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コラム「蘇州たより」

「范冰冰」と歩く煙台山 【蘇州たより 工藤和直】Vol.53 (読む時間:約3分半)

    • 煙台市(Yan tai)は山東省に位置し、山東半島東部にある港湾都市である。北は渤海湾に面し、東は威海に、南と西は青島に接する。山東省最大の漁港であり、最初期に対外経済開放された沿岸都市の一つで、環境の良さ、景観の良さ、投資環境の良さから、海外からも全中国からも多くの人が集まる。煙台市の西寄りにある「芝罘」(ツーフー、Zhi fu)という陸繋島に由来が始まる。今日の「煙台」という名は明の洪武帝の治世だった1398年(洪武31年)頃、煙台山に倭寇襲撃時に警報の狼煙を上げる烽火台が建設された。これが「煙台」と呼ばれる所以とも言われる。


      春秋戦国時代には斉の領土であった。秦代には斉郡に、前漢の時代には東莱郡に属した。始皇帝は3回、武帝は1回芝罘島を訪れたと言われている。隋の時代に莱州、唐・宋・元の時代に登州や莱州が置かれた。明・清の時代には莱州府、後に登州府が置かれている。1858年7月、清は天津条約を結び、登州は「煙台」と改名され西洋諸国に開港されることとなったのは、1856年第2次アヘン戦争の際にイギリス・フランス連合艦隊が煙台を占領したことによる。1860年6月にフランスが煙台山を占領し、ここに軍司令部を置いた。煙台は1861年5月に外国商人たちに対して開港し、煙台山周辺に17カ国が領事館を設置した。この一角は「領事館街」の様子を帯びることになった。1866年フランスが撤退するに及び、外国人と中国人による万国委員会が行政を担うようになった。1876年に芝罘条約が結ばれ、漁港だった煙台はイギリスの条約港となり急速に共同租界地化した。20世紀初頭に山東半島全域でドイツ帝国の力が増すと、煙台もドイツに支配されることとなった。また、清も北洋艦隊の拠点とし、1903年に設置された煙台海軍学校は1928年まで中国の海軍士官を育成した。1905年には、日露戦争後の講和会議の開催候補地のひとつにもなった。


      第一次世界大戦でのドイツの敗戦により、煙台はアメリカ海軍アジア艦隊の夏の駐留港となった。日本も交易のために煙台に拠点を置き、両国の影響が市内の政治や建物様式に及ぶことになった。煙台山の南にも多くの領事館や郵便局などがあり、フィンランド領事館などは今では雑貨店となっている。煙台は不思議なくらい西洋の香りがする町である。逆にイギリスの租借地であった威海市街には英国の匂いが少ない。


      煙台山は観光地化されて、入口で入場料60元を払って徒歩による観光である。入口すぐ北がアメリカ領事館、右手にイギリス領事館、その奥にデンマーク領事館と、非常にこぢんまりとした建物が続く、日本領事館はデンマーク領事館から見ると、西の端にあたる。他の領事館と異なりまったく標示がない。車2台が離合できる程度の細い路が煙台山を巡っている。ここは車より歩くのが一番似合っている。木陰に休むと煙台市街の海岸線が遠くに見ることができる。道ですれ違う女性はここ煙台出身の女優「范冰冰」でないかと思うと、一人笑ってしまう。広州空港にある巨大な范冰冰の写真を思い浮かべつつ、日傘を持って小道を歩く小姐の姿を旧日本領事館門前で見失ってしまった。


      日本を除く各国領事館は、内部が開放され展示物を確認できるが、日本領事館のみは放置され破れた窓ガラスから内部の荒れ放題を見るだけである。領事館の隣に旧職員社宅もあるが、同じく荒れ放題の態であった。


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      一番高い場所が、あの倭寇が来襲してきた時に烽火を上げたという煙台、その横には白い灯台がある。その南に、日本の「芝罘(ジーシー)神社」があった。神社は煙台山山頂に1942年 (昭和17年)10月に創建された。現在、「抗日英雄記念碑」が1964年建立された。周囲の石碑などに記載はないが、神社の台座が記念碑台座としてそのまま活用されているのを確認できる。台座に上がる石段は、周囲の記念碑の新しさにまったく似合わない古い花崗岩で、年代を感じる。抗日英雄記念碑の基壇は五角形になっており、神社基壇を改築して使ったと思われる。記念碑のうしろにつながる東屋の基壇は、1940 年(昭和15年)頃に日本が建てた戦勝記念碑基壇をそのまま使っているようであった。日本の神社跡を再利用して抗日記念碑が建立されており、歴史の矛盾を感じた。


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    2016.08.04

    韓国仁川にあった日本領事館と仁川神社 【蘇州たより 工藤和直】vol.52 (読む時間:約2分半)

    • 韓国百済の始祖伝説によれば、仁川は紀元前18年頃、沸流(ピリュ)が建国した彌鄒忽(ミチュホル)の都だった。仁川はもともと百済に属したが、5世紀以降は高句麗や統一新羅の領土となり、買召忽(メソホル)と呼ばれていた。高麗時代に仁州慶源府となった。朝鮮太祖元年(西暦1392年)に仁州と復名し、太宗13年(西暦1413年)に仁川郡になった。1876年(明治9年)、日朝修好条規(江華条約)によって1883年開港、当時の人口はわずか4700人余りの漁村であったが、その利便性の高さから大きく発展した。


      当時は済物浦(チェームルポ)と呼ばれ、1882年1月、条規に基づいて日本領事館が建設された(現在中区庁舎)。日本統治時代に仁川府(当時の読み方、じんせんふ)が設置され、1949年に仁川府は仁川市と改称した。1950年9月、国際連合軍は仁川上陸作戦を敢行し、朝鮮戦争の戦局が一変した。現在は、首都ソウルから40キロ圏に位置する港湾都市であり、内陸にあるソウルの外港として発展している。


      日朝友好条規(江華条約)を契機に、1883年に日本人が居住するために設けられた租界が発展、日本からの移住者で人口が増え、近代的な街が築かれた。租界制度は日本植民地時代(1910年)に廃止されたが、太平洋戦争時には約1万人の日本人が仁川に住んでいた。1945年、日本の敗戦によって韓国に戻されたが、伝統的な建物は、老朽化などで解体されたものを除いて残った。この日本租界地の西に1884年から清国租界地(現在のチャイナタウン)が広がり、その後東部と東北部に共同租界地が発展して行った。仁川は日本人が最初に作った町であった。その日清租界地堺にある階段が歴史の生き証人である。東側に日本の灯篭、西側には中国の石塔と、ここが境目の階段であることが分かる。現在の中区庁舎が1882年に作られた日本領事館跡である。戦後は仁川府庁舎になり、現在の区役所になった。玄関から入ると二階に上がる石の階段があるが、玄関付近の石造りとあわせ日本建築であることが分かる。


      区庁舎の一本南手前にある路が、当時の日本人街である。第一銀行(現みずほ銀行)・第十ハ銀行・第五十八銀行などがあった。その日本人街をほぼまっすぐ東南に向かうと仁川公園と仁川神社があった。現在は仁川女子商業高等学校の敷地内にあたる。そこに、写真の様な二本の鳥居石柱の痕跡と石灯篭が現存することに驚いた。しかも灯篭には昭和19年2月の刻印があり、周辺には石壁跡の石柱が無造作に置かれていた。まさにここが、日本の仁川神社であった。地図を見ると仁川神社の北には東本願寺もある。海外にある日本人租界地に共通している「神社とお寺」のツーセットは冠婚葬祭を重んじる日本人の特質であろう。写真は1930年代の日本人街の絵画である。当時の夕方の風景が偲ばれる。


