」・輔王「楊輔清」・侍王「李世賢」・英王「陳玉成」らが好く呼応して清軍を撃破。1860年6月、李秀成は蘇州を占領し「蘇福省」の省都とした。現在の蘇州博物館東で拙政園西に「太平天国忠王府」(写真)を建てた。洪仁玕の加入に洪秀全は大いに安堵を覚えたのであろうが、李秀成らは不満を抱かざるを得なかった。初期からの信者とはいえ、洪仁玕の改革が現実離れしていることや、さして戦功をたてていないのに、彼が王に封じられるのは洪秀全の身内びいきとしか思えなかったからである。このため、李秀成らを新たに王としたものの、洪仁玕との溝は深まるばかりで、再び太平天国は内紛の様相を帯びてきた。特に李秀成・李世賢は洪一族に対し李氏閥を形成し、独断専行が徐々に増えていくことになる。


      1860年8月18日における第一次上海攻略はその好例であろう。江南地方の制圧を進めていたのは李秀成軍であったが、上海だけは西洋列強の租界(キリスト教)があるため攻撃が控えられていた。この時洪仁玕は西欧と交渉し、少なくとも清朝に荷担しないよう画策していた。しかし交渉に業を煮やした李秀成は、一転攻撃を仕掛け、逆に手痛い反撃を受け、自らも負傷したのである。これなどは洪仁玕・李秀成両者の西欧体験の有無が大きく影響した結果生じた齟齬と言える。


      この時、歴史が変わったと言える。この二人の仲の悪さが、太平天国の運命を変えたのである。その後太平天国は没落方向に流れていく。この1860年8月18日が、中国の近代化を更に50年遅らした月日となった。


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      北京条約は、1860年(咸豊10年)に清朝とイギリス(10月24日)・フランス(10月25日)連合軍、および清朝とロシア帝国(11月14日)が締結した条約。天津条約の批准交換と追加条約である。アロー号事件後に天津条約が結ばれ英仏軍が引き上げたが、この条約の結果では英仏は満足していなかった。また、清の朝廷内部でも条約に対する非難が高まり、清は条約に定められた1年以内の批准を拒んだ。このため英仏軍は再び天津に上陸、咸豊帝は熱河へ撤退、北京を任された恭親王も英仏連合軍の侵攻が始まると表に出て来なくなった。北京を占領した連合軍は円明園を略奪し焼き払い、恭親王に最後通牒を送った。結局、ロシアの仲介で北京にあった礼部衙門において清と英仏連合軍との交渉が行われ、清とイギリス、清とフランスとの間に新たな条約が結ばれた。また仲介したことを口実に清とロシアとの間でも新たな条約が結ばれた。いずれも不平等条約であった。


      ロシアは、まず清が認めていない1858年のアイグン条約の条文を出すことで、豆満江~ハンカ湖~ウスリー川以東アムール川以南の地域が割譲された。アイグン条約では清とロシアの共同管理地となった地域であったが、この条約によってロシア領となった。ロシアは、沿海地方に軍港ウラジオストックを建設してロシア太平洋艦隊を常駐させ、シベリア鉄道建設によって大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画したため、日露戦争の原因ともなった。その後もロシア革命時のシベリア出兵(1919年)では極東共和国の帰属を巡って日露間で紛争地となった。ロシアは清朝の内憂外患のドサクサをうまく利用して、現在の沿海州(ウラジオストック)を手に入れたのである。


      1860年末の北京条約で、英・仏・露は上海租界地を攻撃した太平天国を清朝とともに討伐する立場と変貌した。要は、この条約で太平天国は「賊軍」となったのである。この条約の後、清朝は洋務運動(西洋の近代技術を積極的に取り入れる)に着手したが、魂のない西洋化はその後の日清戦争などで化けの皮が剥がされる結果となった(洋務運動は失敗に終わる)。辛亥革命が遅れた理由は、1860年8月18日の第一次上海攻撃にあったのだ。

    2016.06.06

    北京城門を探索する 【蘇州たより 工藤和直】Vol.49 (読む時間:約3分半)

    • 北京が都市として形成されたのは約3040年前のことであり、昔は「薊:ji」と呼ばれていた。薊(アザミ)の花が多かったのだろうか。周代になると、北京は「薊」と正式に名付けられ、城が築かれ国としての形が出来上がった。戦国時代になると、当時の強国の一つであった「燕」の都となり、発展を遂げた。その後、秦漢時代は北平と称され、唐代には「幽州」と呼ばれ、遼代には国の第二の都市になった。金代の中期になると城壁が築かれ「中都」と呼ばれるようになる。元時代は「大都」と呼ばれていた。モンゴル族の支配により大都(北京)にはモンゴル風の文化と漢族文化が混在していた。