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      (クリックすると大きな画像が出ます)


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      【李朝朝鮮から大韓帝国時代にあった租界地】 日本統治下になる前に、朝鮮国には八ヶ所の租界地があった。その場所を下記の地図に記載する。


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    2016.07.25

    山東「斉長城跡」から蘇州「斉門」を眺める 【蘇州たより 工藤和直】Vol.51 (読む時間:約4分半)

    • 紀元前1050年頃、周王朝「武王」は、兄弟を魯・燕・曹・衛・管・蔡などの国々に配置、実子を洛陽に近い晋に置いた。山東省「斉」には妻の実家である太公望「呂尚」、本姓姜氏を配置した。呂尚は武王の父「文王」を補佐し、武王の師として父親代わりの「師尚父」と呼ばれた。姜氏斉の始まりである。この斉国が春秋時代の最初の覇王となるのは、太公望呂尚の16代目の君主「恒公」とその宰相「管仲」の力による。紀元前656年、恒公は諸侯の連合軍と楚を巨従させ、紀元前651年には、魯・宋・曹・衛・鄭と葵丘で会盟し、覇王となった。


      斉は春秋時代に長城を築いていた。北と東は海に面し、北西は黄河と済水とが天然の障壁となっていたのでその必要はなかったが、西は春秋時代には魯・晋・衞の脅威にさらされ、戦国時代は南の楚国の圧迫があった。そこで斉は、西は黄河のほとり長清県孝里鎮から泰山の北を通り、曲阜北部莱蕪、諸城、膠南、青島市西部「黄島」に至る620km余に及ぶ長城(まさに千里の長城)を築いた。斉の長城は秦始皇帝の築いた万里の長城より五百年も古い中国最古の長城で、春秋時代「恒公:紀元前685年即位」が着工、戦国時代「威王」「宣王:紀元前301年没」の頃に約四百年をかけて完成した。紀元前555年には斉国と魯国は長城を境に、まさに城壁・天険・関所・城兵営・狼煙台などを上手に利用した軍事防御システムを構築した。長城建設の目的は、周辺諸国や諸民族からの防衛というよりは、桓公の時代に急速に力をつけていた楚への警戒が大きい目的であった。斉国長城(写真1・2・3)は山を利用して建設され、大小の石塊を積み重ねたもので、秦の長城のような版築と言う製法ではなかった。また山によっているため、高山の所は自然の険峻をそのまま障壁として城壁は作ってない。当時の城壁の高さは不明だが、厚さは約7mであった。青島珠山国家森林公園内ほかに長城跡を多く見る事ができる。


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      呉王「夫差」は闔閭の次男として紀元前520年頃?生まれた。長男は「波」で斉の公女を妻とした。三男に子山が居た。紀元前515年、斉の700km南の呉(姑蘇)で呉王「闔閭」が王位についた。紀元前506年には楚の亡命者「伍子胥」を登用し、楚の都を占領するが、紀元前496年の越との戦いで負傷し帰路死亡。長男波が夭折していたので、次男夫差が呉王となった。


      呉は常に楚と戦っていた。楚は中原の晋と戦い、晋は東方にある斉と戦っていた。晋が斉を攻めれば楚が救援する。呉は晋と手を結び強国になったが、斉と楚は仲の良い関係を構築していた。そこで闔閭と宰相伍子胥・軍師孫武とが考えた策は、斉の姫君を太子波に嫁がせる事であった。楚と斉の関係に楔を打ち込むわけだ。時の斉「景公」は姫を呉に入輿させた。この姫君は非常に美貌であったという。春秋時代、斉都「臨淄:Lin Zi」は周都「洛陽」を凌ぐ大都市であった。しかし、呉都「姑蘇」の地は田舎臭く文化レベルも低く、姫は日夜悲泣し、ついに病気になった。闔閭は、姫のために北門(斉門)に九層の高楼を建て、「国が恋しくなれば、高楼から故郷を望見すれば良い」と慰めた。それで北門の事を「望斉門」というようになった。それにも関わらす、姫は亡くなった。太子波はこの姫をたいそう愛していたため、その死を悼むこと一方ではなかった。やがて太子波も病気になり、一年後に後を追うが如く夭折した。そのため、太子は次男「夫差」となった。


      斉の姫が人質に近い状態で波の妻として700kmも真南の国に嫁いだ。斉都「臨淄(現在の淄博市)」から斉の長城を越えて来たわけだ。いったん長城を越えることは二度と斉には戻ることはない。非常につらい数ヶ月の道中であったろうと想像される。姫が最後に見たであろう長城はどこであったのか、臨淄の南「青石関」と推測される。


      呉王「夫差」紀元前494年に越を攻め、越王「勾践」を従属させる。紀元前488年には魯国を攻め、その東にある斉国を紀元前484年に、艾陵にて破る。紀元前482年、黄池にて諸侯と会し、盟主となった。斉国も夫差の代には軍門に下った。


      筆者が「愛と悲しみの蘇州古橋」の中で記載したのが、斉門の昔話である。その後、呉王「夫差」が霊岩山の姑蘇台で紀元前473年に自害したあと、中国四大美人の西施は越王「勾践」の宰相「范蠡」とともに、斉国に逃げたとも伝えられる城門でもある。実際は勾践が天下を取ると、「月は満れば欠け、上りつめた者は必ず落ちる」ものだと賢明な范蠡は舟で越を去ったのだ。写真5はかつての水城門であり、写真6は陸門である。平面図を見ると、円形の城壁があり、出口から3方向に道があるのが特徴である。范蠡は山東半島をまわって渤海湾から斉国に逃げ、名を「鴟夷子皮」と替えて数十万金の財をなしたという。その後、呉を破り天下を取った越王「勾践」は紀元前472年、越「会稽」から山東「琅琊」に首都を移す。そして紀元前465年、越王「勾践」は没した。


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      斉の姫が登った斉門は現在なく、城内から蘇州駅に向かう大道と大橋があるだけである。ただ、山東には山並みをつなぐ石を置いた長城跡が残っている。青島(黄島経済技術開発区)にある斉長城烽火台跡は東端の終点である。斉長城路の端に写真4のような烽火台が再建されていた。ここから西の方角を見ると、夕日に映える山岳がはるか遠く美しく続いている。斉の公女が長旅に疲れ、蘇州に辿り着いてはや2500年以上になった。斉門から見える風景は、今では蘇州駅前のためか高層ビルやアパートが乱立しているが、50年前までは、広い平原が見えるだけであった。そのはるか遠くに斉国があったのだ。今では蘇州から高速鉄道を使い5時間半ほどで斉都「臨淄」に着く。


      参考:愛と悲しみの蘇州古橋【蘇州たよりvol.28】


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    2016.07.06

    西暦1860年、その時日本と中国の近代史が変わった 【蘇州たより 工藤和直】Vol.50 (読む時間:約6分半)

    • 日本の近代史は1868年9月8日の明治維新から始まった。同じく中国の近代史は1911年10月10日の辛亥革命から始まる。西洋列強による侵略の前哨戦は中国ではアヘン戦争(1840年)、日本ではペリー浦賀来航(1853年)で、わずか13年の違いだが、近代化のスタートは中国が43年遅れる事態となったのは、日中とも同じ西暦1860年が歴史のターニングポイントになっているのに驚きを覚える。その西暦1860年とは、日本は桜田門外の変が起こった3月3日、中国では太平天国軍が第一次上海攻撃を開始した8月18日である。


      安政7年3月3日(西暦1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件である。江戸幕府の最高の権威者が市中で惨殺される大事件は、当時では考えられない事であった。その立役者の一人、薩摩藩士・有村次左衛門(ありむらじざえもん)の顛末について述べたい。


      薩摩藩士・有村次左衛門が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴み駕籠から引きずり出した。直弼は既に血まみれで息も絶え絶えであったが、無意識に地面を這おうとした。有村が発した薩摩自顕流の猿叫(キャアーッという気合い)とともに振り下ろした薩摩刀によって、直弼は斬首された。襲撃開始から直弼殺戮まで、僅か十数分の出来事だった。有村次左衛門は刀の切先に直弼の首級を突き立てて引き揚げた。有村の勝鬨の声を聞いて、浪士らは本懐を遂げた事を知った。彦根藩士小河原秀之丞は、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがり、有村の後頭部に斬りつけた。この一撃で有村は重傷を負って歩行困難となり、直弼の首を引きずり、しばらく逃走の後、若年寄・遠藤胤統 (近江三上藩)邸の門前で自決した。これにより、直弼の首は遠藤家に収容されることになった。


      この暗殺事件を起した浪士は罪人となり、この桜田門外の変で長年持続した江戸幕府の権威が大きく失墜、尊王攘夷運動が激化する端緒となった。ここからわずか7年と7ヶ月後の慶応3年(1867年)10月14日、第15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が成され、同年の江戸開城により急転直下で明治維新(1868年9月8日)と成る要因に、桜田門外の変が直接的な起点となった。この3月3日が、日本近代化へのターニングポイントとなったと言っても過言ではない。


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      太平天国の乱は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な社会主義革命。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織「太平天国」によって起きた。洪秀全はキリスト教の教えの中でも特に上帝が唯一神であることを強く意識し、偶像破壊を熱心に行った。中国では儒教・道教・仏教にまつわる廟が多かったが、それらを破壊し、ただ上帝だけを崇めることを求めた。1847年、太平天国の前身組織「拝上帝会」を広西省桂平県金田村に創設、拝上帝会の参加者は、炭焼き・貧農・鉱山労働者・客家などの低階層が中心であった。1850年、拝上帝会は金田村に集結して団営という軍事組織を結成した。金田村に集結する過程で、清朝の軍隊や自警団との小競り合いが発生した。金田村に集結した人々は1万から2万といわれるが、このうち成年男子は3千人ほどだったという。しかしそれでも数倍もある清軍を打ち破り、革命の火蓋を切った(金田蜂起)。1852年12月下旬には漢陽・漢口を落城させ、ついに1853年(咸豊三年)1月には武昌を落とした。武昌は太平天国軍が最初に陥落させた省都(湖北省)であって、その占領は多大な金銀財宝をもたらした。3月19日に太平天国軍は江寧(南京)を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を立てた。


      4月27日、英国公使George Bonhamは「英国は、太平天国にも清国にも中立であること」を告げた。太平天国はキリスト教を信仰の中心としたので、欧米列強からは歓迎され、中国史上最初の社会主義革命が成就する方向にあったが、その後の内部での派閥争いなどで、革命は失敗に終わる。キリスト教的理想を掲げ、地上の天国を作り出そうとした洪秀全であったが、現実において社会を組織・運営する上で伝統的・土着的な考え方・価値観から逃れられるはずもなく、その理想と現実は極めて乖離したものとならざるを得なかったのだ。


      1860年2月~5月、第二次江南大営攻略では、干王「洪仁玕」・忠王「李秀成」・輔王「楊輔清」・侍王「李世賢」・英王「陳玉成」らが好く呼応して清軍を撃破。1860年6月、李秀成は蘇州を占領し「蘇福省」の省都とした。現在の蘇州博物館東で拙政園西に「太平天国忠王府」(写真)を建てた。洪仁玕の加入に洪秀全は大いに安堵を覚えたのであろうが、李秀成らは不満を抱かざるを得なかった。初期からの信者とはいえ、洪仁玕の改革が現実離れしていることや、さして戦功をたてていないのに、彼が王に封じられるのは洪秀全の身内びいきとしか思えなかったからである。このため、李秀成らを新たに王としたものの、洪仁玕との溝は深まるばかりで、再び太平天国は内紛の様相を帯びてきた。特に李秀成・李世賢は洪一族に対し李氏閥を形成し、独断専行が徐々に増えていくことになる。


      1860年8月18日における第一次上海攻略はその好例であろう。江南地方の制圧を進めていたのは李秀成軍であったが、上海だけは西洋列強の租界(キリスト教)があるため攻撃が控えられていた。この時洪仁玕は西欧と交渉し、少なくとも清朝に荷担しないよう画策していた。しかし交渉に業を煮やした李秀成は、一転攻撃を仕掛け、逆に手痛い反撃を受け、自らも負傷したのである。これなどは洪仁玕・李秀成両者の西欧体験の有無が大きく影響した結果生じた齟齬と言える。


      この時、歴史が変わったと言える。この二人の仲の悪さが、太平天国の運命を変えたのである。その後太平天国は没落方向に流れていく。この1860年8月18日が、中国の近代化を更に50年遅らした月日となった。


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      北京条約は、1860年(咸豊10年)に清朝とイギリス(10月24日)・フランス(10月25日)連合軍、および清朝とロシア帝国(11月14日)が締結した条約。天津条約の批准交換と追加条約である。アロー号事件後に天津条約が結ばれ英仏軍が引き上げたが、この条約の結果では英仏は満足していなかった。また、清の朝廷内部でも条約に対する非難が高まり、清は条約に定められた1年以内の批准を拒んだ。このため英仏軍は再び天津に上陸、咸豊帝は熱河へ撤退、北京を任された恭親王も英仏連合軍の侵攻が始まると表に出て来なくなった。北京を占領した連合軍は円明園を略奪し焼き払い、恭親王に最後通牒を送った。結局、ロシアの仲介で北京にあった礼部衙門において清と英仏連合軍との交渉が行われ、清とイギリス、清とフランスとの間に新たな条約が結ばれた。また仲介したことを口実に清とロシアとの間でも新たな条約が結ばれた。いずれも不平等条約であった。


      ロシアは、まず清が認めていない1858年のアイグン条約の条文を出すことで、豆満江~ハンカ湖~ウスリー川以東アムール川以南の地域が割譲された。アイグン条約では清とロシアの共同管理地となった地域であったが、この条約によってロシア領となった。ロシアは、沿海地方に軍港ウラジオストックを建設してロシア太平洋艦隊を常駐させ、シベリア鉄道建設によって大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画したため、日露戦争の原因ともなった。その後もロシア革命時のシベリア出兵(1919年)では極東共和国の帰属を巡って日露間で紛争地となった。ロシアは清朝の内憂外患のドサクサをうまく利用して、現在の沿海州(ウラジオストック)を手に入れたのである。