      元の大都は今の北京中心部とほぼ同じ位置で明清代よりも北に位置し、内城を北に伸ばしたほぼ四角形状であった。マルコポーロもこの大都を訪れている。元朝が北京を都に定めてから、北京の修復改造が開始された。ゆえに北京古城の城壁は元の時代に由来し、明の時代に形成されたものとされる。当時、元の時代には城壁に11の城門があった。明朝初期、劉伯温が北京を修築する際に、元の11の城門のうちの9城門「正陽門・崇文門・宣武門・安定門・徳勝門・東直門・西直門・朝陽門・阜成門」を北京城の九門と定めた。つまり人々がよく口にする「内九城(内側に位置する九つの城門)」である。


      明朝はもともと南京を首都としていたが、三代目永楽帝の時に北平を北京と称し、首都を移した。永楽帝は大都の南城壁を南方向に800m移動させ、中央にあった麗正門が現在の正陽門になった。今の北京の基礎は明代に作られたといっても過言ではない。清朝が再び北京へ遷都し、「北京」という名称になった。民国時代は南京を都としたため北平に戻され、解放後に再び北京と改称された経緯を持つ。


      内城は、俗に言う北京城で、周囲22kmで9つの門がある。この9つの門のうち、現存するのは正陽門(前門)という故宮の真南にある門と、徳勝門という北西門である。外城には7門がある。内城南に出っ張るような形状で、言ってみれば「下町」のような場所である。周囲14kmほどである。周囲14kmの長餅の上に、22kmの角餅が乗っている「凸型形状」であるのが特徴だ。また、皇城には4つの門がある。東西南北で言えば、東安門、西安門、天安門、地安門である。


      城内と城外、城内でもその場所によって町の雰囲気が全然違う。内城には紫禁城があり、官僚なども住んでいたので格式ばった雰囲気があるが、外城は商店も多く、道も込み入り、何となく繁雑とした感じがする。その城壁は解放後1953年~57年頃、地下鉄を作る為に取り壊され大街(例えば前門東大街)となり、地下が地下鉄環状線(2号線)となった。北京の地下鉄環状線は、ちょうど東京の山手線のように、北京内城をぐるりと回っている市民の足である。この環状線には駅が18ある。そのうちの11駅に最後文字「門」が付けられている。駅の上に城門があった。


      東便門の角楼は、明・清の北京の城壁の角にあった四つの角楼のうち唯一残っているものである。東南角楼というだけに、北京内城の東南の角にそそり立つ四層の、高さ29メートルある中国風の砦である(写真右下)。復興門の城壁遺構は明代のもので、北京の内城の遺構である。城壁の高さは12メートルで、両側にレンガを積み上げて造られている。


      北京城の九門の中でも、正陽門、崇文門、宣武門は南の城壁に位置し、総括して“前三門”と称され、安定門と徳勝門は北の城壁に位置し、東直門と朝陽門は東の城壁に、西直門と阜成門は西の城壁に位置していた。北京城の中軸線(南北の中心線)は、南から永定門・正陽門・中華門・天安門・地安門が同一線上にあるのを特徴とする。中華門は現在ないが、明代には大明門、清代は大清門と呼ばれ、現在は毛主席記念堂に位置する。正陽門の南面には箭門と言われる楼閣があるが、昔は正陽門の左右から釣鐘状の城壁が繋がり、その先端に箭門があった。また最初の北京駅は、箭門の東部に作られた(現在は、崇文門から東便門にかけてある城壁部北側にある)。


      すべての城門には独特な用途があり、城門にはそれぞれ役割があった。また、異なる類型の車両が通っていたので、「九門には九車が出でる」と呼ばれていた。西直門:水を運び込む門、阜成門:石炭を運び込む門、宣武門:死刑囚が刑場に向かう門、正陽門:正門、崇文門:税関、朝陽門:穀物を運び込む門、東直門:木材を運び込む門、安定門:し尿や死体を運び出す門、徳勝門:凱旋門、が当時の役割であった。


      下図の写真は1953年以前にあった城門の写真である。現存するのは、正陽門・徳勝門(いずれも部分改築されている)である。徳勝門は内城北西部に張り出した箭門として現存する門だが、なぜか門と言うが孔がない。土木の変(西暦1446年)では、よく明軍がこの門前でモンゴル軍を防いだという。また、崇文門から東便門にかけては城壁が保存されており、昔日の姿を鑑賞することができる。


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    2016.05.05

    蘇州の「蘇」の意味と地名の変遷 【蘇州たより 工藤和直】Vol.48 (読む時間:約3分半)