      1860年末の北京条約で、英・仏・露は上海租界地を攻撃した太平天国を清朝とともに討伐する立場と変貌した。要は、この条約で太平天国は「賊軍」となったのである。この条約の後、清朝は洋務運動(西洋の近代技術を積極的に取り入れる)に着手したが、魂のない西洋化はその後の日清戦争などで化けの皮が剥がされる結果となった(洋務運動は失敗に終わる)。辛亥革命が遅れた理由は、1860年8月18日の第一次上海攻撃にあったのだ。

    2016.06.06

    北京城門を探索する 【蘇州たより 工藤和直】Vol.49 (読む時間:約3分半)

    • 北京が都市として形成されたのは約3040年前のことであり、昔は「薊:ji」と呼ばれていた。薊(アザミ)の花が多かったのだろうか。周代になると、北京は「薊」と正式に名付けられ、城が築かれ国としての形が出来上がった。戦国時代になると、当時の強国の一つであった「燕」の都となり、発展を遂げた。その後、秦漢時代は北平と称され、唐代には「幽州」と呼ばれ、遼代には国の第二の都市になった。金代の中期になると城壁が築かれ「中都」と呼ばれるようになる。元時代は「大都」と呼ばれていた。モンゴル族の支配により大都(北京)にはモンゴル風の文化と漢族文化が混在していた。


      元の大都は今の北京中心部とほぼ同じ位置で明清代よりも北に位置し、内城を北に伸ばしたほぼ四角形状であった。マルコポーロもこの大都を訪れている。元朝が北京を都に定めてから、北京の修復改造が開始された。ゆえに北京古城の城壁は元の時代に由来し、明の時代に形成されたものとされる。当時、元の時代には城壁に11の城門があった。明朝初期、劉伯温が北京を修築する際に、元の11の城門のうちの9城門「正陽門・崇文門・宣武門・安定門・徳勝門・東直門・西直門・朝陽門・阜成門」を北京城の九門と定めた。つまり人々がよく口にする「内九城(内側に位置する九つの城門)」である。


      明朝はもともと南京を首都としていたが、三代目永楽帝の時に北平を北京と称し、首都を移した。永楽帝は大都の南城壁を南方向に800m移動させ、中央にあった麗正門が現在の正陽門になった。今の北京の基礎は明代に作られたといっても過言ではない。清朝が再び北京へ遷都し、「北京」という名称になった。民国時代は南京を都としたため北平に戻され、解放後に再び北京と改称された経緯を持つ。


      内城は、俗に言う北京城で、周囲22kmで9つの門がある。この9つの門のうち、現存するのは正陽門(前門)という故宮の真南にある門と、徳勝門という北西門である。外城には7門がある。内城南に出っ張るような形状で、言ってみれば「下町」のような場所である。周囲14kmほどである。周囲14kmの長餅の上に、22kmの角餅が乗っている「凸型形状」であるのが特徴だ。また、皇城には4つの門がある。東西南北で言えば、東安門、西安門、天安門、地安門である。


      城内と城外、城内でもその場所によって町の雰囲気が全然違う。内城には紫禁城があり、官僚なども住んでいたので格式ばった雰囲気があるが、外城は商店も多く、道も込み入り、何となく繁雑とした感じがする。その城壁は解放後1953年~57年頃、地下鉄を作る為に取り壊され大街(例えば前門東大街)となり、地下が地下鉄環状線(2号線)となった。北京の地下鉄環状線は、ちょうど東京の山手線のように、北京内城をぐるりと回っている市民の足である。この環状線には駅が18ある。そのうちの11駅に最後文字「門」が付けられている。駅の上に城門があった。


      東便門の角楼は、明・清の北京の城壁の角にあった四つの角楼のうち唯一残っているものである。東南角楼というだけに、北京内城の東南の角にそそり立つ四層の、高さ29メートルある中国風の砦である(写真右下)。復興門の城壁遺構は明代のもので、北京の内城の遺構である。城壁の高さは12メートルで、両側にレンガを積み上げて造られている。


      北京城の九門の中でも、正陽門、崇文門、宣武門は南の城壁に位置し、総括して“前三門”と称され、安定門と徳勝門は北の城壁に位置し、東直門と朝陽門は東の城壁に、西直門と阜成門は西の城壁に位置していた。北京城の中軸線(南北の中心線)は、南から永定門・正陽門・中華門・天安門・地安門が同一線上にあるのを特徴とする。中華門は現在ないが、明代には大明門、清代は大清門と呼ばれ、現在は毛主席記念堂に位置する。正陽門の南面には箭門と言われる楼閣があるが、昔は正陽門の左右から釣鐘状の城壁が繋がり、その先端に箭門があった。また最初の北京駅は、箭門の東部に作られた(現在は、崇文門から東便門にかけてある城壁部北側にある)。


      すべての城門には独特な用途があり、城門にはそれぞれ役割があった。また、異なる類型の車両が通っていたので、「九門には九車が出でる」と呼ばれていた。西直門:水を運び込む門、阜成門:石炭を運び込む門、宣武門:死刑囚が刑場に向かう門、正陽門:正門、崇文門:税関、朝陽門:穀物を運び込む門、東直門:木材を運び込む門、安定門:し尿や死体を運び出す門、徳勝門:凱旋門、が当時の役割であった。


      下図の写真は1953年以前にあった城門の写真である。現存するのは、正陽門・徳勝門(いずれも部分改築されている)である。徳勝門は内城北西部に張り出した箭門として現存する門だが、なぜか門と言うが孔がない。土木の変(西暦1446年)では、よく明軍がこの門前でモンゴル軍を防いだという。また、崇文門から東便門にかけては城壁が保存されており、昔日の姿を鑑賞することができる。


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    2016.05.05

    蘇州の「蘇」の意味と地名の変遷 【蘇州たより 工藤和直】Vol.48 (読む時間:約3分半)

    • 紀元前11世紀、周王族「泰伯と仲雍」兄弟は江南に下り勾呉国を作った。春秋戦国時代に泰伯の子孫にあたる呉王「闔閭」が伍子胥に命じて姑蘇の地に陸水8門・周囲47里の大城を造営したのが、紀元前514年になる。秦・漢の時代は会稽郡呉県となり、隋開皇9年(西暦589年)に「蘇州」と名付けられた。唐代には長洲県も増設し、長洲ともいわれた。城内は10万戸を数え、江南で唯一「雄州」ともいわれた。


      五代十国時代呉越王「銭鏐」は蘇州城を改造し、高さ9mのレンガ造りとした。宋代は「上有天堂、下有蘇杭(天には天国、地には蘇州、杭州)」といわれるほど繁栄を極め、景祐2年(西暦1035年)には範仲淹が府学をつくり「天下之学、自呉始也(天下の学問は、呉より始まる)」と天下一の学府となり、平江府に昇格した。紹定2年(西暦1229年)に世界初の城郭都市の平江図(石碑)が完成、元代に平江路となった。明・清時代、蘇州府となり商工業が「日出万匹、衣被天下(日に万もの布が生産され、衣は天下を覆う)」と発展した。光緒21年(西暦1894年)には蘇州商務局が作られ、海外との通商貿易を担った。民国時代1912年に呉県・長洲県・元和県が統合して呉県となり、1928年に蘇州市と改名、その後1930年に再度呉県となったが、中華人民共和国成立後1949年に「蘇州市」となった。