    • 紀元前11世紀、周王族「泰伯と仲雍」兄弟は江南に下り勾呉国を作った。春秋戦国時代に泰伯の子孫にあたる呉王「闔閭」が伍子胥に命じて姑蘇の地に陸水8門・周囲47里の大城を造営したのが、紀元前514年になる。秦・漢の時代は会稽郡呉県となり、隋開皇9年(西暦589年)に「蘇州」と名付けられた。唐代には長洲県も増設し、長洲ともいわれた。城内は10万戸を数え、江南で唯一「雄州」ともいわれた。


      五代十国時代呉越王「銭鏐」は蘇州城を改造し、高さ9mのレンガ造りとした。宋代は「上有天堂、下有蘇杭(天には天国、地には蘇州、杭州)」といわれるほど繁栄を極め、景祐2年(西暦1035年)には範仲淹が府学をつくり「天下之学、自呉始也(天下の学問は、呉より始まる)」と天下一の学府となり、平江府に昇格した。紹定2年(西暦1229年)に世界初の城郭都市の平江図(石碑)が完成、元代に平江路となった。明・清時代、蘇州府となり商工業が「日出万匹、衣被天下(日に万もの布が生産され、衣は天下を覆う)」と発展した。光緒21年(西暦1894年)には蘇州商務局が作られ、海外との通商貿易を担った。民国時代1912年に呉県・長洲県・元和県が統合して呉県となり、1928年に蘇州市と改名、その後1930年に再度呉県となったが、中華人民共和国成立後1949年に「蘇州市」となった。


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      上記は、蘇の字の古代漢字である。草冠の下にあるのは、“魚”と“米”であることがすぐに理解できる。“草”は植物の総称であり、地があれば必ず草を成す。草はいかなる環境にあってもその生命力は強固で、冬の寒さ雪の中でも生き延び、春になると緑色の大草原が生まれる。“魚”は水中の動物であり、水郷地帯の江南地方では河・湖に多く見られ、食用としても有効に利用される。太湖の白魚など蘇州名物が多い。魚の右にある“ノ”と下の“木”からなる“禾”は一般には稲の苗である。春に植えた苗は秋になると収穫の時期になり、米・黍(黄米)・高粱・豆類などになる。「蘇」とは緑の地であり、魚と米の水郷地帯であることが、漢字を見るだけで読み取れる。


      州は、中国の行政管理区分を示したもので、古代全国を12州に分けたことから、州はその地方を意味するものである。清王朝時代は八府・三州・六十八州県と分けた。今では当たり前のように言う「蘇州」であるが、勾呉から始まり、色々な名称で呼ばれて来た。


      呉:泰伯が、無錫市東南30kmの梅里に最初の都を置いた。21代孫に当たる「光:のちの呉王闔閭」は「呉」と称し、又の名を「闔閭城」とも言った。鶴市:呉王闔閭(もしくは夫差)の娘“藤玉”の葬儀を閶門の西郊外で行った。その時多くの民衆は「鶴舞」をしたと言う。それから鶴市といわれた。会稽:戦国時代は秦の始皇帝で終わるが紀元前222年、秦は江南を平定し会稽郡を置いた。呉県:会稽郡を置くと同時に呉県を置いた。泰徳:漢代王莽が新国を作った(西暦9年)。その時呉県は泰徳県と改名したが、王莽亡き後、呉県に復帰した。呉郡:漢永建4年(西暦129年)、会稽郡の東北地を呉郡とした。呉州:南北朝陳禎明元年(西暦587年)、呉州を置いた。蘇州:隋開皇9年(西暦589年)蘇州と改名、この後蘇州が使われるようになった。長洲:唐則天武后の時に。呉県の地に長洲県を置く。唐白居易の漢詩に「長洲苑外柳万条」、杜牧の漢詩にも「長洲苑外草蕭蕭」とある。中呉:唐同光二年(西暦924年)、東呉・中呉・西呉の三つに分離、蘇州は中呉に属す。平江:宋政和3年(西暦1113年)、江南の地を平定したと言う意味で、平江府となる。紹定2年(西暦1229年)蘇州市地図「平江図」が完成、元代には平江路総管府平江路となる。隆平:元至正6年(西暦1356年)、農民義勇軍首領「張士誠」が蘇州を占領、隆平府と称するが一年で終わる。


      これら以外に、その時の状況に合わせ次の様にも言われた。それだけでも非常に面白い。呉中:秦末期、項羽が挙兵した時、挙呉中兵・・・と記載されている。姑蘇:蘇州城の東南部にある山が姑蘇山であるが、呉王闔閭は姑蘇台を作り、その息子夫差は宮殿を造った。唐代詩人杜荀鶴は、送人遊呉の中に“君至姑蘇見、人家尽枕河”と書いている。あと呉がつく名称が当然ながら非常に多い。「呉門」「呉城」「呉都」「呉苑」「呉市」「呉下」「呉閶」「呉趨」などである。それ以外でも「茂苑」「金閶」などと呼ばれることもあった。


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    2016.04.05
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