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      上記は、蘇の字の古代漢字である。草冠の下にあるのは、“魚”と“米”であることがすぐに理解できる。“草”は植物の総称であり、地があれば必ず草を成す。草はいかなる環境にあってもその生命力は強固で、冬の寒さ雪の中でも生き延び、春になると緑色の大草原が生まれる。“魚”は水中の動物であり、水郷地帯の江南地方では河・湖に多く見られ、食用としても有効に利用される。太湖の白魚など蘇州名物が多い。魚の右にある“ノ”と下の“木”からなる“禾”は一般には稲の苗である。春に植えた苗は秋になると収穫の時期になり、米・黍(黄米)・高粱・豆類などになる。「蘇」とは緑の地であり、魚と米の水郷地帯であることが、漢字を見るだけで読み取れる。


      州は、中国の行政管理区分を示したもので、古代全国を12州に分けたことから、州はその地方を意味するものである。清王朝時代は八府・三州・六十八州県と分けた。今では当たり前のように言う「蘇州」であるが、勾呉から始まり、色々な名称で呼ばれて来た。


      呉:泰伯が、無錫市東南30kmの梅里に最初の都を置いた。21代孫に当たる「光:のちの呉王闔閭」は「呉」と称し、又の名を「闔閭城」とも言った。鶴市:呉王闔閭(もしくは夫差)の娘“藤玉”の葬儀を閶門の西郊外で行った。その時多くの民衆は「鶴舞」をしたと言う。それから鶴市といわれた。会稽:戦国時代は秦の始皇帝で終わるが紀元前222年、秦は江南を平定し会稽郡を置いた。呉県:会稽郡を置くと同時に呉県を置いた。泰徳:漢代王莽が新国を作った(西暦9年)。その時呉県は泰徳県と改名したが、王莽亡き後、呉県に復帰した。呉郡:漢永建4年(西暦129年)、会稽郡の東北地を呉郡とした。呉州:南北朝陳禎明元年(西暦587年)、呉州を置いた。蘇州:隋開皇9年(西暦589年)蘇州と改名、この後蘇州が使われるようになった。長洲:唐則天武后の時に。呉県の地に長洲県を置く。唐白居易の漢詩に「長洲苑外柳万条」、杜牧の漢詩にも「長洲苑外草蕭蕭」とある。中呉:唐同光二年(西暦924年)、東呉・中呉・西呉の三つに分離、蘇州は中呉に属す。平江:宋政和3年(西暦1113年)、江南の地を平定したと言う意味で、平江府となる。紹定2年(西暦1229年)蘇州市地図「平江図」が完成、元代には平江路総管府平江路となる。隆平:元至正6年(西暦1356年)、農民義勇軍首領「張士誠」が蘇州を占領、隆平府と称するが一年で終わる。


      これら以外に、その時の状況に合わせ次の様にも言われた。それだけでも非常に面白い。呉中:秦末期、項羽が挙兵した時、挙呉中兵・・・と記載されている。姑蘇:蘇州城の東南部にある山が姑蘇山であるが、呉王闔閭は姑蘇台を作り、その息子夫差は宮殿を造った。唐代詩人杜荀鶴は、送人遊呉の中に“君至姑蘇見、人家尽枕河”と書いている。あと呉がつく名称が当然ながら非常に多い。「呉門」「呉城」「呉都」「呉苑」「呉市」「呉下」「呉閶」「呉趨」などである。それ以外でも「茂苑」「金閶」などと呼ばれることもあった。


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    2016.04.05

    司馬遼太郎と蘇州城門跡を探索する(その2) 【蘇州たより 工藤和直】Vol.47 (読む時間:約7分)

    • 1987年に初めて蘇州に来てから早28年、蘇州新区に住んで12年は過ぎた。蘇州の事を少しでも知ろうと読んだのが、司馬遼太郎「街道をゆく:中国江南のみち」であった。当時、筆者の蘇州に関する知識はこの本から得たものだけであった。司馬遼太郎が1981年2回目の訪問時の記録でもある。司馬先生が思った「蘇州旧城の外郭を1周したい」を12年間の駐在生活中、何度も実施して、自分なりにこの南北4.5km×東西3.5km、周囲16kmにもなる城壁と10ヶ所の城門について知見を得るに至った。


      紀元前514年、蘇州城を守るように周囲16kmの城壁とその出入口に8ヶ所の城門が築かれた。城壁は2丈4尺(7.2m)の塀に更に6尺(1.8m)の馬柵があり、合計9mの高さがあったと記録されている。春秋時代呉王闔閭(紀元前 514年~496年在位)が周囲1.5kmしかなかった小さな都を周囲16kmもある「闔閭大城」に拡張してから、既に2500年経っている。闔閭は宰相の伍子胥に命じて築城の大事業に着手、そのコンセプトは風水を十分に考慮した「相土嘗水、象天法地」である。土を観察し水をなめるように試探、天を真似るように地を手本とすると言う「土・水・天・地」の4つを支配する。風水から八卦(八風)を考え、出入りの水陸門は八つとした。門からは八つの風が入る。


      中国では、城壁を囲われた空間を“城”と呼ぶ、日本では敵に攻められた際の防御拠点として城が作られたが、近代に入ると日本特有の天守を持つ楼閣に対しても城と呼ぶようになった。そこに住む住民も加えた生活空間(商工業や農業が営まれる)全体が対象になる。中国で建物が作られる時、周囲を囲む壁が最初に作られ、その上に色々な旗が刺されるのは、城を意識したものであろう。春秋時代、蘇州城以外に空間を城壁で囲んだ古代都市が全国で200ほど乱立、それを統一したのが秦の始皇帝である。殷時代前の“夏”王朝は、現在の河北省「二里頭遺跡」に周囲を城壁で囲んだ「古代都市」を建設、近年その存在が確認された。更に杭州近くに、夏王朝より200~500年ほど前に繁栄した古代城郭都市国家「良渚遺跡」がある。周囲7kmの城壁を持つ中国最古の城壁・城門を有する都市国家が、ここ江南にあったのだ。


      現在、蘇州城門の名前が残っているのは、北から時計廻りに平・斉・婁・相・葑・南・盤・胥・金・閶の10門である。呉王「夫差(闔閭の子)」の時代には、平・斉・婁・相・蛇・盤・胥・閶の8門があった。その後、唐の時代に赤門が増えたが、短期間であった。唐の時代は7門、北宋時代は5門(斉・婁・盤・胥・閶)、西暦1080年範仲俺が葑門を開き6門、西暦1229年の平江図には胥門を閉じ5門、太平天国時代には斉・婁・盤・胥・閶の5門になった。東門が少ないのは湿地帯が多く、不便なのが理由であろう。その後、民国時代に新閶・金・南・新胥が新設され、新閶門は金門完成後破壊。新胥門は胥門の北100mの位置(万年橋の延長)であった。1949年にはこの新胥門を入れて、11門あったと言われるが、その後新胥門は無くなり、現在の10門になっている。添付図に14門の位置を示すが、時代時代にあわせて、増えたり・減ったりした歴史がある。現在城門として現存するのは、盤・胥・金だけである。最近の蘇州都市開発計画の波で、閶門・平門・相門・婁門・赤門は最近再現されたものである。多くがまだ新しく、過去の実物と違う形に改築され、昔の面影が見られなくなったのが非常に残念である(表1)。


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      相門が改築された時、その中に蘇州城墻博物館ができ、昔の城門や城壁がどうだったかを知ることができる。闔閭の祖父「寿夢」は、無錫と常州との間に現在の蘇州大城「呉大城」と同規模の大城を築いた(当時は闔閭大城と呼ばれた)。更に闔閭は現在の蘇州大城「呉大城」の前に木瀆の西、霊岩山から太湖に渡る胥口に東西6.8Km、南北6.7Km、面積にして24.8Km2と現在の大城の2倍規模の「呉故都城」を造営しているが、完成する前に伍子胥に命じ、現在の蘇州大城「呉大城」を更に造営したようだ。霊岩山から南に、多くの遺功が見られる。この時代の呉国は、二つの大城に姑蘇台(霊岩山の宮殿)を有していた事になる。加えて、蘇州大城の周囲には40もの小城が存在していた。その目的は、大城を守るための軍事基地であり、兵站基地の意味合いも強い。大城外であるのが、常熟(10城),昆山(10城)、太倉や呉江などにも小城が存在した。越城は石湖北部にあった越が呉を攻めるために利用した城であり、ここから盤門など呉大城を攻めたといわれる。同じく越は呉を攻めるために平門外に糜湖西城、婁門外に鴻城などを築いた。石城は、西施のために呉王夫差が霊岩山と常熟虞山の北に作ったといわれる。その名前から見て兵站のためと思われるのが、魚城・酒城・酢酒城・鴨城などである。


      蘇州大城には、14門があり現在は10門が使われている。昔の雄姿を垣間見ることができるのが、盤・胥・金門の3門であるが、清代にあった6門には、その楼閣に題字が書いてあった。閶門:気通閶闔、胥門:姑蘇用翠、盤門:龍蟠水陸、葑門:渓流清映、婁門:江海楊華、斉門:臣心拱北である。そして昔の写真や平面図を見ることで、60数年前の状況を知ることができる。


      【閶門と新閶門】
      閶門は破楚門とも呼ばれ、呉国が楚国との戦いに向けて出兵した西門である。題字にある閶闔は宮城の門の意味があり、八つの風で言えば西風(閶闔風)になる。閶門周辺は大きく変わろうとしている。西暦2000年に改築されたが、最終的には図1のように元代末張士誠が門前に築いた月城を有する3重構造の城門となろうとしている。すでに北の城壁は修理を終えた。閶門周辺はアヘン戦争前後が一番繁栄した場所であった。1843年蘇州府志によると、人口211万人と北京を越える中国第一の都市であったと記録されている。その後太平天国の乱(西暦1860年)後には当時20万人足らずの人口であった上海に多くが移民(難民に近い)、現在の上海市の発展に繋がった。


      新閶門(写真1)は現在の民国20年に金門ができる前、金門のすぐ南に接する門(民国10年)であった。わずか10年間であったが、その城門跡を新蘇航運有限公司内に一部見る事ができる。


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      【胥門と新胥門】
      胥門は姑胥門とも呼ばれ、万年橋の南にある城門である。伍子胥の住居が東にあった。建設当初は水陸両門であったが、太湖から流れる江胥川の流れを緩めるべく、戦国時代楚の春申公が水門を閉鎖した経緯がある(その代わり葑門を新設)。図2は蘇州市志にある平面図であるが、2重構造の門であったことが分かる(同じ構造が湖北省荊州城で確認できる)。写真2は万年橋の前に民国27年に作られた新胥門である(西暦1953年折除)。


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      【葑門】 葑門は発音から、“豊”“風”“夫”“富”ではないかと言われる。呉が越によって滅ぶ紀元前476年、宰相伍子胥は呉王夫差から死を命じられ、史記にある「我が目を東門にかけよ、よって越が呉を滅ぼさんを見ん」と言った東門ではない(葑門は戦国時代に楚春申公が造営)が、「呉大城」が越によって崩壊する際に、完全無欠な呉大城を攻め倦んできた越軍が、台風によって決壊した城壁(当時は黒土を着き固めた土壁)がちょうど現在の葑門あたり(南の長島花園付近)といわれている。この城壁の決壊部分から越軍が城内になだれ込み、呉国の滅亡に繋がった。これを後世の司馬遷は、史記の中に「我目を東門にかけよ」と呉が滅ぶ現場を東門(葑門付近)と呼んだと思うのは、筆者だけだろうか? 写真3は昔日の葑門水城門、図3は平面図である。


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      【婁門】
      婁門は東北部にある城門で。水陸3重からなる堅固な城門である(写真4)。平面図4から見ても、その大きさと複雑さに驚く。2013年に新しい城門が出来た。この寮門から北東部への周回歩道が完成し、斉門まで行くことができる。南方向の動物園内と同じく、高さ5mになる昔の土塁を見ることが可能である。


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      【斉門】
      「愛と悲しみの古橋」の中で記載したのが、この門の昔話である。その後、呉王「夫差」が霊岩山の姑蘇台で自害したあと、4大美人の西施が越王「勾践」の宰相「范蠡」とともに、斉国に逃げたとも伝えられる城門でもある。写真5はかつての水城門であり、写真6は陸門である。平面図を見ると、円形の城壁があり、出口から3方向に道があるのが特徴である。


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      【平門】
      蘇州新駅が出来て、新幹線乗り口から南に見えるのが平門である。昔の平門は現在地よりもっと東に作られた(平門橋付近)。また平門は現在3孔門であるが、1995年頃は1孔門であった。百年前の写真を見ると、1920年代の1孔門から30年代には2孔門になっている(写真7)。1937年11月日中戦争時に日本陸軍が入城式を行ったのが、この平門であった。


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      参考資料:司馬遼太郎と蘇州城門跡を探索する【蘇州たより vol.21】
           潘君明「蘇州古城街巷梳辨録」




    2016.03.09

    梅の香り漂う「光福鎮」を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】Vol.46 (読む時間:約3分半)

    • 光福鎮は蘇州古城より真西へ25km、鄧尉山の麓にある。太湖の畔で蘇州市に属し悠久の歴史がある故鎮である。「湖光山色、洞天福地」と称し(湖が輝き山は微笑む神仏の住む景勝地)という意味で、蘇福道路が東西を貫き木光運河がこの鎮を経て太湖と京抗大運河を結んでいる。光福の歴史は古く、幡螭山に石壁や名士の題詠の石刻が多く、石壁精舎は山を背に太湖に臨む。明代「呉中四才子」といわれた唐寅の太湖の絵があり、後漢太尉「鄧禹」(西暦2~58年)が住んだ鄧尉山の麓は、蘇州第一の梅園(白梅・紅梅・緑梅・墨梅)で有名である。


      現在、光福鎮は蘇州市呉中区に位置し、2500年余りの歴史を持つ。蘇州新区からは地下鉄1号線の終点「木瀆」駅で降り、近くの中華園大酒店バス停から南方向64番・65番の公共バスで行く。バスが光福鎮に入ると、遠くに光福寺塔が見えてくる。


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      バス亭「銅観音寺」で降り、少し戻ると総伽藍が見えてくる。かなり大きな寺院である(写真)。宋代康定元年(西暦1040年)に、農民が光福寺近くから、銅観音1体を掘り出し、寺の中に祀り、そこ時から「光福寺」を「銅観音寺」と改名した。寺内は華麗広壮で大雄殿・観音殿・金剛殿・西洋殿などがあるが、何度か焼失した歴史をもつ。奥の光福寺塔は舎利仏陀塔と称し、亀峰山頂に梁大同年間(西暦535年〜546年)に創建、西暦1400年と1998年に修理されたが、梁時代から倒壊することなく現存する名塔である。塔は高さ38メートル、底辺は幅5.2メートル方である。光幸福塔の踞の山は太湖に注ぎ、風景は実に穏やかである。塔は上層に登ることができ、そこから見える太湖と光福鎮は絶景であるが、ちょっと危険であることを注意書きしておく。


      梁朝天監2年(西暦503年)から、すでに1500年余り経ち、唐時代に最も栄えたという。寺前に川を跨いで一梁の「光福寺橋」がある。又の名を「天寺橋」「香花橋」といい、梁式の平橋である。橋の長さ16.1メートル、幅3.1メートル、5条の石梁がある。両側の石は現在も当時から使われた武康石のままだ。ただ、中央部の3条の石は花崗岩で重建されている。この千年、多くの老若男女がこの橋を渡りお寺に詣でた。


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      欄干の外梁にある石彫は東西とも双龍の模様になっているのが特徴で、梁式であることが分かる。両側の縁に、玉と遊ぶ二匹の龍の姿と卍模様が精緻に彫られ、宋朝時代の細工文物だと分かる。文化財としては、思本橋(同里)、東廟橋(呉江)、宝帯橋(呉中)に次ぐものと言える。蘇州の中でも最も古い寺に、寺前にある宋時代を代表する石橋、奥の山頂の古塔、廊壁にある古い石碑と、蘇州の重要で貴重な文化財が満載だ。


      銅観音寺のバス亭から更に3つ行くと「香雪海」のバス亭に着く。右に行くと「香雪海」梅園、道を渡ると「司徒廟」がある。鄧尉山の麓に位置し中国4大梅景勝地の一つである「香雪海」だ。梅は全山を埋め、白梅は雪の如く広がり、ほのかな香りは数十メートル漂い“香り多き雪の海”となる。7ヘクタールの梅林は正に梅の海であり、東京青梅の梅園を思い出す。清乾隆皇帝はこの梅を愛で6回も南巡したという。蘇州市内に多くある中華レストランチエーン店「香雪海」はこの名前から付けられた。


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      司徒廟は鄧尉山麓に位置し、後漢大司徒「鄧禹」が晩年隠居した寓居で、廟内に鄧禹画を奉る。庭内にある鄧禹が手植した4株の「漢の柏木」は、もう1950年を経過している。真っ直ぐにそびえる木、断裂した木、中空でゴムの木のように曲がりくねり、まるで臥龍のようだ。雷に打たれたままの枝と幹からは新しい枝が生まれ、4本の古い柏木は供に生きるかのようにもつれ合う(写真はその中のゴムの木のような奇形)。清乾隆帝は南巡して何度も観賞し、この4株の古い柏を並べて“清・奇・古・怪”、天下奇観と称した。現在、省レベル重要文化財となっている。




    2016.02.19

    一生に二度しか笑わなかった西施 【蘇州たより 工藤和直】Vol.45 (読む時間:約3分半)

    • 霊岩山は蘇州城から西南15kmにある標高182mの小高い岩山である。古くは春秋時代、呉王・闔閭(在位紀元前514年~496年)が霊岩山(姑蘇山)に「姑蘇台」を、その子夫差(在位紀元前495~476年)は美女・西施のため、この姑蘇台に「館娃宮」を設けた。現在霊岩山と称する頂にある「姑蘇台山頂花園」は、館娃宮「御花園」の遺跡だとされており、中国に現存する最古の庭園でもある。山麓から正面山頂に見える霊岩塔(多宝仏塔)を目指して徒歩で40分程度である。


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      観音洞は道に沿って山に登る途中にある。左に続く竹林を見ながら、かなり上り詰めた所に「落紅亭」と碑刻され建物が見える。山頂の霊岩山寺はまっすぐ登るが、左手に常にローソクが灯り線香が絶えないお堂がある。ここは紀元前494年会稽山で破れた越王「勾践」が監禁させられた洞窟である。勾践は囚われの身で、会稽からここ姑蘇霊岩山に連れて来られた。髪は伸び放題、裸足で馬の世話や掃除などの労働に従事し、夜はこの洞窟で寝るという有様である。


      呉王「夫差」といっしょに来た西施は、みすぼらしい越王「勾践」の有体を見て悲しみ、それを押し殺すかのように笑い顔をつくろったといわれる。いやみすぼらしい越王の姿を見て本当に笑ったのだという説もあるが、筆者はこう思う。「臥薪嘗胆」の嘗胆(胆をなめて会稽の恥を忘れず)である越王「勾践」は、その配下の范蠡が計画した「打倒呉国」を「くの一、西施」と遂行中なことを承知であった。西施はみすぼらしい姿の王を見て笑ったのでなく、呉王「夫差」はまんまと策に落ち、ここ霊岩山頂上に呉国の財を全て注ぎ込み、人心は呉王から離れているということを、「越王さま、計画はうまく行ってます」と言うのを笑みで代弁したのでないか。この観音洞のことを、西施洞とも言う。


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      霊岩山頂御花園の奥に玩月池がある。西施はここで2度目の笑顔を作っている。西施は贅沢の粋を尽くした館娃宮で暮らしても決して喜びの日々はなかった。それは打倒呉国の密命を帯びている以外、ふるさと「越」をいつも思い、日夜思い悩む毎日であったからだ。呉王は「あなたの望みを何でもかなえてあげた、できないのは月をここに持ってくることだ、それ以外は何でもしてあげる」、西施は言う「どうしても月が欲しい」。悩んだ呉王夫差は臣下の進言で、この山頂に池を掘り麓から汲んで来た水を張って池とした。満月の夜、呉王は西施を連れて御花園にできた池に行き、「さあ、月を手にしよう」と池に映る月を両手で取るように促すと、風に揺れる小波に揺れる月が西施の手に入ったのだ。「王様ご覧ください、私の手の中で月(月と越も漢語では同じYue)が遊んでいますよ」と得意気に笑ったと言う。その後、玩月池(月をもてあそぶ池)と呼ぶようになった。


      古書によると館娃宮は「銅鈎玉欄、飾以珠玉」といわれるくらいの、銅のかぎと玉の欄干、数々の宝石で飾られた御殿であった。唐の詩人「白居易」は蘇州刺史として赴任し、ここ霊岩山で「娃宮屧廊尋已傾、硯池香渓欲平、二三月時但草緑、幾百年来空月明」と詠っている。「館娃宮にあった響屧廊を探したが、既に壊れ硯池の香渓は消えようとしている。2、3月春の頃、草は緑になり幾百年も同じくむなしく月が照らしている」。この詩に出る「響屧廊」が、寺門右の霊岩塔と御花園を結ぶ梓の木で出きた長い廊下であった。この梓の木の下に大きな甕を一列に置き、女官が木靴で歩くとちょうど木琴の上を歩くのと同じく、美しい音色が奏でられるのである。呉王「夫差」はここまで粋を凝らした宮殿を造営したのだ。


      白居易に先立つ百年前に詩人「李白」がここで詠ったのが「蘇台覧古」である。白居易は李白の詩を十分に意識している。李白は霊岩山を照らす月について「唯今惟有西江月、曽照呉王宮裏人:ただ今ただ、西江の月があるだけ、かつて照らす呉王宮殿の人(西施)」と月は西施の時代から空しく照らしていますよと詠い、それを意識した白居易は、李白のあと百年も同じく月は空しく照らしていると、時間をより自分の時代にずらしている。この対句に時間の長さと霊岩山の変化のない様子を感じ取れる。白居易から1250年後の現在も、月は玩月池を照らしているからだ。


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      霊岩山寺を出て坂を少し降り、右手に太湖がきれいに見える場所がある。そこに亀に形をした岩がある。ちょうど頭が太湖に飛び込もうとしている。子供たちが登って馬に跨るような格好をしている。この亀石も同じく西施が上に登り傘下を見下ろしたといわれる岩である。


      参考文献:「西施」を尋ねて霊岩山に登る 【蘇州たより vol.6 】


    2016.01.28

    外灘に残る日本国総領事館と芥川龍之介との出会い 【蘇州たより 工藤和直】Vol.44 (読む時間:約4分半)

    • 上海にあった日本国領事館は執筆しないのですか、黄浦飯店が日本領事館跡なのですねと上海駐在の方々から質問がある。上海にあった日本租界地(正確には欧米各国を含めた共同租界地)については、多くの資料があるのでご参考頂きたい。最近、再開発という名目で昔の租界地の面影がなくなり、高層建築群の中に古い日本家屋や赤レンガ、そして日本人学校が徐々に消え行く状況だ。上海には5万人近い日本人が駐在し、多くの日本人観光客が訪問する。外灘の北に戦前10万人の日本人が住み、そこに古き良き日本が残っていた事を記録として残したいと考えた。
      上海の歴史は極めて新しく、アヘン戦争のあと1842年の南京条約によって当時漁村に過ぎなかった上海港を欧米列国に開港したことから始まる。もちろん春秋戦国時代からの歴史もあるが、この2400万人が住む大都会が誕生するきっかけは1842年であり、まだ170年の歴史しかない(蘇州たよりVol.3)。


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      1930年代の上海が地図1である。中央部東西に共同租界、その南にフランス租界、北側の閘北や南側の城内、南市は中国側の上海市。「日本租界」というのは存在せず、共同租界の虹口地区(日本郵船埠頭のあたり)から閘北の新公園にかけて日本人住民の多かった地区を、勝手にそう呼んだ。地図中央に上海競馬場があるが、これは現在人民広場になっている(下写真)。当時の上海の玄関口は1987年まであった上海北駅で、現在の上海駅の東にあった。今の地下鉄3号線沿いである。1909年に上海駅として開業、1916年に上海北駅と改名、駅舎は4階建て洋風建築であったが、1937年日中戦争時に日本軍により空爆され、その後1950年に再建、現在は鉄路博物館となっている。現在の上海駅は当時の操車場跡地であった。


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      黄浦江が南から流れ、ちょうど東に向きを変える付近に蘇州河がある。その河を渡る外白渡橋(橋の左岸の洋風建築物が英国領事館跡:写真1)を過ぎると交差点がある。正面右がチャップリン他が泊まったアスターホテル(浦江飯店)、正面左が高級マンションだったブロードウエイマンション(現上海大厦)である。この黄浦路を右に行くとすぐにロシア領事館があり、80年前はソ連領事館である。その横にドイツ領事館があったが今は広場になっている。その横が米国領事館(現海鴎飯店)で、その東横に赤レンガの日本国総領事館(紅楼)が現存する。現在は海軍関係の施設になって内部には入れないが、その北が日本総領事館新館(灰楼)であり、連合国救済総署として使われ、現在もホテルとして利用(現在外国人は宿泊不可)できる黄浦飯店(黄浦路106号)となった(写真2)。正式な日本国総領事館跡は黄浦飯店の奥にある赤レンガ建屋である(黄浦路15号)。


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      写真3は、総領事館の東にあった日本郵船埠頭(虹口码头)である。奥に見えるのが日本国総領事館で、左上が絵葉書に残る当時の姿である。明治初年、外務省上海出張所が1873年正式に日本領事館と改称、南蘇州路から虹口に移転して、1891年総領事館に昇格。現存建築は1911年竣工の二代目で、平野勇造設計の3階建煉瓦造。優美な曲線を描くマンサード屋根は黄浦江の遊覧船から、今も眼にすることができる。また虹口码头は、かの毛沢東がフランスに行く時に利用した埠頭でもある。この日本郵船埠頭から多くの日本人が上陸し、まっすぐ北に300mほど行くと萬歳館などの旅館街が待っていた。多くの日本人は現在のハイアットホテルから閔行路を通り、大きな夢を持って日本人租界地に向かった。


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      萬歳館(閔行路181号)は1904年創業の旅館、芥川龍之介や佐藤春夫も泊まった当時著名な日本旅館であった。付近の日本旅館としては、豊陽館、東和洋行、常磐館などが一流どころだ。写真4は当時の萬歳館(旧館)であり、写真5が現在の姿である。写真6は閔行路対面の新館入り口付近である。周辺の再開発が進み、次に来るときは新しいビルになっているかもしれない。この旧館3階に芥川龍之介が逗留したのだ。芥川に会いに3階に上ったが、昔のホテルの各部屋は分譲アパートになっており、彼がどこに居たか分からない。ただ、暗い通路や階段に細かい細工を施した手すりや欄間などがあり、かつて芥川が居た痕跡は見られた(蘇州たよりVol.4)。


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      魯迅公園の南門を東西に四川北路が走る。この道路はしばらく東に行くと二股に分かれ右に曲がり南進するが、この東側に上海神社があった。北は華夏銀行から南は天興百貨にかけて南北にひょろ長くあり、1933年(昭和8年)11月1日に設立された。写真7は現在の天興百貨であるが、この付近に上海神社があった。写真8は当時の鳥居と藤井資也氏所蔵の本殿前での家族集合写真9である。ごく普通の日本の風景が、ここ上海にもあったのだ。


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      四川北路を南進すると、上海第一人民病院が東側にあるが、ここは1924年に日本人が開業した総合病院「福民病院」であり(写真10)、魯迅が通訳していたという。その福民病院を過ぎて商店街の間に正門があるのが、高等尋常小学校(北部小学校)である(四川北路1838号、虹口区教育学院実験校)。日本国内ではまだ木造校舎が一般的であった時代、ドイツ人設計による鉄筋4階建て校舎を1917年に建てた。守衛に許可を得て校庭に入れてもらい、100年前に建てられた建物を拝見(写真11)。ちなみに筆者が1959年に入学した宮崎県高鍋町立高鍋東小学校(蘇州たよりVol.12)は木造平屋建であった。1934年に母が入学したソウル市(京城府)東大門小学校は鉄筋で水洗トイレであったという。海外にあった日本人学校は極めて最新なコンクリート造りが多かった。


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      参考文献:エキスブロア上海「上海の旧租界地・歴史関連特集」
      木之内誠「上海歴史ガイドマップ」


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